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俳諧誌上の人々 壷屋杜国

2024年06月16日 17時57分12秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

俳諧誌上の人々 壷屋杜国

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和しょうわ7年7ねん11月11がつ発行はっこう 俳書堂はいしょどう

一部いちぶ加筆かひつ 山梨県やまなしけん歴史れきし文学館ぶんがくかん 山口素堂やまぐちそどう資料室しりょうしつ

 

 

「冬の日」に芭蕉、野水、杜国、重五、荷兮と元老五篇、互に主人となりて発句をなし、錚々の響きを傳へて居る杜国の傅は、凡兆のそれと似て明確な事は知り難い。考証的文献は本項の末に附載する事とし、それらの文献を綜合して芭蕉の鍾愛を受けたる渠の小傳を立てる事とする。

 尾張の人にして通栃平兵衛、名古屋に住み米穀商を営み、藩公の米券を扱って居た、餘事俳諧に遊んで芭蕉に師事してゐたが、事に坐し、伊良古に隠栖し、元禄三年に没したといふのが大筋である。

 渠が罪を得たのは何時の事であらうか、貞享元年の冬は「冬の日」の吟席に連って、安穏な日を送って

ゐたのであるが、貞享四年には既に竄流(さんりゅう 逃れ)の身となって居た事を芭蕉の「笈の小文」によって知る事が出来る。渠の罪状は空米に関するものである、渠の不埓なる所行より、尾張に於ける廻米を奉行より禁止されんとし、六軒問屋の者が奉行に交渉した顛末が、尾張延米商濫觴記中の廻米商暦年にある。

 貞享四年の冬、江戸を立って東海道を鳴海まで来た芭蕉は、こゝから越人を伴ひ、配所(罪によって流された場所)に杜國を訪れたのである。

「笈の小文」に曰く、

 三河國保美といふ所に壮図が忍びて在りけるをとぶらはんと、先づ越人に消息して、嗚海より跡さまに二十五里辱かへりて、其夜吉田に泊る。

    寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 あまつ繩手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと塞き所なり。

     冬の日や馬上に氷る影法師

 保美村より伊良古崎ヘ一里はかりも有べし、三河の國の地つづきにて云々。

     鷹一ツ見付てうれしいらこ崎

老脚に霜を踏んで、二十五里の道を跡もどりして渠を訪ねたのである。越人の「鵲尾冠」には、此間

の消息を語って、

 杜國子は予が覊客たるをあはれみ、旦暮懇情を盡さる、おもふに管鮑が昔に似たり、彼は富り、我は費なり、輿へて報を不思、同志断金の情不浅、さらに予が俳諧の手を引、泣み笑みせしも去て三紀に近し、其馴附びし年月の深ければ時として夢に入り、昔をかたりさめてまた泣ク、落月満屋梁獅照顔、一日如三秋なるは生死絶晋問圓棋飲酒しも何ンかあるや、彼人不幸に沈ミ百里を辞せしを、芭蕉老人江府に聞キ甚憂て、踏鞋ヲ鳴海に来り予に消息して其道路を問フ、先登して枯藤ヲ引、杜國が草堂に至り、三人焼葉ヲ夜を明し、同ク馬を並べて伊良古崎に逍遥せしも、浮雲あとなく流水もとの水にあらず云々

 越人は杜國にいろ/\世話になったらしい、是あるが為か否か、「不猫蛇」などにも、越人はいつも杜国を已れと共に挙げ、江戸の其角・嵐雪に比較して居る。

妻はへてよき隠家やはたけむら     芭 蕉

冬をさかり山茶咲くなり      越 人

    昼の空蚤咬む狗(いぬ)の寝かへりて  杜 国

等の附合及び

梅椿早暁ほめん保美の里        芭 蕉

など此時の句である。この椿、二百数十年後の今も猶、保美の里の杜国の屋敷址に残って居るといふ。

杜国を慰めた芭蕉は、鳴海に婦り名古屋に立寄り、故郷伊賀に帰って、貞享五年の春を迎へた。そして、

 

 弥生半過ぎる程、そぞにうき立心の花の我を道引枝折となりて、よしのゝ花にむもひ立んとするに、かの伊良古崎にてちぎり置し人の、伊勢にて出むかひ、ともに旅寝のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道のたよりにもならんと、自ら萬菊丸と名をいふ、まことにわらべらしき名のさま、いと與有、いでや門出のたはぶれ事せんと笠のうちに落書

       乾坤無住同行二人

    よし野にて桜見せふぞ檜の木傘

よし野にて我も見せふぞ檜の未     満菊丸

 

と「笈の小文」にある如く、伊良古にての約束に従ひ、芭蕉と杜国は伊勢にて落合ひ芳野へと志したのである、然し「嵯峨日記」に……伊陽舊里まで慕ひ来りて……と芭蕉が書いて居るのは、この時の事ではあるまいか。杜国が菊丸の變名を用ひたのは、竄流の身を憚りてであらう。而して往復ともに荷兮、野水その他連中の多く住める、熱田、名古屋地方へ立寄らず、海路によつたらしいのも、所構にて尾張の地を踏むを許されざりし等の事情ではあるまいか。

      初瀬にて

    足駄はく僧も見えたり花の雨      萬 菊

      高野にて

    散る花にたぶさはづかし奥の院     同

 

 渠は須磨明石まで芭蕉に供して遍歴した。而して大鼾(いびき)をかき、遂に芭蕉をして「是は萬菊殿いびき

の圖にて御座候」といふ戯画を「枇杷園随筆」に残さしめたのも此時であった。

歿年に就ても元禄三年五月廿六日、五月五日、二月二十日等の説がある。渥美半島の福江町(昔の保美)潮昔寺の碑にある二月二十日が、先づ比較的たしかのやうであるが、渠を追悼するの句を見るに、其角の「華摘」は五月十七日の條に、

       いらこの杜國例ならでうせけるよしを越人より申きこへける、

翁にもむつましくて、鷹ひとつ見つけてうれしと迄に

たづね逢ける昔をむもひあはれみて

     羽ぬけ鳥鳴昔ばかりぞいらこ崎    其 角

土芳の「嚝野後集」に、

       午の夏いらこの杜国はかなく世を去のよし、

       翁の旅より卯月のはじめ聞ゆ

ほとゝぎす聞人滅す涙哉

荷分の「嚝野後集」に……杜国を夢に見て……と前書し

     散梅や死んだとは見ぬ夢の内     旦 藁

        杜國がいらこにしばらく住ひして、ほどなく身まかりけるに

     旅心いのはかなや春の繩簾      荷 兮

などある。芭蕉が渠を夢に見たのは、翌元禄四年、嵯峨の落柿舎に滞留中であった。「嵯峨日記」に曰く。

 

廿八日。夢に杜国が事をいひ出して俤泣して受る……まことに此ことを夢みるこそいはゆる念夢なれ、我に志深く伊陽舊里までしたひ来りて、夜々床を同しく起ふし、行脚の労をたすけて百日がほど影のごとく件ふ、片時もはなれす、或時はたはぶれ或時は悲しみ、其志わが心裏に染みてわするゝことなければなるべし、覚てまた袂をしぼる。

 

天和初年の頃から貞門の椋梨一雪等と共に句作してゐたなど、『鵲尾冠』には渠の記伝に徴すべきものが多い。

妻畑の人見る春の塘(つつみ)かな

      子をころして

陽炎に燃残りたる夫婦かな

      奮里を立去て伊良古に住持しころ

春なから名古屋にも似ぬ空の色

山寺や鼠めし曳五月雨

      翁に供せられて須磨明石にわたりて

似合しきけしの一重や須磨の里

      春は芭蕉翁と同じく吉野の花、須磨明石の朧月に杖を引、

鞋を踏しも射る矢のことくにて、

翁は深川の芭蕉庵に帰り、我は伊良古の草堂に眠り、

なす業もなく旅の吟など嘯きけるに、

其の所々に着し桧笠の壁にかゝりけるを見て、

越人が方へつかはしける

年の夜や吉野見て来た桧笠

 

參考文献

  蕉門諸生全傳……

杜国、壺屋平兵衛、尾州名古屋伊勢町、萬菊丸(岩菊丸とも云)、貞享五年の春よしの山に翁と行時の名也、名主役をする時上より下ケ金有を遺ひ込、知らぬ顔に子に譲ヽ勘定を立ず、罪死に極る、錺屋なればそこばくの金銀也、律處(評定の事)にて評定あるに。汝が句なるよし

    蓬莱や御國のかざり檜の木山

かゝる名句吐たる者死罪ならず、流罪被仰付と也、尾州篠島に流罪、三河渥美郷保美の里に後に来る、いらこ崎の邊也云々。

 

  俳林小傅

……杜国、號萬菊丸、尾張名古屋伊勢町の人、通稀壷屋平兵衛、後隠三河知多郡保見山中、

元禄元略三年庚午五月二十六日歿。

 

続俳家奇人談

……錺屋杜国、 錺屋平兵衛は尾張の人、杜國を俳名とし萬菊丸と称す、貞享五年の春、芭蕉に随従して吉野山に登る、帰りて後何事にや罪ありて死刑に行はるべきに極る、其以前「蓬莱や御國のかざり檜山」と吟そしを國主聞しめして御感のあまり、罪一等を減じて同国伊良古崎に流さる云々。

                               。

  尾張名家誌

……杜国、通称平兵衛、族坪井、號岩菊丸、府下商也、好俳諧、捉芭蕉桃青遊大和芳野、帰郷有故下獄、将處刑、珊龍公聞之日、渠非會唱蓬莱之句者乎、問之果然、公曰、是有祝國之意、宜滅罪一等、乃竄之參河伊良古崎云々。

 

名古屋市史

……杜国は後に岩菊丸と稀すヽ坪井庄兵衛といふ、米穀商なり(昔話に拠る、延米商濫觴記に坪井惣兵衛に作り云々)歳旦の吟「蓬莱や御国のかさりひの木山」を以て薄主光友に知らる、曾て空米事件によりて犯罪に決せしが、此吟によりて僅に追放の刑を以て赦され、伊良古崎に籠居して俳諧に日をおくれり、芭蕉が杜国の不幸を伊良湖に尋ね云々、芭蕉は曾て当流俳諧の相手は杜国一人なりと云ひきといふ云々。

 

 尾張延米商濫觴記 

……元禄年中堀江町安藤與治右門たる者、延米支配大引請度思ひ、御勘略奉行土屋佐之右衛門へ取人願ふ、其頃坪井の不埓にて廻米商むつかしく成りしを幸ひに、支配人をかへんとて、先づ六軒問屋を土屋の役所へ召れ、此度の不埓殊の外不屈、向後延米商停止すべきと申渡す……坪井の不埓といふは常時御園町に坪井惣兵衛といふものあり、延米過本紙を出せしことよりおにくしみを受け……三河片濱伊良湖に隠居となりしと也云々。

 

 渥美郡史

……壮国は名古屋の俳人で蕉門の秀才である、貞享三年の頃事に関して伊良湖に配流せられ保美に閑居した杜國の本名は彦左衛門通称は平兵衛、尚又壺屋庄兵衛、錺屋平兵衛等の異稀がある。

別號を朗野仁、満菊丸とも称し異説に岩菊丸ともある。帥の芭蕉は。云々、元禄三年二月二十日保美で病

歿し、潮音原に葬ったことは確かである。延享元年九月建てたと思はれる墓碑に「法名釋寂退三度位、南彦左衛門杜國之墓。元禄三庚午二月二十日」とあり、その碑陰に左の銘がある。

尾州名古屋人。世々富家。不效鄙事。遊干文芸。能書記典。恒産医業。始來畑村。後移保美。貞享初年。芭蕉翁桃青。自東武赴京師之途次。訪杜國而至畠村。吟行於伊良古。以墨地存於保美。二三子間其由。村老談及國之徳行。安老懐少。接人愛敬。莫不里人擧哀傷。因病間遺言。築墓於潮音原。二三子聞之。追悼欲其名不朽。建石碑於墓上。故以誌其大略云爾。延享元年甲子秋九月