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芭蕉終焉記(1)花屋日記(芭蕉翁反故) 肥後八代 僧文暁著

2024年06月18日 12時07分49秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉終焉記(1)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
 

九月二十一日(元禄七年 1694) 
泥足が案内にて、清水布浮瀬の茶店に勝遊し給ふ。
茶店の主が求めに短尺杯書きて打興じたまう。泥足こゝろに願うことあるによりて、発句を請いければ

所思
  此道やゆく人なしに秋のくれ   翁
   峡の畠の木にかゝる蔦     泥足
    
〔歌仙一折有略〕

連衆十人なり。短日ゆえ歌仙一折にて止む。今度はしのびて西国へと思ひたち給いしかど、何となくものわびしく、世のはかなき事思いつゞけ給いけるにや。此句につきて、ひそかに惟然に物がたりしたまひけり。
   
旅 懐
  此秋は何でとしよる雲に鳥   翁
 
幽玄きはまりなし。奇にして神なるといはん。人間世の作にあらず。
其夜より思念ふかく、自失せし人の如し。実に鳥の五文字、古今未曾有なり。(惟然記)
 
九月廿六日 
園女亭也。山海の珍味をもて腸謳す。婦人ながら礼をただし、敬屈の法を守る、貞潔閃雅の婦人なや。實は伊勢松坂の人とぞ。風雁は何某に学びたりといふ事をしらず。
岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時、惟中が妻となる。その時より風雅の名益々高し。惟中が死後、汀戸にくだりて、其角(宝井)が門人となる。

白菊の目にたてゝ見る塵もなし   翁
    紅葉に水を流す朝月    園女

連衆九人、歌仙あり。別記。(惟然記)

  九月廿九日 
芝拍亭に一集すべき約諾なりしが、数日打続て重食し給いし故か、労りありて、出席なし。発句おくらる。
    
秋ふかき隣はなにをする人ぞ   翁
 
この夜より、翁腹痛の気味にて、排瀉四・五行なり。
尋常の瀉ならんと思いて、薬店の胃苓湯を服したまひけれど、驗なく、晦日・朔日・二日と押移りしが、次第に度敷重りて、終りにかゝる愁いとはなりにけり。
惟然・支考内議して、いかなる良医なりとも招き候はんと申ければ、師曰く、我元々虚弱なり。
心得ぬ医者にみせ侍りて、薬方いかゞあらん。我性は木節ならでしるものなし。願くは本節を急に呼びて見せ侍らん。去来も一同に呼よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。それより両人消息をしたゝめ、京・大津へぞ遣わしける。
しかるに之道の亭は狭くして、外に間所もなく、多人数人こみて保養介抱もなるまじくとて、その所この所とたちまはり、我知る人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衛門と云者の、奥座敷を借り受けり。間所も数ありて、亭主が物数奇に奇麗なり。
諸事勝手よろし。
その夜、すぐに御介抱申して、花屋に移り給いけり。
此時十月三日仇。(次郎兵衛記)

芭蕉終焉記(2)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校

十月四日~ 

車庸・畦止・諷竹・舎羅・何中等は、師の病気を知らず、この道亭にいたりしに、いたわり給う事を之道より聞侍りて、花屋にまいる。
病気不■■■につき、■訪ね人たりとも、濫りに座敷に通る問敷と、張紙を出す。ただし、仁左衛門に断わり置く事。(『次郎兵衛記』)


【註】
松風の軒をめぐりて秋くれぬ  はせを
毎年九月二十一日、浮瀬四郎右衛門亭にて松風の開式あり。
この一折りの俳諧、芭蕉袖草紙にあり。


扣 帳 (控 帳)

座敷人用品受取並び座敷付の道具品々覚
  戊十月四日

 机    一脚
 煙草盆  二口
 夜具五流
 膳十人前 
 釜鍋   一口・三口
 茶瓶掛  二口
 茶腕   十
 薄刄包丁 三本
 薬溜   二つ
 摺鉢   一口
 水嚢   一つ
 盥    二口
 硯一面
 帚(ホウキ) 二本
 枕    五つ
 竈    三口    
 火箸   三
 火鉢   二口
 茶碗鉢  三口
 薬鑵   一口
 研木   一本
 炭斗   一つ
 油徳利  一つ
 手水盥  二口
 行燈   二張
 提灯   二張
 懸行燈  二張
 桃灯   二張

  右 同四日

 白米     一斗
 味噌     三升 赤白
 醤油     一升
 薪      十束
 炭      一俵
 油      一升
 紙      一束
 雑紙     一束
 塩      一升

一カ月座敷料 三歩二朱 相渡 右 仁左衛門より受双書取置飛脚使に申遺候。老師一昨々夜より少し悪寒気御座候處、起居不穏候。この道不勝手に候故、御不自由と存、取計沢而、御道前南久太郎町花屋仁左衛門裏座敷、綺麗閑栖に候乃條借受、この道評判に而、先寓居と定置き候、今朝は別而ご気分無心元御様に存じ候。医者呼申筈に候得ども、早く木節に御容態御見せ被成度との御事被仰せ候條、則木節に別紙遣候。此状著次第、貴雅にも早々御下り相待候。
木節御同伴候様に存じ候。随分御急可被下候。不一。
  十月二日         惟然 支考
 去来様
猶々別紙急々木節に御届存侯。以上。

今朝の状、相達候哉と存候。老師御事、昨夜より泄痢(洩れ)之気味に而我に一變、夜中二十余度之通気、これは頃夜園女亭にての、菌之御過食と相考候。
一夜之中に掌を返すが如に、今朝より猶また通痢度数三十余度、我等始、之道手を握り候迄に候。此状著次第、木節同伴にて急々御下り相待候。南久太郎町花屋仁左衛門と御尋、早々御入可被成候。急々。以上。
  
十月二日夜子ノ時       惟 然
  去来 様

猶々、大津之衆、其外何方へも、手寄々々御申遣被成候。木節は急に被参候様御頼申候。伊賀への常飛脚は無之。幸羅漢寺之弟子伊勢へ越候に、今朝状頼遣候迄に候。若し其方角より幸便も候はば、被仰遣可被下候。
 
十月三日 

廿七行。但昼夜也。天気曇る。夜半過ぎに去来きたる。二日之朝の状、三日之朝届く。その座より直ちに打立、伏見に出しは巳の時なりし。それより船に打乗り、八軒屋に着きしは亥の時なりしと。
直に抑病床に参りたりしに、師も嬉しさ胸にせまり、しばしはものものたまはざりしが、諸國に因し人々は我を親のごとく思い給ふに、我老ぼれて、やさしき事もなければ、余のごとくおもふこともなく、事更汝は骨肉を分しおもひあれば、三ン日見されば千日のおもひせり。
しかるに今度かゝる遠境にて難治の菜薪の憂に罹り、再會あるまじくおもひ居たりしに、逢見る事の嬉しさよとて、袂をしぼりたまへば、去来もしばしは於咽せしが、暫くして云、僕世務にいとまなければ、させる實もつくさゞるに、
かゝる御懇意の御言を蒙る事、生をへだつとも忘却不仕と、数行の泪にむせぶ。何様売薬の効験心もとなしとて、去来また消息をしたゝめて、飛脚使に木印につかはす。(支考記)

  三日夜
子の時折、つゞいて木節来る。二日出の両人の消息その夜着きせし故、大津を丑の時に立、一得舟に乗りしかど、短日ゆえ遅く着く。諸子に会釈もそこそこにして、直に御様態を伺い、御脈を診す。生方逆逸湯を調合す。(支考記)
 
十月四日 
朝、木節申さるゝにより、朝鮮人参半両、道修町伏見屋より取、同く色香十五袋取。天気よし。この道方より世話にて、洗濯老女を雇い、師の御衣装、其外連衆の衣装をすゝぐ。
園女より御菓子並び水仙を送る。支考・惟然介抱。次郎兵衛とても手届かね、之道とりはからひとて、舎嗣・呑舟と云もの来る。按摩など承る。今日三十度余におよぶ。度ごとに裏急後重あり。(次郎兵衛記)
 
十月五日 
朝、丈草・乙州・正秀きたる。天気曇る。寒冷甚だし。
時侯の故にや、師時々悪寒の気あり。朝、次郎兵衛天満に詣でる。昼過ぎ帰る。夜著蒲団又々五読、米壹斗、醤油二升、塩壱升、味噌三升、薪二十束、炭二十貫目、雑紙三束なり。今日師食したまはず。湯素麺二束なり。夜中までに五十度におよぶ。(次郎兵衛記)
 
  十月六日
天気陰晴極まらず、朝の食、入麪(麦粉 麺)三箸、前夜終夜宵寝入り給わず、暫く睡眠し給う御眼覚めより、去来を近くに召して、先の頃野明が方に残し置き侍りし、大井川に吟行せし句
    
大堰川波にちりなし夏の月   翁

此句あまり景色過たれど、大井川の夏げしき、いひかなへたりと思い至りしが、清瀧にて
    
清瀧や波にちりこむ青松葉   翁

と作りし。事柄は変わりたれど、図説なりと人のいはん心いかがなれば、
大ゐ川の句は捨てはべらんと汝に申たり。しかるに頃日園女に招かれて
    
白菊の目に立てゝ見る塵もなし  翁

と吟じたり。これ又同案に似て、句の道筋おなじ。それ故前の二句を一向に捨はべりて、白菊の句を残しおき侍らんとおもふ也。汝の意いかん。
去来泪をうかべ、名匠のかく名を惜しみ、道を重んじたまふ有がたさよ。
纔句一章に、さまで千辛萬苦したまふ御病■の中の御骨折、風雅の深情こそ尊とけれ。眼のあるもの何者か、此句を同案・同巣と見るべき。
恐ながら此句を同案・同巣など人申すものは、無眼人と申すものなり。
その故は、比句々景情別々備りて、句意を見る時に、三句ともに別なり。
かるがゆえに、我は句の意を目に見て、句の姿を見ず。
青苔日ニ厚ソ自ヲ無塵。
これはこれ陰者の高儀をほめたる語、
今は園女がいまだ若くして、陌上桑の調(ミサホ)あるをほめたまひたる吟なり。意も妙なり、語も妙なり。世人此句を見るもの、園が清節をしらん。
波に塵なしの語は、左太仲が 必非絲與竹山清音 といへる絶唱もおもはれ、
園が二夫にまみえざる貞潔と、大井・清瀧の絶景と、二句の間相たゝかつて、感じてもあまりありと申せしかば、師も一睡よくおはしけり。(去来記)
 
十月七日
 朝より不相応の暖気なり。曇りて雨なし。 薬方逆逸湯加減。また入り入麪(麦粉 麺)を好み給う。 園女より見舞いとして、菓子等贈りきたる。
 次郎兵衛取り計て之道に送る。鬼貫来る。去来・支考会釈す。園女・可中・沼川来る。去来・支考会釈す。終日薬をめさず。終日曇る。
夜になりて晴る。夜に入り人音もしづかになりければ、灯の元とに人々伽して居たりければ、乙州・正秀等去来に申けるは、今度師もし泉下の客とならせたまはば、この後の風雅いかになり行侍らん。
去来黙して居たりしが、我も其事心にかゝりしゆゑ、二日の消息届けし故、かくいそぎ參りたり。人々もさおもひたまふや。さあらば今夜閑静なり。只今の體におはしまさば、御恢復おぼつかなし。滅後の俳諧を問い奉らんとて、
静に枕上に伺いよりて、機嫌をはからひ問い申けり。翁、次郎兵衛に助け起こされ、息つき給いてのたまはく、俳諧の変化きはまりなし。
しかれども真・行・草の三ツをはなれず。其三ツよりして、千變萬化す。
我いまだその轡をめぐらさず。汝等もこの以後とても、地を離れるなかれ。
地とは、心は壮子美の老を思い、寂は両上人の道心を慕い、調べは業平が高儀をうつし、いつまでも、我等世にありと思い、ゆめゆめ他に化せらるゝ事なかれ。言いたき事あれども、息■■口かなはずと、喘ぎ給いければ、呑舟口を潤す。また薬をまゐらせてしづまりたまふ。各筆をとりてこれを書く。(惟然記)
 
十月八日
天位快晴。胴不良ヘリ。京の口(?)士来る。信徳(伊藤)より消息もて、御病態を問う。同近江の角上より使い来る。人々勝手の間にて、今度の御所労平復を祈り奉らんとて、住吉大明神に池中より人を立べしと、去未申おくられければ、各しかるべしと、之道・次郎兵衛は■当にて、社務林泉采女方に祝詞をたのみ、厚く即納の品々おくらる。

    奉納
   落つきやから手水して神あつめ   木節
   初雪にやがて手ひ早かむ佐太の宮  正方
   峠こそ鴨のさなりや諸きほひ    丈草
   起さるゝ聲もうれしき湯婆哉    支考
   水仙や使につれて床はなれ     呑舟
   居あげていさみつきけり鷹のかほ  如香
   あしがろに竹のはやしやみそさゞい 儒然
   神のるすたのみぢからや松の風   之道
   日にまして見ます顔り霜の菊    乙州
   こがらしの空みなほすや鴨の聲   去来
 
大勢の集会なりければ、よろこび興じて師を慰め申けり。木節、去来に申けるは、今朝御脈を伺具申に、次第に気力も衰え給うと見えて、脈體悪ろし。
最初に食滞り起りし泄潟なれども、根元脾賢の處にて、大虚の痢疾なり。故に逆逸湯主方なり。猶また加減して心を盡すといへども、薬力とゞかず。
願わくば、治法を他医にもとめんと思う。去来、師に申す。
即日、木節が申條尤もなれども、いかなる仙力ありて虎口龍麟を医すとも、
天業いかんかせん。我かく悟道し侍れば、我呼吸の通はん間は、いつまでも木節が神方を服せむ。他に求むる心なしとのたまひける。風流・道徳人みな間然することなし。
支考・乙州等、去来に何かさゝやきければ、去来心得て、病床の機嫌をはからひて申て云、古来より鴻名の宗師、多く大期に辞世あり。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいふものもあるべし。あはれ一句を残したまはゞ、諸門人の望足ぬべし。
師の言、
きのふの発句はけふの辞世、今日の発句はあすの辞世、我生涯云捨し句々、一句として隔世ならざるはなし。若我辞世はいかにと聞く人あらば、この年頃いひ捨て置きし句、いづれなりと辞世なりと申たまはれかし。
諸法従来當示寂滅相、これは是釈尊の辞世にして、一代の仏教この二句より外はなし。
古池や蛙とび込水の音、
比句に我一風を興せしより、初て辞世なり。其後百千の句を吐に、此意ならざるはなし。こゝをもって、句々辞世ならざるはなしと申侍る也と。次郎兵衛が傍より目を潤すにしたがい、息のかぎり語りたまふ。比語實に玄々微妙、翁の凡人ならざるをしるべし。(安考記)
 
夜に入り嵯峨の野旧・為有より柿を贈り来る。消息添う。今日まで伊賀より音信なし。去来・乙州申談じ、態と飛脚を差たつべきよし師に申ければ、師の言、我隠遁の身として虚弱なる身の、数百里の飛脚おもひ立、親族よりとゞめけれど、心儘にせしは我過ぎなり。今大病と申おくりなば、一類中の騒ぎ、
殊に主公の聞しめしも恐あり。たとひ今度大切におよぶとも、沙汰あるまじとのたまひけり。師の慮の深きこと各感心す。度数六十度におよぶ。
(惟然記)

十月九日
諸子の収はからひとして、ふるき衣装また夜具などの、垢つきたる不浄あるを脱かはし、よき衣に召せかへまゐらせ申。
師曰く、
我邊端波濤のほとりに、草を敷寝、地を枕として、終りをとるべき身の、
かゝる美々しき褥(しとね)のうへに、しかも未来までの友どち賑々しく、
鬼録に上らむこと、受生の本望なり。丈草・去来と召し。昨夜目の合わざるまゝ、ふと案じ入りて、呑舟に書せたり。各詠じたまへ。

   旅に病で夢は枯野をかけ廻る

枯野をめぐる夢心ともし侍る。いづれなるべき。これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。病中の吟なり。併かゝる生死の一大事を前に置きながら、いかに生涯好みし一風流とは言ながら、是も妄執の一ツともヽいふべけん。今はほいなし。
去来言、左にあらず。
日々朝曇暮雨の間もおかず、山水野鳥のこえ有すてたまはず。心身風雅ならざるなく、かゝる河魚の患につかれ拾ひながら、今はのかぎりにその風柳の名章を唱へ給ふ事、諸門衆のよろとび、他門の聞え、末代に亀鑑なりと、涕(なみだ)をすゝり泪を流す。限りあるもの是を見ばで魂を飛さむ。耳あるもの是をきかば、毛髪これがために動かむ。列座の面々、感慨悲想して、慟絶して、聲なし。是師翁一代の遺教経なり、此日より殊更に劣ろへたまへり。度数しれず。(去来記)

十月十日 

初時雨せり。
師、夜の明がたより度数しれず、ひとしほ微笑みたまへり。折ふしに譫言(うわごと)ありて、とりしめなきこと多し。木節この日芍薬湯(シャクヤクトウ)をもる。
諸子打よにり、食事をすゝめまゐらせけれど、すゝみたまはず。梨実をのぞみたまふ。
木節かたく制しけれど、頻りに望みたまふゆえ、やむことを得ずすゝめければ、一片味ひてやみ給ふ。木節云、牌胃うくる處なし、死期ちかきにありと云う。申の刻にいたって人ごこちつきたまふ。今日は一人も食したるものなし。
(佳然記)
  
芭蕉終焉記(3)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校

十月十一日 
朝又また時雨す。思いがけなく、東武の其角きたる。是は東武の誰彼同伴にて参客の序、和州・紀州壹打めぐり、泉州より浪華打入りしが、はからずも師の労りおはすと聞つけ、そこ此處とたづねまはり、漸にかけつけたり。
直に病床にまゐりて、皮骨連立し給ひたる體を見まゐらせて、且愁ひ且よろこぶ。師も見やりたまひたるまでにて、唯々泪ぐみたまふ。其角も言句なく、さしうつむきゐたりしを、丈草・去来・支考其外の衆、次の間に招き、御病性の始終を物がたる。
此夜、夜すがら伽して、おもひよりし事ども物がたり居たりしに、亥のときごろより、師、夢のさめたるごとぐ、粥を望みたまふ。人々嬉しさかぎりなく、次郎兵衛取計ひて、疾く焚あげてすゝめまゐらす。中かさ椀にて、快くめされけり。朔日より已来の変事なり。土鍋に残りたるを、去来椀にうつし入れておしいただき 

  病中のあまりすゝりて冬ごもり   去来

 去来日、趣向を他にもとめず、有あふことを口ずさみて、師を慰めまゐらせん。深く案じいら〔一字不明〕と頓に句作りたまへ。惟然 は前夜正秀と二人にて、一ツの蒲団をひつぱりて被りしに、かなたえひき、こなたえひきて、絡夜寝いらざりければ、はてはしらじらと夜明けるにぞ、その事を互に笑ひあひて
    
ひつぱりて蒲団に塞きわらひ哉   惟然
    おもひよる夜伽もしたし冬籠    正秀

 一座これをきゝて、いづれもどっと笑いければ、師(芭蕉)も笑いたまえり。
 人々嬉しさかぎりなく、十日已来の興にぞ有ける。初しぐれなりければ、空とく晴て日影さしいりたるに、蠅のおほく日南に群りいたるに、人々黐(もち)もて蠅をさし取に、上手下手あるを見給いて、暫く興にいりたまひけれど、大病中のことなれば忽縮たまい、直に寝所に入りたまう。
支考は、師の発句を滅後に一集せん心願あれど、
此ごろの病苦に苦しみたまうに、見あわせいたりしが、
今日機嫌よきに乗じて申出侍らんと、去来に申たりければ、
去来はかねて師の心中を知りたりし故大いに怒り、
小ざかしき事を申さるゝもの哉、
師は平生名聞らしきこと好み給わず。
今日暫らく快きを見請侍りて、諸人嬉しと思う中に、
御気に逆うこと聞せ申ては、御心を労しめ申す事、奇怪なり。
この後御病床近くにより給うな、早くその座を立ちたまえと、
聲あらゝかに次の間に追立けり。

支考もはからずもの言い出して、諸子の聞く前面目を失しないしが、行々惟然に打向かい、我に句あり、そこに書き給えと言いて
    
しかられて次の間に立つ寒さかな  支考

さすが支考なりければ、師も仄かに聞き給いて、可笑しがり給いけり。

国とりて菜飯-----------(不明)     木節
皆子なり-----------------(不明)    乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな     丈草
吹井より鶴をまねかむ初しぐれ     其角

 一々惟然吟聲しければ、
師、丈草が句を今一度とのぞみ給いて、丈草出かされたり。いつ聞いてもさびしをり調べたり。面白しくと、しわがれし聲をもって誉め給いにけり。
いつに変わりし機嫌の麗しきを喜びけるに、木節一人愁をいだける様に見えければ、其角その故を問う。木節云う、病に除中の證と言えるあり。大病中絶貪なるに俄に食のすゝむことあるは、悪症なり。死期遠きにあらずといえり。
さはしらず各々さざめき至るに、
夜半ごろよりまた寒熱往来ありて、夜目ごろより顔色土のごとく見え給い、
暫くは悶乱し人も見しりたまわざりしが、やゝありて又實性になり給い、
左右に舎羅・呑舟、後よりは次郎兵衛抱きまいらせて介抱し、程なく夜明ければ十二日なり。兼ては閉じ籠り給いしが、隔ての障子も襖もとり離させ、其角・去来・丈草を是えとて向に見給い、穢れを憚かれば咫尺したまうなと断わり、行水を頼み給う。木節頻りに制しけれど、しきりにのぞみ給う故、止むことを得ず、湯を引かせ参らせけり。座を静かに改め、木節が医術を盡されし事など都度つどに隠し給い、さて三人の衆を近くに召され、乙州・正秀を左右にし、支考・惟然に筆をとらせ、亡き後の事細々と遺言し給う。病苦すこしも見え給わず。人々奇異の思いをなしけり。

伊賀の遺書は手づから認め給い、外に京・江戸・美濃・尾張洩れざる様に遺言し終り給うに、始終は門人中にて筆記す。次第に聲細り、痰喘にて苦し給いければ、次郎兵衛素湯にて口を潤し参らせけり。

やゝ有って去来に向い給い、先頃、實永阿闍梨より路通が事を仰せ有。其後汝が丈草・乙州等に送りし消息、露霜とは聞捨てず。併少し意味憚ること有て、雲井の余所に話し侍りぬ。彼が数年の薪水の労、努々忘れおかず。
我なき跡には、およそに見捨て給まわず、風流交り給へ。此事たのみ置き侍る。諸國につたえ給われかしと、言終り給いて餘言なし。合掌ただしく、観音経聞こえて、微かに聞こえ、息の通いも遠くなり、申の刻過て、埋火の温まりの冷めるがごとく、次郎兵衛が拘き参らせたるに、よりかゝりて寝入り給いぬと思う程に、正念にして終り眠りにつき給いけり。

時に元禄七甲戊十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。
 
即刻不浄を清め、白木の長櫃に納まいらせ、其夜直に川舟にて伏見まで御供し奉る。其人々には、其角・去来・丈草・乙州・正秀・木節・惟然・支考・之道・呑舟・次郎兵衛・以上十一人。

花屋仁左衛門が京へ荷物を送る體にて、長櫃の前後左右をとりまき、念佛誦経思い想いに供養し奉る。
八幡を過るころ、夜もしらじらと明はなれけるに、僧李山の下り給える舟に行逢ければ、いざとて乗り移り、相ともに儚き物がたりして、程なく京橋につく。それより狼だに辺りにかゝり、急ぎに急ぎし程に、十三日巳の時過ぎには、大津の乙州が宅に入れ奉りけり。乙州は伏見より先立て急ぎて帰り、座敷を掃除し清め、沐浴(もくよく)の用意す。御沐浴は之道・呑舟・次郎兵衛也。
御髪の延びさせ給えば、月代には丈草法師参られけり。

御法衣・浄衣等は、智月と乙州の妻が縫奉る。浄衣、白衣にて召させ參らすべき筈なるを、翁はいかなる事にや、兼て茶色の衣装こそよけれと、すべて茶色を召れければ、智月尼の計らいとして、浄衣も茶色の服にこそせられける。
さて追葬は十四日と決まり、かれこれ日没になりにけり。
 
大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の状、羅漢寺の僧伊勢に急用有で參るよしを、花屋より知らせければ、是幸いと頼み遣わしるに、この僧奈良に著たる日より、痢疾にて歩行かなわず、やむことを得ず奈良に滞る。
それゆえ十一日朝、伊買上野に行人あるを聞つければ、右の状を仕出しけり。
この状、十二日の暮ごろに上野に届きけり。土芳・卓袋ひらき見るより大いに驚き、とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、これも同時に書状著せりと云。それより両人は、したためそこそこにして、子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、大和の帯解までただいそぎに急ぎけれど、月入ての事なれば、暗さは暗し、小路の事ゆえ、提灯も消えぬれば、其夜の明がたに帯解に着く。相知れる方に暫らく休らいで、したゝめなどし、是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には渦ず。さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、
俊徳海道をたゞ急にいそぎ、平野口より御城の南をかけぬけ、直に久太郎町花屋にかけつけたるは、十三日の暮れ頃なり。

何がなしに、翁の御病気いかにと問いければ、仁左衛門しかじかと答える。
両人ともに残念申すばかりなく、さらば葬送になりとも逢い奉らんとて、又引き返し、八軒屋にかけ行く。幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乗り、伏見京橋に着きしは夜明け也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に着きしは、未だ入棺し給わざる前なりければ、諸子に断わりて、死顔のうるわしきを拝し参らせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかき口説きけれど、まづ因縁の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく焼香につらなりけり。
(土芳・卓袋物語)

 十二日暮

暮れに伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、その夜何處にて行違いたるやらん、夜明けて大仮に著く。直に花屋に馳せたるに、諸子御骸を守り奉りて、のぼり給いぬと聞より、
直にまた十三日の昼船に大坂より引かえし、その夜酉の刻に伏見に着く。夜半頃に大津に戻る。(昌房物語)
 
義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人参られ、読経念仏あり。御入棺はその夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入りても左右なし。去来・共角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。昼のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳に控えたる人凡そ三百人餘。知る知らぬ近郷より集る老若男女まで惜しみ悲しむ。時しも小春の半ばにて、しづかに天気晴れ渡り、月晴朗として湖水の面に輝き渡り、
名にし粟津のまつに吹起るに、無常の嵐かと思われて、月はおもしろきもの、露は哀なるものといえれど、折にふれては何かあ哀れ成ものならざらむ。
矢橋の漣の寄する響きも、愁人のためには胸にせまり泪を添う。(支考記)
 
  引導香語
雪月魂魄。風花精神。
等閑一句。驚動人天。
嗚呼。
奇哉芭蕉。妙哉芭蕉。
萬里白雲。一輪明月。
五十一年。一字不説。
 
   各捻香
 丈草 其角 去来 李由 曲翆 正秀
 木印 乙州 臥高 惟然 昌房 探芝
 泥足 之道 芝栢 牝玄 尚白 土芳
 卓袋 許六 丹野 風国 野堂 遊刀
    野明 角上 胡故 蘇葉 霊椿 素顰
 囘鳧 萬里 誐々 這萃 荒雀 楚江
 木枝 朴吹 魚光 支考 
諸国代替不記

 右の外近江国中は申に及ばず、京・大坂・美濃・尾張・伊勢 その外国々より京などに登り至る諸国の人々、三世値遇の縁をよろこび、我も我もと香を手向奉る。
その数何百人といふ数しれず。境内狭ければ、表より入りたる人は裏へぬけ出る様に設え置、田の刈跡に道をつけゝれば、焼香の人々は全て裏へ抜けるにぞ、さして騒がしき事もなく、葬埋終りけるは、子の時過になりにける。

翁かねて遺命の通り、木曾殿の右のかたに埋葬し奉りけり。
 
十月十五日 
去来・其角はじめ、膳所・大津の人々、朝とく詣でして、先ずとて土かきあげて卵塔をかたどり、幸い塚の後に、年ふりたる柳あるをそのまゝにし、御名の形見とて、枯々の芭蕉を一本、兼てこのみ給ひたる茶の木の、今を盛りなる花とともに移し植えて、竹もて坦結い廻し、香花を手向け奉りけり。
日のもと広しといへども、生前にその名豊芦原の浪に響き、其徳芙蓉の絶頂に奴ぶ。人丸・赤人の昔はいざしらず、末代の今にしては、實に我翁一人と言うべし。

  芭蕉書簡 松尾半左衛門宛

御先に立候段、疑念に可賛思召候。
如何様とも又右衛門便に被成御年被寄、
御心静に御臨終可被成候。至爰申上事無御座候。
市兵衛・治右衛門殿・意専老初、不残御心得奉頼候。
中にも十左衛門殿・半左殿、右之通に候。
はゞ様、およし、力落し可申候。以上
  十月十目                桃 青
                       〔花押〕
  松尾半左衛門様

芭蕉終焉記(4)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校

十月十六日

乙州亭に集合して、義仲寺の住持、其外僧徒に禮物、御遺物等の沙汰に及ぶ。

昨夜迄大に御苦労様成候。
さて今日は、先師御遺言之通、
御遺物夫々配分仕度、
其外寺納等之儀申談度、
且また伊賀より一向ニ返書も無之、
至而不審ニ有候、態と人差立申候ニ付、
拙夫一人之名目少し憚存じ候故、
御連名ニ加入申度。是等之儀、及御談合度、
又明後日一七日ニ候條、諸国連中退散無之中、
於御靈前、御追悼俳諧百韻興行仕度。
付而者御終焉之記一章、貴雅諸被成り候、
右條々可申談間、唯今より御出座可被下候。
萬端は面上申上候。以上。
   十月十六日        去 来
  其角英雅 

御書翰拝読。御広之御事でも添候。
此間之御辛労難盡筆頭。
扨とよ今日は、諸君御集会、
先師御遺言之御遺物配分、
且寺納其外之勘定可視成旨、
又伊賀への御文通ニ付、
拙者立合申し候様被仰聞候趣、畏候。
早速馳參可申候得共、
今日は、宿主曲翆子始、臥高、正秀、泥足、同心等。
先師御舊跡の幻桂庵ニ罷越、椎の冬木も見、
御筆蹟之一字一石塔も拝申度、前諾仕置、
則唯今出立仕にて候。乍御不■御宥免可被下候。
御遺物其外寺納等の事は、
乙主人、清風子ニ御談可被成り候。
伊賀への御紙面、拙者御連名可被成旨、
随分御同意仕候。
 

御終焉記之儀被仰聞いかゞ可仕候。
併貴命之事に候故、取懸り見可申候。
御病気最初よりの御様體、貴兄始め、
惟然、支考が覚書、勿論御夜伽の発句等、
御書附御見せ可被成候。
且次郎兵衛日記、共に御見せ可被成り候。
出立早々。以上。
   十月十六日        其角
  去来英雅

十月十七日
乙州亭。
一 眞愚上人        金一両
一 御斎米料        金一両
一 面供養料        金一両
一 御茶湯料        同百匹
一 御弟子親明子      同百匹
一 三井寺常住院御弟子二人 同二百匹
      家来衆三人     銀三両

 御遺物
 一 出山佛一体  御長一寸一分
一 鉄 如意棒一本
  (佛頂和尚より付与 木曾寺に有り、丈草に付与)
一 観音経   小木一部
一 紙縷袈裟  佛頂和尚より付与
一 被風
一 銅鉢    ひと口
一 木硯    堅木にて旅硯也
一 古今集序註 一部
一 百人一首  一部
一 新式    一部
一 奥之細道  一部
一 御笠    一部
一 菅蓑    一被
一 御杖    一本
右紙袈裟ヨリ以下七品は、
兼て惟然に御附與之御約諾の由に候故、
直ニ惟然ニ附與。
一 御頭陀   一
 
 中に、
杜子美詩集、山家集、外ニ後猿蓑卜題アリテ、歌仙三巻、発句四五十吟程、
外は御書捨てノ反古等入。別ニ紙ニ包タル布破レ、五寸ニ六寸計、上包に狭ノ細布ト有、進上清風ト、又外ニ和歌ノ古短尺二枚、又松島象潟ノ畫二枚。

右之中、紙ニ包タル、五寸二六寸ノ布切、並松島象潟之畫、若御支無御座候ハバ、御形見ニ下拙ニ被仰付可被下候様奉希候、生涯寶物ニ仕度候。
  去来

十月十八日

元禄七年十月十八日於義仲寺。
    
追善之俳諧
   なきからを笠に隠すや枯尾花   其角
    温石さめて皆氷るこゑ     支考
   行灯の外よりしらむ海山に    丈草
    やとはぬ馬士の掾に来てゐる  惟然
   つみ捨し市の古木の長みしか   木節
    洗ふたやうな夕立の顔     李由
   森の名をほのめかしたる月の影  之道
    野かけの荼の湯鶉待なり    去来
(末略)

態々一人差立候。
盆御平安可被成御座奉恭賀候。皆共無異羅在候、御安意可被下候。然者、尊師於大阪御大病之處、支考、惟然より両度申候得共、御返書無御座。遠路故紙面遅着と察候。兎角仕候中、拙者共も羅下り、加御保養候得共。御養生不被為相叶、去十二日終ニ御遷化被游候。旅中之儀ニ御座候故、其夜早々近江木曾寺ニ御遺骸を奉遷、十四目迄奉待御報候へ共、御返書不承候間、請国門人中、一等評議ニ面、則十四日之夜、於木曾寺埋葬仕候。委曲者追々土芳・卓袋帰国之上ニ而、御承知可被申候。

一 
別封之一書者師翁御遷化之日、御認被游候御遺書ニ而御座候、上書迄ニ而、御封緘候は、其の時より無之候條、左様被思召御落手可被下候。

 一
御遺物之品々者、諸國連衆於義仲寺の集会之上、書記之通無相違候條、
今度御来臨も御座候はゞ御見届之上、任御取計申筈ニ候共、御左右無御座候故、不得止取計置、目録入御覧申候。御親類方ニも乍憚此旨被仰達可被下候。
土芳・卓袋帰国口述之上、御返事成可被下候。一七日御追善供養相仕舞申候故、諸子一等引取申候筈ニ候條、願者御返書承り申度候。書餘両雅子ニ御聞可被下候以上。
十月十九日     去来 其角

松尾半左衛門様

別啓。昨日之俳諧百韻入貴覧候。

 一
御遺物目録之外ニ、左之通相残居候品、御綿入一着御袷同前御肌付同前御帯二筋、右者花屋仁左衛門より、一昨日次郎兵衛方ニ贈参候。外ニ古御衣裳之類数多有之候故、大阪出立取急候故、不残花屋ニ預置申候。


御飛脚只今参者被到候。尊翰拝見仕候。
御返事仕候筈ニ候得共、諸用相認終り申候故貴答不仕候。


寿貞子次郎兵衛、御国出立之砌より御供仕居、御病中始終、御葬埋之節迄。抜群之骨折仕候。逐一両雅より口述ニ可及候。御病中間之始末、御病体、惟然、支考、次郎兵衛拙者迄、筆記入貴覧候。己上。

仔細之御書翰、悉拜語。
御揃盆御安泰被成御暮候由、奉遠賀候。然者今度芭蕉事、於大阪致遷化。
自病中木曽寺至葬埋に迄、不浅御苦労被成候結由、御文面と申、土芳・卓袋よりも微細ニ致承知候。惣御連中、別而両雅丈之御厚情之程、御禮難申儘候。
芭蕉事一所不住之境界ニ候條、可斯有とは、兼而思儲得共、今更残念御推察可被下候。併病中始終御介抱之事、只今親族之面々附添居候共、斯迄手は届不申、亡弟身ニ取面、他方之聞え、親旅中之美目、身ニ餘り悉く奉有候。


自大阪両度之御手簡之中、二日之御状のみ漸十二日暮方ニ届候。
外之御歌は未届不申候。芭蕉病気大切成義と為御知候故、早々使者差出候。
最早日限過候得共、未病気ニ而存候、使之者帰候者、十六日之朝罷帰間、其時、遷化之事も、遺骸を近江之様に送方ニ成候儀も致承知候。卓袋・土芳近江国之様被参観儀も、今度承り候故、追取返し一人差立候。今度ハ拙者馳参申筈ニ親得共、亡弟爰元発足之跡ニ而、拙者瘧疾労而も初瘧と申、老人之事ニ候故、
長々相痛、漸九月下旬到快気候。病後今服薬いたし出勤も不仕、気力も未得不申候間、不能其儀、清風子之御聞前、願人申事ニ候。


芭蕉遺状慥ニ致落手候。誠ニ一類中打寄、開封、何も一字一涙、愁傷御思察可被下候。

  一
亡者遺物之儀ニ付、被仰越候越。御入念之御事ニ候。
併亡弟入道以来は、俗縁の表向無之候。僧分之器財之事ニ候條、遺言之品は格別、其外者、不依何品、直にも義仲寺に納共ニ而可有之裁。それ邊猶父御連中任思召候間、御存寄次第宣御取計可被下候。


寿貞子次郎兵衛指事、
今度信切之骨折、終止事感入り候。存寄りも有之候。勿論譜代の者ニ候故、其元諸事相仕廻申候はゞ、一日成共早罷帰候様、乍慮外被下候。

 一
相残居候と有而。吉衣裳四品被下慥ニ致落手候。外ニ古衣裳之類、花屋ニ被預置候由右之品は必御貪着被下間敷、其儘ニ被召置可被下候。余情拝顔申残候。以上。
  
十月二十三日        松尾半左衛門 判
    晋 其角 様
    向井去来 様
    御連中  様                ’

追啓
朝飛脚道違ニて踏迷い申され、殊ニ痛所有之山ニ候間、中一日手前ニ留め申候。狐念申遺置候。以上。

別啓申進候
芭燕死去之事、拙者主公ニ、同役共を以申達候處、主公甚残念ニ被存趣。
それ夫付け辞世ハ無之哉之事、被尋候故、土芳・卓袋口述之通申述候得ば、貴丈方之紙面、直に可被致被見との事、任其旨申候處、重而尋ニ、命終迄ニ発句は無哉、若有之候はゞ、直書見度と申事ニ候。若貴丈方、外ニ御所持之方も候はゞ、暫く拝借申度候。此段お頼申候。

 一
自筆之山家集有之候はゞ、書入杯は無之哉。右條々宜詞御頼稿申候。
為其重而如是御座候 恐惶謹言。
  十月二十三日         松尾半左衛門
    其 角 様
    去 来 様

奥書之頭陀之内之品之中、五寸に六寸之切之事、並松島虹潟之檜之事、仰望之由、其外何品ニよらず、隨分御勝手次第ニ可被成候。少も不苦候以上。 

以使札得芳念候。向寒之節ニ候得共、盆御安泰。御寺務可被成、奉恭賀候。拙者無別條罷在候。然者芭蕉居士被致遷化候砌、葬式之節は、段々御苦労成下、為奉拝候。早速罷越、御禮詞等申述候筈ニ御座候得共。乍存疎略打過、背本意候。此段御宥恕被成可被下候。随而左之通御寺納仕候間、宜御廻向被成可彼下候。拙者も長々之病後、今以引入居申候故、出勤仕候得ば、早逍墓参可仕候。
其節拝顔之上萬々可申上候。先右之御禮詞迄如斯御座候以上。
  
十一月二日       松尾半左衛門
    義仲寺様
      
  覚え
一 御布施         金 二百疋
一 同御佛栄御斎栄料    金 二百疋
一 同御茶湯料       金 百疋
一 同 御布施       金 百疋 松尾氏一類中
  
  右 以飛札得御意申候。盆御清雅奉賀候。爰本無異ニ居申候。然者、師翁遷化之事承り、途方ニ暮候。いかに成行可申裁。只闇夜と相成、唯愁涙迄ニ候。
取あえず一句案候。靈前ニ御擎可被下候以上。
  十月二十三日       露沾
    去来雅丈     
             落柿舎
  此外、諸国之弔儀数百ケ所
     繁難故ニ除之。

告て来て死顔ゆかし冬の山  露沾
 十一月五日

頃日土芳卓袋帰郷之砌、申進候筈之處取紛失念仕候故、今日一人差立申候。
先以、長々之御所労、それ御快無御座候、乍憚随分御自愛専一ニ泰存候。
此間両雅丈より被成御聞候通亡師一七日、於御靈前御追善之百韻。首尾能興行ニ相成、何れも満足仕候。然ば其席ニ御伝来之鳥羽之文臺建申候。
右此文臺の事者、御聞及も御座候半、季吟老人より亡師に御譲の風雅伝来の雅物に御座候。
根元、玄旨法印より紹巴ニ御伝成、貞徳、貞室、季吟亡師と傳候。如斯之重器ニ候得者、亡師一代尋常之俳席ニ者御用も無御座。深川之重器ご承り候迄ニ候。然ルニ先年猿蓑集選成就仕。吟聲之砌、深川より御取寄せニ相成、其儘ニ義仲寺ニ被召置候。亡師も御門人之中ニ御傳可被成、御心ニも可有御座候得共、
亡師者も一體此俳諧之事ニ左様成事ニ、御貪着被成候御気象ニ而者無御座、
全體隠逸禅中風雲之行状ニ候得者、傳不傳之處ニ而者無御座候。併此の後はその場にては建不申、今度此儘ニ打捨置候得者、一道は建不申、永く芭蕉門埋レ候共存じ候。幸此節、其角参り居られ候故、於江戸、其角・嵐雪と申而者、
亡師左右之御手ご被思召、無二之御愛弟ニ而御座候。
それ故御靈前ニ而、右文豪譲之事、申向候得ば、其角頻りニ辞退ニ而、一昨日罷帰申候。 許六は病身、木節は老衰、美濃尾張は遠方ニ而手届不申、外ニは若輩之者斗、それ故一ト先ツ右文豪ヲ義仲寺眞愚上人ニ預ケ置、一二年も過候はば、若年之者共、追々出精之上、抜群之者も出来可申、上人ニ申向候得共、路傍の廃寺、風火災叉ハ賊難の恐れ、貧地独居故、不任心底と申而断ニて御座候。只今にては御預置所も無御座候。道心の御人體ニ候得者、兎角可申大筋も無之、此の上は、右の雅物ニ候條、少頃貴方ニ御預り置可被下候。来春ニも成候はゞ拙者以参。御熟談も可仕候。則右之品此者ニ持たせ進候。諸事御賢察可被下候。恐惶謹言。
十月二十七日      向井去来
  松尾半左衛門様.

 貴翰拝読。
先以、此間者前後之御取計ヒ。重労御労煩被成下、悉奉存候。然者、鳥羽之文豪の事被仰聞趣、逐一承知仕候。如貴命、右文豪の事は、日外亡き弟よりも承り、至て大切成雅器ニ御座候由、右之器物引譲之事、御心配之事、御尤千萬之事ニ御座候。
然ニ其角能時節ニ参り合居られ、辞退之儀、於手前も不承知ニ存候。芭蕉門人ニ其角・嵐雪申事者、日本ニ俳諧好候者、誰不存者は無之候。然ば門人中ニ何人か違背之御人も可有之共覚不申、右ニ付而者、拙者より御類も可申候得共、
帰郷ニ成候と申事ニ候得者、不能其儀候。且又眞愚上人御返答之儀者、御尤之事ニ奉存候。
将又拙者方ニ暫く御預可被成旨、併我等事者肉身之事ニ候得共、俗士之事ニ候得共、風流中之品物、暫も預り候境涯ニ無之候。何分ニも、是は雅器之事ニ候得ば、貴雅方ニ手前より御預ケ申度候。
仰之通り、明春ニも成候はゞ、拙者罷越、拜面之上、兎も角も可仕、是非々々譲方無御座節は、季吟未御存生之事ニ候得ば、元之通り返上納可仕、とても先夫迄者、貴雅之方ニ御預り置可被下候。偏ニ奉頼候。左候はゞ芭蕉魂魄も可為満足候。卓袋 土芳より始末は承申候。恐惶謹言。
  十月二十九日       松尾半左衛門 命清 印
    向井去来様

鳥羽之文豆 一脚 黒塗
長一尺九寸、幅一尺二寸、高四寸。
板厚三歩、筆反一尺一寸。

右者師子相求之印ニ、
季吟翁より先師に御相承被式親重器ニ候。今度拙者ニ御預可被成旨ニ付、慥ニ預り置申候。
後證如件。
元禄七年甲戊十一月四日     向井去来
  松尾半左衛門殿
但三ケ所疵、二ケ所有小指先程、一ケ所有小キ摺庇、四方之角摺レ有。


荒木田守武

2024年06月18日 08時08分39秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉
荒木田守武
荒木田1
荒木田守武
  
昭和7年 『俳諧史上の人々』 復刻
    著 高木蒼梧氏著
編 山梨 山口素堂資料室

 

元朝や御代の事も思はるゝ

 

俳句の何たるを知らぬ人の口にも膾炙するこの句の作者守武は、伊勢内宮の神官、通称中川平太夫。
晩年の位階は正四位上であった。
父を守秀と云い母は藤浪氏経の女、宗艦に遅れること八年、
文明五年その九男に生れ、
翌六年九月二十日、五位に叙され、
同十先年二月二十日祢宜に任せられ、
天文十年六十九歳の時、一座に転じ首席となったこと、
薗田長官と号した。
 
博学にして風俗の志が厚かったので、宗鑑・宗長・宗牧など屈指の連歌師等とも交際があり、また当時和歌・連歌壇の中心人物であった内大臣三條實隆公とも往来があり、連歌はかれの長所であった。
曾て或る連歌の席に出たところ、一座みな法體の人ばかりであったので、
    お座敷を見ればいづれも神無月  守武
即ち「神無」を「髪無」にかけて一句やったのである。その時、
    ひとり時雨のふる鳥帽子着て   宗祗
と脇を附けたという逸話がある。
 
彼はまた連歌の煩わしい拘束を破って、俳諧の新天地を開拓した先駆者である。
宗艦も十七文字の一句でなく、俳諧の淫欲といふものをやってみたいとの考えを持っていたが、守武はついに千句つらねて、俳諧の連歌に成功した。守武千句は即ちそれである。かれは明かに「心にまかせん」と云い、春秋二句むすびたる所あるのも顧みず、ただ薄く濃く打まぜて、一巻の変化にのみ着眼し「さし合も時代によるべきにや」と云って、全然上代の法式を否定したのである。
斯く云えばとて、決して出放題のものではない、その時はまだ俳諧千句の式が定まっていなかったので、洛の宗匠周桂に問合せたところが
「汝こそ之を定めよわれこれを用ゐん」
といふ返事に接したので、宗祗法師の百韻を鑑として、それに自己の了管を加えて行っている。
千句の立句は、

 

  飛び梅やかるがるしくも神の春 
  青柳の眉かくしきのひたい哉
  花よりも鼻にありける匂ひかな
  鶯のむすめか鳴かぬ時鳥
  絵合わせは十二の骨の扇かな
かさゝぎやけふ久方の雨の川
にしきかとあまめに細き小萩かな
なのりてやそもそも今宵秋の月
  氷らねど水ひきとつるくわいし哉
  から笠やたゝえかゝみのけさの雪

 

縁語を使い、古歌の語句を取ったものが多い。
その最後に、
  天文九年時雨ふる頃
といふ句があるので、かれが六十八歳の時であり、宗祗の『犬筑波集』が出てから、二十六年ほど後のことである事が知られる。
 
かれはまた大永年間に
  
世の中の親に孝ある人はただ
  何につけてもたのもしきかな
   あにおとゝとうやまひをなしはくゝむは
  誰れもかくこそあらめ世の中

 

のやうに、一首毎に「世の中」という文字を入れた歌七百首詠み、世の中百首と云って児童の教説とした、世人はこれを尊び伊勢論語などと云い、後世それに註解を加えた書物なども出ている。
なおこの世の中百首の版本には守武の系譜が付いて居て、少なからず参考になる。
 守武千句の跋に

 

さて俳諧とて、猥(みだ)りに笑はせむばかりは奈何、
花實を具ヘ風流にして、しかも一句正しく、
さておかしくあらむようにと、世々の好士の教なり

 

と云っている事により、俳諧に対するかれの見識が窺い知られる。この跋文を解釈してみると、

 

俳諧は唯滑稽頓智を旨とし人の願を
解かむ事のみを本領とすべきか、
否々いやしくも詩歌の一體である以上、
その内容としては花実を具え・・・
花なき句は異彩なく、霞なき句は空虚である・・・・
風流が無くてはならぬ、
内容が斯く完備しても、
姿形が正しく整って居らねばならぬ、
その上先人の云いふるした事は感興を惹かぬから、
おかしくあらんように、
即ち興味あるものでなくてぱならぬ・・・・

 

と云うのである。
まことに至当の言論、立派な俳諧談である。
厳正謹直な性格の上に、このような俳諧観を持っていたかれの作品は、滑稽は同じく滑稽であっても、
豪放磊落ようやくすれば卑野猥雑に陥らんとする宗鑑の作品に比較すると、よほど品のよい所がある。

 

落花技にかへると見れば胡蝶哉
夏の夜はあくれどあかぬ瞼哉
あかつきの秋しぐれかなあはれ哉
茶の水に我と蓋する氷かな

 

 天文十八年八月八日七十七歳にて歿した。墓は伊勢國宇治山田市浦田町今北山麓の荒木田家の墓地に、
下記のように彫った小さな五輪塔がある。

 

 天文十八年
守武
八月八日

 

家は建換えられても、位置は変わらず、そこに守武松という一株の老松がある。
昭和七年九月八日、伊勢の有志により、記念碑が建てられた。
   
こし方もまた行末も神路山
    峯のまつかぜ峰の松風
朝顔に今日は見ゆらん我世かな

 

 普通に辞世として伝わって居るのは右の歌と俳句とであるが、
廣野集に「末期に」と題して別の句が載って居る。
それに就て其角が、
    
廣野あら野に俗世とあり 
   散花を南無阿陀物佛と夕べ哉  守武
 
  彼集のあやまりか、神職の辞世として、

 

何ぞこの境をにらむべきや、
只嗚呼と歎美してうちおどろきたる落花か。

 

と不審がつて居る。歌の方も、
   
 神路山わがこしかたもゆくすゑも
  みねの松かぜ峰のまつかぜ

 

といふのが随齊諧話などに載って居る。

 


素堂と芭蕉の俳諧  著 山梨歴史文学館 白州ふるさと文庫  山口素堂資料室

2024年06月18日 07時49分30秒 | 山口素堂・松尾芭蕉
素堂と芭蕉の俳諧
 著 山梨歴史文学館 白州ふるさと文庫  山口素堂資料室
〔素〕=素堂 
〔芭〕=芭蕉
〔素〕
既に素堂と芭蕉の生い立ちに付いては、多くの人の論及もあり省くとして、素堂は寛永十九年(一六四二)一月十四日の生まれ(『甲斐国志』は五月五日)、芭蕉は正保元年(一六四四)で月日は不詳の二年遅れである。生誕地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人や周囲が肯定した記述が無いし、その根拠とする資料も「国志」以外無い。甲州教来石村山口と書いているのは後世の「甲斐国志」のみである。また山梨県や地域の多くの俳人達も「芭蕉」はあっても素堂には全く触れていない。少ない資料の中で酒折宮の宮司に勧められ元禄三年に甲斐の俳人達と素堂の句を奉納されている。
▽素堂、元禄三年甲斐酒折宮奉納和漢連句(□―損カ所)
『酒折宮奉納和漢連句』(句作は元禄二年)
夏目成美著。『随斎階話』所収。
さきの年甲斐住原田吟夕子、予か閑庭に入て、折ふしの興を詠しけるに、その冠の句、暗に菅家の□□送る詞にありければ、漢の□□けらし。それより漢和相まじへて面八句となし。かのくにの境にいつきまつる酒折の宮へをさむへきよし、なほことばをそへてしがなとすゝめけれど、我何をかいはん。そも此神所は新墾つくはねのうつりにて日本武尊つらね歌のことはしめにてありよし。むかしの人は連歌席には尊のかげをかけまくもかしこくあかめ奉りて、いまの天満神のごとし。しかれば願主の思ひよられし所まことに故あるかな。
      詩の家にあらん花遅き庭のけさの雪    原田氏
      鶯 寒 似 惜 聲                              素堂
     大気なる春はいたらぬかたもなし      山口氏元長
     下戸も流れにあらふさかつき             内田氏吉賢
      驚 波 石 間 蟹                           森氏
      飛 違 野 等 蜻                           河村氏吉重
      ゆふ日にかけ残りし月の枝なかき     野田氏長成
      粧 葉 露 情 無                          小野氏助元
 
元禄三年庚午秋日
 
素堂の生涯や事績はこの『国志』によって大きく歪められた。
〔芭〕芭蕉も伊賀上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少々より藤堂藩の士大将(伊贅上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓に召出されて、寛文初年(一六六一)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。
【註】(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明)
【註】芭蕉の生まれた年に関する著述
 
<参考資料>(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
〔素〕素堂も少小より林春斎の私塾に入って漠儒の学を学んだと云う。その後某家(唐津藩)の仕官と成ったらしい。この頃で有ろうか、同家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。
 この信章が、いつ頃から俳諧に手を染めたか定かでないが、寛文七年には貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていた。
 
【註】伊勢踊 素堂句
   予(加友)が江戸より帰国之刻馬のはなむけとてかくなん
    かへすこそ名残おしさは山々田 江戸 山口氏信章
 
【註】素堂の俳諧論 素堂の長崎旅行の目的 
 素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、
「二万の里唐津と申せ君が春」
の句は「仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』の言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
〔素〕
その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年に「一本草」として刊行したこの集に人集している。これからすると寛文年間の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。素堂と京都の公家との繋がりについては、述べてあり重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう、その関係から歌学を清水谷家、書を持明院家と習ったのであろう。でないと延宝年間の致任するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。
〔芭〕
芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頓に士分として出仕と直り、宗房名を名乗る事になったようである。主人の良忠は寛文五年に貞徳十三回忌追善を主催したことから、始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、卓徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として受けていたのであろう。
寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたらしい。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は閑職で自由がきく役職である。
〔大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜される事もある)寛文四年蝉吟と共に、松江重頼の「佐夜中山集に入集しているが、この時期の重頼は良いパトロンを得るため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも指導を受けていたかもしれない。
寛文六年(一六六六)に良忠が没し、高野山に遣いをした後から同十二年までの所在が不明で、
「遁世の志をいだき敦仕を願うも許されず主家を出奔」の伝は疑問であり、出奔となれば武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ないし、江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の間を往来していたのであろう、この間に儒学・医術・神道や仏教・書道などを学んだと云うが、その証がみえない。
寛文十二年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「負おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい。(辞職してからの事かは不明)江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。でなくてはこの斯の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(杉風秘話)と云うのも、この時期の事と考えられる。
 寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(一六七四)五月に没した。これより先き三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた。芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。
 
この「埋木」の奥書に季吟が
  此書 為家伝之探秘 宗房生依俳諧執心不浅 免書写而且加奥書者也
  必不可有外見而巳   延宝二年弥生中七     季吟(花押)
とあるが、この識語には真偽両説あって掲出するに止める。
〔素〕
この年の十一月、公用かで上洛していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。(九吟百韻、廿回集・江戸より信章のぼりて興行)この折にまだ京都に居た芭蕉を、季吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう。素堂の友人で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依頼して、『桃青』号を撰んでもらった。〔類聚考外〕
〔芭〕
蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上洛していたが、江戸へ帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(一六八〇)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加し人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として本船町の長序令が江戸行きを誘ったとも記すが、この説は未詳であるが序令も素堂とは長い付き合いで、正徳三年に素堂が稲津祇空を訪れた時の随行者の中に見える。
〔芭〕
再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(杉風秘記)とも云う。延宝五年の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。
〔素〕
素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねた。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りしていたと推察できる。宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因の江戸招致であろう。宗因は寛文五年(一六五五)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出し、貞門俳諧の法則を古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて談林俳諧を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。
風虎と宗因との結び付きは寛文二年の磐城訪問から寛文四年江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦「桜川」の各集の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次役は、家臣の礒江吉衛門勝盛であったが、寛文十年に没してからは手不足を感じ、上方に明るく風虎サロンに出入りしていた素堂に、その連絡を依頼したと考えられる。
因に重頼(維舟)の選集に芭蕉は寛文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年の「名取川集」に、読み人知らずとして、延宝五年内藤風虎主催の「六百番発句会」の判者となり、その中から素堂の句を異体化として載せているのが初めてである。
大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧に飽き足らない人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、卜尺も同様であったと思われる。
 延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、「談林百韻」(宗因歓迎百韻)が興行され、十一韻百韻に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した。
前年に季吟より風虎公に「俳諧礼法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番句合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友人の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。
〔素〕
素堂は寛文の初めに林門を離れたらしく、後々まで親友として交流した、先輩の人見竹洞(寛永十四年生れ)は『(林)春斎の門人の中で随一』と称賛しているから、私塾を辞めてからも常にその周辺に在ったようである。
【註】春斎の門人名簿に素堂(信章・子晋)の名は見えないが、林家の私塾の推移に関係が有るらしい。この私塾は寛文三年(一六六三)十二月に、幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学として森島に移されても、入塾にはそれはどの差異は無かったようである。
 私塾を辞めてからほどなく(数年後か)某家に仕官したらしい。この後京都との関係が太くなり、その縁で歌学の清水谷家、書の持明院家で習ったと推察できる。師の春斎は詩歌・古典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に「春勝(春斎)に何がわかるか」と批判を書いているが、素堂はその門人である。しかし歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する。また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素望も得意であろう。
〔素・芭〕
素堂も芭蕉も貞門凝を学び、延宝初年には宗因の新風に触れて興味をしめし、延宝三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから人集は無く、息の潮春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。
〔芭〕
延宝五年には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏にも着いた。
〔素〕
素堂は同六年の夏頃より公用で西国に下った。職務については不明であるが、翌年の初夏までには復命したらしく、五月刊行の池西言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が人集している。その秋突然、素堂は致任して上野不忍跡地のほとりに退隠したのである。西国下りの途中大敵に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしており、宮仕えに辞める覚悟をしていたものか、はたまた心境の変化がもたらしたものか、その理由は判らない。 
不忍の池のほとりに退いた素堂は生計を立てるためか、諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては出来なかった位である。
〔芭〕
芭蕉は延宝五年〔ト尺語りによれば六年〕俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では
「修武小石川之水道 四年成 達捨功而深川芭蕉庵出家」(本朝文選・作者列伝〕
などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川掘上を樋を渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。梨一の「ト尺語り」では
「縁を求めて水方の官吏とせしに、風人のならひ、俗事にうとく、其の任
に勝へざる故に、やがて職をすてゝ深川といふ所に隠れ、云々」
とあり、初代卜尺(元禄八年投)が息子の二代目卜尺に物語った話は、ほぼ真相を伝えていると考えられる。
〔素〕
さて、素堂は何を目的に退隠したのか、甥の黒露が『摩軒十五夜』(素堂五十回忌集)で「ある御家より、高禄をもて召されけれど不出して、処子の操をとして終りぬ」と書している。二君に見えずと云う事であるらしい、元禄初めの事のようである。
〔芭・素〕
 芭蕉は素堂と共に宗囲の談林風をうけてドップリと浸り、漢詩文調の句を作り、門人たちと荘子の学習会を開いたりとし、蘇東坡や杜甫の詩にひかれ、深川の庵にも杜甫の詩よりとった「泊船堂」を号するが、延宝六年には「坐興庵桃青」の外に「素宣」の印を用いていた。勿論素堂の素仙堂から二字を取って「素宣」としたようで、素堂はこの年の春から信章名を「来雪」と改めている。芭蕉が「素宣」の印を用いたのは判らないが、退隠した素堂は延宝八年当初から、来雪号を改めて「素堂」を名乗っているから、この辺りであろうか。芭蕉は漢学者である素堂に、改めて漢詩などの解説を求めていたと考えられる。随分と長い枕になってしまったが、二人のスタートはこの位に止め、貞門俳諧に触れて置く。
 
貞門俳諧と連歌
 
 俳諧は連歌の派生体で、滑稽あるいは戯れなどと称されている。室町時代の歌学者頓阿は歌学書「井蛙抄」で「俊成卿の和歌肝要に俳諧歌は狂歌なり云々」と述べ、同中期の歌人で連歌師の心敬は歌道と仏道を一体化する歌論を展開し、同末期の連歌師飯尾宗舐は心敬に学んで連歌を大成させ、その高弟宗長は一休禅師に参禅し、師の旅に随伴して各地を遍歴。同後期の連歌師山崎宗鑑は宮仕えから隠棲して、機知滑稽を主とする俳諧の連歌を作り初め、年齢的には後輩の伊勢宮の神官・荒木田守武(和歌・連歌を良くして滑稽の中にも上品さを湛え、俳諧の連歌を唱える)と共に俳諧の祖と称され、宗紙の門下・牡丹花肖拍(連歌論書「肖相口伝」注釈書「伊勢物語肖聞抄」など)の末に、里村紹巴(連歌論書「連歌至宝抄」など、子孫は江戸幕府の御用連歌師となる)の門の松永貞徳(勝熊)が江戸期の初め俳諧の方式を定めて、近世俳諧の祖となった。 
貞徳は京都功人で和歌を細川幽斎に連歌を紹巴に学び、古い連歌の仕来り(法則)を簡単なものに改め、俳諧(連句)の方向付けをした。
 もう少し連歌について解説をしておくと、連歌は和歌の上下両句を二人で詠むもので、応答歌二百の遊戯で、奈良朝以降平安期に盛行する。これを短連歌と云い、素堂はこの応答を好んで用いた。平安院政期以後この応答一首が遊戯的なものに移行し、短連歌を三十六句続ける「歌仙」や五十句の「五十韻」と呼び、百句・千句などの長連歌が流行し、室町斯に最盛期を迎えて連歌師も登場し、初期の遊戯的なものから、文学の一様式にと完成したものである。連句は俳諧の連句とも云い江戸期に盛行し、発句に付句をして長く続けるもので、連歌の作法を引き継ぎ色々と制約があり、後で触れるが例えば「恋の句」は三句まで五句以上統けることは禁など。種類には百韻・千句・歌仙(三十六句)のほか表・裏八句、三つ物など。聯句は漢詩の一つの体で、詩一句ずつ作って一編にまとめるもので、鎌倉・室町期に流行して詩連句とも云うが、江戸期の林門周辺で盛んで有ったのは俳連で、林羅山・春斎親子も貞徳に指導を受けていた。
 さて、諸書に解説される俳諧についての語句は、その趣味は通俗の滑稽に有り、貞徳については、故事や古歌を多用して言語上の縁や掛けを主とし、俳論書「後傘」(慶安四年刊、御傘とも)で規則として挙げているのは、
 
言を用いること
一句にその理あること
用附・同意の禁止の三点が主な処である。
俳書は、和歌・連歌には用いない言葉の、漢語や俗語など一切を網羅すること。
理は、俳諧が謎のような難解なものより、有意義の物として文学的な物とする。
用付・同意の禁は、俳諧を変化に富むものにするためである。
 
に要約される。通俗を旨とする貞門は、文章も平易なものにすることに努めた。これも後には堅苦しい(古い)と感じる者も出た。西山宗因の提起した談林俳諧である。
宗因は連歌を里村肖巴に、俳諧を貞門の松江維丹に学び、難波天満宮連歌所宗匠(正保四年)承応頃から俳諧を始め、北村季吟が俳諧宗匠として立机した明暦二年、宗因は俳諧活動を開始したのである。恐らく宗因は季吟が貞徳の後継者として、当時の停滞した貞門の俳諧に新風を起こすものと期待していたらしい。季吟は立机の前年に俳論書「埋木」を著述して、新風を吹き込もうとしていたことは知っていたのであろう。処が宗因の期待に反していたのであろう、寛文五年に宗因は点者として立ち、同十年には連歌所宗匠の地位を子息に譲り俳諧に専念すると、翌年には談林新風を唱導し始めたのである。
 宗囲の新風は、事象の面白いものを材料とし、俳世の法式を度外に置き、貞徳の法則を全て守らず、奇抜な着想と破格の表現をするもので、俳諧は滑稽の遊びであるから絶対に自由であるとした。宗因の晩年には談林を標榜する者たちが、唯新奇を尊び、常識では解せないものが生じた。つまり、宗因の意に反して通俗性の修辞上の正当な注意を欠いた、杜撰なものも多くなり、天和二年宗因の死によって次第に衰亡に傾いていったのである。一方季吟は俳諧宗匠の傍ら寛文初年頃から古典文学に傾斜し、同元年「古典注釈書」をかわきりに、延宝二年の「枕草紙春曙抄」「源氏物語潮月抄」等と発表し、俳諧の宗匠は子息の潮春(寛文七年後継)に任せ、歌学と古典研究に勤しんだようである。
 
 【参考資料】『俳枕』高野幽山編。素堂39才 延宝八年(1680)
 
 能因が枕をかつてたはぶれの号とす。つたへ聞、其代の司馬辻は史記といふものゝあらましに、みたび吾岳にわけいりしとなり。杜氏、季白のたぐひも、とをく盧山の遊び洞庭にさまよふ。
 その外こゝにも圓位法師のいにしへ、宗祇、肖柏の中ごろ、あさがほの庵、牡丹の園にとゞまらずして野山に暮し、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。此皆此道の情けなるや。
 そもそも此撰、幽山のこしかたを聞けば、西は棒(坊)の津にひら包みをかけ、東はつがるのはて迄をおもしとせず、寺といふてら、社といふやしろ、何間ばりどちらむき、飛騨のたくみが心をも正に見たりし翁也。
 あるは実方がつかの薄をまげ、十符のすかごもを尋ね、緒たえの橋の木の切をふくろにをさめ、金沢のへなたり、いりの濱小貝迄、都のつとにもたれたり。
 されば一見の所どころにてうけしるしたること葉のたね、さらぬをもとりかさねて、寛文の頃櫻木にあらはすべきを、さはりおほきあしまの蟹の横道のまつはれ、延る宝の八ツの年漸こと成りぬ。さるによつて今やうの耳には、とませの杉のふるきを共おほかり。しかれども名取河の埋木花さかぬもゝすつべきにあらず。
  これが為に素堂書す
 
素堂の俳論
 芭蕉も素堂も共に貞門俳諧を学んで出発した。つまり従来の俳諧は、すべて修辞上の滑稽によっていた。素堂が後年に「続の原季合」の抜文に「狂句久しくいはず」「若かりし頃狂句をこのみて」(続虚栗序)と云う如く、貞門・談林の風調時代を回顧して述べている如く、俳諧は滑稽・遊びと捉えていたと見られる。従って自分の知識である古典文学、故事来歴・古典和歌・漢詩・漢籍などを駆使して作句した。いつ頃から自分の作句法を模索し始めたかは判らないが、季吟と会吟し、宗因との会吟の後、談林風に吹かれて傾斜したが、信章時代の素堂と桃青時代の芭蕉との会吟では、談林風にひかれた芭蕉に合わせたものの、延宝玉年頃から談林調に飽足らずと思い始めていたようである。素堂が「継承すべき伝統の発見と自覚」に目覚め始めたのは、俳号を信章から来雪に改めた頃、延宝六年辺りと考えられる。この年は三月に高野幽山が立机し、それを信章が後援したことに依るのであろう。延宝六・七年の九州長崎への旅行後に致任して退隠し、翌八年来雪より素堂と改号、高野幽山の編「誹枕集」の序文に、自分の俳諧感を述べて、冒頭に誹枕とは「能因が枕をかつてたはぶれの号とす」として、中国唐代の司馬遷の故事、李白・杜甫の旅、円位法師(西行)や宗舐・肖拍の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是普此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅の遍歴を良しとして「されば二見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘し「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の理木花さかぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。つまり、後の影情の融合と情(こころ) の重要性を説いている。
 
 この後芭蕉(桃青)は前述の如く水吏の職を辞め、杉山杉風の計らいで深川に退隠してしまった。素堂の「漢詩も和歌も、すべての情は景情一致である」との主張に接し、心が動いたのであろう。素堂は「一派に属さず」をモットーに、世の風潮に合わせて談林調や天和調と云う漢詩文調の句も盛んに作った。勿論漢学者であり詩人であるから得意でもある。素堂が天和調に火を付けたとか、指導的役割を果たしたと云う事はなかろう。寧ろ求めに応じて作ったと考えられる。
 此の談林調や派生した漢詩文調の句を紹介すると
 
○延宝四年 発句 梅の風俳諧国に盛なり     信章・桃青「江戸両吟」
○延宝五年 発句 鉾ありけり大日本の筆はじめ  信章「六百番発句合」
       発句 茶の花や利休が目にはよしの山   信章「六百番発句合」
○延宝六年 発句 目には青葉山郭公初鰹     信章「江戸新道」
       発句 遠目鑑我をおらせけり八重桜   信章「江戸広小路」
○延宝七年 発句 鮭の時宿は豆腐の両夜哉   素堂(来雪)「知足伝来書留」
       発句 塔高し棺の秋の嵐より     素堂(来雪)「知足伝来書留」
○延宝八年 発句 宿の春何もなきこそなにもあれ   素堂 「江戸弁慶」
       発句 髭の雪連歌と討死なされしか    素堂 「誹枕」
       発句 武蔵野や月宮殿の大広間      素堂 「誹枕」
       発句 蓮の実有功経て古き亀もあり    素堂 「俳諧向之岡」
○延宝九年 発句 王子啼て三十日の明ぬらん     素堂 「東日記」
       発句 宮殿炉女御更衣も猫の声      素堂 「東日記」
       発句 秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠   素堂 
○天和二年 発句 舟あり川の隈ユタ涼む少年歌うたふ 素堂 「武蔵曲」
       発句 行ずして見五湖煎蠣の音を聞    素堂 「武蔵曲」
○天和三年 発句 山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧     素堂 「虚栗」
       発句 浮葉巻妻此蓮風情過ぎたらむ    素堂 「虚栗」
○貞享二年 発句 みのむしやおもひし程の庇より   素堂
                 発句 余花ありとも楠死して太平記    素堂 「一楼賦」
                    発句 蠹とならじ先木の下の蝉ならん   素堂 「俳諧白根嶽」
○貞享三年    発句 市に入てしばし心を師走哉     素堂 「其角歳旦帖」
                    発句 長明が章に梅を上荷かな      素堂 「誰袖」
       発句 雨の蛙声高になるも哀哉      素堂 「芭蕉庵蛙合」
 
 以上、知られている句を全て掲出することは出来ないが、素堂は時に応じて詠んでいるが、相変わらず字余りも多い。これも余す事で詩情や余韻を良くするなど、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂的高踏らしさの感動を顕しているのである。恐らく素堂は自分一代の俳諧と達観していたと考えられる。
〔芭〕
一方芭蕉は深川に退隠してから、京都の伊藤信徳らの「七百五十韻」を受けて、「俳諧次韻(二百五十韻」を出したり、句の考案したりと、素堂の「誹枕序」に触発されて新風を興す模索を続けていた。
 天和二年暮れの江戸大火で類焼した芭蕉は、誘われて甲斐谷村に流寓し、江戸に帰ってから其角の「虚栗」に跋を書し、貞享元年には帰郷の目的で「のざらし」の旅に出た。その途中の名古屋で「冬の日」の五歌仙を巻いて、漢詩文詞を脱する新風興起の手応えを感じて、翌年江戸に帰った。
〔素〕 貞享四年十月、素堂は不卜(岡村氏)に請われて「続の原」句合の判を芭蕉等とすることになった。この「春部跋」で生涯で一貫した俳論の底に流れる規範を吐露して、
  
古き世の友不卜子、
十余里ふたつかひの句合を袖にし来りて判をもとむ、
狂句久しくいはず、他のこ~ろ猶わきがたし。
左輩右触あらそふことはかなしや、これ風雅のあらそひなればいかがはせ
ん。世に是非を解人、猶是非の内を出ず、我判にかわらじとすれど、人ま
たいはん。無判の判もならずやと。
丁卯之冬 素堂書
 
この論は晩年の「とくとくの合」自跋ある『汝は汝をせよ、我はといひてやみぬ』の態度と同じである。
 芭蕉が「卯辰紀行(「笈の小文」)」に出発した直後、榎本其角が「続虚栗」を編んで、その序文を素堂に頼んで来た。この「続虚栗序」は幽山の「誹枕序」に続く素堂の俳諧感(俳論)で、芭蕉にとっては俳風の転機になって行く序文でもある。
 
榎本其角編『続虚栗』山口素堂序
 
風月の吟たえずして、
しかももとの趣向にあらず。
たれかいふ、
風とるべく影ひろふべくは道に入べしと。
此詞いたり過て心わきがたし。
ある人来りて今やうの狂句をかたり出しに、
風雲の物のかたちあるがごとく、
水月の又のかげをなすに似たり。
あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、
たゞけしきをのみいひなして情なきをや。
 
 ②
古人いへることあり。景のうちにて情をふくむと、
から歌にていはゞ
「穿花蛺蝶深深見 点水蜻蛉蜒蟲款款飛」
これこてふとかげろふは処を得たれども、
老杜は他の回にありてやすからぬ心と也。
まことに景の中に情をふくむものかな、やまとうたかくぞあるべき。
  またきゝしことあり、詩や歌や心の綾なりと。
「野渡触什入船自横月」
おちかゝるあはぢ島山などのたぐひなるべし。
楢、心をゑがくものはもろこしの地を縮め、
吉野をこしのしらねにうつして、方寸を千々にくだくものなり。
あるはかたちなき美女を笑はしめ、
  色なき花をにほはしむ。
 
 ③
花に時の花あり、つひの花あり。
時の花は二枚妻にたはぶるゝにおなじ。
終の花は我宿の妻となさんの心ならし。
人みな時の花にうつりやすく、
終の花にはなほざりになりやすし。
人の師たるものも此心わきまへながら、
他のこのむ所にしたがひて色をよくし、
  ことをよくするならん。
 
 ④
来る人いへるは、我も又さる翁のかたりけることあり。
鳩の浮巣の時にうき時にしづみて、
風波にもまれざる如く内にこゝろざしをたつべしとなり。
余笑ひて之をうけかふ。
 
ひつゞくればものさだめに似たれど
「屈原楚国をわすれず」とかや。
これ若かりし頃狂句をこのみて、
いまなほ折にふれてわすれぬものゆゑ、
そぞろに弁をついやす。
君 みずや漆園の書いふものはしらずと、
我しらざるによりいふならく。
 
 ⑥
こゝに其角みなし葉の続をゑらびて、序あらんことをもとむ。
そもみなし栗とはいかに、
ひろひのこせる「秋やへぬらん」のこゝろばへありとや。
おふのうらなしならば、なりもならずもいひもこそせめといひつれど、
こま切爪のとなりかくなりとなほいひやまず。
よつて右のそゞろごとを、序なりとも何なりともなづくべしと、
  あたへければうなづきて盲りぬ。          
 
江上隠士 素堂書
 
便宜上①から⑥までの段落を付け、比論に富んだ素堂のこの文章を、理解し易くするためである。
は導入部で、風流の吟が跡絶えずに、しかも以前のような趣個でない、誰かが物の様子・はずみやぐあいをとったり、物の形や色・おもかげを拾えば、その道に入れるとの詞は、行き届き過ぎて心がわきがたい。今様の俳諧には、ただ詠ずる対象を写すだけで、感情の込められていないものが多くて、情けない事である。
昔の人の云う如く、景の中に情を含むこと、その一致融合こそが望ましい。杜甫の詩の五・六句の二句を引用し、杜詩の秀でるところは景情の融合に在ると説き、やまとうた(和歌も俳階も)でもこう在りたい、詩歌は心の絵だ、心を措くものは凍土との距離を縮め、吉野を越の白根にうつすことにもなり、趣を増すことにもなり、詩として共通の本葉があるのだ。例えれば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色づかせられるのだ。
 
花を妻に例えて、時の花は遊女のような一夜妻、終の花は我家つまり、己の妻にしようとする心だ、人の心はうつり気で、終りの花はなおざりに成り易い。
人の師たるものは、この心をわきまえながら、好む所にしたがって、色や物事を良くしなければならない。
では其角が芭蕉の語った「鳩の浮巣の・・云々」は、素堂は笑ってその事は承知してい
ると答え、
「云い続ければ物定めに似ているが」として、楚辞の「屈原楚国を忘れずと」であるか、若い頃に狂句を好み、いまでも折節思い出すから関係なしに、弁を費やさせる。君は見た事があるかな荘子(漆園)の書、いうものは知らない、私は知らないから云うのである。漆園とは、荘子を指す語。
 
其角が序文を求めた事に対して「虚棄」とは何かと問い掛け、拾い残した「秋も早や時が過るの心のおもむき」とでも云うのだろうか、相応に腹蔵なく成っても成らなくても言ってくれと云うが、駒下駄の隣を掻くものだ。それでも云い止まないから、右のとりとめのない事を、序とも何なりとも名付けよ与えれば、うなずいて帰った。
 
 つまり素堂は其角の前の師であったが芭蕉に就かせた。従って、もはやお前さんは私の弟子では無いのだよ、だからそうしつこく云っても無理なんだよと云う事で、根負けして書いたのだが、義堂は早くから芭蕉の素質と性格を見抜いていた様で、素贅を生かすためには、性格については多少目をつぶっていた様である。その一つに独占欲が強いことが上げられ、門弟が他の人と接触するのを嫌った。後に嵐雪が素堂の後援で「句集」を出版したおりに、他の門弟が「集は余り出来が良くない…」などと、素堂の名を出しながら御機嫌伺いをしている。芭蕉は人が良い反面狭敵な面も持ち合わせており、素望もかなり気を使っていたようである。しかし、この年は芭蕉に対して相当に厳しく物を云っているが、彼は素堂の云う意味が中々伝わらなかった。それがこの「続虚票序」の文になったと見て良いと思う。序文は漢詩や和歌・俳辞も同じ文芸性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して、情(心) の重要性を説いたものである。
 少々くどくなるが、素堂は延宝八年の「誹枕序」で古人をあげて生き方の共通性を「是皆此道の情(こころ)」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳階は共通の文芸性は、此の道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
 
延宝八年の冬、深川に隠棲した芭蕉は翌年の延宝九年七月、京都の伊藤信徳らの行った「七百五十韻」を次いで「俳諧次韻」を版行した。芭蕉研究者に依れば、新風の萌芽が僅かならず見られると云う。この頃は紋林風から変化し始めていた漢詩文調が俳壇に流行する気配を見せ、素堂と共に吟じていたのであるが、素堂の「誹枕序」を読んだのであろう芭蕉は、新風興起を模索していたらしい。(高山氏への手紙など後文〕
 天和三年五月頃、江戸大火の後に甲斐に流寓していた芭蕉は、江戸に戻ると其角が編んだ撰集「虚棄」に穀舞書として賢を書いた。その四年後に其角にねだられて、素堂が序文を書いたわけでこの間四年、芭蕉の方は所謂「野ざらし紀行」・「鹿島詣」などをはさみ「続虚栗」の時は「笈の小文」の旅に出発した直後であった。
 

素翁口伝 全〔□ 印は不明の字()印は句作年・句作者〕 

2024年06月18日 07時36分27秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉


 素翁口伝 全〔□ 印は不明の字()印は句作年・句作者〕 
        
俳諧口伝之名目
一、俳諧を謂□といふ事。俳諧を誹諧と書事。 
一、俳諧式之事、思□等のけやけき物は、
  千句にも所山なし等の入用なるものは、三句立てといふ事。

詠向之取格口伝
  詠 向 所 情 走
 此五ツの拠を尋て円かなる時は、乾坤の浮雲にとりて、
 月を思ひ星を思ふ、
 光れる時は花鳥の情に両虚実の間に遊ぶなるべし。

五個の附処の事

 青田に移りて夕立の風
 取らめたる思を雷たる行水場

 髪結ふて数にいる日の朝月夜
 木に十ばかり柿ハたしなむ
粧 
 煙火の上より白きかしらさき
 通々に琵琶をどっかりとらへ

 八朔の礼すぞひゝ仕舞けり
 舟前の鯖の時分はつらし
走 
 つい合は皆上声にて呑ならし
 さらりさらりとあふれふるなり

八躰の句作

卯の花や暗き柳の及びごし   (はせを 元禄七年) 
かたつぶり角振分よ須磨明石  ( 々 元禄四年)
蓬莱に聞ばや伊勢の初便     (  々 元禄七年) 
塩鯛の歯茎も寒し魚の店    ( 々 元禄五年) 
木漏れて木橋も聞や時鳥
稲妻に悟らぬ人の尊とさよ  ( 々 元禄三年) 
朝ガ月や春は頭おろす門の垣  
己が火を木々の蛍や花の宿  ( 々 元禄三年) 

八躰の附方


 稲の葉のひのちからなき風   
 発心のはじめに越る影廉山
俤 
 隣へもしらせず嫁を連れて来て (野波)
 屏風のかげに見ゆる菓子盆   (はせを 元禄七年) 
風 
 夜明の雉子は鳴たつに啼 
 旅するに何の暦ぞ無東西

 庭鳥の十二の玉子うミならべ
 あしたに橋をふミそむる也

 何を見るにも一露ばかりなり
 花くもる身は両念がころもゑて

 堤より田の青やぎていさぎよき
 賀茂のやしろはよき秋也
見入
 那智の御山の春速き空
 弓はじめすそり立たる息子とも

 朝風にむかふ合羽を吹立て
 大手の内へはじく生のこと

発句傳記
 まず、にほふハ大築うきふ切り、にをふ哉おなじ。
  凩の身は竹斎に似たる哉 (はせを 貞享元年)
発句治定哉
  き里志満は誹諧編にも似たるかな 【き里志満…和歌】
平句哉
  松風を花に感じて居たる哉

発句留る句傳
  あかもさし出ても曇る霞か
  夕貌や秋はいろいろの瓢かな (はせを 元禄元年)
尚うき哉、願ひ哉のふたつの葉あるべし。

発句手爾葉口傳
  鳶鳥も海むいて鳴くあかし灘
  鳶鳥も海むいて鳴けあかし灘
  
仝 新古之口傳
  枯枝に烏のとまりける秋の暮 (はせを 天和四年)
あはれとも枝に突ともいはずして形容を求めたる所、
風流の一筋なるべし

仝 不易の口傳
  麦飯にやつるゝ恋か猫の妻  (はせを 元禄四年)

仝 流行の口傳
  十六夜や海老煮る程の宵の闇 (はせを 元禄四年)

 仝 動と云口傳
  春の日や芝で見し人隅田川

 仝 不動と云口傳
  行春を近江の人と惜ミける  (はせを 元禄四年)

仝 サヒシオリ口傳
  此あたり目に見ゆる物は皆凉し (はせを 元禄元年)
  秋の瀬は影のごとくに流れける

 仝 無季之秘訣
  あさよさを誰松嶋を片こゝろ (はせを 元禄二年)
  歩行ならば杖突坂を落馬哉   (はせを 貞享四年)

  仝 真行草之秘訣
  真  象潟の雨や西施のねぶの花
  行 いざさらば雪見に轉ぶ處まで
  草  振賣の鳫あはれ也恵比須講

  仝 大廻し口傳
  あなたうと春日のみがく玉津嶋
  うちたてゝ天の原見る筆はじめ

  仝 秘訣云  
  思ひきや我しきしまの願ならで
 うき世の事をとハるべしとハ 此格なるべし

  仝 発句を廻し口傳
  藁にさへ稲の名あるを門の松  
  青くてもあるべき物を唐がらし   

  仝 舌妙切口口傳 〔舌妙……絶妙〕
  鴨立ぬハブは烏やかへるらん
 三世の秘訣なるべし

  仝 切處無体秘訣
  から崎の松は花より朧にて  (はせを)
  これハこれハとばかり花の芳野山 (安原定室の句)

  恋句之口傳
  内の首尾あれ曙の郭公
  秋の夜や夫の寝着是で侍ハん

  仝 附合之口傳
 「振賣の鳫あはれ」
  上置の于菜刻むもうハの空  (野坡 元禄六年)
   馬に出ぬ日ハ内で恋をする  (はせを 元禄六年)
 「梅が香にのっと」
  隣へもしらせず嫁を連て来て (野坡 元禄七年)
  屏風の陰に見ゆる菓子盆   (はせを 元禄七年)

  仝 一句和合之口傳
  物さしに狙う男のたゝかれて

  仝 口訣 
発句ハ天の徳也。則円也。
円る物は哥にして三ツの数なり。
されば哥は上句天にして下の句ハ地なり。
然に陰陽和合して一句情別人也。
発句は其上の句ばかりなれば、
一首の哥の如く陰陽を分ん為に、
切字を以て上下をわかつもの也。
さるからニ□□を元して、  
一句だけ高々、出立の姿肝要なるべし。

  切字口訣
 
切字は治定と疑との二ツにして、
自然と、間差備る處切字とるべし。

  賦物之口訣
 
連歌形式に云、
□□以賦物為類式者 
百韻五十韻毎句用賦物 
近代発句斗有物云々。

  上賦  下賦
  山何  舟何  何木  何人
  一字覆影   日ハ火  夜ハ世 〔覆影……露影?〕
  二字返音   華は縄  笠は徳
  三字中略   霞ハ帋  柱ハ厘
  四字上下略  玉章ハ松  松苗は橋
  一字除編 こがらしの町にも入るや鯨賣
  一字添冠 むそふたの宿れて遠き以内哉

連歌古格を以て詠にも古代用ひ来る、
当流にハ無しとも苦しからず。
   於白川照高院居士 千句巻頭賦物連歌
   第一何    
  立はるの霜げて千重の初哉
   第二片何  
  照りそハむ山口しるし夕月夜
   第八二字返音数
  紅葉にも忘れぬ松の絶間かな
   三字中略 
  染めあげてあかねし申や程の花
   四字中下略
  □間の是で箒けり残る名かな

   音通連聲之口傳
  ア イ ウ エ ヲ カ キ ク ケ コ
  サ シ ス セ ソ タ チ ツ テ ト
  ナ ニ ヌ ネ ノ ハ ヒ フ ヘ ホ
  マ ミ ム メ モ ヤ 井 ユ エ ヨ
  ラ リ ル レ ロ ワ イ ウ エ ヲ    
  
 此立を音通と云、横を連聲

   五音止歌
  アワヤ唯みダラナ舌ニ、カ牙(ガ)サ歯音。
  ハマノ二ツハ唇の軽重。

   言葉続の證歌
  たち別れ稲葉の山の峯に生る松とし‥‥‥
  (聞かば今帰りこむ) 
〔在原行平 『古今集』八 別離〕神防楽
  
 夕立や田を見めぐりの神ならば松風の匂ふ扉や浜のそふ
 仝肥前藩松浦聖廟にて 〔素堂の句か〕 
 素堂は延宝六年~七年にかけて肥前松浦を訪れている。  
  

  色あざやかにみたらしの蓮 むつかしき歌ハヽ‥‥‥‥‥‥‥
   右神法楽
 
婚姻 賀 元服 徒移 夢想 祈祷
  此外祝儀たる事には、此格を用ゆべして、秘かヽヽヽヽヽ

   又裏綿の格 〔裏綿……裏面〕
  信夫山奉納
  初霜誅む目当て信夫山 岩城権太守露沾公   


   又句之口傳
  ほんのりと二枚屏風に明の空

   俳諧の口傳
  
 一 俳諧 
 二 誹諧  
 三 俳  
 四 滑稽 
 五 誹 イニ俳-  
 六 謎字 
 七 空戯 
 八 犯言イニ狂-
  
 芭蕉門は第二、古今和歌集之俳諧体の儀を用ゆべし。秘訣

   切字之秘訣

 切ツハ寄也、
 切ツハ節也、
 切ツハ盡也。

   格の口決
 
  発句天にして格也。
 故に発句より生れ出る如くにすべし。
 四季の三月のことにも、
 其の一月々々づつにして、
 発句そひかぬ心なるべし。
 一句と是も一首の歌の如くなれば、  
 一句の詮たつべき為に字留にして、
 其の詮をとるべし。

   手爾を葉留口傳
  
 提灯の威は其楮也けり 其角
 空も心たつ夏衣ハ夕かし 堂友
  雑魚にも一更る活蛙かな 京 轍士
  此格さまざまありて秘ぞ…〔秘ぞ…秘之〕

   第三の口決 

 第三は三才の内にては人也。
 故に天地をはなれて、
 一慣の場なるが故に、
 発句格に変化すべし。
 又留を四ツ〔てもなし・にらん〕の仮名に定たるハ、
 此四ツかなハ〔治定題廻り手爾葉〕に並ぶ故に用ひたる也。
 口傳ごと

   亦字留秘訣
  
 春の木天下に名ある郭公    季吟
 檜扇のそれかあらぬか鶴頭花    露沾子
 はづし置琴柱たぎつて渡る鳫    不角
  此外字留之格有之て秘ぞ………

   亦仮名留口傳

  雲雀啼小田に古持頃なれや 〔はせを 元禄三年〕
   〔猿蓑集に出、ひばり啼中の拍子や雉子の声〕  
  銚子殿花も紅葉もなかりけり  其角
  梅咲て廟の草履静なり     才丸

   亦口傳一秘 
  風ゆらん水鶏でもなし草の戸に
   友なふて淋し    立空

   口訣
  我里の芋植桜咲にけり

   徒々留口傳

  嵐の度に柿は落つゝ
  富士の高根に雪ハ降つゝ
 〔万葉集 山部赤人 
  田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ富士の高根に雪は降つゝ〕
  我衣手は露にぬれつゝ
 〔後撰和歌集 天智天皇 
  秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我衣手は露にぬれつゝ〕

   附合皮肉骨之秘訣

 皮 旭霊の玉をふるふ蓑の毛
   附籠る樢桐か間和に冬の来て
 肉 ちまたの神に申すか年言
   御供してあてなき我も恋らん
 骨 我手に詠を大事いらるる
   二度呼の内儀ハ之度屋敷から

   第三にて留の口傳
 発句の治定の式は、第三うきにて留るべし。
 発句うき哉は第三治定にてたすくべし。
 発句の式第三のにて治定ならば、
 治定うきならばうきにてハ同前たるべし。 
 不留ものといふ也。右の伝受をすれば苦しからず。
 治定にて 冬むきの里は朝帰ん柚味噌にて
 浮にて  辻風にきれ行凧のはるかにて

   留りの事

 平句哉  凩によにもはづるゝ此戸哉
 下句哉  あつたら松を枯す事哉
 下句に  夜から伯父の麦をこなしに
 下句見内   むかひの山に野先掘見ゆ 

   見ゆのおさへ字
   う く す つ ぬ ふ む 由 流  にておさへ字
   を は も か ら ぬ 又ハ た に さ へ な

   押字なくらん留り秘訣

  夕暮の衣にて猶におしからん
  数猿今夕譲沾衣之り出たり。
  夕暮れをくなる故に添、あはれもいやまして、
  るゝ花と感情のらんと先哲傳来る。又
  薪と水みぞれの降るばはるらん
  是一字はね也。遠からふと聞ゆ。想るうに、
  へふらんハ一字はね也。
  第三の句にハ有べからず。
   フラウ    テラウ   アラウ
    降    照   有 皆此類也。
    フラン   テラン  アラン

   重手爾葉
  糸落起る間もなき露の玉
  たまの露とは取はやしけり

   恋の句
  恋の出情 
  さまざまに恋はまて貝うつせ貝
      乞食に成て夫婦ざれあふ
  初 恋  
  とぼそから栗とる度に思ひそめ
     我匂をしひた蝉のぬけ殻
  待 恋  
  上置の干菜刻むもうハの空  (野坡)
  馬に出ぬ日は内で恋する  (はせを)
  逢 恋  
  あふ事のはじめ終りかがミかへ
      なミだおかしく瓜なふりさく
  逢ぬ恋  
  久しく捨つ起しつ物思ひ
     水さすやつを恋のげじげじ
  別 恋  
  別れんとつめたき小枕あたゝめて
      おさなきどちの恋のあとなき
  新 恋  
  ちまたの神に申すかね云 
     御供してあてなき我も恋ふらん

   三ツに別る口傳
    どたりと塀の伝ふ秋風 といふに
  理屈躰  きがきかず薪積下に鳴止て
  不付躰  きがきかず薪積下に鳴て戻る
  正風躰  きがきかず薪積下より鳴かして

   桜に花附合
    いつでも若しさくらに俳之詠(泳か)
    山は皆葉物にまでも花さかり

   花に桜 仝  
    法の花牛盗人といはれたし
    さくら咲たつ廿 八 日

   花に吉野 仝
    神鳴を昇下りして見する花閑
    古座長閑にみよし野ゝ  前句

   附応傳
 附句は想名にして迯る場所あり。かくる物あり。
 此二ツの物は前句の濃落けり出てにも、 
 自由のはじめに立物也。
 さればと、時の俳者理屈古ミをおそれて、
 すらすらとたに云下せ ば、是芭蕉門の変風なりと、
 彼(我)もなく虚気を高ぶりたる迄にて、
 我も心に落さま、句のみ多々有に、
 はせを翁の教に皮肉骨の姿より、
 不易流行の変かをあらハし、
 付句の出情を演たるあり。
 是風雅の走りにして、
 此場をしらざる俳者新古の姿わかちがたし。口訣。 
 惟然が云付句は附ざるもの也といへり。
 是ハ前句に轉ぜられて古ミに落、
 高輪回に是ふみ入たる俳者のねばりを
 うち払べき仮のおしへ、
 又正風一毫も心改にて(ぞ)免ずといへるなるべし。
  支考が云付句は、
 一句に一句づつ付るものなりといえり。
 是は前句に差別なく、
 俗談平話の下累にのミ落て句に風雅の二字なく、
 野鉄砲に付合を覚えたる俳者を学しむべき為に、    
 一句に一句づつ付け三句の渡り打越、
 輪四をはなるべき教なるべし。

   五体格秘訣
 二字一連 同字 名所 頃 手爾葉

   第三十体留 
 字留 余り手爾葉 に て けらし かな けり
 もなく(し) なれや らん

   仝 五法秘訣
 杉形 去山 回転 角切 死活
  此五ツの外に第三の法なし。
 山武と川裏と表に谷の有て  (嵐雪)
  翁口 かよふにしてハ死句なりと
  其角・嵐雪に教解有て
 山武と川裏と表に谷を付て

 右山口素堂の書たり、
 もっとも当流重大の秘記。
 其許、年来執心によって、
 いま当写し与ふるものなり。
 猥に他見をゆるすべからず。穴賢々々
 
   素隠士七世葛飾正統   
  于時文政二巳卯初春日    
  其日庵列山
    文政二年……三関氏 三和雅丈江参 

此俳諧口傳一巻忘素翁の真蹟のよしにて曇華斎に来りしを、
其格見定めとして残しけるを、    
其儘にうつし置かしむるもの也。
但此より後きれて見へず。
素翁のしるす処の名もなしといへども、
一体の意味事凡の作りすべきものにあらず。
全うしざるハ残り多き事なり。

   安政二年乙卯八月三日識    
   九世  其日庵(馬場錦江)
    安政二年……1855       
列山…関根甚右衛門。
五世其日庵関根三右衛門の二男。文政元年に其日庵を継ぐ。
錦江…馬場小太郎。列山の執筆を務める。俳諧関係の著述多し。