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俳諧 人名事典 猿雖 えんすい

2024年06月11日 16時10分25秒 | 文学さんぽ

俳諧 人名事典 猿雖 えんすい

 

寛永十七年(1640)~宝永元年(1704)

 

猿雖は本名、窪田惣七郎。伊賀国上野の内神屋という商人。

芭蕉と親交のあったことは意専(元禄二年五十才の時剃髪した後の法号)宛の芭蕉の数度の書簡によって知られる。

芭蕉は元禄七年(1694)五月末帰郷しているが、

下掲(I)の句はその時の吟である。同年また帰郷したが、同月二八日猿雖亭において土地の俳人猿雖・配力・望翠・土芳・卓袋・苔蘇等と歌仙を巻いている。

下掲(2)の句は、その連句の発句と脇である。芭蕉はそれから九月はじめまで郷里に滞在したが、九月四日猿雖亭において支考・猿雖・雪芝・惟然・卓袋・望翠等と七吟歌仙を巻いている、

下掲(3)はその表三句である。芭蕉はこの郷里滞社中文代亭で、芭蕉の「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする九吟歌仙(芭熊翁俳諧集収載)を巻き、望翠亭で足早の「つふ/\と掃木をもるゝ榎実哉」を発句とする八吟歌仙(壬生山家取載)を巻き、土芳の蓑虫庵で惟然の「松茸や都にちかき山の形」を発句とする四吟(惟然・土芳・猿翠・翁)十六句(俳諧一葉集収載)を

巻き、同じく蓑虫庵で土方の「いなずまに額かゝえる戸口かな」を発句とする三吟(土芳・猿雖・翁)表六句(俳諧一葉集収載)を巻いているが、これらの連句に猿雖は芭蕉と同座している。芭蕉と四才年長の猿雖の私的関係は、同郷のことだから早くからあったようであるが、俳諧関係は芭蕉の晩年になってからである。発句としては次に示すように、特にすぐれた句は見られない。

 

みの白しの茶の往ゆへに折(ら)牡ける   猿 蓑

ほそぼそとごみ焼(く)門のつばめ哉    炭 俵

いざよひいに圖の圓もなしそばの花     続猿蓑

 (I)     猿雖宅にて

柴つけし馬のもどりや甲うへ樽       元禄七年―芭蕉翁全傳

 (2)     戊七月八二八日 猿雖亭夜席

   あれ/\て末は海行(く)野分哉      猿 雖

     鶴の頭あぐる栗の穂          芭 蕉

                   元禄七年七吟歌仙…今日の昔

 (3)     九月四日会猿雖亭

   松風に新酒をすます夜寒哉         支 考

     月もかたぶく石垣の上         猿 雖

   町の門賠はるゝ鹿のとび越えて       芭 蕉

         元禄七年七吟歌仙…蜜柑の色


江戸の俳諧 青 蘿 永野為武 氏著

2024年06月11日 09時58分42秒 | 文学さんぽ

江戸の俳諧 青 蘿 永野為武 氏著

松岡蘿 - Wikipedia

 

 暁臺・蘭更についで中興宗匠の職服をうけた責務という俳人は、姓は松岡、通称を鍋五郎といった。

號は一般に責務でしられているが、別に山李坊・令茶・三眺庵・幽松庵・香松庵・栗庵・栗の本という。

 青蘿は姫路酒井侯の江戸詰藩士で松岡門太夫という人の三男として、元文五年(一七四○年)江戸にうまれた。幼少のとき同じ藩士で武澤喜太夫の養子になったが、満五歳のとき、その養父がなくなったので、すぐ跡継になり、一五歳のときから、ご勘定人(出納係)として出仕することになる。

ところが、この壮者どうも素行がわるく、賭博にふける。それが公の問題になって、一九歳のとき、身持不謹慎というわけで姫路に帰るように命ぜられてしまった。(一説には、養母のほうから訴えでたともいう)養母に連れられて姫路に立ち去るとき、

 

ありたけは鳴いて渡ちん川千鳥

 

と吟じたということである。

俳諧は、すでに十二歳のとき玄武坊(美濃派の俳人) の門に入って心得ていたから、すぐにこんな句もでたのであろう。それからというもの、諸国を放浪すること数年(その間、金澤に蘭更を訪れている)二七歳になって、加古川に三眺庵という庵を結んだ。翌年、善證禅師東洲和尚に參じて、芭蕉忌の日(十月十二日)に俗髪を切りすててしまった。それまでの句は、山李坊令茶と號していたが、そのとき和尚から青羅の名をおくられたといわれている。

 人間、青蘿はこのときに生れかわったのである。俳諧をただ風流ごととして遊びの気持でやっていたのが、生活の一大転換を機として、俳諧に生死の一大事をかけることになったからである。次第にその句風も独自なものがうまれはじめ、加古川を中心に、各地に門人もできていった。

須磨・明石の美景に侵るに及んで、三院庵をすてて、そこに幽松庵をいとなみ、また門人らの招きに応じて、淡路・伊予(いまの愛媛県)丹波などに旅した。しかし、ついにはまた加古川に落ち着いて、そこが終焉の地ともなった。

 旅は考証の本性に合っていたとも見え、加古川に定住したあとも、四国・中国を周遊しているし、京都にでては、暁臺とか几董とか蘭更らと「績四歌仙」を催し、「都六歌仙」を詠じている。

寛政二年(1790)五〇歳のときには、二條家の紅葉の御合に召され、中興宗屁の職服を受け、栗の本宗匠號を許された。ために復家もでき、舊藩の出入もかなうようになつたが、翌年六月十八日、およそ一ケ月ほど前から首にできていた腫物がもとで、五一年の波瀾にとんだ生涯を閉じた。辞世の句となったのは、つぎの句である。

舟ばたや履ぬき捨る水の月

墓所は加古川光念寺であり、法名は妙浄日悟となっている。

 以上は青蘿の閲歴であるが、次にその俳風をしらべてみよう。さきにもふれたように、はじめて俳諧を學んだのは美濃派の宗匠からであったが、それは彼の俳風にさして影響を与えてはいない。むしろ、最も

大きな感化は、壮年時代に交った蘭更に受けている。しかし、それよりも、二八歳の一大転機から參禅したことによる内省的な生活態度、いいかえると彼独自の哲理によって俳諧を貫いたという方が正しかろう。

青蘿の作品は、その最もすぐれた門人となった播磨の神宮寺住職(観応)で、栗本玉屑と號した(青蘿の歿後、栗の本二世を継いだ人)によって編集された『青蘿発句集』(三冊、寛政元年、姻路隅屋喜右衛ら刊)にまとめられている。いま、その六百近くの句のなかから、秀逸と思われるものを、抜きだしてみよう。

浅澤や雪かた/\、の芹の花

浅川の末ありやなし春の月

風の蝶消えては麥にあらはるゝ

田の水の高うなるかも啼蛙

蝶ひとつ竹に移るや衣がへ

あなめ/\秋風たちぬ竹婦人

戸口より人影さしぬ秋の暮

木がらしや二葉吹わる岡の麥

白菊に赤味さしけり霜の朝

蓑蟲盗の死なで鳴く夜や初しぐれ

 

 これらの句は蕪村の絢爛さもなく、暁臺の優雅な趣などは、少しもみられない。むしろ樗良に似た平坦温雅な風がある。きめは、どちちかといえば繊い。このほかに破調の句があるが、それとても頭から感情を露出するような強さをもっていない。もともと、清新さと典雅ということが、中興俳諧の傾向であるから、むしろ、こゝに選んだ十句のごときは、

    茶の花のからびにも似よわが心

と詠じた彼の願いを一ぱいに表現しているのではないか。彼みずからか「風調より入るものは我が巣窟に非れば他の自在を知らず。心より入るものは幻術自他に及ぼすなり」と述べていることから推察しても、心法から俳諧の自由な天地を拓こうとする信念は、これらの句において、ある程度具現されているとみてよかろう。

 しかし、青蘿の句には細かい技巧がなかったとはいえない。つぎの句をみていただこう。

雪を出て雪よりも青し松の風

七種や七日居りし鶴の跡

散花の花より起る嵐かな

日をたゞ啼を日たゞ聞身よかんこどリ

とか、さらにつぎのような

七草やなくてぞ数のなつかしき

あやめぐさあやの小路の夜明かな

あなめ/\あき風たちぬ竹婦人

技巧は句の語調を整えるために必要かもしれないが、もともと些細な末葉事で、質的には句風の登展に役立つことではない。

 また、寛政三年三月、二修家の花の御会に召され、かさね/\の栄誉を得たわけだが、その感激は、つぎのような作品になっている。

      殿前花

我等までや御目通りの花のかげ

 これが感激のあまりといえばそれまでであろうが、『青蘿発句集』の序に、成美が書いているような此叟世にありし時はひたすら芭蕉の方寸にせまり、その賞をまなびうつせる事、氷と水晶とのごとし(云々)の評言は、みかたによっては皮肉にもとれる。芭蕉と考証が、水晶と氷ということになりにしないだろうか。

 青蘿の家書に『骨書』というものがある。西播林田の李雨という門人の出版になるもので、二冊、天明六年刊行である。中味は明和四、五年ごろ伊勢の樗良(無為庵)が加古川の青蘿の庵を訪れて、両吟歌仙七巻をのこしたことがあった。樗良のなきあと、霊前に供えるべく、青蘿門の発句を添えて出版された。

    二三枚土手のなだれに薗撒て    蘿

     日和うれしく仰向に寝る     良 

    あの鳶を射て落さうと思ひつく   蘿

     かなはぬ戀に歌もよまれず    良

    だまされて覆隠さるゝをかしさは  蘿

     絲かけわたす七夕の庭      良

    蕣の蔓のはづれに月細し      蘿

     かへらぬ人をおくる秋風     良

という具合で、青蘿の方が樗良よりも技巧的である。しかし二人の気分はよく合っていて俗な連句ではない。最初の歌仙の裏にみえる作品である。

 青蘿が俳人として世にみとめられはじめたのは、明和五年(一七六八年)にだした処女撰集『蛸壷塚』(これは明石人丸神社境内で、芭蕉の句碑の併設を営んだおりの記念集)を上梓したころからであつだ。

それは中興の他の諸家にくらべては、いく分遅れたかたちであった。また彼の勢力は中国地方の一部であったため、俳壇の地位も低かったが、二條公から宗匠を許さことや、蕪村・樗良・几董らが歿したあとでは、青蘿の名は京都に重きをなしたのである。(東北大學教授・理博)

 


俳諧誌上の人々 春花園几兆  高木蒼悟 氏著 

2024年06月11日 04時41分54秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

俳諧誌上の人々 春花園几兆

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)

一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)

 

 

 蕉風の代表的著書として「七部集」がある、七部集中頭角を抜き、蕉風の醇の醇たるものとして、多くの人が拙重措かざるは「猿蓑」である、而しての猿蓑集の選者は去来と凡兆である。

 たゞに猿蓑集の選者なるのみならず、蕉門作家としての凡兆の手腕は、主観全盛の元禄当時、既に客観寫生の句を多く作り、句の精練にして雅僕なること、支考、許六等は勿論、蕉門の雙壁と称へられる其角、嵐雪に比較するも、著しく遜色あるものでない。然るに俳人としてこれほどの業績を残した凡兆の傳が、頗る漠然たるは、遺憾千萬である。

 渠の位記的文献として基調をなすものは、許六の「風俗文選」の作者列席に……凡兆者加州之産也業賢居于洛、學蕉門之風俗、一罪事不知其終處……とあるものである。が、風俗文選の開板された宝永二年の頃に、渠は生存してゐたらうと思われる文献がある。蘭更の「俳諧世説」には、

凡兆はもと金城の産にして、洛に住し医業をもて世わたりとす、嘗てて罪ある人にしたしみ、その連累をかふむりて獄中に年を明かしけるに、其の明くる年牢中にて

    猪の首のつよさよ花の春

    陽炎の身にもゆるさぬ虱かな

  など問えけるに、聞く人涙をおとさずといふ事なし、

かくて身にあやまりなき申ひらき天に通じ程なく累絏の中を出で、

ふたゝび悦びの眉をひらきけるも、此の世をあさましとのみ思ひとり侍るにや、

果は亡命して行きかたしれずなりけるとぞ

とある。蕉門諸生全傳、徘家奇人談その他数種の載籍は、何れも「風俗文選」の作者列傳から脱胎したもので、似たり寄ったりの記録である。

藻魚庵大蟲は、.江戸末期の人であるが、その「晋子年譜」に、

「貞享元甲子……向井去来この時其角の紹介にて門に入ぬ、また、野澤加生(後凡兆と改)此時入門」とある。宮城氏と傳へられて居るが、是によると野澤氏のやうでもある。大蟲の引據は明かでないが、これに従へば貞享元年に去来と同じ頃入門したらしい。初め加生と號した事についても説があるが、それは疑いないものであらう。「猿蓑」にある、

    市中は物のにほひや夏の月    凡 兆

      あつし/\と門/\の聲   芭 蕉

    二番草取りも果さす穂に出て   去 来

の発句に加生としたものがあり(「木太刀」昭和三年九月號瀧川愚佛氏)、その改號の時期も、この歌仙を巻いた時から「猿蓑」を編纂する前後といふ推定もつくやうになって居る。かた「一葉集」の芭蕉の書

簡中に、「加生越人へ挨拶」と前書し

     男ふり水のむ顔や秋の月

の句がある、沼波氏はこの書簡を貞享三年のものと考諭されて居る。元禄六年の「嚝野後集」には、

          野水にあひて

     男ふり水のむ顔や秋の月    凡 兆

とある。元禄二年の「嚝野」、元禄三年の「紅鮭子」、「花筒」、元禄四年の「卯辰集」等に加生の號が

見えて居るが、凡兆の號は「猿蓑」以前の集には今のところ見当たらない。

 元禄二年の秋、奥の細道の大旅行から帰った芭蕉は、江洛の間に年を暮し、翌三年四月には石山の奥の幻住庵に卜居した。この山庵へ江洛の門葉が集まって頻りに俳諧を興行した、こゝで出来た句、或は消息の端などにあった句を書留めた「几右日記」には、

     海山に五月雨そふや一くらみ  凡 兆

の一句を残して居る。芭蕉は、「幻住庵記」などを書いて頗る気に入って居たやうであるが、寒さと不自由とに耐えかねてか、秋冬の候には湖畔の無名庵に帰り、元禄四年の春をそこに迎へた。その四月十八日より翌月五日まで、嵯峨の落柿舎に閑居、所謂「嵯峨日記」が出来た、落柿舎は去来の別業である。嵯峨日記から凡兆に関係ある條を指摘してみやう。

  元禄四辛未卯月十八日、嵯峨に遊びて去来が落柿舎に至る、凡兆ともに来りて、暮にむよびて京に帰る、余は猶暫くとゞむべき由にて、障子つづくり葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる所伏處とさだむ……。

 十九日……斜日に及で落柿舎に帰る、凡兆京より来る、去来京に帰る……。

 二十日、北嵯峨の祭見んと羽紅尼来る……今宵は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一張に五人こぞりて臥たれば、夜もいねがたくて夜牛過る頃より、おの/\起き出て昼の菓子盆など取出て、曉ちかきまで話明す。  

去年の夏凡兆が宅に臥たるに、二畳の蚊屋に四国の人ふしたり、おももふこと四にして、夢も叉四くさと書捨たる事など、云、出して咲ひぬ、明れば羽紅凡兆京に帰る、去来猶とゞまる。

    またやこん覆盆子赤らめ嵯峨の山   羽 紅

 

二十四日、題落柿舎

    豆植る畑も木部屋も名所かな     凡 兆

 暮に及で去来、京より来る、膳所昌房より消息、大津尚白より消息あり、凡兆来る、堅田本副寺訪于千春、凡兆京に婦る。

元禄四年開板の「京羽二重」に

    三葉ちりてあとは枯木や桐の畠

            小川さはらき町上る 凡 兆

とある、「冊子年譜」元禄元年の條にも……十月二日云々、共に小川根本町なる加生方に遊ぶ……とあり、以前からここに住んでゐたらしい。去来、凡兆の屡々(しばしば)の来往は「猿蓑」編纂上の打合せではあるまいか、「猿蓑」には嵯峨日記中の句も収録されて居るが、「嵯峨日記」に猿蓑の事は一言もない。「猿蓑」編纂中の消息を「去来抄」に徴すると、面白い事がある。其角の、

    此木戸や鎖のさゝれて冬の月

の句が、句稿の字間が詰まってゐて「此木戸」を「柴戸」と読みちがひして猿蓑に入れ、既に版になったのを知った芭蕉は[秀逸は一句も大切なり、たとへ出版に及ぶともいそぎ改むべし」と云送って居る。之に對し凡兆は「柴の戸此木戸させる勝劣なし」と云ひ、去来は「此の月を柴の戸によせて見れば尋常の気色なり、之を城門に移して見れば、其の風情哀れに物凄きことはかりなし」と云って居る。或は、

    田の畝の豆つたひゆく蛼かな

の句を、猿蓑に入渠する事を凡兆が肯じない、それを芭蕉は「凡兆もし捨は我拾はん、幸ひ伊賀の連中の句に似たるあり、夫を直し此句となさん」とて、遂に萬呼の句として入渠した。或は芭蕉が、

    病雁の夜寒におちて旅寝かな

    海士の家は小海老にましる肺費

の二句の内一句を入渠せよと云へるに、凡兆は「小海老」を秀逸なりと云ひ,去来は「病雁」を格調高しと主張して譲らず、結局乞ふて両句とも入渠した。一句ごとに如何に吟味し精選したかゞ想像される。

かくて出版された後芭蕉は「病雁を小海老などと同じ如くに諭じけるやと笑ひたまひけり」とある、芭蕉もなか/\人がわるい。「猿蓑」に入渠した渠の作は発句四十餘、連句が四巻ある、少しばかり扱録せう。     

しくるゝや黒木つむ家の窓明り

炭篭に手負の猪の倒れけり

呼かへす鮒賣ろ見えぬ霰かな

    禅寺の松の落ち葉や神無月

    下京や雪つむ上の夜の雨

    なが/\と川一筋や雪の原

    すずしさや朝草門に荷ひ込 

    百舌鳥鳴や入日さし込女松原

    初潮や鳴門の浪の飛脚舟

    上行と下来る雲や秋の天

    灰捨て白梅うるむ垣根かな

      越より飛騨へ行とて籠の渡りの危き所々

      道もなき山路をさまよひて

    鷲の巣の樟の枯技に日は入ぬ

    鶏の聲もきこゆる山さくら

    花ちるや伽藍の樞おとし行

 

構想格調共に清新、元禄俳諧中の異彩にして蕉門作家中に於ても、確かに特色あるものであるが、当時これに就て品隲(しつ)を試みたものあるを聞かぬ。天保年代に至り臼人が「春草園の翁こそ、元禄の正 風を猿蓑に伝へて其名しるし、この翁なかつせば、猿蓑の妙所いずづくにかあらむ」と「猿蓑」を諭じながら却て去来を閑却し渠を称揚したるは、頗る我が意を得たるものである。

「猿蓑」に次ぐ蕉門の代表的選集は、元禄七年に野披、孤屋、利牛によって刊行された「炭俵」である。三四年前の猿蓑に縦横に怪腕を揮った凡兆の句は一句も無い、渠の妻の羽紅の句も無い。然し元禄四年の「猿蓑」以後の句集にも、渠の名は散見する。元禄五年の「柞原」には凡兆十句、羽紅二句。元禄六年の「弓」には発句三句と連句、「薦獅子集」にも一句、「桃の賓」にも一句。元禄七年には芭蕉が歿した、大阪と程遠からぬ京都にゐた筈の渠は「枯尾花」を見ても「芭蕉翁行状記」を見ても、芭蕉の葬儀にも追悼會にも出席した様子が無い。元禄九年に許六、李由共編の「韻塞」に、

    門前の小家もあそふ冬至かな    不知作者

の句がある。この句は「猿蓑」に「凡兆」として入渠して居る、許六、李由がそれを知らぬ筈は無いが、刑餘の者などの作を、作者は判り切ってゐても「不知作者」として入渠する例があるといふ、許六等は此の例に従ったものであらう。これも凡兆下獄の一証左と見る事が出来やう。下獄の時期もその理由も明かでない、在来の密貿易に連座したといふ説に従って居るより他ない。許六ついでに今一つ、「風俗文選」の作者傳に「不知其終處」と書いた許六が、「風俗文選犬註解」を見ると、

      凡兆追善

    四東とのかけらふに法の糸    許 六

の悼句を残して居る。後に至って凡兆の死んだ噂でも聞いての作であらうか、兎に角この悼句を詠んだ許六が正徳五年に歿して居るから、凡兆がそれ以前に歿した事を微するに足る。元禄十四年の「荒小田」には三十九句、羽紅の作も四句収録され、「猿蓑」に次で渠の句が多く収録されて居る。

同年の「迫鳥狩」十五年の「初便」等にも、凡兆の名を見ることが出来る。土芳の「蓑蟲庵集」には土芳と羽紅が、句の贈答信書の往復をした事が数ケ所に記されて居る。その中に

「はつ秋の頃難波の老尼羽紅にかへして申侍る、凡兆子の事さて/\残念無申斗候、

事過て候へども承候まゝなつかしさ申入候」と前書して、

    此秋や夢とうつゝのふたり住

の句がある。これは午の秋即ち正徳四年であるから、その前に凡兆が歿した事が推測される。本文筆者は曾て凡兆に就て小著を公にした事がある、該書起稿当時「柞原」を見るを得ず、その後寓目して曩(さき)に聚めしものに遺脱あるを知り、ここに撮録して置く。

    植松やそのやとり木の山つゝし

    たがために夜も世話やくほとゝきす

    うつくしく牛の痩せたる夏野かな

 なお、構想清新、格調顕密なる渠の作品は「猿蓑」に最も多く、芭蕉歿後の作と想はれるものには、概して注意を惹くものが少い。こゝにも芭蕉の偉大なる感化を想はせるのである。