俳諧誌上の人々 春花園几兆
『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著
昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)
一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)
蕉風の代表的著書として「七部集」がある、七部集中頭角を抜き、蕉風の醇の醇たるものとして、多くの人が拙重措かざるは「猿蓑」である、而しての猿蓑集の選者は去来と凡兆である。
たゞに猿蓑集の選者なるのみならず、蕉門作家としての凡兆の手腕は、主観全盛の元禄当時、既に客観寫生の句を多く作り、句の精練にして雅僕なること、支考、許六等は勿論、蕉門の雙壁と称へられる其角、嵐雪に比較するも、著しく遜色あるものでない。然るに俳人としてこれほどの業績を残した凡兆の傳が、頗る漠然たるは、遺憾千萬である。
渠の位記的文献として基調をなすものは、許六の「風俗文選」の作者列席に……凡兆者加州之産也業賢居于洛、學蕉門之風俗、一罪事不知其終處……とあるものである。が、風俗文選の開板された宝永二年の頃に、渠は生存してゐたらうと思われる文献がある。蘭更の「俳諧世説」には、
凡兆はもと金城の産にして、洛に住し医業をもて世わたりとす、嘗てて罪ある人にしたしみ、その連累をかふむりて獄中に年を明かしけるに、其の明くる年牢中にて
猪の首のつよさよ花の春
陽炎の身にもゆるさぬ虱かな
など問えけるに、聞く人涙をおとさずといふ事なし、
かくて身にあやまりなき申ひらき天に通じ程なく累絏の中を出で、
ふたゝび悦びの眉をひらきけるも、此の世をあさましとのみ思ひとり侍るにや、
果は亡命して行きかたしれずなりけるとぞ
とある。蕉門諸生全傳、徘家奇人談その他数種の載籍は、何れも「風俗文選」の作者列傳から脱胎したもので、似たり寄ったりの記録である。
藻魚庵大蟲は、.江戸末期の人であるが、その「晋子年譜」に、
「貞享元甲子……向井去来この時其角の紹介にて門に入ぬ、また、野澤加生(後凡兆と改)此時入門」とある。宮城氏と傳へられて居るが、是によると野澤氏のやうでもある。大蟲の引據は明かでないが、これに従へば貞享元年に去来と同じ頃入門したらしい。初め加生と號した事についても説があるが、それは疑いないものであらう。「猿蓑」にある、
市中は物のにほひや夏の月 凡 兆
あつし/\と門/\の聲 芭 蕉
二番草取りも果さす穂に出て 去 来
の発句に加生としたものがあり(「木太刀」昭和三年九月號瀧川愚佛氏)、その改號の時期も、この歌仙を巻いた時から「猿蓑」を編纂する前後といふ推定もつくやうになって居る。かた「一葉集」の芭蕉の書
簡中に、「加生越人へ挨拶」と前書し
男ふり水のむ顔や秋の月
の句がある、沼波氏はこの書簡を貞享三年のものと考諭されて居る。元禄六年の「嚝野後集」には、
野水にあひて
男ふり水のむ顔や秋の月 凡 兆
とある。元禄二年の「嚝野」、元禄三年の「紅鮭子」、「花筒」、元禄四年の「卯辰集」等に加生の號が
見えて居るが、凡兆の號は「猿蓑」以前の集には今のところ見当たらない。
元禄二年の秋、奥の細道の大旅行から帰った芭蕉は、江洛の間に年を暮し、翌三年四月には石山の奥の幻住庵に卜居した。この山庵へ江洛の門葉が集まって頻りに俳諧を興行した、こゝで出来た句、或は消息の端などにあった句を書留めた「几右日記」には、
海山に五月雨そふや一くらみ 凡 兆
の一句を残して居る。芭蕉は、「幻住庵記」などを書いて頗る気に入って居たやうであるが、寒さと不自由とに耐えかねてか、秋冬の候には湖畔の無名庵に帰り、元禄四年の春をそこに迎へた。その四月十八日より翌月五日まで、嵯峨の落柿舎に閑居、所謂「嵯峨日記」が出来た、落柿舎は去来の別業である。嵯峨日記から凡兆に関係ある條を指摘してみやう。
元禄四辛未卯月十八日、嵯峨に遊びて去来が落柿舎に至る、凡兆ともに来りて、暮にむよびて京に帰る、余は猶暫くとゞむべき由にて、障子つづくり葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる所伏處とさだむ……。
十九日……斜日に及で落柿舎に帰る、凡兆京より来る、去来京に帰る……。
二十日、北嵯峨の祭見んと羽紅尼来る……今宵は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一張に五人こぞりて臥たれば、夜もいねがたくて夜牛過る頃より、おの/\起き出て昼の菓子盆など取出て、曉ちかきまで話明す。
去年の夏凡兆が宅に臥たるに、二畳の蚊屋に四国の人ふしたり、おももふこと四にして、夢も叉四くさと書捨たる事など、云、出して咲ひぬ、明れば羽紅凡兆京に帰る、去来猶とゞまる。
またやこん覆盆子赤らめ嵯峨の山 羽 紅
二十四日、題落柿舎
豆植る畑も木部屋も名所かな 凡 兆
暮に及で去来、京より来る、膳所昌房より消息、大津尚白より消息あり、凡兆来る、堅田本副寺訪于千春、凡兆京に婦る。
元禄四年開板の「京羽二重」に
三葉ちりてあとは枯木や桐の畠
小川さはらき町上る 凡 兆
とある、「冊子年譜」元禄元年の條にも……十月二日云々、共に小川根本町なる加生方に遊ぶ……とあり、以前からここに住んでゐたらしい。去来、凡兆の屡々(しばしば)の来往は「猿蓑」編纂上の打合せではあるまいか、「猿蓑」には嵯峨日記中の句も収録されて居るが、「嵯峨日記」に猿蓑の事は一言もない。「猿蓑」編纂中の消息を「去来抄」に徴すると、面白い事がある。其角の、
此木戸や鎖のさゝれて冬の月
の句が、句稿の字間が詰まってゐて「此木戸」を「柴戸」と読みちがひして猿蓑に入れ、既に版になったのを知った芭蕉は[秀逸は一句も大切なり、たとへ出版に及ぶともいそぎ改むべし」と云送って居る。之に對し凡兆は「柴の戸此木戸させる勝劣なし」と云ひ、去来は「此の月を柴の戸によせて見れば尋常の気色なり、之を城門に移して見れば、其の風情哀れに物凄きことはかりなし」と云って居る。或は、
田の畝の豆つたひゆく蛼かな
の句を、猿蓑に入渠する事を凡兆が肯じない、それを芭蕉は「凡兆もし捨は我拾はん、幸ひ伊賀の連中の句に似たるあり、夫を直し此句となさん」とて、遂に萬呼の句として入渠した。或は芭蕉が、
病雁の夜寒におちて旅寝かな
海士の家は小海老にましる肺費
の二句の内一句を入渠せよと云へるに、凡兆は「小海老」を秀逸なりと云ひ,去来は「病雁」を格調高しと主張して譲らず、結局乞ふて両句とも入渠した。一句ごとに如何に吟味し精選したかゞ想像される。
かくて出版された後芭蕉は「病雁を小海老などと同じ如くに諭じけるやと笑ひたまひけり」とある、芭蕉もなか/\人がわるい。「猿蓑」に入渠した渠の作は発句四十餘、連句が四巻ある、少しばかり扱録せう。
しくるゝや黒木つむ家の窓明り
炭篭に手負の猪の倒れけり
呼かへす鮒賣ろ見えぬ霰かな
禅寺の松の落ち葉や神無月
下京や雪つむ上の夜の雨
なが/\と川一筋や雪の原
すずしさや朝草門に荷ひ込
百舌鳥鳴や入日さし込女松原
初潮や鳴門の浪の飛脚舟
上行と下来る雲や秋の天
灰捨て白梅うるむ垣根かな
越より飛騨へ行とて籠の渡りの危き所々
道もなき山路をさまよひて
鷲の巣の樟の枯技に日は入ぬ
鶏の聲もきこゆる山さくら
花ちるや伽藍の樞おとし行
構想格調共に清新、元禄俳諧中の異彩にして蕉門作家中に於ても、確かに特色あるものであるが、当時これに就て品隲(しつ)を試みたものあるを聞かぬ。天保年代に至り臼人が「春草園の翁こそ、元禄の正 風を猿蓑に伝へて其名しるし、この翁なかつせば、猿蓑の妙所いずづくにかあらむ」と「猿蓑」を諭じながら却て去来を閑却し渠を称揚したるは、頗る我が意を得たるものである。
「猿蓑」に次ぐ蕉門の代表的選集は、元禄七年に野披、孤屋、利牛によって刊行された「炭俵」である。三四年前の猿蓑に縦横に怪腕を揮った凡兆の句は一句も無い、渠の妻の羽紅の句も無い。然し元禄四年の「猿蓑」以後の句集にも、渠の名は散見する。元禄五年の「柞原」には凡兆十句、羽紅二句。元禄六年の「弓」には発句三句と連句、「薦獅子集」にも一句、「桃の賓」にも一句。元禄七年には芭蕉が歿した、大阪と程遠からぬ京都にゐた筈の渠は「枯尾花」を見ても「芭蕉翁行状記」を見ても、芭蕉の葬儀にも追悼會にも出席した様子が無い。元禄九年に許六、李由共編の「韻塞」に、
門前の小家もあそふ冬至かな 不知作者
の句がある。この句は「猿蓑」に「凡兆」として入渠して居る、許六、李由がそれを知らぬ筈は無いが、刑餘の者などの作を、作者は判り切ってゐても「不知作者」として入渠する例があるといふ、許六等は此の例に従ったものであらう。これも凡兆下獄の一証左と見る事が出来やう。下獄の時期もその理由も明かでない、在来の密貿易に連座したといふ説に従って居るより他ない。許六ついでに今一つ、「風俗文選」の作者傳に「不知其終處」と書いた許六が、「風俗文選犬註解」を見ると、
凡兆追善
四東とのかけらふに法の糸 許 六
の悼句を残して居る。後に至って凡兆の死んだ噂でも聞いての作であらうか、兎に角この悼句を詠んだ許六が正徳五年に歿して居るから、凡兆がそれ以前に歿した事を微するに足る。元禄十四年の「荒小田」には三十九句、羽紅の作も四句収録され、「猿蓑」に次で渠の句が多く収録されて居る。
同年の「迫鳥狩」十五年の「初便」等にも、凡兆の名を見ることが出来る。土芳の「蓑蟲庵集」には土芳と羽紅が、句の贈答信書の往復をした事が数ケ所に記されて居る。その中に
「はつ秋の頃難波の老尼羽紅にかへして申侍る、凡兆子の事さて/\残念無申斗候、
事過て候へども承候まゝなつかしさ申入候」と前書して、
此秋や夢とうつゝのふたり住
の句がある。これは午の秋即ち正徳四年であるから、その前に凡兆が歿した事が推測される。本文筆者は曾て凡兆に就て小著を公にした事がある、該書起稿当時「柞原」を見るを得ず、その後寓目して曩(さき)に聚めしものに遺脱あるを知り、ここに撮録して置く。
植松やそのやとり木の山つゝし
たがために夜も世話やくほとゝきす
うつくしく牛の痩せたる夏野かな
なお、構想清新、格調顕密なる渠の作品は「猿蓑」に最も多く、芭蕉歿後の作と想はれるものには、概して注意を惹くものが少い。こゝにも芭蕉の偉大なる感化を想はせるのである。