増補 日本俳諧史(1) 第三章 連歌の式目
池田秋旻 氏著 東京 不朽社
連歌の勅選に入りたるは、『後撰』に一首、『拾遺』に十六句、『続詞花』に十七句、なり。
しかし當時は之を連歌と云はずして、御歌と称へ、『金葉集』に至りて、はじめて連歌の名を附することゝなれり。
もゝぞのゝ花を見て
桃園のもゝの花こそさきにけれ 頼経法師
うめ律の梅はちりやしねらむ 公資朝臣
しかの島を見て
つれなくたてるしかの島かな 焉 助
弓張の月のいろにも驚かで 國 忠
此の種の連歌は、延喜(醍醐)、天暦(村上)の頃より、嘉永(堀川)、天永(鳥羽)の頃まで行はれたりしが、文治(崇徳)、康治(近衛)の頃よりは、鎖連歌と称へて、句に制限を定めず、鎖の如くいひ続くることを始め、後鳥羽上皇の時、定家、定隆の輩出でゝ五十顔、百韻の数を定むる事となり、内定の式目をも立てゝ、之を行へり。左れば、
後鳥別院建保の頃より、しろ、くろ、また色々のふし物のひとり連歌を、
定家家隆卿などにめされ侍しより百韻なども侍るにや。(筑波間答)
つらぬることのはも、萬に書き集めし末、世々に朽ちせす、
其末水無瀬川(後鳥羽院)より流れ出で、数を巡ぬる事とぞなり侍る。(さゞめこと)
後鳥羽上皇、定家、家隆卿などに仰合されて、
数を百韻に定め法掟などを初めて記し置かれ云々。(梵灯庵主返答書)
近くは後鳥羽院の御比よりもて出でゝ百韻、五十韻などになれり、
千句は為家郷嵯峨にて申玉へるより、世に其後満はへり。(ひとり言)
昔は五十韻百韻とて、つゞくる事はなし、唯上の句にても、下の句にて云ひかけつれは、
いまなからを付る也、今の様にくさる事は、中頃よりの事なり、(八雲御折)
とあり、また『筑波問答』に曰く
問云、
連歌に百韻と申す事はいはれあるにや、聯句は韻字を置けばこそ百韻とも申せ、
連歌は定まれる韻の文字なければ、唯百句などとこそ申さめと云う人有るは、
まことに侍るにや、
答曰、
其の事に侍り、京極中納言入道殿も、連歌を百韻など申、然るべからす、
聯句をこそ、類の文字あればさようにも申せ、
連歌は唯百句などにて有るべしと仰られし、さらば脇句を人韻とこそ申し侍らめ、
それはただ脇句とこそ申せ、去ながら近比申付たる事に侍れば、今更本説を正しても、
詮なき事にてぞ侍るべき、大かたはいはれなき事ぞと、うけ給をきし、
更に百韻の事に状て、
百句とも、百詠百吟などと云べきを、いかに類とは申ぞ、不思議可申様なし、知る人なし、
俳諧の大是事也、此数詩を以て割たる数にて、雪月花の用所明かなり、
表八句、奥十四句なり、裏十六句と数を定むべき也、律詩絶句の姿の数也、
依て表趣、四句日迄起請轉合、五句目月の座起の場也、
裏の花月の座算候へば起か轉の所へ極めて當る也、
再発再心不少、依.韻字濟也。(俳諧秘書要書)
當時此の仲間の無學不文なる、記する所甚だ意味の明瞭を欠きたれども、是等を綜合せば、百韻の事も、概略は解し得べきが、順徳、後嵯峨の両帝の如きは、殊に斯の道を好ませ給ひ、次で後字多院の建治二年には、鎌倉藤谷為相、連歌の舊式目を定め、伏見、花園、後醍醐の三帝に至り、御製と聞こえけるもの亦た頗る多く、其他数多き雲上人中、斯道に堪能なるもの少なからざりき。後北朝の後光厳帝文和の末、二條良基は、救濟に命じて『筑波集』二十巻を選ばしむ、是れ連歌集の初めなり。
連歌の宗匠として、當時有名なりし者を善阿法師と為す。善阿は花園帝の應長正和の頃、最も名聲を博し、南北朝の中葉、時の関白にして歌道の宗家たる二條良基が、自ら師としたる救済、及び連歌師として名高かりし周阿の如きも、皆善阿の門より出づ。
後光厳應安五年、二條良基は、舊式目を改めて、新式目を作り、慶安の新式といふは是なり。この式目こそ連歌に関する規定の基礎にして、後々の代に至る迄、一に此式目に準拠する事となり、此に始めて連歌の形式は定まれり。其の新式の梗概は左の如し。
連歌に最も普通なる形式を百韻とす、そは艮句即五七の句及び短句即七七の句を、交互相連ぬ、
長短句合して百句より成る者なり、而して之を記載するに懐紙四枚を束ねたるものを以てし、
其第一面に八句を記し、これを表と称し、其裏面に十四句を記して裏と称し、
第二枚目及第三枚目の表裏に各十四句を記して、二ノ表、二ノ裏、三ノ表、三ノ裏と称し、
第四枚目の表目に十四句を記して、名残ノ表と称し、
其裏面には八向を記して。之を名残ノ裏といふ、
而して各懐紙の一面に記したる部分を面と云ひ、
裏と二ノ表と、二ノ裏と、三ノ表と、三ノ裏と、名残の表と、各二面を合して見渡しと称し、
一二三名残等の各表裏二面を合して、同懐紙、成は折と称す、
其初表の第一句を 発句と称し、次の短句を脇、或いは入韻と称し、次の長向を第三と云ひ、
最終の句を挙句と云ふ、是慶安新式以来、連俳時代に至るまで、
百韻連歌に一定したる形式及び名称なり。
其の百韻を二分したるものを五十韻と云ひ、百韻十個を集めて千句とす、
五十韻と千句とは、當時百韻に次で殼も多く行はれる。
また新式に規定せし主要なる部分に、後世の所謂指合去嫌なるものめり、
庵一句の物、即ち一巻の連歌中唯一度より用ふべからざるもの(若葉郭公等)、
二句の物(野辺、待戀等)四句の物、五句の物、或は可嫌打込物、
即二句以上も隔つべきもの(居所に村、日に月次の月等)可嫌同懐紙物、
可隔三句物、可隔五句物等を規定し、
或は春秋、戀の句は三句以上五句に至るべし。
夏、冬、山類、水辺は三句以上に渉るべからずと定め、
其他輪廻、遠輪廻、本歌取等の法則あるの外は、唯僅かに賦物の取方等を記するのみ。
宗祗が『吾妻問答』にも、
此の道の再興は、故二條摂政殿好みすかせ給て、好士を撰ひ給ひしに、
その頃の達者善阿、順覚、救濟、信照、周阿、良阿など侍るや、
當時も千句など云ふ事侍れども、式目を定め法度を正しくせられて、
末代に其旨を守るは、彼御時よりの事なれば、此折節をさして、上古とは可申や、
句の様も長高く有心にして、歌に其心等しく、殊勝の事多く侍り、
然はあれど、歌の継句などの様に云ひかけて、一句に其理なきも侍りけるにや、云々。
また曰く
連歌に、或は歌の上の句、又下の句とて、あしきよしを申は如何。
答云、
至て昔はさやうの戒なし、侍公、周阿等の時までも、さやうに有りしなり、
秋はてぬいまに山田のいねよとや
是は侍公の句也、……此句に、今川了俊付侍しなり、
鹿おふ聲そ里にきこゆる
……かやうの句付は歌の上の句下の句と可申候哉云々。
尚、一般の歌に就て、基俊が『悦目抄』には、左の如く云へり。其の頃の歌人の心得の如何を知るに足らん。
歌をよまんには、歌を先する事為るべからす、先題につきて縁の字を求めよ、
三あらは三所に置くべし、二あらば、めいくたいくもじはかたと腰とに置くべし、
一あらば一ふし題によむべし、緑の字なぐば、縁の字を尋ねて置ぐべし、
縁を求めずして歌を先立つる事は、材木なくして家を造らんが如しと云へり、云々。
古き歌の第一二句を取りて、今の歌の第三四に置き、
また古き第三四の句を、今の第一二に置く事、先達の教え久しうなれり、
かくて上下をちがふる事も、また度重なれば、例の事かと見る、
また花の歌を本として、紅葉の歌に改め、
雪の歌を取て霞の歌によみなどしたるを見れば、
題目はあらねども、心詞總て本にかはる所なし。
只花の歌を花に、月の歌を月に歌をはたらかさずして、
しかも其心をかへて、其心をめづらしくよまんと思ふべし、
また古き五文字を七文字になし、例へば五言詩を七言に作るが如し、
七字をも五字につゞめ、若くは七字をも二句にかけてもよみつべからん詞を、
必古歌には一句にこそあれと云ふ事なり、
乱りてもよみ侍るべきにや、かゝらでは、いかにとして異ふ所有るべしとも見えず。
剽竊、焼き直しを巧みにするものを以て、歌の能手なりと心得紀るは、如何にも幼稚なる事にして、彼等が徒らに古格に拘泥し、毫も辞意を出さんとするの念なかりし事を想ふべし。
應永の頃、斯道の達人に、勝部師網入道梵阿といふ連歌師あり、一條兼良もその門に入りて、深く連歌に心を寄せたり、其の他、心敬、専順、智温、宗倡、能阿、行助等、何れも有名にして、就中、行助の門よりは、高山民部時主人道宗砌、並びに斯道中興の祖と仰がるゝ種玉庵宗祗の如き諸名家を輩出せり。
宗祗の傳詳かならず、彼れ壮年の比より、刻苦して連歌を學び、種玉庵まち自然齊といふ、或る年中秋三五の夜、一天雲に蔽われて月を見る能はず、宗祗即ち、
ひとヽせの月か曇らす今夜かな
と読み、また述懐して、
世にふるは更に時雨の宿かな
と吟ず、芭蕉が「世の中は更に宗祗の宿りかな」と慕ひたる此の事なり、文亀二年七月二十八日相州湯本の客舎に歿す、行年八十二、辞世
はかなしや鶴の林の煙にも
立おくれぬゐ身こそ恨むれ
慶安の新式目成るの後八十年、後花園院の享徳元年、一條兼良は宗砌と倶に、新式目に、追加改訂を行へり、世に之を、「新式追加」と称す、次で明應四年、宗祗に内勅ありて、『新筑波集』を選せしむ、連歌の達人。爾来、彬々として輩出し、室町時代の文藝界に燦爛たる光彩を發せしめ、連歌は此に至て全盛を極めたり。左れば連歌の見るべき者は、皆この足利の時代に出で、作者としては、推さるゝ所の、兼栽、専碩、宗長、肖柏、宗長、周桂、宗養、昌休、紹巴、慶友、昌叱、昌琢の輩相次いで現はる、
新式追加制定の後四十九年、後柏原院の文龜元年、牡丹花肖柏勅を請て、逍遥院實隆と倶に、新式追加を更に堵補したり、世に之を新式今案と云へり、連歌の式は此に至て梢や大成を告ぐ、左れど物盛んなれば衰ふるの喩に漏れず、初め連歌の變體として起りたる狂連歌は、宗鑑、宗武の機智滑稽に因り、巧みに俗語を使用して、大に其の狂想を発揮し、形を俳諧と變じて、雄を詞壇に争ひ、連歌は何時しか俳諧の勢力に厭倒せられて、復た大に気焔を吐く能はず、加ふるに連歌界には、宗鑑、守武と相対するに足るべき非凡の鋭才なく、沈滞に沈滞を重ねて、漸く將に衰頽の状を呈せんとするに至れり。
第四章 連歌の格調