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増補 日本俳諧史(1) 第三章 連歌の式目 池田秋旻 氏著 東京 不朽社

2024年06月17日 18時20分52秒 | 文学さんぽ

 

増補 日本俳諧史(1) 第三章 連歌の式目
池田秋旻 氏著 東京 不朽社

  
連歌の勅選に入りたるは、『後撰』に一首、『拾遺』に十六句、『続詞花』に十七句、なり。
しかし當時は之を連歌と云はずして、御歌と称へ、『金葉集』に至りて、はじめて連歌の名を附することゝなれり。
      もゝぞのゝ花を見て
    桃園のもゝの花こそさきにけれ           頼経法師
         うめ律の梅はちりやしねらむ       公資朝臣
      しかの島を見て
    つれなくたてるしかの島かな            焉  助
         弓張の月のいろにも驚かで        國  忠

此の種の連歌は、延喜(醍醐)、天暦(村上)の頃より、嘉永(堀川)、天永(鳥羽)の頃まで行はれたりしが、文治(崇徳)、康治(近衛)の頃よりは、鎖連歌と称へて、句に制限を定めず、鎖の如くいひ続くることを始め、後鳥羽上皇の時、定家、定隆の輩出でゝ五十顔、百韻の数を定むる事となり、内定の式目をも立てゝ、之を行へり。左れば、
  後鳥別院建保の頃より、しろ、くろ、また色々のふし物のひとり連歌を、
定家家隆卿などにめされ侍しより百韻なども侍るにや。(筑波間答)
  つらぬることのはも、萬に書き集めし末、世々に朽ちせす、
其末水無瀬川(後鳥羽院)より流れ出で、数を巡ぬる事とぞなり侍る。(さゞめこと)
  後鳥羽上皇、定家、家隆卿などに仰合されて、
数を百韻に定め法掟などを初めて記し置かれ云々。(梵灯庵主返答書)
  近くは後鳥羽院の御比よりもて出でゝ百韻、五十韻などになれり、
千句は為家郷嵯峨にて申玉へるより、世に其後満はへり。(ひとり言)
  昔は五十韻百韻とて、つゞくる事はなし、唯上の句にても、下の句にて云ひかけつれは、
いまなからを付る也、今の様にくさる事は、中頃よりの事なり、(八雲御折)

とあり、また『筑波問答』に曰く
  問云、
連歌に百韻と申す事はいはれあるにや、聯句は韻字を置けばこそ百韻とも申せ、
連歌は定まれる韻の文字なければ、唯百句などとこそ申さめと云う人有るは、
まことに侍るにや、
答曰、
其の事に侍り、京極中納言入道殿も、連歌を百韻など申、然るべからす、
聯句をこそ、類の文字あればさようにも申せ、
連歌は唯百句などにて有るべしと仰られし、さらば脇句を人韻とこそ申し侍らめ、
それはただ脇句とこそ申せ、去ながら近比申付たる事に侍れば、今更本説を正しても、
詮なき事にてぞ侍るべき、大かたはいはれなき事ぞと、うけ給をきし、

更に百韻の事に状て、
  百句とも、百詠百吟などと云べきを、いかに類とは申ぞ、不思議可申様なし、知る人なし、
俳諧の大是事也、此数詩を以て割たる数にて、雪月花の用所明かなり、
  表八句、奥十四句なり、裏十六句と数を定むべき也、律詩絶句の姿の数也、
  依て表趣、四句日迄起請轉合、五句目月の座起の場也、
  裏の花月の座算候へば起か轉の所へ極めて當る也、
再発再心不少、依.韻字濟也。(俳諧秘書要書)

當時此の仲間の無學不文なる、記する所甚だ意味の明瞭を欠きたれども、是等を綜合せば、百韻の事も、概略は解し得べきが、順徳、後嵯峨の両帝の如きは、殊に斯の道を好ませ給ひ、次で後字多院の建治二年には、鎌倉藤谷為相、連歌の舊式目を定め、伏見、花園、後醍醐の三帝に至り、御製と聞こえけるもの亦た頗る多く、其他数多き雲上人中、斯道に堪能なるもの少なからざりき。後北朝の後光厳帝文和の末、二條良基は、救濟に命じて『筑波集』二十巻を選ばしむ、是れ連歌集の初めなり。
連歌の宗匠として、當時有名なりし者を善阿法師と為す。善阿は花園帝の應長正和の頃、最も名聲を博し、南北朝の中葉、時の関白にして歌道の宗家たる二條良基が、自ら師としたる救済、及び連歌師として名高かりし周阿の如きも、皆善阿の門より出づ。
後光厳應安五年、二條良基は、舊式目を改めて、新式目を作り、慶安の新式といふは是なり。この式目こそ連歌に関する規定の基礎にして、後々の代に至る迄、一に此式目に準拠する事となり、此に始めて連歌の形式は定まれり。其の新式の梗概は左の如し。

 連歌に最も普通なる形式を百韻とす、そは艮句即五七の句及び短句即七七の句を、交互相連ぬ、
長短句合して百句より成る者なり、而して之を記載するに懐紙四枚を束ねたるものを以てし、
其第一面に八句を記し、これを表と称し、其裏面に十四句を記して裏と称し、
第二枚目及第三枚目の表裏に各十四句を記して、二ノ表、二ノ裏、三ノ表、三ノ裏と称し、
第四枚目の表目に十四句を記して、名残ノ表と称し、
其裏面には八向を記して。之を名残ノ裏といふ、
而して各懐紙の一面に記したる部分を面と云ひ、
裏と二ノ表と、二ノ裏と、三ノ表と、三ノ裏と、名残の表と、各二面を合して見渡しと称し、
一二三名残等の各表裏二面を合して、同懐紙、成は折と称す、
其初表の第一句を 発句と称し、次の短句を脇、或いは入韻と称し、次の長向を第三と云ひ、
最終の句を挙句と云ふ、是慶安新式以来、連俳時代に至るまで、
百韻連歌に一定したる形式及び名称なり。
其の百韻を二分したるものを五十韻と云ひ、百韻十個を集めて千句とす、
五十韻と千句とは、當時百韻に次で殼も多く行はれる。

  また新式に規定せし主要なる部分に、後世の所謂指合去嫌なるものめり、
庵一句の物、即ち一巻の連歌中唯一度より用ふべからざるもの(若葉郭公等)、
  二句の物(野辺、待戀等)四句の物、五句の物、或は可嫌打込物、
即二句以上も隔つべきもの(居所に村、日に月次の月等)可嫌同懐紙物、
可隔三句物、可隔五句物等を規定し、
或は春秋、戀の句は三句以上五句に至るべし。
夏、冬、山類、水辺は三句以上に渉るべからずと定め、
其他輪廻、遠輪廻、本歌取等の法則あるの外は、唯僅かに賦物の取方等を記するのみ。

宗祗が『吾妻問答』にも、

 此の道の再興は、故二條摂政殿好みすかせ給て、好士を撰ひ給ひしに、
その頃の達者善阿、順覚、救濟、信照、周阿、良阿など侍るや、
當時も千句など云ふ事侍れども、式目を定め法度を正しくせられて、
末代に其旨を守るは、彼御時よりの事なれば、此折節をさして、上古とは可申や、
句の様も長高く有心にして、歌に其心等しく、殊勝の事多く侍り、
然はあれど、歌の継句などの様に云ひかけて、一句に其理なきも侍りけるにや、云々。
また曰く
  連歌に、或は歌の上の句、又下の句とて、あしきよしを申は如何。
答云、
至て昔はさやうの戒なし、侍公、周阿等の時までも、さやうに有りしなり、
    秋はてぬいまに山田のいねよとや
  是は侍公の句也、……此句に、今川了俊付侍しなり、
    鹿おふ聲そ里にきこゆる
  ……かやうの句付は歌の上の句下の句と可申候哉云々。

尚、一般の歌に就て、基俊が『悦目抄』には、左の如く云へり。其の頃の歌人の心得の如何を知るに足らん。
  歌をよまんには、歌を先する事為るべからす、先題につきて縁の字を求めよ、
  三あらは三所に置くべし、二あらば、めいくたいくもじはかたと腰とに置くべし、
一あらば一ふし題によむべし、緑の字なぐば、縁の字を尋ねて置ぐべし、
縁を求めずして歌を先立つる事は、材木なくして家を造らんが如しと云へり、云々。
 
古き歌の第一二句を取りて、今の歌の第三四に置き、
また古き第三四の句を、今の第一二に置く事、先達の教え久しうなれり、
かくて上下をちがふる事も、また度重なれば、例の事かと見る、
また花の歌を本として、紅葉の歌に改め、
雪の歌を取て霞の歌によみなどしたるを見れば、
題目はあらねども、心詞總て本にかはる所なし。
只花の歌を花に、月の歌を月に歌をはたらかさずして、
  しかも其心をかへて、其心をめづらしくよまんと思ふべし、
また古き五文字を七文字になし、例へば五言詩を七言に作るが如し、
七字をも五字につゞめ、若くは七字をも二句にかけてもよみつべからん詞を、
必古歌には一句にこそあれと云ふ事なり、
乱りてもよみ侍るべきにや、かゝらでは、いかにとして異ふ所有るべしとも見えず。

剽竊、焼き直しを巧みにするものを以て、歌の能手なりと心得紀るは、如何にも幼稚なる事にして、彼等が徒らに古格に拘泥し、毫も辞意を出さんとするの念なかりし事を想ふべし。
應永の頃、斯道の達人に、勝部師網入道梵阿といふ連歌師あり、一條兼良もその門に入りて、深く連歌に心を寄せたり、其の他、心敬、専順、智温、宗倡、能阿、行助等、何れも有名にして、就中、行助の門よりは、高山民部時主人道宗砌、並びに斯道中興の祖と仰がるゝ種玉庵宗祗の如き諸名家を輩出せり。
 宗祗の傳詳かならず、彼れ壮年の比より、刻苦して連歌を學び、種玉庵まち自然齊といふ、或る年中秋三五の夜、一天雲に蔽われて月を見る能はず、宗祗即ち、
    ひとヽせの月か曇らす今夜かな
と読み、また述懐して、
    世にふるは更に時雨の宿かな
と吟ず、芭蕉が「世の中は更に宗祗の宿りかな」と慕ひたる此の事なり、文亀二年七月二十八日相州湯本の客舎に歿す、行年八十二、辞世
    はかなしや鶴の林の煙にも
      立おくれぬゐ身こそ恨むれ
慶安の新式目成るの後八十年、後花園院の享徳元年、一條兼良は宗砌と倶に、新式目に、追加改訂を行へり、世に之を、「新式追加」と称す、次で明應四年、宗祗に内勅ありて、『新筑波集』を選せしむ、連歌の達人。爾来、彬々として輩出し、室町時代の文藝界に燦爛たる光彩を發せしめ、連歌は此に至て全盛を極めたり。左れば連歌の見るべき者は、皆この足利の時代に出で、作者としては、推さるゝ所の、兼栽、専碩、宗長、肖柏、宗長、周桂、宗養、昌休、紹巴、慶友、昌叱、昌琢の輩相次いで現はる、
新式追加制定の後四十九年、後柏原院の文龜元年、牡丹花肖柏勅を請て、逍遥院實隆と倶に、新式追加を更に堵補したり、世に之を新式今案と云へり、連歌の式は此に至て梢や大成を告ぐ、左れど物盛んなれば衰ふるの喩に漏れず、初め連歌の變體として起りたる狂連歌は、宗鑑、宗武の機智滑稽に因り、巧みに俗語を使用して、大に其の狂想を発揮し、形を俳諧と變じて、雄を詞壇に争ひ、連歌は何時しか俳諧の勢力に厭倒せられて、復た大に気焔を吐く能はず、加ふるに連歌界には、宗鑑、守武と相対するに足るべき非凡の鋭才なく、沈滞に沈滞を重ねて、漸く將に衰頽の状を呈せんとするに至れり。

第四章 連歌の格調


増補 日本俳諧史(1)第二章 連歌の起源  池田秋旻 氏著 東京 不朽社

2024年06月17日 14時44分53秒 | 文学さんぽ

増補 日本俳諧史(1)第二章 連歌の起源 

池田秋旻 氏著 東京 不朽社

第二章 連歌の起源

 

日本文藝史の起源は、遠く上古に発し、其の書籍に現はれたるは、『古事記』、「日本紀」等の歌謡を初めとし、之に次で發達したるは、三十一文字の短歌なり。短歌に次で起りたる遊戯文字に、連歌と称するものあり、連歌はもと、二人にて、一首の歌を詠じたるに始まる。此事に就き、二條良基は『筑波問答』

に記して曰く。

 

 問云 連歌はいづれの代よりはじま心にや云々、

答曰 古今仮名序に、貫之のかける、あまのうきはしのえびす歌といふは、則連歌也、

先おほ神の発句に、

     あなうれしゑやうましをとめにあひぬ

とあるに女神のつけたまはく、

     あなうれしゑやうましをとこにあひぬ

と付け給ふ也、歌を二人して云ふを連歌とは申なり、

二柱の神の発句、脇句にあらずや、此句三十一字にもあらず、

みじかく侍るは、疑なき連歌と、翁心えて侍るなり、

古の明匠達にも尋ね申侍りかば、まことにいはれ有りとぞ知られし、

又連歌とていひ置たるは、先に申侍りつる様に、

日本紀に景行天皇の御代、日本武尊(やまとたける)の、

あづまの夷治めに向ひ給ひて、此翁か此比すみし、筑波を過て、

甲斐国酒折宮にとどまり給ひし時、日本武尊御句に、

     琲比摩利、菟筑波塢須擬底、異玖用加禰菟流

    (にひまり つくばわすぎて いくよかねつる)

すべて付申人のなかりしに、火をともすいはけなき童の、付て云、

 伽賀奈倍底、用珥波虚々能用、比珥波菟塢伽塢                            

    (かがなへて よにはここのよ ひにはとをかを)

 と申侍ければ、命ほめ給けるとなん、其後満葉集に入りたる家持卿の、

      さほ川の水せき人てうゑし田を

    といふに、尼、

      かるわさ稲はひとりなるべし

    と付侍る、

かやうの事共、次第に多くなりて、『拾遺』『金葉』などよりは、勅撰に入侍るなり、

されど雁一句づつ言すてたるばかりにて、五十句百句に及ぶ事はなかりき。

 

とあり、之れを遠く二神の世に起れりとする事の、牽強附合たるは云ふ迄もなく、また日本武尊の御句の如きも、寧ろ片歌の問答にして、未だ歌詠の體を為さざれば、之を称して連歌と云ふも、聊か當らざるあり。殊に日本武尊の御句に附けたるは、火をともす童にあらずして、火焼の老入たる事は、『古事記』

に明らかに記載さるゝ等。良基の云ふ所も、悉く信を置くに足らずと雖も、家持の「さほ川」の歌は、正しく三十一文字の歌を二人して詠じたる初めのものにて、『八雲御抄』にも、之を以て「連歌の根源なり」とせる事、恐らく妥當の説なるべし。然らば「筑波」の二字を以て、後来迎歌の集に冠するは何故ぞ、是

れ日本武尊の「にひばりつくば」の詠が、其の起源たる故に非らずやとの議論を為すものあり。此の説、一應尤もなるが如くに聞ゆれども、連歌集の名に、「菟玖波」の文字を、初めて用ゐたるは二隆良基にして、宗祗、宗鑑以下のものが、同じぐ之を使用したるは、皆良基に倣ひたるに過ぎず、畢意是れただ良基が、「にひばりつくば」の詠を以て、其の起源と為したりといふを證する迄にて、若しも眞正連歌は、五七五七七の格にかなひたるものならざるべからやとせば、「さほ川」の歌こそ、最も適當せるものと云ふべけれ。


増補 日本俳諧史(1) 池田秋旻 氏著

2024年06月17日 14時09分25秒 | 文学さんぽ

増補 日本俳諧史(1) 池田秋旻 氏著

 

東京 不朽社

 

 頃日書肆我が草廬を叩いて日、今回絶版同様に成て居た、日本俳諧史の版権を譲り受けましたので、之を改版して発行します、願くは先生の序文を頂きたいと云ふのであつた。

予日本書は既に故人角田竹冷、内悲鳴零雨氏の序文ありて十分なれば之れに予が序文などを添ふるは所謂蛇足の謗りを菟がれずと、主人曰く両翁の序は全く初版のもので、今回私が発行せんとするものは、著者の増補あり、巻頭の詞ゐりて聊か初版のものとは面目を異にする所あり、仍って予の序を需むるは茲に改版の一囲劃を立てたるの證としたいと云ふのであつた。

 従来の俳諧更にして其體を得たるもの殆ど絶無と云ふて大過はない、否な獨り俳諧の歴史に止まらず他の歴史とか、正史とか云ふものにても後世に至りてより以上の新発見があれば、舊来のものは更に價値なきものになるのは常然の理である、況してや古俳人の散漫なる頭脳で捏ち上げたる怠惰や、系譜が正確であるべき筈がない。譬へば四百年来斯道の鼻祖と称して居る荒木田守武の「獨吟千句」は俳諧連歌の根源であると書き傳へ言ひ傳へ來つたものが、今日俳諧連歌の創始者は東山時代の相阿彌であると云ふ説が出て、斯壇に最も名高き松永貞徳や、芭蕉翁の生年月が不確かであるなど其一例を以ても類推さるべきである、さればこそ輓近俳道に史的研究が流行し來つて、今や斯道の雑誌にして史的に関する記事を載せざるものは殆ど罕(まれ)れである、此秋に於いて俳人以外の人で學問識見ある著者が編し置かれたる、日本俳諧史の改版をなして以て斯道の参考に資するは、大に機宜に適したるの擧にして主人の用意至れりと云ふべきである、予は本書の内容全部を悉ぐ承認する譯にはいかないが、主人の懇望により聊か卑見を述べて爰に其の需に応じた次第である。

 

伊藤松宇 識

 

第一篇 芭蕉以前の俳壇(前期)第一章 連歌、俳諧時代

 

日本俳諧史は、延徳三年(1491)、俳諧の開拓者たる山崎宗鑑が、武門を去りて摂州尼ケ崎に閉居し、風波韻事に身を委ぬるの時を以て、筆を起すを普通とし我等も亦之れを至當となせり。然れども更に其の起源を知らんと欲せば、勢ひ俳諧の前身たる連歌の発端に泝(さかのぼ)らざるを得ず。而して叉、俳句をして眞に文學的作品たらしめたるは、全く元禄の芭蕉なれば、厳正に俳諧史を区割りせんには是非とも芭燕以前を第一期とし、之れを出発點として、二期三期を定めざるべからず。然るに連歌時代より、蕉風時代に至るには、宗鑑、守武、貞徳の俳諧を叙し、進んでは宗因の談林、鬼實の伊丹風等にも及ばざるを得ず。返船多端にして、人物事故また梢や煩雑なり。故に本史は、記述の便宜上、其の巻頭に芭蕉以前の俳壇を置き、これを前後の二期に分ち、前期に連歌と俳諧とを記し、後期に談林風と伊丹風とを述べ、以て連歌が、如何にして眞正俳句に達したるかの径路を示さんとする。而も目的とする所は、連歌に非ずして、俳諧にあるが故に、宗鑑以後の俳諧を叙して、談林旗揚の以前に至るを以て、本章の主要なる記載事項となす。連歌、俳諧は、室町幕府の當時、南北両朝對立の頃より、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、(1392)南北統一して、政権足利氏に帰したる東山時代に於いて、最も盛んに行はる。時恰も戦乱の後を承け、文教大に衰へ之が命脈を維持せるものは、堂上の公卿、五山の僧侶等、僅に小数の人に過ぎず、禅僧は當時唯一の博識を以て目せられ、政治の指導者も、外交の祐筆も、概ね之を憚僧に取る、隨つて仏教の思想一般に流布し、室町幕府前半期に於いては、著作として、僅に北畠親房の「親皇正統記」、兼好法師の「徒然草」、其の他は生命なき和歌の勅選集数部を出したるのみなり。然るに其の後半期に於いては、時の前軍足利義満の嗜好と共に、文學芸術を奨励し、仏畫。土佐繪、宗元畫、茶人派、狩野派、雪舟派等の繪畫。及び猿楽、能藝より、謡曲、狂言、御伽草子、戦記史伝の類に至る迄、著しく発達し、太平記、義経記、曾我物語等否の名著も亦此の間に成れり。

連歌俳諧は、此の時代の産物にて、連歌の達人、善阿、救済、周阿、心敬、宗砌の徒は、鎌倉後期より、室町幕府の前期に出で、有名なる連歌集『菟玖波集』の成りしは、延文十一年曾氏病死の前三年に當り。其の後百三十二年を経て、延徳元年、宗鑑尼ケ崎に閑居し、其の著『犬筑波集』は永正十一年代に公にさ

れ。更に二十五年を経て、守武の「獨吟千句」あり。然れども連歌と俳諧とを全く二物となせる、松貞徳が、俳諧宗匠を免許せられ、「花の本」の称号を賜ひたるは、慶長三年秀吉薨去の年にして、其の後の俳壇は、全く徳川時代に屬する事を知らざるべからす。

 


岡田野水 『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著

2024年06月17日 05時04分11秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

俳諧誌上の人々 岡田野水

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)

一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)

 

 

 荷兮・杜国と共に「冬の日」以来尾張蕉門の古老なる野水は、通稀備前屋友治右衛門、宜斎、薙髪して轉幽とも號した、醤油商を営み、町総代を勤めた。

 許六の「歴代滑稽談」に……路通、荷兮、野水、越人、木因は勘富の門人とあるが、支考の宜傳なることは荷兮の條に述べた如くである。越人の「猪の早太」には「もとより野水も越人も虚誕の徒をば鼻であしらひ、物にたじろがぬ気象を支考心にはなはだ妬み、野水、越人二人は翁勘当と浮脱を世上へひろめたり」、「何程貴房達鐘の批判あるとても、野水、越人は自然の風骨すぐれたるに、久しく翁に隨侍」云々とあり、元禄七年芭蕉が、最後に名古屋を通過する際、野水亭に立ち寄りたる事に就いて「ただ翁をはら立好キにに書きなさるゝ事、難じてあまりあり、さほどの越人、野水を見かぎられたれば、江戸より帰りにも、また名古屋は沙汰なしにして通らるゝ筈也、しかるに野水新宅へ入、飛騨の工の発句まであり」と云って居る。その句、

      野水亭

    涼しさを飛騨のたくみが指圖哉   芭 蕉

此句また、

    涼しさは指圓にも知る住居哉    芭 蕉

とも傅はって居る。野水と云へば「雁」の句が必ず附物である。

 

素堂曰く、

    麦喰し雁と思へどわかれ哉

  此句尾の野水子の作とて、芭蕉翁の傳へしを、なをさりに聞しに、

さいっ比田野へ居をうつして實に此句を感ず。

  むかしあまた有ける人の中に、虎の物語せしに、とらに追はれたる人ありて、

獨、色を變したるよし、誠のおほふべからさる事左のごとし、

猿を聞て實に下る三聲のなみだといへるも、

實の字、老杜のこゝろなるをや。

      猶雁の句をしたひて

    麥をわすれ華におぼれぬ雁ならし  素 堂

 

 野水は宗和流の茶道を愛好し、晩年はこれが為俳諧に遠ざかった。「名古屋市史」に曰く、

 

 宗和流は金森宗和に起る、宗和は飛騨の領主金森長重の子にして、茶道を父に学ぶ、長重は利休の高足道安の門なり、宗和罪を父に獲て京都に蟄居し、剃髪して宗和と號す。明暦二年に卒す。其の門に北野松梅院の俊岳あり、當地京町の鐵屋正三郎その門に入り、宗和流傅授を受け中島正員と称し、茶道宗匠と為る。千家流行以前、宗和流は皆此人の門人なり。正員の友人に岡田佐左衛門(備前屋)と云ふ呉服商(現金売の祖)あり、大和町に住して名古屋の町総代を勤めしが、退役して後、宜斎又は轉幽と號し、風流好事の者とて、芭蕉の門に入りて俳諧を學び野水と称す、頗る名聲あり、正員が勧誘によりて茶事に入り宗和流を習得する、花井七左衛門(岡田の跡役として総町代となる)、伊藤治郎左衛門(道幽、茶屋町呉服商)みな同時勃興して、宗和流に帰す。

 岡田野水、嘗て上京の時、宗左に謂て曰く、名古屋の茶友其師に、乏し、願くば門人一人を下して尾州の茶事を指輝せられん事をと、宗左曰く云々。

 

これにより町田秋波が擢でられて名古屋に下り、多くの人々を教授したが、伊藤治郎左衛門の千家流荼這を學ぶを見て野水は曲全斎、太郎庵等に千家を學ばしむると共に、自らも京に上り宗左の門に入りで學んだ。尾州に於ける千栄流茶道は伊藤治郎左衛門、岡田野次によって隆盛になったものと云ふべきである。

 晩年は全く俳句に遠ざかったらしく、井角軒白主の「寛保百韻」に曰く、

 

……野水老人今にながらへておはすよし傳ありて、第三の句を乞しに、今は其筋のこともいとひ、一劫専修の法の人となりて、このことゆるさざりしを、ひたすらに乞請るを旅宅近き人々にいひ合せて百韻を催し侍るに……

      時に寛保はじめの春三月      自 叙

      五十とは白髪天窓よ花心      自 主

      嚇りそろへ百々の壽        沾 山

      盃は流るゝ亀とつれたちて     野 水

      永さよ今朝事は忘れる       巴 雀

      端折は誉められて子は歩み出し   試 中

      峠の茶屋も田時なりけり      八 龜

      月夜よし跡の月見は降られたに   五条坊

      染め直さず松の老楽        菊 兎 

(以下略)

 

寛保三年三月廿二日歿す、享年八十六、名古屋門前町大光院に葬る。

    峰の雲少しは花も雑じるべし

    行く春や蕨ほうけてつねの草

    蕗の茎や一夜泊りの留守の垣

    永き日や油〆木の弱る音

    聞き居ればたゝくでもなき水鶏かな

      世を早く妻の身まかりける頃

    水無月の桐の一葉と思ふべし

    一色も動くものなき霜夜かな

    初雪や今年植えたる桐の木に