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 内藤丈草 『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

2024年06月09日 17時09分51秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

俳諧誌上の人々 内藤丈草

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)

一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)

 

 尾張(おわり)の北端(ほくたん)犬山(いぬやま)の藩士(はんし)、幼名林之(ようみょうばやしこれ)助(すけ)、後(のち)、林(はやし)右(う)衛門(えもん)と改めた(あらためた)。

懈窩、佛幻庵、太忘軒、その他青年時代には種々な號があった。

父は源左衛門、百九十石を領したといふ、渠(彼)の生年に就ては寛文元年、同二年、同三年説等があれど、筆者は今第一の寛文元年説に従っている。

後に蕉門に帰依した季吟門の露川とは、年少時代からの友である。渠が九歳の時、

    発句して笑はれにけり今日の月

の吟ありし事は、「龍ケ岡」等に記載する所である、これは菩提寺瑞泉寺にて、借どもが月見の會をなせ

る所へ行き合せ、一句せよと云われて作つたものとの、口碑が傳はつて居る。光聖寺の玉堂和尚に参禅したのは二十歳前後からであらう、名利に淡泊な渠の人格は、禅の修養による事甚だ多いであらう。

| 幼年の頃母を失ひ、間もなく来た継母に男子が生れた。継母の心を洞察した渠は、異母弟に家を継がせうと遁世のこころざしを抱くに至った。去来は丈草誄に「其の弟に禄を譲らんと、かねて人知れず病に云い寄られ侍る」と云って居る。指に病があったと傳えられ、或は自ら親指を裁断して、刀の柄握りがたしといふ口實のもとに、致仕を願ひ出でたとも傳へられる。「枇杷園随筆」に、

 

        甲子仲秋五鳥訛自截指闘

     截断指闘犬阿剣  供託端的勢還瞞

     血流染出秋林色  咲倣空拳紅葉看

 

といふ丈草の真蹟が、犬山の岡田氏にある事が記されて居る、

甲子は貞享元年、五鳥は五日、訛は過に同じ、即ち過て指頭を截断した事があって出来た詩である。

倶低は倶胝の書写の誤と思はれる。禅宗無門關に、

「倶胝和尚凡そ詰問すれば唯た一指を擧げす、後に童子有り、因に、外人問ふ、

和尚何の法要をか説くと、童子亦指頭を竪つ、胝聞いて遂に刀を以て其の指頭を断つ、

童子負痛號哭して去る、胝之を召す、童子頭を廻らす、胝却って指を竪起す、

童子忽然として領悟す」

といふ公案を、常時禅に熱中してゐた渠が詩にしたものである、截断したのは事實らしいが、過てか故意にか、それは判らない。

     多年負屋一蝸牛  化倣蛞蝓得自由

     火宅最惶涎沫盡  追尋法雨入林丘

     涼風にきゆるを雲のやとりかな

 

と吟じて古郷犬山を出で、洛に行き犬山以来の奮友、当時仙洞御所に勤めてゐた五雨亭史邦の許に身を寄せた、それが「截断指頭」の詩の出来た甲子なれば、貞享元年廿四歳であり、龍ケ岡に傳ふる如く元禄元年たれば廿八歳の時にあたる。そして史郎の手引によって芭蕉に入門した。

 

元禄二年、奥の細道の大行脚から帰った芭蕉は、翌三年、石山の奥の幻桂庵に僑居した。門人どもは代わる代わる訪れて、几右日記に句を留めて居る、丈草の句は見付からないが、「俳諧芭蕉談」には、鬼實が元禄三年九月廿一日に幻桂庵を訪れて芭蕉と附合があり、丈草の

    御膳がよいと松風のふく

と,いふ付句に鬼實が「始めて俳諧無心新着を知った」と丈草の手腕に敬服して居る條がある。然しこれは虚談である。何故なれば鬼實が幻住庵を訪れた話は、鬼實の「禁足の旅記」に源を発したものであり、禁足の旅記は鬼實が室内での戯作である事は、鬼實の存生中に伊丹から出た「在岡逸士傳」に明記されて居るからである。

 翌年の初夏、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞留した、この時も多くの門人が往来し、渠も訪ねて次の詩句を賠貽ってゐる。

       題 落柿合

    到深峨峯佳鳥魚  就荒喜似野人居 

    枝頭今缺赤虻卯  青葉々頭堪學書

       尋 小督墳

    強撹怨精出深宮  一輪秋月野村風

昔季僅得求琴頷  伺虚孤墳竹樹中

 

芽出しより二葉に茂る柿の實   丈 草

 

 蕉風の醇の醇なるものとして、俳諧史上不滅の名著「猿蓑」の編纂されたのは、この元禄四年である、編者は去来と几兆、其角は序を而して丈草は跋を認めた。

    水底を見て来た顔の小鴨かな

    我事と鯲(どじょう)のにげし根芹かな

等々渠の作は十余句収められて居る。

 

芭蕉は四月十八日がら淹留した落柿舎を、端午の日に出て湖東の無名庵に帰った。

八月には三夜の月を観んとて、十同日は楚江亭、十五日無名庵、十六日は堅田に遊んだ。

十五夜無名庵に於ける興趣は、「月見賦」によって窺ふ事が出来る、曰く、

「ことし琵琶湖の月見んとて、しばらく木曾寺に旅ねして、膳所松本の人々を催すに、

乙州は酒をたづさへて泉川に三日の名をつたへ、正秀は茶をつゝみて信楽に一夜の夢を覚す、

こよひは茶と云、洒と云、かたはらの人も二派にわかれて、洒堂は燈にかたぶきて

其の茶に玉川が歌を詠じ、丈草は月にうそぶきて其酒に楽天が詩を吟す、

支考はわかく木節は老ぬ、智月は物の覚束なう、かつぎひあまのなまうかびならす、

それが中にも惟然法師は酒におどろき茶に感じ、ほむるもそしるも惑に吹て、

こゝに三子者の志をためざらんや……

 

 それから三盃の興に乗じて湖水に舟を浮かべ、尾花川を遡って千那、尚白をおどろかしたのは、五更を過ぐる頃であった。渠は酒客であったらしい。

 

 元禄七年九月、伊賀を出立した芭蕉は、奈良に入りて古都の秋色を賞で、浪花に行き、そちこちの俳席に招かれてゐる内に発病したので、遠近の門葉が馳せ集まって看病をした。

「花屋日記」によれば去来・支考・惟然等十人が住吉神社に句を献じて、師翁の平復を禱った、その時渠の句は、

    峠越す鴨のさなりや緒きほひ

といふのであった。又、病間を見て或る夜の門人どもの句々を惟然が吟聲したるうち、

    うづくまる薬のもとの寒さかな   丈草

の句を

「師、丈草が句を今一度と望みたまひて、丈草出来されたり、

いつ聞いてもさびしをり整いたり、面白し面白しと、

しは嗄(か)れ聲もて讃めたまひけり」などの文が見える。

 

芭蕉歿後、粟津の龍ケ岡に佛幻庵を結び、三年間この草廬に籠って一石一字の法華を書寫し、経墳を築きしといふ。

  傘と剃刀をさへも持たぬ身の上かなと、よしなき貧乏自慢がこうじて、

明日ある人のもとへ斎によばれ候に、髭は汁をすゝるに邪魔になり、

雨は衣の袖しぼらんことを思ふに、ひしと困りはて申候まゝ

御無心申入候、よくよくとぎすまして一丁、たとへやぶれかゝりても

一本御かし可被披下候、委しくは参りて可申し述候

 

といふ書簡、或は去来が訪ねたるに

「夜着蒲團のないをとり得に、炬燵にはなし明し」などといふ消息が残って居る。

 

そこに幾分文人の虚誇があるとしても、その生活の簡素ぶりが偲ばれる。その情操はかくれなく、芭蕉歿後東西の門人が丈草を慕ひしこと、「雅文せうそこ」其他に見えるところである。

 

元禄十七年二月二十四日、怖幻庵に示寂、享年は四十四、四十三、四十二等生れ年の不明確から色々な説がある。墓は龍ケ岡の東林の中に、水田正秀の墓と並び、「丈草」と刻んだ二尺程の自然石である。

寝翰草、驢鳴草(稿本)等の著がある。

 

うぐひすや茶の木畑の朝月

白雨に走り下るさゝ濁り

    時鳥啼くや湖水のさゝ濁

    つれのある所へ掃ぞきり

 


素堂と芭蕉 寛文10年

2024年06月09日 14時52分08秒 | 山口素堂・松尾芭蕉

◇寛文10年 庚戌 1670 素堂29才

 

** 俳諧周辺 ** 『俳文学大辞典』 角川書店

 この年、貞室、『五条之百句』で貞門俳家を論評。

 『大和巡礼』刊。大和俳家撰集の嚆矢。

 書『寛伍集』『続境海草』『天水抄(令徳編)』『誹諧詞友集』

『俳諧洗濯物・洗濯砧』『物名誹諧千句』『立圃追悼集』

参七月、下河辺長流『林葉累塵集』刊。

一〇月、林鷲峰『本朝通鑑』成。

 

** 芭蕉発句 ** 27歳

伊賀上野住、岡村正辰編『大和巡礼』

内山や外様知らずの花盛り

五月雨も瀬ぶみ尋ねぬ見馴河


寛文9年 素堂と芭蕉

2024年06月09日 14時50分27秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

◇寛文 9年 己酉 1669 素堂28才

▽素堂、『一本草』発句一入集。未琢編。

(俳号、信章)

化しかハり日やけの草や飛蛍    信章

 

【未琢】生(?)~天和二年(1682)歿。年七十余か。

        本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。

 

【註】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

石田未琢 いしだ-みたく

 江戸時代前期の俳人。

石田未得の長男。石田意深の父。江戸神田にすみ、狂歌もよくした。寛文九年に編集した「一本草(ひともとぐさ)」は初期の江戸俳壇の全容をつたえる。天和(てんな)二年三月二十日死去。

七十余歳。通称は要之助。別号に艮堂,坤庵など。

【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク

江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、 両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) 』 (一六六九) は未得の遺志 による ...

 

** 参考資料 ** 『俳文学大辞典』 角川書店

 

秋、三千風、剃髪し、仙台に赴き一五年間居住。

この年、惟中、宗因に入門か。

書『狂遊集』『筑紫紀行』『百五十番誹諧発句合』

歿安静?・未得八十三才・立圃七十五才。

『あだ花千句』『河舟付徳万歳』『休息歌仙』『言葉よせ』

『集配戒』『武蔵野千句』)

参この年、宇都宮遜庵『日本古今人物史』刊、古代より貞徳にい

たる人物評伝。

この年、貞室、『五条之百句』で貞門俳家を論評。

『大和順礼』刊、大和俳家撰集の嚆矢。

書『寛伍集』『続境海草』『天水抄(令徳編)』『誹諧詞友集』

『俳諧洗濯物・洗濯砧』『物名誹諧千句』『立圃追悼集』

参七月、下河辺長流『林葉累塵集』刊。

一〇月、林鷲峰『本朝通鑑』成。

 

** 芭蕉発句 **

◆寛文9年(1669)26歳

伊賀上野宗房  荻野安静編『如意宝珠』

花にあかぬ嘆きやこちの歌袋

桂男すまずなりけり雨の月

 


寛文8年 素堂と芭蕉

2024年06月09日 14時49分01秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

◇寛文 8年 戊申 1668 素堂27才

▽素堂、この年刊行の加友撰、『伊勢踊』に発句五入集。

【註】寛文七年の項に前掲。(俳号、信章)

  加友生没年不詳、寛文頃六十~七十才で歿か。

 伊勢国松坂樹敬院の住職。はじめ望一門、後に貞徳に従う。季吟とも交遊がある。素堂との関係は定かではないが、素堂句のみ前書があるのを見ても関係の深さが偲ばれる。

 

**芭蕉発句 寛文8年(1668)24歳

 

寛文8年(1668)25歳

波の花と雪もや水の返り花


素堂と芭蕉 ◇寛文7年 丁未 1667 素堂26才 芭蕉24才

2024年06月09日 14時45分48秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

◇寛文7年 丁未 1667 素堂26

素堂、この年に加友撰、『伊勢踊』に投稿か。    

『伊勢踊』素堂翁句初見 春陽軒 加友撰 

◎松阪市史、第七巻所集 寛文七年(1667)著 八年刊。

  伊勢踊 加友編 序

紗の紗の衣おしやりしことは世中の狂言綺語にして一生は夢のことくなれともことにふれつゝ目に見こゝろに思ひくちにいふ霞舌の縁に引れてやつかれ若年のころほひより滑稽の道にをろかなるこゝろをたつさゆといへとも宰予か畫寝かちにおほくの年月を過し侍りぬまことに期すところは老と死をまつのおもはんこともしらす又爰にわれにひとしき二三子あつていはく此ころ諸方に何集のか草のとて誹發をあつむる事しはいまめかしされは都のえらひにうちのほせんをも流石に目はつかしまた田舎のあつめにさしつかはさんこともはたくちはつかしさはいへとをのれらうちこゝろをやりてなし置たるを月日をふる句になし行事いとくちおしくて予を時のはやりをとりの哥挙に物せよとよりそゝのかされて氣を瓢箪の浮蔵主になりつゝ足拍子ふみとゝろかし手ひらうちたゝきて人々まねきよすれは赤ゑほしきたるとち腰うちひねり頭をふりてわれもとうたひのゝしる小哥ふしらうさい片はちやうのものはいふにたらすは哥舟哥田植えうた巡礼比丘尼樵夫の哥なとをとりあつめて小町躍や木曾踊住吉踊土佐踊是はとこをとりと人とはゝ松坂越て伊勢踊と名付答る物ならし   ・寛文七年霜月日                    

** 伊勢踊 素堂入集句 **

 

予が江戸より帰国之刻馬のはなむけとてかくなん

    かへすこそ名残おしさは山々田     江戸 山口氏信章

 花  花の塵にましはるはうしや風の神

                          註…「はうし」は「法師」

餘花 雨にうたれあなむ残花や児桜

                           註…「児桜」は「ちごさくら」

相撲 取結へ相撲にゐ手の下の帯

                            註…「ゐ手」は「ぬき手」か 

相撲 よりて社そるかとも見め入相撲

                             註…「社」は「こそ」               

 

** 参考資料 ** 『俳文学大辞典』 角川書店

寛文 七年(一六六七)

一月、『誹諧小相撲』刊。諸国点者の批点を比較する俳書の嚆矢。

季吟『増山井』刊、以後の季寄せの範となる。

書『貝殻集』『玉海集追加』『続山井』『八嶋紀行』

『やつこはいかい』

 

芭蕉発句 寛文7年(1687)24歳

   号 伊賀上野 松尾氏宗房        

時雨をやもどかしがりて松の雪       「続山の井」

花の顔に晴れうてしてや朧月        (以下同じ)

盛りなる梅にす手引く風も哉

あち東風や面々さばき柳髪

餅雪をしら糸となす柳哉

花に明かぬなげきや我が歌袋

春風に吹き出し笑ふ花も識哉

夏ちかし其口たぱへ花の

うかれける人や初瀬の山桜

糸桜こや帰るさの足もつれ

風吹けば尾ぽそうなるや犬桜

五月雨に御物遠や月の顔
降る音や耳も酸うなる梅の雨

杜若似たりや似たり水の影

夕顔に見とるるや身もうかりひよん

岩躑躅染むる泪やほととぎ朱

しばし間も待つやほととぎす千年

秋風の鑓戸の口やとがり声

七夕のあはぬこころや雨中天

たんだすめ住めば都ぞけふの月

影は天の下照る姫か月のかほ

荻の声こや秋風の口うつし

寝たる萩や容顔無札花の顔

月の鏡小春にみるや目正月

萎れ伏すや世はさかさまの雪の竹

霞まじる帷子雪は小紋かな

霜枯札に咲くは辛気の花野哉