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 山本荷兮 『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著

2024年06月13日 15時43分18秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

俳諧誌上の人々 山本荷兮

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和しょうわ7年7ねん11月11がつ発行はっこう 俳書堂はいしょどう

一部いちぶ加筆かひつ 山梨県やまなしけん歴史れきし文学館ぶんがくかん 山口素堂やまぐちそどう資料室しりょうしつ

 

 

蕉風確立の第一聲をなす「冬の日」、次で出でたる「春の日」、「嚝野」等芭蕉七部集中の三部まで編みたる蕉門の故老荷兮は山本氏、通稲武右衛門、昌達といひ、橿木堂、撫贅庵等の號あり、尾張名古屋の人にて桑名町に住んでゐた。これは「蕉門諸生全傳」にあって、普通に行はれて居る説であるが、竹人の「芭蕉翁傳」には、尾張熟田宮の駅森田八郎右衛門 荷分とある。「蓬左荷兮」とは自らも云ひ芭蕉もさう呼んで居る、熱田神宮を蓬莱宮と云ひ、その左方に住したるの故ならんも、桑名町は名古屋市の中央にあり、是また熱田御宮の左方なれば、蓬左の號によつて熱田に住んだとも決し難い。

又「蓬左の人々」など「笈の小文」にもある。「尾張名家誌」に曰く……山本荷兮名未詳、號橿木堂、住于城南桑名街、學俳諧於桃青、後有故絶門、曾欲栄連歌堂於府下霊岳院内、有阻之者、以故終不果、憤怒之餘、発心疾云、其子格安、以博物顕、寶暦中歿、所著有書學要旨、六書開示、講文講録、隷書辨以、永物数、常禮端窣、文家名物数、星名考、燕石雑録、斎束談、郢書燕説、南柯夢談、尾張方言、随筆等。

 貞享元年の秋千里を伴ひ、野さらし紀行の旅を終へ

    狂句 凪の身は竹斎に似たるかな

と諷吟しつゝ名古屋に入った芭蕉は荷兮、杜国、野水、重五、正平、羽笠等に迎えられ歌五巻を興行し、翌年板行した。これが七部集の第一に数へられる「冬の日」である。この題號は五巻の歌仙何れも冬の季を以て起るからであるが、或いは第五巻の歌仙「霜月や鶴のつく/\ならび居て」といふ荷兮の発句に芭蕉の付けた「冬の朝日のあはれなりけり」の脇句によるとの説もある。

 

 次で貞享三年(1687)「春の日」を梓行した。「冬の日」の連衆に越人その他の新顔が加はつて居る。この題號の巻頭の、

    春めくや人さま/\の伊勢まゐり   荷 兮

の句に因るものである。渠は更に元禄二年(1689)「嚝野」を撰集上梓した。「冬の日」、「春の日」は各一冊であつたが「嚝野」は三冊八巻外には外あり七部集中の大集である。「冬の日」には編者を明記せず、「春の日」には越人と署名せるものあれど元禄十五年(1702)の俳諧書籍目録には荷兮とある。嚝野はその巻頭に「尾陽蓬左橿木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ:云々と芭蕉が序文を書いて於る。而して「俳諧芭蕉談」には……荷兮 野水等に後見して、「冬の日」、「春の日」、「あら野」等あり、越人「ひさご集」あり

幾落葉それほど袖もほころびず   荷 兮

    旅寝の霜を見するあかがり   芭 蕉

    今朝の月替る小荷駄に鞭當て  知 足

    里の踊りに野菊折ける     野 水

 其角なども名古屋を通る時は尋ねた。

    荷兮が室に旅寝する夜、草臥なをせとて箔つけたる土器出されければ

    かはらけの手ぎは見せばや菊の花  其 角

の句を残して居る。彼は尾張蕉門の代表者であるが、許六の「歴代滑稽談」には

……路通、荷兮、野水、越人、木因は勘當の門人なり……とある。また許六、李由共著の「宇陀の法師」に曰く、名古屋の荷兮、越人、あら野に眼明きたるに似たれども、「瓢」に底を入られ、湖南の連中は「猿

蓑」に關をすへられたる事、其時慥(たしか)に其風を得ずして血脈をつかぬ故也、何ぞ慥に風を得ば、自己に流行せず共、師にとりつき流行すべき事也、實は師の恩に依て名を顕し侍れば、底を入らるゝも理也、俳諧の底をぬくと云事有、抜けぬ作者日々ふるく成行也、先師の手傳にて撰者の號を蒙りたる人、天晴作者と見えて、その人何となくゆかしきに、師遷化の後に後葉を出して下手の尾を出し、初心の人に嘲らるゝ云々

 この「師遷化の後に後葉を出し」と云へるは、「嚝野後集」の事であらう。嚝野後場は荷兮の自序に……于時元禄癸酉とあり、癸酉は六年である。これが翌七年の冬芭蕉のこした後に至て開板されたものであらう。「続俳家奇人談」には……晩年師翁り勘気を蒙りしは、橋守といふ書を作れるよろおこれり……とある。が、橋守集は元禄十年(1697)の刊行であるから、死せる孔明生ける中達を走らずとは云へ、橋守集によって勘当されたとは憶測に過ぎないこと明である。去来と許六との間に行はれた「俳諧問答」の中に去来が曰く、昆陽の荷兮一書をつくる、書中所々先師の句をあざけると聞けり、我いまだこの書を見ず、かの荷兮や先師世にます内ひたすら信仰す、一とせ故あって野水、凡兆と共に先師に遠ざかる、先師そのうらみをすてゝ、遷化の年東武よりみやこへ越給ふ道、名古屋にいたりてかれが柴扉をたゝきて、一二日親話し給ふ、彼またこれをあがめ尊ぶ事舊日のごとし、翁遷化の時、東武の其角、嵐雪、桃隣等、東山に於て追悼の會を為す、かれ蕉翁の門人の数に加はりて着座す、今書を作りて翁を嘲る、最も惜むべきの甚だしきもの也、かれが心操をかへりみるに、翁在す時は先師を売りておのが浮世のたよりとし、先師歿したまひては、また先師を売りて初心のともがらを、今は先師に勝りたりと欺き導かんためなるべし、其の難するところ、誠に笑ふ可きのみ、我これが為に其僻耳を切って邪口を裂かんと欲す……

 

去来の云へる「一書」が何であるか不明なるも、温厚篤実な去来が右の如く赫怒する所をみると、よほどの事があったらしい。「嚝野後集」なれば、曩(さき)に出したる「嚝野」に殆ど同じやうなものであるが、巻順には幽斎、守武、宗鑑、貞徳、宗因等の句を置き、序文にも「ただいにしへこそこひしたはるれ」等の語あり、集中に芭蕉の句は、僅に両三句見ゆるのみである、別段嘲るやうな文字は無いが、師風を祖述する事に厚い態度とは見られない。許六が「俳諧問答」に「荷兮分別知れず、愚にかへりたると云ふべきもの哉」と云へるもこの事であらう。またこの問答は元禄十年から十一年にかけて行はれたものであるから、「橋守集」の事を云へるものかも知れないが、此書未だ寓目するを得ない。

 然し勘當説は、支考の捏致した虚説である。越人と支考と論争したる文書「割りかけの返事」の中に勘当とは是は先師のわるロとも申べし……とある。削りかけの返事は、支考が佯死し、支考の門人と称する渡擾狂0名を以て書いて居るから、先師とは支考自らの事である、帥ち虚説の流布者の支考が自ら斯う云って居り、これに対して越人は「越人・野水は翁勘当といひふれたる品玉のたね」云々、また「野水、越人を翁勘当にてはなし、是は貴房のわるロと、自ら白歌せらるゝは、先非を悔むの本心か」とも書いて居る。然し去来も云って居るやうに、何かの事情で芭蕉の機嫌を損じ、一時遠ざかった位の事はあったのであらう。

 元禄七年五月、多くの門人に見送られて江戸を立った芭蕉は、尾張に入って舊交の人々に對した。

        荷兮亭

    世を旅に代かく小田の行戻り    芭 蕉

の句があり、歌仙を興行して居る。如上の事実及び、謹厚な芭蕉の性格から見ても、勘常などした事があらうとは思われない。

    木枯らしに二日の月の咲ちるか   荷 兮

 これは「嚝野」に収録されて居る句である、当時よほど喧傳されたものらしく、冗峰の「桃の實」に「尾陽の荷兮このごろ世に凩(こがらし)の荷兮といへるは、木がらしに二日の月の吹ちるか、と云へる句よりいふ事なるべし、二月のぬしになりたる故にや」などある。「去来抄」にも、去来の木枯の句と比較して去来と芭蕉との説ある。感受的に鋭い處があり、古今風の句中稀に見る佳作、言水の凩よりも佳句のやうに思はれる。

      ある人四時の景物なりとて水鶏と鶉とを不食、

      其心を感じて我も雁を喰わず

    雁くはぬ心怖にならはぬぞ    荷 兮

 

 平蛛感

南山人王守乙、杖をもちて蛛のゐをやぶる、言は身をはたらかずして、工に食をもうくればなり、凡、生るものゝ数を見るに形をのくにて、こゝろも又異なり、鳥は雲に熾、魚は水にひそまる、蝿をとる珠は家たくして壁に走る、又土の中に帒をつくりてやどりとなすは、地を這ふ物をとるにや、三隅あるところに居をかまへ、空より落る物を待にや、吉備のおとゞに詩をよませ、貨萩に船をおしへ、我がせこがくべき宵なりとの給ひしも、その人の心にして、その蛛に心なし、しかし長安の摟に網を覆へば、朝な/\く竹箒にかけられ、豆のごとくに身をなし、しばらく人の眼を奪といへども、燕雀の患まぬがれず、また其類にして閑を得るものあり、平蛛といふ、板といたとの間にありて上つかゆることあらじ、五月雨やあらしの秋の夜も、住所ふかければしのぐにやすし、たまたま食をもとむれど、もすこしにて満り、彼杖のおもひなければ、睡にいとまあり、あふげば月、うつぶけば雲、此間に性を賦て平なる形を得たり、何ぞ守乙天然をしらざる事つたなし、我また此蛛を見て、我が性の均しきことをしりて、ものうりの聲たえたり。

    花の留守帰りもせぬに肴来る   龜之丞

      と申されけると傅聞て

    そのロつきを見たき㒵烏     荷 兮

 平蛛の感及び㒵鳥の附け句等は、曠野後集に収録する渠の作品である。まことに是等の句文により、荷’兮の人となりが惚ばれる。

  享歿年を明かにしない、元禄二年の「曠野」に、

      荷分が四十の春に

    幾春も竹共借に見ゆる哉     重 五

 の句見へ、それより四十年後の享保十四年(1729)に出た越人の「猫の耳」に、

    人丸は妹/\我はいもか ら   荷 分

 の句あるを見れば、可なり長命であった事が想像される。

    しん/\と梅ちりかゝる庭火かな

    のどけしや湊の晝の生肴

    まづ明けて野の末ひくき霞かな

    鵜のつらに笹こほれてあはれなり

      僧の路通おもひたつ心とどまらさりければ

    さみだれや夕食くふて立出る

    夏山や樗に続く水の上

    鹽魚の歯にはさかるや秋の暮

    秋の日やちら/\動く水の上

    草の葉や足の折れたうきりぎりす

    暁や伽藍/\の雪見廻ひ

    鉢たゝき驚かぬ世を腹立か

 


俳諧誌上の人々 各務支考 かくむしこう 高木蒼悟 氏著 

2024年06月13日 05時07分08秒 | 文学さんぽ

俳諧誌上の人々 各務支考 かくむしこう

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)

一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)

 

    蓮の葉に小便すればお舎利かな

 是は支考が還俗する時の吟といふ、いかにも支考らしい横着さが見えて面白い。寛文五年(1665)美濃國山縣郡北野村字西山に生れ、そこの黄雲山大智寺の磐珪和仰に養はれて、雛僧となりしは、「白狂傳」によれば六歳の頃なりしか。延宝三年(1675 十一歳)の秋大智寺内の紅葉を見て、佯

    いろは葉に出てゝ散りぬる紅葉かな

と詠みたりと自ら傅ふ。天和二・三年(1682・83 十八・九歳)の頃蓮の葉の句を詠んで寺を出奔、還俗して医術を修業し、伊勢に居た時涼菟にすゝめられて芭蕉の門に入ったといふ。獅子庵、野盤子、東花坊、酉花坊、白狂、梅花佛など十餘の號がある。博学にして能文達筆、傑物にはちがいないが、餘りに自尊心強く。唯我独尊病患者であった事及び芭蕉晩年の門人であった事まで、許六と頗る似通った點があ

芯が、昨六には何處か稚気満々といふやうな面白味あれど、支考にはそれも無い。

 論客といへば確かに俳壇稀有の論客であるが、その所諭多くは自己の利益の為に書いたものゝやうである。不易流行の神髄を得たるものは我一人のみであるとか。佯死して自己の著作を門人の名で弘めるとか。或は去来歿後その俳書を買収し、之によって多くり黄白を得たとか、どうも香ばしくない所行が多かったやうである。「白馬経」に自ら記して曰く、

 

 二十六歳より俳諧にそみ、奥羽行脚に葛の松原を説求めて、二十六歳に「続五諭」より、俳諧の一字の大綱を説けり、……古門人ども例の嫉妬より恨みも侍らむ故に、宝永八(1711)【筆註 改元は8月4日なので正しくは正徳元年】辛卯八月十六日身まかりしと世上へ跡を隠し、二代の蓮二坊と名乗り、又、相弟子に白狂と顕れ、和國に和文の法格を定め、  其餘は爰にあぐるもしるし云々。

 

 渠は屡々論争した、越人と不和を生じたるは、「芭煎葉ふね」によれば、越人が芭蕉から聞いて書留めて置いたものを支考が盗み取り、之を種に堭致したるものを、芭蕉より授りたる血脈なりと云ひふらし、剩(あまつさえ)へ越人は勘當の門人などと宜傳し歩きたるに素因する。元禄十一年(1698)に「続猿蓑」が梓行された、書中に支考独占の風あり、上巻巻頭に支考の「今宵賦」と題する文あり、然も文可ならず、下巻秋の部に芭蕉の句、

    名月に麓の霧や田のくもり

    名月の花かと見えて綿畠

の二句に就て「支考評」と題して長文の評があり、かゝる事は総て他の集に例なきところ、芭蕉撰と見せかけながら芭蕉歿翌年の、卯七、魯町、去来の句も収録せられ居り。或は「猿蓑に洩れたる」の句の巻頭に無き、抜文の怪しげなるなど枚挙の遑(いとま)なく、古くは越人より現代の露伴博士に至るまで、支考の偽著説が廣く行はれて居る。越人の「不猫蛇」に曰く、

'

法を破り妄言を以て偽書を出し、芭蕉老人死去の後、生前に秘事傳授を得たりと、愚昧の誣(しいる)をき銅臭を恥じず、酒食美服遊宴の利とす、「本朝文鑑」、何といふに詞なき馬鹿也、仰山なる題號、擬

もなく乱心物狂ひの至極也、末に云ふ十諭も此類計り也。人に高ぶり狸の草村を宮殿楼閣と見せ人を化かす如く、一つも實といふ事なし、無類の化物也。

 

「不猫蛇」に対して支考は「削りかけの返事」を以て駁撃した。越人は更に「猪の早太」を著して追撃した。支考と論争した者には越人の外に露川がある。然しながら、支考の言論文章は鶯を烏と云ひくろめ、自家の非を飾るに充分であった。越人も露川も言論文章に於ては渠の敵では無かった。他の蕉門の故老は渠の鋭鋒を避けて殆ど沈黙してゐた。茲に於て渠はいよ/\天下の俳諧を統一し、自家の俳諧を以て其の頂上に置かんとの、大野心を起したものであらう。得意の言説と著書とを以て人心収攬に努め、縷々旅行し、自分に都合のよい芭蕉の言葉を捏致し、偽書と詭辯と曲筆とを以て、太膽(だいたん)に一世を欺罔瞞せんとした。時折は面皮を剥がれ馬脚を顕はしながらも、酒々乎として只管虚名を博し勢力を張らんとした、その熱心且つ執拗さは、馬鹿/\しいと云はゞ云へ、其の徹底的態度は痛快でもある。

 支考が露川に送った文、所謂「露川責」に曰く「貴房は自己の作り事にて蕉翁を賣行人なれば、蕉門の紛れ者にして何方の評判にも俳諧は下手なれども、律義に無慾なる宗匠なりと思ひ迷ふ……今より前非を悔み給ひて、大概は俳諧を止給へ、貴房が身上喰兼ず着最少、人目には貪らぬ顔して、名聲の為に俳諧を飾り、後生は抜舌の地獄に落給はん事は、口過ならねば彌々無益の愚盲なり……」な どある。

自家の野心を押隠して露川の異端を責める厚かましさには、何人も舌を巻かざるを得ないであらう。

 

 去来の傅書云々の事は「隨斎諧話」に……去来死後の傅書、去来死後妾是を秘蔵す、支考乾字金十五両出して買い得て後、芭蕉翁直傳と偽り、其目六十條を作りかへて、己が門人を騙し、多くの金銭を貧れり と、十諭並に古今抄といふ書を撰で芭蕉翁の流儀なりと称して、自作の妄談を出す事数百条あり、嗚呼一人虚を傅へて萬人實を称す死して何の面目ありて、師に黄泉に見えんや、無間の罪おそるべしく/\とある。績猿蓑偽書説は「芭蕉柴ふね」其他にも所論がある。

 許六曰く「この坊不実軽薄にして先師身まかりて後の上手になりたるものなり……この坊発句大下手なり、一生秀逸の句五句となし、文章も仔細らしく書続け侍れど、口より奥まで趣意が通らす、言葉つゞき半分なぐり、終に決定したる所なし、何の格かの格と彼がいふは皆嘘なり……されども其質かしこく随分利根なる故に、人を迷はす所の罪甚だしく、もし乞食をする心なくば、世路に堕落せむ事多し、いまだこの二つの道分れず、今爰にさだめ難し」など極言して居る。許六と不和の原因は、許六が「風俗文選」を著し、「本朝文選」と題して梓行せんとしたるに、支考は[本朝]の二字遠慮すべき事を説いて「風俗」と替えさせて置きながら、支考自ら「本朝文鑑」を出したるに端を登して居るとは露伴翁の説である。

 支考を云偽するもの、その不實軽薄を憎まざるは無い。中に白露が「誹諭」に……支考が弘めし美濃流も、芭蕉翁に対して抜群の報謝なるべし……と云へるは、また一面の観察と云ふべきである。芭蕉の所謂「俗談平話」を如實に行った支考の美濃風も、俳諧弘布といふ黙から云へば、或は多少の功を成して居るとも云はれやう。支考は名響心強く、才を弄したる為人に嫌はるゝも、或は仮名詩を作り、或は日本風の漢文を創製して、斯文體の先駆者たらんとしたるなど、學ぶべきもの無きにあらず。自ら弔文を書いて死せりと號し、其後は自ら「先師」と呼びて、自著を弟子の立場より評釋して梓行したるなど、世人を愚にしたる態度、嫌味と云へば嫌味の骨頂なれど、また一面滑稽の感なきにあらず。が、古書が暴騰したる今日に於ても、支考の美濃派系統のものは、餘り高價にならぬ事ほどさやうに不入気な男である。                           

 

 怪傑支考も、その病中から最期の歌を書いた『文雁観』を読むと、さすがに哀れを覚える。

 

九月六日(享保十五年)より小便不通にして、二夜三夜のくるしみに、此時をかきりと親族の人々も驚き集まりける、八日岐山より鍼医者来りて夜すから術を盡す、明れは菊の九日なりけり、いささかしたりりけれは

    千代はいはす露の間嬉しけふの菊

 長月も後の五日頃ならん、鑑塔に詣でて道に逍遥のこゝろを

うらやましうつくしうなりてちる紅葉

      秋夜吟

気みしかし夜なかし老の物狂ひ

 十月十二日は故翁の正忌にして、帰りり花の明日をもしらす、病中の手向いとあはれにこそ

      芭蕉忌

    侍らんに行はや我も冬至の日

      神にも人にも捨られて

    娑婆にひとり淋しさむもへ置火燵(こたつ)

    臘八や痩は佛に似たれとも

    煤の日や蒲團に釣りて童事

 

享保十六年(1731)二月七日六十七歳にて歿す、大智寺中梅泉院に葬る、

葛の松原、笈日記、続五諭、俳諧十諭、阿誰話、本朝文鑑、三千化、東華集、四華集など編著二十餘種に及ぶ。