俳諧誌上の人々 山本荷兮
『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著
昭和しょうわ7年7ねん11月11がつ発行はっこう 俳書堂はいしょどう
一部いちぶ加筆かひつ 山梨県やまなしけん歴史れきし文学館ぶんがくかん 山口素堂やまぐちそどう資料室しりょうしつ
蕉風確立の第一聲をなす「冬の日」、次で出でたる「春の日」、「嚝野」等芭蕉七部集中の三部まで編みたる蕉門の故老荷兮は山本氏、通稲武右衛門、昌達といひ、橿木堂、撫贅庵等の號あり、尾張名古屋の人にて桑名町に住んでゐた。これは「蕉門諸生全傳」にあって、普通に行はれて居る説であるが、竹人の「芭蕉翁傳」には、尾張熟田宮の駅森田八郎右衛門 荷分とある。「蓬左荷兮」とは自らも云ひ芭蕉もさう呼んで居る、熱田神宮を蓬莱宮と云ひ、その左方に住したるの故ならんも、桑名町は名古屋市の中央にあり、是また熱田御宮の左方なれば、蓬左の號によつて熱田に住んだとも決し難い。
又「蓬左の人々」など「笈の小文」にもある。「尾張名家誌」に曰く……山本荷兮名未詳、號橿木堂、住于城南桑名街、學俳諧於桃青、後有故絶門、曾欲栄連歌堂於府下霊岳院内、有阻之者、以故終不果、憤怒之餘、発心疾云、其子格安、以博物顕、寶暦中歿、所著有書學要旨、六書開示、講文講録、隷書辨以、永物数、常禮端窣、文家名物数、星名考、燕石雑録、斎束談、郢書燕説、南柯夢談、尾張方言、随筆等。
貞享元年の秋千里を伴ひ、野さらし紀行の旅を終へ
狂句 凪の身は竹斎に似たるかな
と諷吟しつゝ名古屋に入った芭蕉は荷兮、杜国、野水、重五、正平、羽笠等に迎えられ歌五巻を興行し、翌年板行した。これが七部集の第一に数へられる「冬の日」である。この題號は五巻の歌仙何れも冬の季を以て起るからであるが、或いは第五巻の歌仙「霜月や鶴のつく/\ならび居て」といふ荷兮の発句に芭蕉の付けた「冬の朝日のあはれなりけり」の脇句によるとの説もある。
次で貞享三年(1687)「春の日」を梓行した。「冬の日」の連衆に越人その他の新顔が加はつて居る。この題號の巻頭の、
春めくや人さま/\の伊勢まゐり 荷 兮
の句に因るものである。渠は更に元禄二年(1689)「嚝野」を撰集上梓した。「冬の日」、「春の日」は各一冊であつたが「嚝野」は三冊八巻外には外あり七部集中の大集である。「冬の日」には編者を明記せず、「春の日」には越人と署名せるものあれど元禄十五年(1702)の俳諧書籍目録には荷兮とある。嚝野はその巻頭に「尾陽蓬左橿木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ:云々と芭蕉が序文を書いて於る。而して「俳諧芭蕉談」には……荷兮 野水等に後見して、「冬の日」、「春の日」、「あら野」等あり、越人「ひさご集」あり
幾落葉それほど袖もほころびず 荷 兮
旅寝の霜を見するあかがり 芭 蕉
今朝の月替る小荷駄に鞭當て 知 足
里の踊りに野菊折ける 野 水
其角なども名古屋を通る時は尋ねた。
荷兮が室に旅寝する夜、草臥なをせとて箔つけたる土器出されければ
かはらけの手ぎは見せばや菊の花 其 角
の句を残して居る。彼は尾張蕉門の代表者であるが、許六の「歴代滑稽談」には
……路通、荷兮、野水、越人、木因は勘當の門人なり……とある。また許六、李由共著の「宇陀の法師」に曰く、名古屋の荷兮、越人、あら野に眼明きたるに似たれども、「瓢」に底を入られ、湖南の連中は「猿
蓑」に關をすへられたる事、其時慥(たしか)に其風を得ずして血脈をつかぬ故也、何ぞ慥に風を得ば、自己に流行せず共、師にとりつき流行すべき事也、實は師の恩に依て名を顕し侍れば、底を入らるゝも理也、俳諧の底をぬくと云事有、抜けぬ作者日々ふるく成行也、先師の手傳にて撰者の號を蒙りたる人、天晴作者と見えて、その人何となくゆかしきに、師遷化の後に後葉を出して下手の尾を出し、初心の人に嘲らるゝ云々
この「師遷化の後に後葉を出し」と云へるは、「嚝野後集」の事であらう。嚝野後場は荷兮の自序に……于時元禄癸酉とあり、癸酉は六年である。これが翌七年の冬芭蕉のこした後に至て開板されたものであらう。「続俳家奇人談」には……晩年師翁り勘気を蒙りしは、橋守といふ書を作れるよろおこれり……とある。が、橋守集は元禄十年(1697)の刊行であるから、死せる孔明生ける中達を走らずとは云へ、橋守集によって勘当されたとは憶測に過ぎないこと明である。去来と許六との間に行はれた「俳諧問答」の中に去来が曰く、昆陽の荷兮一書をつくる、書中所々先師の句をあざけると聞けり、我いまだこの書を見ず、かの荷兮や先師世にます内ひたすら信仰す、一とせ故あって野水、凡兆と共に先師に遠ざかる、先師そのうらみをすてゝ、遷化の年東武よりみやこへ越給ふ道、名古屋にいたりてかれが柴扉をたゝきて、一二日親話し給ふ、彼またこれをあがめ尊ぶ事舊日のごとし、翁遷化の時、東武の其角、嵐雪、桃隣等、東山に於て追悼の會を為す、かれ蕉翁の門人の数に加はりて着座す、今書を作りて翁を嘲る、最も惜むべきの甚だしきもの也、かれが心操をかへりみるに、翁在す時は先師を売りておのが浮世のたよりとし、先師歿したまひては、また先師を売りて初心のともがらを、今は先師に勝りたりと欺き導かんためなるべし、其の難するところ、誠に笑ふ可きのみ、我これが為に其僻耳を切って邪口を裂かんと欲す……
去来の云へる「一書」が何であるか不明なるも、温厚篤実な去来が右の如く赫怒する所をみると、よほどの事があったらしい。「嚝野後集」なれば、曩(さき)に出したる「嚝野」に殆ど同じやうなものであるが、巻順には幽斎、守武、宗鑑、貞徳、宗因等の句を置き、序文にも「ただいにしへこそこひしたはるれ」等の語あり、集中に芭蕉の句は、僅に両三句見ゆるのみである、別段嘲るやうな文字は無いが、師風を祖述する事に厚い態度とは見られない。許六が「俳諧問答」に「荷兮分別知れず、愚にかへりたると云ふべきもの哉」と云へるもこの事であらう。またこの問答は元禄十年から十一年にかけて行はれたものであるから、「橋守集」の事を云へるものかも知れないが、此書未だ寓目するを得ない。
然し勘當説は、支考の捏致した虚説である。越人と支考と論争したる文書「割りかけの返事」の中に勘当とは是は先師のわるロとも申べし……とある。削りかけの返事は、支考が佯死し、支考の門人と称する渡擾狂0名を以て書いて居るから、先師とは支考自らの事である、帥ち虚説の流布者の支考が自ら斯う云って居り、これに対して越人は「越人・野水は翁勘当といひふれたる品玉のたね」云々、また「野水、越人を翁勘当にてはなし、是は貴房のわるロと、自ら白歌せらるゝは、先非を悔むの本心か」とも書いて居る。然し去来も云って居るやうに、何かの事情で芭蕉の機嫌を損じ、一時遠ざかった位の事はあったのであらう。
元禄七年五月、多くの門人に見送られて江戸を立った芭蕉は、尾張に入って舊交の人々に對した。
荷兮亭
世を旅に代かく小田の行戻り 芭 蕉
の句があり、歌仙を興行して居る。如上の事実及び、謹厚な芭蕉の性格から見ても、勘常などした事があらうとは思われない。
木枯らしに二日の月の咲ちるか 荷 兮
これは「嚝野」に収録されて居る句である、当時よほど喧傳されたものらしく、冗峰の「桃の實」に「尾陽の荷兮このごろ世に凩(こがらし)の荷兮といへるは、木がらしに二日の月の吹ちるか、と云へる句よりいふ事なるべし、二月のぬしになりたる故にや」などある。「去来抄」にも、去来の木枯の句と比較して去来と芭蕉との説ある。感受的に鋭い處があり、古今風の句中稀に見る佳作、言水の凩よりも佳句のやうに思はれる。
ある人四時の景物なりとて水鶏と鶉とを不食、
其心を感じて我も雁を喰わず
雁くはぬ心怖にならはぬぞ 荷 兮
平蛛感
南山人王守乙、杖をもちて蛛のゐをやぶる、言は身をはたらかずして、工に食をもうくればなり、凡、生るものゝ数を見るに形をのくにて、こゝろも又異なり、鳥は雲に熾、魚は水にひそまる、蝿をとる珠は家たくして壁に走る、又土の中に帒をつくりてやどりとなすは、地を這ふ物をとるにや、三隅あるところに居をかまへ、空より落る物を待にや、吉備のおとゞに詩をよませ、貨萩に船をおしへ、我がせこがくべき宵なりとの給ひしも、その人の心にして、その蛛に心なし、しかし長安の摟に網を覆へば、朝な/\く竹箒にかけられ、豆のごとくに身をなし、しばらく人の眼を奪といへども、燕雀の患まぬがれず、また其類にして閑を得るものあり、平蛛といふ、板といたとの間にありて上つかゆることあらじ、五月雨やあらしの秋の夜も、住所ふかければしのぐにやすし、たまたま食をもとむれど、もすこしにて満り、彼杖のおもひなければ、睡にいとまあり、あふげば月、うつぶけば雲、此間に性を賦て平なる形を得たり、何ぞ守乙天然をしらざる事つたなし、我また此蛛を見て、我が性の均しきことをしりて、ものうりの聲たえたり。
花の留守帰りもせぬに肴来る 龜之丞
と申されけると傅聞て
そのロつきを見たき㒵烏 荷 兮
平蛛の感及び㒵鳥の附け句等は、曠野後集に収録する渠の作品である。まことに是等の句文により、荷’兮の人となりが惚ばれる。
享歿年を明かにしない、元禄二年の「曠野」に、
荷分が四十の春に
幾春も竹共借に見ゆる哉 重 五
の句見へ、それより四十年後の享保十四年(1729)に出た越人の「猫の耳」に、
人丸は妹/\我はいもか ら 荷 分
の句あるを見れば、可なり長命であった事が想像される。
しん/\と梅ちりかゝる庭火かな
のどけしや湊の晝の生肴
まづ明けて野の末ひくき霞かな
鵜のつらに笹こほれてあはれなり
僧の路通おもひたつ心とどまらさりければ
さみだれや夕食くふて立出る
夏山や樗に続く水の上
鹽魚の歯にはさかるや秋の暮
秋の日やちら/\動く水の上
草の葉や足の折れたうきりぎりす
暁や伽藍/\の雪見廻ひ
鉢たゝき驚かぬ世を腹立か