洒 堂 松尾靖秋 氏著
洒堂は近江膳所の人、医を業とし、道夕・珍夕あるいは珍碩と號したが、のち洒堂といった。洒堂とは洒落堂の略である。生歿その他彼の人となりについては明らかではないが、野彼の「三日の庵」によれば元文二年(一七三七)に没したとも傳えられる。
元禄二年()九月、奥の細道の旅を終えた芭蕉は、伊勢参宮の後、その下旬には門人の李下を伴って郷里の伊賀に帰り、十一月末まで滞在したが、その後路通を伴い、奈良を総て京に上り十二月二十四日去來の落柿舎に遊び、末ごろ膳所に赴きここで越年した。酒堂はおそらくこの折、湖南蕉門の先達であった尚白に介されて芭蕉に初めて対面したのであろう。その後間もなく芭蕉は故郷に帰り、三月中句ごろ再び膳
所に出たが、この時には酒堂の家に遊んで「酒落堂記」を書いている。即ち、
山は俗にして性をやしなひ、水は動て情をなぐさむ。清動二の間にして棲を得るものあり。濱田氏珍夕といへり。日に佳境を豊にし口に風雅を唱へて、濁りをすまし塵をあらふが故に洒落堂といふ。
門に戒幡をかけて、分別の門内に入ることをゆるさずと書けり。かの宗鑑が客にをしふるざれ歌に一等くはへてをかし。且それ簡にして方丈なるもの二間、休紹二子の佗を次て、しかも其のりを私ず。木を植、石をならべてかりのたはぶれとなす。抑おものゝ浦は瀬田唐﨑を左右の袖のごとくして、海を抱て三上山にむかふ。海はに琵琶のかたちに似たれば、松のひびき浪をしらぶ。比叡の山ひらの高嶺をなゝめに見て、音羽石山を肩のあたりになんおけり。長等の花を髪にかざして、鏡山は月をよそふ。淡粧濃抹の日々にかはれるがごとし。心匠の風雲も又これにならふべし。
四方より花吹入れて鳰の海
というのである。文の末尾の言葉によっても、芭蕉が彼に対して深い敬愛の念を抱いていたことが知られる。この年六月に珍碩撰の「ひさご」が成ったのも近江俳人を代表するに足る珍碩の手腕が芭蕉によって
認められた結果であろう。「ひさご」に収められている五歌仙の第一では、芭蕉の発句
「木のもとに汁も鱠も桜かな」
に珍蔵が
「西日のとかによき天気なり」
と附け、第二の歌仙では珍蔵が発句
「いろ/\の名もむつかしや春の草」
とよみ、芭蕉が
「うたれて蝶の夢は覚めぬる」
と附けるというように、彼が主要な地位を占めていることからもそうした事情が知られるのである。
この頃から芭蕉と酒堂との交情はいちじるしく深まって行ったようで、たとえば現存の芭蕉書簡では珍夕名あてのものは元禄四年二月日附の書簡一通のみであるが、門弟その信にあてた書簡の中で彼のことに触れて書かれているものに、元禄三年九月の與次兵衛あて書簡を初見として約十七通に及んでいる。今日真簡と認められているもの百餘通(阿部氏・芭蕉書簡集)のうちのこの数からすれば、決して少ない方ではない。ということはまた、芭蕉の酒堂への関心とその交渉の度合とを示すものに他ならないであろう。また前述の「ひさご」に於ける場合のように、芭蕉と酒堂との同座した連句をば逐一取上げてみると、「ひさご」以後、元禄三年の「江鮭子」をはじめとして、
「猿蓑」「はせを盥」「菊の露」[深川集]「韵塞」「桃實集」「鄙懐紙」「桃の白實」「市の庵」
「松濤築」「其便」「柴橋」「往吉物語」「畫兄弟」「菊の塵」などに見られ、元禄三年から七年に亙つてその数は甚だ多いが、ここにもやはり芭蕉と酒堂との細やかな交情をば見出すことができるのである
さて、芭蕉はその後元禄四年十一月一日江戸に帰り、橘町彦右衛門宅を仮寓として越年、元禄五年五月牛は杉風の盡力によって再興された芭蕉庭に入ったのであるが、影の形に添うように、酒堂もこの年九月、
江戸へ下っている。酒堂の江戸到着の消息については、元禄五年九月十七日附芭蕉の曲水あて書簡に明らかである。即ち、
珍績無事に昨夜下着、大かた沖津(興津)あたりよリ眼病発り、
駕籠にて荷ひ込可レ申哉とかねて存候とは相違ひ、
なる程風雅的當之顔付にて見事成江戸入、先々御悦可レ被レ成候。云々
といい、以下上方の門弟たちの噂話をしたことを傳えている。文面によつてみても、芭蕉の愉悦のさまが看取されるのである。その後酒堂は翌元禄六年二月帰京するまで芭蕉庵に滞在するわけであるが、この間に成った作品がすべて「深川集」に収められている。ここには、「深川夜遊」前書のある芭蕉の、
青くても有べきものを唐辛子
を登句とする芭蕉・酒堂・嵐蘭・岱水の四吟歌仙をはじめとして、許六亭・支梁亭などにおける歌仙、あるいは酒堂が芭蕉とともに浅草の嵐竹を訪れた時の附合十句等が収められていて、酒堂の江戸滞在中の最も大きな収穫ともいうべきものであるが、この数力月の間がまた酒堂にとつては心ゆくまで芭蕉との風交を温めることのできた、文字通りの生涯での最良の時であつたといえよう。
殊に、同書に見える素堂亭での年忘れの三吟、
としわすれ盃に桃の花書ン 酒 堂
膝にのせたる琵琶のこからし 素 堂
宥の月よく寝る客に宿かして 芭 蕉
には、風雅をこととするこれらの人々の豊かな詩情がまことによくうたわれている。
一々の例示は割愛するが、酒堂はむしろ連句を特意としていたようで、発句については「去来抄」にも、「発句に汝のごとく物二三取集るものにあらず、こがねを打のべたるごとく有べし」と芭蕉も云っていることからもそれが知られる。
帰京後の酒堂は、その六月大阪に移住し、この地に結庵したが、ここで成ったのが「市の庵」(元禄七年刊)であった。芭蕉はその巻頭に。
贈酒堂
湖水の磯を這出たる田螺一疋、蘆間の蟹のはさみをおそれよ。
牛にも馬にも踏るゝ事なかれ。
難波津や田螺の蓋も冬どもり 芭蕉
といっている。ここにも芭蕉の酒堂に對する深い愛情を認めることができる。
かくして芭蕉と酒堂との風交は芭蕉の死の直前まで績いたのであったが、どのような事情にあったものか、芭蕉が元禄七年十月十二日、大阪の園女亭において息を引取る前後になると、彼の姿はふとして見られなくなってしまうのである。十月八日の住吉神社の芭蕉延命の祈願にも参列しなければ、病中の看護にも姿を見せず、死骸の葬送にも現われなかったことは不思議としなければならたい。ただ、酒堂の大阪移住後、彼と之道との間に確執が起こったことは芭蕉の書簡によるて知られ、芭蕉の発病後、園女亭に移されるまでは之道亭で病臥していたことでもあり、さきの延命祈願なども之道が先導でなしたことでもあって、酒堂はそうした處に同座することをいさぎよしとしなかったのかも知れない。しかし、酒堂自身にも若干の人間的な缺陥もあったようで、許六は「青根が峯」に、「路通、酒堂ごときもの一生の行跡嘸々乱堕ならん」といい、芭蕉ですらも、元禄六年十一月八日附け曲翠あて書簡に、「いまだ御見舞にも不レ参由沙汰のかぎりと申遣候」といって立腹したこともあったようであり、また、涼袋の「芭蕉翁頭陀物語」や文下の「誹諧耳底記」によると、酒堂は芭蕉の傳書と称して「梅の鎖」なる俳諧上の秘書を蔵していたとあるが、芭蕉にそのようなものがあったとは考えられないとすれば、おそらくは酒堂の偽作ではないかと推察せられるなど、門人の間では譴責に値するようなこともあったようである。いずれにしても、蕉門の人々の中では、路通とともに、一面不可解な性格の持主でもあり、また特異な存在でもあったと考えられるのである。
(固文學者)