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洒 堂 松尾靖秋 氏著

2024年06月15日 20時07分27秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

洒 堂 松尾靖秋 氏著

 

洒堂は近江膳所の人、医を業とし、道夕・珍夕あるいは珍碩と號したが、のち洒堂といった。洒堂とは洒落堂の略である。生歿その他彼の人となりについては明らかではないが、野彼の「三日の庵」によれば元文二年(一七三七)に没したとも傳えられる。

 元禄二年()九月、奥の細道の旅を終えた芭蕉は、伊勢参宮の後、その下旬には門人の李下を伴って郷里の伊賀に帰り、十一月末まで滞在したが、その後路通を伴い、奈良を総て京に上り十二月二十四日去來の落柿舎に遊び、末ごろ膳所に赴きここで越年した。酒堂はおそらくこの折、湖南蕉門の先達であった尚白に介されて芭蕉に初めて対面したのであろう。その後間もなく芭蕉は故郷に帰り、三月中句ごろ再び膳

所に出たが、この時には酒堂の家に遊んで「酒落堂記」を書いている。即ち、

 山は俗にして性をやしなひ、水は動て情をなぐさむ。清動二の間にして棲を得るものあり。濱田氏珍夕といへり。日に佳境を豊にし口に風雅を唱へて、濁りをすまし塵をあらふが故に洒落堂といふ。

門に戒幡をかけて、分別の門内に入ることをゆるさずと書けり。かの宗鑑が客にをしふるざれ歌に一等くはへてをかし。且それ簡にして方丈なるもの二間、休紹二子の佗を次て、しかも其のりを私ず。木を植、石をならべてかりのたはぶれとなす。抑おものゝ浦は瀬田唐﨑を左右の袖のごとくして、海を抱て三上山にむかふ。海はに琵琶のかたちに似たれば、松のひびき浪をしらぶ。比叡の山ひらの高嶺をなゝめに見て、音羽石山を肩のあたりになんおけり。長等の花を髪にかざして、鏡山は月をよそふ。淡粧濃抹の日々にかはれるがごとし。心匠の風雲も又これにならふべし。

    四方より花吹入れて鳰の海

というのである。文の末尾の言葉によっても、芭蕉が彼に対して深い敬愛の念を抱いていたことが知られる。この年六月に珍碩撰の「ひさご」が成ったのも近江俳人を代表するに足る珍碩の手腕が芭蕉によって

認められた結果であろう。「ひさご」に収められている五歌仙の第一では、芭蕉の発句

「木のもとに汁も鱠も桜かな」

に珍蔵が

   「西日のとかによき天気なり」

と附け、第二の歌仙では珍蔵が発句

「いろ/\の名もむつかしや春の草」

とよみ、芭蕉が

「うたれて蝶の夢は覚めぬる」

と附けるというように、彼が主要な地位を占めていることからもそうした事情が知られるのである。

 この頃から芭蕉と酒堂との交情はいちじるしく深まって行ったようで、たとえば現存の芭蕉書簡では珍夕名あてのものは元禄四年二月日附の書簡一通のみであるが、門弟その信にあてた書簡の中で彼のことに触れて書かれているものに、元禄三年九月の與次兵衛あて書簡を初見として約十七通に及んでいる。今日真簡と認められているもの百餘通(阿部氏・芭蕉書簡集)のうちのこの数からすれば、決して少ない方ではない。ということはまた、芭蕉の酒堂への関心とその交渉の度合とを示すものに他ならないであろう。また前述の「ひさご」に於ける場合のように、芭蕉と酒堂との同座した連句をば逐一取上げてみると、「ひさご」以後、元禄三年の「江鮭子」をはじめとして、

「猿蓑」「はせを盥」「菊の露」[深川集]「韵塞」「桃實集」「鄙懐紙」「桃の白實」「市の庵」

「松濤築」「其便」「柴橋」「往吉物語」「畫兄弟」「菊の塵」などに見られ、元禄三年から七年に亙つてその数は甚だ多いが、ここにもやはり芭蕉と酒堂との細やかな交情をば見出すことができるのである

 さて、芭蕉はその後元禄四年十一月一日江戸に帰り、橘町彦右衛門宅を仮寓として越年、元禄五年五月牛は杉風の盡力によって再興された芭蕉庭に入ったのであるが、影の形に添うように、酒堂もこの年九月、

江戸へ下っている。酒堂の江戸到着の消息については、元禄五年九月十七日附芭蕉の曲水あて書簡に明らかである。即ち、

珍績無事に昨夜下着、大かた沖津(興津)あたりよリ眼病発り、

駕籠にて荷ひ込可申哉とかねて存候とは相違ひ、

なる程風雅的當之顔付にて見事成江戸入、先々御悦可成候。云々

といい、以下上方の門弟たちの噂話をしたことを傳えている。文面によつてみても、芭蕉の愉悦のさまが看取されるのである。その後酒堂は翌元禄六年二月帰京するまで芭蕉庵に滞在するわけであるが、この間に成った作品がすべて「深川集」に収められている。ここには、「深川夜遊」前書のある芭蕉の、

青くても有べきものを唐辛子

を登句とする芭蕉・酒堂・嵐蘭・岱水の四吟歌仙をはじめとして、許六亭・支梁亭などにおける歌仙、あるいは酒堂が芭蕉とともに浅草の嵐竹を訪れた時の附合十句等が収められていて、酒堂の江戸滞在中の最も大きな収穫ともいうべきものであるが、この数力月の間がまた酒堂にとつては心ゆくまで芭蕉との風交を温めることのできた、文字通りの生涯での最良の時であつたといえよう。

殊に、同書に見える素堂亭での年忘れの三吟、

としわすれ盃に桃の花書ン    酒 堂

 膝にのせたる琵琶のこからし  素 堂

宥の月よく寝る客に宿かして   芭 蕉

 

には、風雅をこととするこれらの人々の豊かな詩情がまことによくうたわれている。

一々の例示は割愛するが、酒堂はむしろ連句を特意としていたようで、発句については「去来抄」にも、「発句に汝のごとく物二三取集るものにあらず、こがねを打のべたるごとく有べし」と芭蕉も云っていることからもそれが知られる。

 帰京後の酒堂は、その六月大阪に移住し、この地に結庵したが、ここで成ったのが「市の庵」(元禄七年刊)であった。芭蕉はその巻頭に。

 

    贈酒堂

  湖水の磯を這出たる田螺一疋、蘆間の蟹のはさみをおそれよ。

牛にも馬にも踏るゝ事なかれ。

    難波津や田螺の蓋も冬どもり  芭蕉

といっている。ここにも芭蕉の酒堂に對する深い愛情を認めることができる。

 かくして芭蕉と酒堂との風交は芭蕉の死の直前まで績いたのであったが、どのような事情にあったものか、芭蕉が元禄七年十月十二日、大阪の園女亭において息を引取る前後になると、彼の姿はふとして見られなくなってしまうのである。十月八日の住吉神社の芭蕉延命の祈願にも参列しなければ、病中の看護にも姿を見せず、死骸の葬送にも現われなかったことは不思議としなければならたい。ただ、酒堂の大阪移住後、彼と之道との間に確執が起こったことは芭蕉の書簡によるて知られ、芭蕉の発病後、園女亭に移されるまでは之道亭で病臥していたことでもあり、さきの延命祈願なども之道が先導でなしたことでもあって、酒堂はそうした處に同座することをいさぎよしとしなかったのかも知れない。しかし、酒堂自身にも若干の人間的な缺陥もあったようで、許六は「青根が峯」に、「路通、酒堂ごときもの一生の行跡嘸々乱堕ならん」といい、芭蕉ですらも、元禄六年十一月八日附け曲翠あて書簡に、「いまだ御見舞にも不参由沙汰のかぎりと申遣候」といって立腹したこともあったようであり、また、涼袋の「芭蕉翁頭陀物語」や文下の「誹諧耳底記」によると、酒堂は芭蕉の傳書と称して「梅の鎖」なる俳諧上の秘書を蔵していたとあるが、芭蕉にそのようなものがあったとは考えられないとすれば、おそらくは酒堂の偽作ではないかと推察せられるなど、門人の間では譴責に値するようなこともあったようである。いずれにしても、蕉門の人々の中では、路通とともに、一面不可解な性格の持主でもあり、また特異な存在でもあったと考えられるのである。

             (固文學者)


俳諧 加谷白雄 綱島三千代 著

2024年06月15日 17時20分26秒 | 山口素堂・松尾芭蕉

白 雄 綱島三千代 著

 

 姓は加谷(かや)、名は吉春、通称、五郎。信州上田の人、

寛政三年(1791)江戸にて歿、年五十七。品川海晏寺に葬る。゜

 白雄の極く大ざっぱな輪廓である。だがこれだけで問題がないわけではない。一説には信州松代の人と称し、また享年五十三ともいふ。

「深く姓氏をかくして偶尋ね問ふ人ありといへどもただ微笑して答ふることのなかりしとぞ」といふ「続作家奇人談」の文章をそのまゝには信を置き難いとしてもその生涯は曖昧模糊として確實な資料に乏しい。といふのは今まで自宗が天明期の最もすぐれた俳人の一人に数へられながらも真剣にとり上げられ検討されなかったことにもよるのであらう。

霧の香や松明捨つる山かつら

あかつきや氷をふくむ水白し

大寺や素湯のにへたつ秋の暮

 白維の句には冷たいまでな清澄さがある。そしてそれは他の天明俳人達にも元禄俳人達にもないものだった。

 賓暦末年頃、松露庵三世鳥明にしたがって俳諧に志した自雄は昨鴉と號してゐたが、明和二年()大磯鴫立庵に烏明の師烏酔を訪ねその門下となった。その頃號を「しら尾」また「白雄」と改めたが師烏明との仲が面白くなく、安永の頃終に義絶するに至った。それは「かつて人に和するの玄徳なし」と評せられる原

因ともなったが、伊勢風系統の烏明の安易な句風を考へる時妥協嫌ひな白雄の潔癖を見ることが出きよう。彼はよく旅をした。

 「春秋庵紀行」によればその範囲は近畿から奥羽まで時には熊野に詣で吉野に花を賞し、また富嶽にも登ったりしてゐる。それらは明和七年から安永元年(1772)までの十餘年間が多かったやうだが、その間京に住んでゐたことはありながら他門との交流はなかった。

尤も明和八年(1771)京元條の客舎で筆を執った 「加佐利那止(かざりなし)」で蘭更、麥水等の古風唱導を迂愚だと喘ったりしてゐるのだから関心がなかったわけでもあるまい。寥太・蘭更・暁臺から蕪村・太祗まで天明期(1781~87)の諸俳人は互に交流があった。但し白雄だけは自身の系統の撰集に他門俳人の名を見ることは極めて稀であるし、また他門俳人の撰集に白雄宗の名を見ることは出来ない。安永九年(1780)春久々に江戸に帰った白雄は馬喰町に春秋庵を開きその俳風を示す重要な撰集「春秋稿」の初編を出版した。これは白雄在世中に四編、死後門人の手によって八編まで刊行されたが、その作者連中は江戸を中心とする

関東一円が主だったやうであり、彼の代表的な俳論「俳諧寂栞」もその俳諧観を「他言憚るべし」と門人に書き與へたもので、後年出版され廣く人々に読まれのは拙堂の手によってほしいまゝに刪除増補されたものであった。しかし彼は相宿な活動家だった。作品ゐ数もかなりあるし「白雄句集」の中にはこんな句もある。

  蕉翁の誹波及すが中猶波及せんのねがひ旦暮といふ友にかって倦ず。

  ゆへに塵埃をまぬかれんとにはあらねど市中のすみかいかんかせん。

ひととせの塵埃今日にいたりてはゝきちだれ

さゝ竹のさゝほもこぼるゝばかり是とか身につむ。

積ともそれがし翁の誹波及せんとの願ひ市中の隠にしあらず。

隠にしなきにしもあらずといふことを薄酒両三杯ひとほこりて

掃からにおどろかれぬる庵の煤

 

ただその範囲が狭かった。また狭いだけに烈しかったのであらう。句の清澄さを生み出したものはその孤高な人柄だったのである。

二股になりて霞める野川哉

長々と肱にかけたりあやめ賣

傘さして吹かれに出でし青田哉

 

 白雄の最初の俳論「加佐刹那止」はその題號示すやうに師鳥酔の説を祖述し飾りなき自然を尊んだ。これは潁原博士が言はれるやうに「洒落風・譬喩體の流弊の極まる所を知り、また麥水等があまり古調に走るのに慊がらなかった為の対應的態度」であったらう。ともかく平明さはよいにも悪いにも白雄俳諧の根本的特色をなしてゐるのである。尤も之には伊勢風の系統をひく鳥酔の影響があるのだが「理窟をはなれて萬象をおもひ無邪の良友とすべし」(寂栞)といふ語もあり「寂栞」にも「白維夜話」(門人花垣漣々編・天保四年()刊)にも俗談平話に闘する白雄の論が見られる。彼は「寂栞」のでただ事の句を嫌ひ余情を重んずる。が「白雄句集」一千餘句のうち

やなぎ風に裏おもてなき時節かな

梅柳うめうつろひて青柳か

柳なをしりぞき見れば緑なる

   夜の梅寝んとすればにほふなり

 

といふやうな句が大半を占めてゐる。江戸期は別として白雄が今日でもあまり問題にされないのはこゝに大きな原因があつたのだ。蕪村の句にはいつも才気が溢れてゐいる。白雄のは余りにも平板で単調である。

白維は所詮才気の人ではなかった。「俳諧寂栗」が後年ひろく行はれたのも数多く残る紀行がどれ一として面白くないのもその平明さの故であった、がその平板さを支へたのは孤高で潔癖な彼の人柄であった。「俗に下らず雅俗に逍ぶべし」〔寂栞〕といふはっきりした意識があったのだ。その意識を生かしたのはまた子規が「繊麗にして柔弱」と評した程の繊細な感覚であった。

時鳥なくや夜明けの海がなる

木鋏の白銀に峰の怒りかな

名月や建さしてある家のむき

めくら子の端居さびしき木槿かな

夕潮や柳がくれに魚わかつ

 

 これらの句は非常に平明であってその合む内容は極めて複雑である。これは白雄のみの達した独特の境地であった。彼は酒が好きである。

鮭くまむあまりはかなき枝の露

      朧月今日身貧にして濃酒佳肴をうらむ

行年やひとり噛しる海苔の味

      食客あり青樽をを携て我を酔はしむ。

      我為には此の世の君子なることを

酔をともに春待つ年をおしむ哉

 

 頑固なまでの孤高は裏がへせば人一倍の淋しがりやに外ならなかった。彼の酒好きもそこから来たのだろし、また次のやうな句もある。

我心聲せで雁の帰れかし

人恋し灯ともし頃を桜ちる

人恋し杉の嬬手に霧しぐれ

 

 終生妻を娶らむかつたといふその生涯の奥にはこんな多感な人間が息づいてゐたのである。

 彼の俳論を代表する「寂栞」は巻頭に、芭蕉の句

    古池や蛙とび込水の昔

    道の邊の木槿は馬に食はれけり

 此の二句は我家の奥義なり。修しつとめてのち其意味のふかきを知るべし」といふ。却って俗俳諧めいて失望もさせるけれどこの二句の持つ禅味が白雄の心を動かしたのではないか。

「天明四年(1784)霜月廿七日(中略)みちのく也蓼禅師遷化ましましけるよしおもひこまごまそこの門人つげこしける(中略)參禅無二の師たりしをや。みちのくの空だよりなや霜の聲」(白雄句集)

とみえ、また傳によると若い頃上州館林で參禅したといふ。そして白雄も何回か引いてゐ

    酒のめばいとど寝られぬ夜の雪

と白維の酒好きを思ふとき、同じく芭蕉に帰れといふ運動を起した天明俳人たちであったが白雄が一番芭蕉に近い人生観を持ってゐたのではあるまいか。すぐれた門人を多く持ってゐたことさへ似てゐるやうに思はれる。

 化政期の俳人のうち最もすぐれてゐたのは白雄門下であった。常世田長翠・鈴木道彦・建部巣兆など。それは世俗面では絶大な勢力をもってゐた寥太や蘭更の遥かに及ばぬところだった。頑囚で偏狭ですらあった白雄門下からこのやうな俊秀を多く出したのは師と義絶し門人に問詰の書を送り厳しい孤高の精神の影響であった。(竹豪高等学校教諭)


杉 風(さんぷう) 岩田九郎 氏著  

2024年06月15日 09時58分45秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

杉 風(さんぷう) 岩田九郎 氏著

 

 芭蕉が江戸に下った當初から、大阪に最後の息を引きとるまで、或は師弟として或は生活の支持者とし風ほど師翁に深いゆかりをもった人は、多くの蕉門中にも稀であった。またその師翁歿後における思慕追念の情けの深かったことも、この人にまさるものは少かったといってよかろう。それだから「杉風句集」の編者採荼(さいだ)庵梅人が杉風を評して「はいかいに遊ぶこと几六十年、蕉門の高弟なり。實學ならぶ人なし。奥旨深意、翁より傳偉へずといふことなし。」

といつたのは、一應もっともとうなずける。もしそうだとするならば、杉風はいつたい何程の師風をうけついでいるのであろうか。いゝかえれば芭蕉の俳風が杉風にいかに投影しているであろうか。そういう點について、この小稿では種々なる角度から親察してみようと思う。それはやがて杉風の俳諧の長短を論ずることにもなるであろう。

 芭蕉は自ら「たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情けを労じて」といつているように、風月の趣味に生涯を終始して、「いざ行む雪見にころぶ所まで」などの句をのこしているが、杉風の師風をうけた最も著しいところは、やはりその風狂の姿であった。「覚悟して風引に行雪見かな」は師翁の句に比して平板いうに足りない出来であるが、兎に角その心構えは相似たものがあるといえよう。

そういう態度からは、

「川ぞひの畠をありく月見かな」 

「客とめむ時雨の雲の通る内

などが生れてきたので、これらは安らかな調べの中に、風雅人の清らかな心境が窺われる。ことに後の句

は、芭蕉の

「人々をしぐれよ宿は寒くとも」

などの心にも通っていると思われる。

「花に気のとろけて戻る夕日哉」

「月の頃は宸に行夏の川優哉」 

「水晋やほたるたのみに宿とりぬ」

これらもまたみな師翁の花鳥風月の趣味をうけ入れた作で、やゝもすると低調になり易い句風を、ともかくもこの高さに引上げて、一つの風格を形づくっているところは、たしかに師翁の感化といわねばならぬ。

 芭蕉の詩境に閑寂の味の深かったことは今更いうまでもないが、杉風もまたその詩味を理解しないではなかった。それが師翁ほどに深奥所に撤していたとは言えないかもしれぬが、ともかく杉風の句境の中に、

その趣のあることは、何として屯師翁の影響といわなければならぬ。

「鎧の音物にまぎれぬ秋の暮」 

「かれがれてもの寂わたる冬の園」

などには、杉風が曾て屬していた談林調のかすかなにおいさえもなく、まったく蕉風になりきっていることを示すものであろう。

「空も地も一つになりぬ五月雨」

「降かくす小家は雪のすがたかな」

いずれも静かに寂びた姿があって、蕉門の句たるに異論はない。

 芭蕉の句には

「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」

に見るような、和歌や漢詩などでもまだ詠み得なかった物のあわれを捉えているものがあるが、杉風もまたその師風をうけて、弱いもの淋しいものに同情の目をそそぎ、温かい人情を詠み出たものが少くない。

「子や待ん餘りひばりの高上り」

は、憶良の歌に縁はもっているものゝ、その情趣は仝く俳諧の世界になりきっている。「猿も小蓑」の句は、芭蕉の作品中でも人の心をひくものであるが、杉風の「雲雀」も彼の傑作として、その最もよい方面を代表する句といってよかろう。そのほか

「木枯に何やら一羽塞げなり」 

「唖蝉の啼ぬ梢もあはれなり」 

「あられにも怪我せぬ雀かしこさよ」

などみなこの類に屬するもので、よく師のこころをうけついだものといえよう。

 芭蕉には

「観音のいらか見やりつ花の雲」 

「冬ごもり又よりそはむ此はしら」

に見るような寂びしく静かでゆったり落ちついた句境をもったものが多い。前に云った閑寂昧は、対象となる自然に見出した味であるが、ここにいうのはむしろゆったりした心の姿である。この詩境もまた杉風のみずから學び得たところで、

「とぼ/\と日は入切てむめの花」

の句をみると、夕日の沈む頃に、ひとり静かにたそがれゆく梅の花を見入っている詩人の姿が、さびしく想像される。また

「遅うくるゝ日もけふ切のわかれ哉」

には、春のすぎてゆくのを惜しみつゝ、ひと日を安らかに過ごした心境が、おだやかに語られている。句格も高くて俗なところがない。そのほかに

「そのの梅老木に花のしづか也」 

「冬ごもりこの水仙や老が友」

など同じ句境とみることができよう。

 

 「辛崎の松は花より朧にて」

を芭蕉は「たー眼前なるは」と自ら説いているが、そのように眼前の景色をとらえ、刹那の感激を句に打出したものが芭蕉には少なくないが、杉風もまた眼前の即景を句にしたものが多い。

「ふりあぐる鍬の光りや春の野ら」

は春風胎蕩たる春の野に出て、ふと目にとまつた光景を、巧まず平明に表現したもので、暢建の気味まで師翁の風に似通つている。

「五月雨に蛙のおよぐ戸口哉」 

「飛胡蝶まぎれて失し白ぼたん」

などみんこうした情趣の句としてあげることができよう。

 芭蕉には、自然の中の美しさを凝親して、造化の妙なる力に深く心をとめた句がある。

「よく見れば薺花さく垣ねかな」

「山路末て何やらゆかしすみれ草」

などがそれで、そこに芭蕉の深い自然愛を見ることができる。杉風もまたこうした師の風に心を寄せて、これに似たものを詠んでいる。

「名は知らず草毎に花哀なり」

「朝顔やその日その日の花の出末」

など、到底師翁のごとく幽遠な自然の奥に心をひそめる所には達していないが、ともあれ詩作の態度とし

て、そういう黙に心をよせていることはみとめられる。

 

 芭蕉は五十一歳で世を去ったので、まだ老境とまではいかないが、元來じみな心の持主であった為に、四十頃からもう翁といってすましていたくらいだから、晩年には老人らしい感懐をのべたものがある。杉

凪は八十六で亡くなったから、これは文字通りの老境で芭蕉と比較するのは無理であるが、杉風は師風を模して、そうした句境のものが多い。芭蕉の

「おとろへや歯に喰あてし海苔の砂」

には杉風

「がっくりとぬけそむる歯や秋の風」

が想い合わされるし、芭蕉の

「この秋は何で年よる雲に鳥」

には、杉風の

「月雪もふるき枕にとし暮ぬ」

などが思い出される。

「いざよひも更て人なし老が友」

「七十の暮行としぞつれなさよ」

のように老齢のわびしさを詠んだものが多い。

 

芭蕉は晩年に「軽み」をとなえて、

「木のもとに汁も膾回もかな」

「煤はきは己が棚つる大工かな」

の句を詠んでいるが、この種のものは一見平明のように見えて、良く模倣すると月並風の平俗に堕してしまうおそれがある。杉風はしかしこの種の句においても、さすがに師翁の感化をうけて、月並調にまでは落ちたかった。

「大年礼雀の遊ぶ垣ほかな」 

「山雀もこもりの小箱冬ごもり」

などがそれである。

 最後に、杉風は師に模して辞世の句を詠んだが、

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」

に比して

「痩顔に扇扇をかざし絶し息」

は、その余りに開きの大きいのにがっかりさせられる。師翁の句には烈々たる詩魂が漲って人をして慄然たらしめるものがあるが、杉風のは全く無気力で、ただ安らかに朽木が倒れる如き感を與えるのみで、そこに何ものも人の心をうつものがない。

 これを要するに、杉風は師翁の風姿を學び、その力に庶じて相応の作品をのこしているが、かの師翁の枯淡な禅昧や、徴かな余情の通う「匂ひ」の世界や、自然の風姿にある雄大な趣や、漢詩に背景を持つ深味のある句境や、中世以来の傳統的な芸道の香りなどは、終に多くを學びとることができなかった。

 しかしそうはいうものゝ、温雅平明な詩境と、安らかにして穏やかな作風とは、よく師翁の藝風に洗われて、平俗に堕落せず、一個心風格を持しているところは、蕉門高弟名に恥じないものといってよかろう。

             (學習院教授)


向井去来  大内初夫著

2024年06月15日 08時14分47秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

向井去来  大内初夫著

 

向井去来は慶安四年(1651)、肥前長崎において、同地の聖堂の祭酒であった儒医向井元升の次男として出生した。名は兼時、字は元淵、通俗を喜平次、又平次郎と云ひ、元禄二年(1689)以後は落柿舎とも號した。萬治元年(1658)八歳の時、父に従って京に移り、寛文六年(1666)十六歳の頃に、筑前稲岡の叔父久米諸左衛門のもとに身を寄せ、主に武芸の修行に励んだ。二十歳の頃までこゝにあったと思われるが、その後間もなく京に帰り、やがて二十三・四の頃、武士としての仕官の望みを絶ち、以後、父の業をついでゐた兄の元端を助けて家事に励み、また、有職家・陰陽家として、御所・摂関親王家などの貴紳もとに出入した。貞享元年(1684)三十四歳の年、折から京阪地方に遊吟してゐた其角を知り、これが契機となって蕉門俳壇に近づく事となり、翌貞享二年(1685)、風瀑撰『一楼賦』に

五日經ぬあすは戸無頒の鮎汲ん

雪の山かはつた脚もなかりけり

の二句が初入集した。績いて貞享三年『其角歳旦帳』・『蛙合』などに入集してゐるが、この頃彼は誕々芭蕉に書状を送りその指導を仰いだ。又、この秋、妹千子(ちね)と共に伊勢に旅し、その時成った「伊勢紀行」を芭蕉に送り批正を求めた。やがてこの年冬東武に下向し、初めて芭蕉に面語する機会を得、翌四年春まで滞在し、親しくその指導を受けた。同年冬の其角撰『続虚栗』には、その発句十五句が入集してゐる。

鎧着てつかれためさん土用干

躍子よあすは畠の草ぬかん

盲より唖のかはゆき月見裁

の如き、やゝ称すべきものもあった。元禄元年(1688)、不ト撰『続の原』に二句入集してゐるが、「御神楽や火を焚く衛士にあやかちん」の句は、芭蕉の「させる難もなく、秀たる所も見えず」の評を得てみる。

子規は「其格調極めて自然にして、敢て人工斧鑿の痕なければなるべし」(『獺祭書屋俳話』)と去来の句を評したが、趣向をかまへず、正眼で対象に處する去来の詠作態度の特徴が、既にこゝに覗はれる。かくて元禄二年の荷兮撰『嚝野』には、その発句十四句が採録された。

涼しさよ白雨ながら入日影

秋風やしらきの弓に弦はらん

湖の水まさりけり五月雨

 などの句は何れも格調の高い、去来の風格の滲み出た句である。平淡な描寫の中に良く物の真情を把握してゐる。「あら野の時、正風體のまなこをひら」(「去来が誄」)いたと許六が記してゐるごとく、去来はこの『嚝野』の頃に、完全に蕉風俳諧の真情紳を大悟したと云ふべきであらうか。この年冬、「奥の細道」の旅を了へた師芭蕉を落柿舎に迎へ、ともに鉢叩きに興じたが、翌翌同年冬、江戸に戻るまで芭蕉を幻住庵や義仲寺などに訪ひ、或ひは長く落柿舎にとどめ、縷々芭蕉と俳席を同じぐし、不易流行などについて親しく師の教へをうた。かくて去来はその力量をかはれ、元禄四年新進の凡兆と具に『猿蓑』を撰んだ。『猿蓑』は勿論芭蕉の徹底的な監修の下に成ったものであるが、又、撰者凡兆・去来の努力も認めるに足る集で、「七部集」の白眉であり、「俳諧の古今集」(『宇陀法師』)と呼ぶにふさはしい内容の充實した撰集である。本集には凡兆・芭蕉につぎ去来の吟が二十七句収められてゐる。

尾頭のこゝろもとなき海鼠哉

鉢たゝきこぬ夜となれば朧なり

荒磯や走りなれたる友千鳥

などで、撰者の貫禄はこゝに充分に発揮されたと云ふべきであらう。元禄四年冬芭蕉東帰後の去来は、芭蕉ぶ鎮西の俳諧奉行に擬したと云ふのに相應しく、関西蕉門の重鎮として活躍した。この頃の吟に、

岩はなやこゝにもひとり月の客

郭公なくや雲雀と十文字

などがあり、何れも世評の高かった句である。元禄六年、芭蕉は当時江戸にあった入門間のない許六に宛て「御報国被成報バ去来へ御通じ可成報。拙者方より可遣、是も一人一ふりあるおのこにて、恟白ごときのにやくやものニ而ハ無御座報」と書き送ったが、帰郷後の許六は芭蕉のすゝめのごとく、度々去来に書面を通じて指導を求めたやうであり、元禄七年須には越中の浪化も去来に兄事し、去来は浪化に宛て長文の書簡を書き與へてをり、これが所謂『去来文』で、芭蕉生前、去来が俳諧を論じた唯一のものであつた。この七年夏、又芭蕉は上洛し、嵯峨の落柿舎を訪れたが、この時、去来の手引で浪化は芭

蕉に入門した。なお、上方の門弟達が次々とこゝに會して俳席を重ねた。その後、芭蕉は十月十二日難波に歿したが、それより前、師の病変を聞いて去来は直に病床に馳せつけ、その看護に精魂を傾け盡した。この年刊行された『炭俵』は、軽みの風調を代表する集であるが、去来の入集句は七句で、

うのはなの絶間たゝかん闇の門

名月や緑とりまはす秬(くろきび)のから

花守や白き含かしらをつき合せ

すゞしさや浮洲のうへのざこくらべ

などで、芭蕉の風調に従ってか、やゝ重きを脱してゐるやうである。元禄八年、浪化に代って去来が編んだ『有磯海・となみ山』が刊行された。しかし、芭蕉歿後の去来は、その作品においてはあまり見るべきものはない。蕉門の重鎮として、ただ師の俳域を守るに一途であつたやうである。例へば、元禄九年頃にには酒田の不玉に宛て軽重についての諭書を書き送り、同十年には其角の動向に不満を感じて「贈其角先生書」を寄せ、これが機縁となって許六に「答許子問難辨」を記し鐙送ってゐる。同十一年秋去来は故郷長崎に下り、翌十二年秋迄滞在した。この旅中の吟に

故郷屯今はかり寝や渡り鳥

いなづまやどの傾械とかりまくら

などがあり、後に刊行された『渡鳥集』(元禄十七年刊)は、この旅中の俳諧を主として去来が撰んだのである。又『旅寝綸』はこの折、許六の『篇突』を諭難したもの、 『去来抄』は元禄十六・七年、世務の暇々に執筆されたものである。もともと文の家に生まれた去来は「蕉翁常ニ此予カ理屈ヲ嫌ヒ玉フ」(「不玉宛論書」)と記す如く、多分に理論家であったやうであるが、芭蕉歿後師に対する変らざる信頼の情は、同門の相次ぐ出版に刺戟されて、去来をしてかやうな俳論書を成さしめたのである。かくて去来は賓永元年九月十日、五十四歳で洛東京護院の家において世を辞した。

 去来は俳人として、自ら「吟おもく才拙し」(「旅寝綸」)と記すごとく、必ずしも詩人的才能には恵まれてはゐなかった。去来のこの才能の不足を補ったのは、俳諧に対して終始一貫變らざるその誠實さであらう。彼はこの誠實さで以てよく物の真情を捉へた。支考は「杉風・去来は賞賛を寫し」(『口状』)と云ひ、許六は「先生(注、去来)の風雅を諭ぜば、其器すぐれてよし。

花賞をいはば、花は三ツにして、實ハ七ツ也。天性正しく生れつき給ふに依て、難じていはば、とりはやし少缺たり」(『俳諧問答』)と評してゐる。なほ、去来はその作品において、わりに変化発展の少い俳人であったが、これは彼が『冬の日』以後に蕉風俳人そして登揚したことにもよらう。然しそこには叉、保守的消極的な彼の性格が多分に影響してゐるやうである。即ち許六が「先斗例の物ぐさき隠逸を先とし給ふ事を嘆く」(『俳諧問答』)と云ひ、芭蕉も亦「彼去来物くさきおのこにて」(「落柿舎記」)と評してゐる。が、その俳諧に對する一途な熱意は、去来をして「只先師の變風に一日屯おくれる事を恐れ、區々としてしたひ来る」(『旅寝論』)と記すごとく、よく芭蕉に従ふ事を得しめたのである。然し、師芭蕉を失った後の去来は、新風の渦中の人たるを避け、「我ごときは、句をはくに十が五ツは猿みのゝ風也。其二ツみなしぐり残れり、今先師の新風に似たるものわづかに三ツ」(『同』)と云ふ句作の有様で晩年を過ごしたのであった。彼が新風の渦中に立たなかったのは、己を良く知ってゐたからであるが、之が即ち「風雅の正直にたふれ」(『風俗文選』「雑ノ説」)たと評される所以であらう。

      (九州大學大學院特別研究生)