嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

死の硬度 ← +|+ → 生の軟度

2007年08月02日 01時31分01秒 | 駄文(詩とは呼べない)
ただひたすらに、がむしゃらに、まっすぐである時代は終わるのか?
もしも世界が、そして数学の持つ正義が、
心が真っ直ぐで有る事を証明できるのなら、
その存在は100%の不気味な完全性を
1が1であることを、
0が0であることを、
確実に僕らの前に示すだろう。

世界はただ確実に存在し、その完璧性ゆえに、必ず終局へ向かうだろう。

けれど、僕らの持つ意思や、心や、複雑な精神活動と筋肉との繋がりが、
自分という曖昧なフレームが、死の硬度と、生の軟度の狭間で揺らいでいる
不安定な波であるのなら、
永遠は心の内にある刹那にも存在し、
全く手の届かない宇宙の果てにも存在する。

多くの柔らかい性の連鎖が、生命活動を、意志を肯定したとしても、
僕の持つ、死に神の透明性が、僕を殺すのならば。
同じように、君たちもまた、存在しないのではないか?
それとも、僕らと君らは、全く混ざり合う事のない、
二つの真理なのか?

読み方の異なる二つの手紙は、
時間を超えるけれど、
その時間の超越は、記号的な鏡の反射を鍛えるため、
清廉潔白な曲率の強度を示すものか?

あるいはまた、円周率の努力とも言える嘆きは、
有限性の丸い宇宙の中で、【果て】を僕らの現実に、
真理の壁として、ただ現実の前に、
確実な終わりをぐるぐるまわる針のような痛みを、
超越して、死を知覚させるか?

僕は、微分と積分を、対等に扱うその間違いが、
真理から不平等を奪い取り、吸い取り、僕らの前に、
神と人との隔たりを突きつけているような気がするよ。

ただ、それでも。
大きさの前に僕らが絶望する心の嘆きも、
小ささがあざ笑う僕らの切実さも、
やっぱりどっちも、自分とは遠い位置にあるような気がするよ。

僕はたぶん、大きさにも、小ささにも、勝つ事も、負ける事も、できない気がするんだ。
それがたぶん、僕の持つ死に神の硬度を支えていて、
君の持つ、読者の嘘を射抜くのだと思う。

複雑でバラバラな世界が持つ、ぎこちない肋のような痛みの奏でる音楽が、
生の欠落を潤すとしても、
今も尚、羊の作った牢屋の中で怯える僕は、
こっけいなほど、いびつな透明人間であると思う。

僕が僕に殺されるのなら、そのとき君の中に、
新しい意志が生まれる。

志を、削り続けて。