Peace Park, Nagasaki City, Nagasaki Pref.
さてさて、雲仙を後にしたワタクシ達はこの日の目的地であった長崎市へ向かい、お昼前に到着しました。
まずは原爆資料館を訪れたのですが、12月29日からは年末年始の休館日となっていました。
こういうのは事前にちゃんと調べておかないといけませんな。
次にワタクシ達は爆心地公園に向かいました。1945年8月9日午前11時2分、この原爆落下中心碑の上空約500メートルで
プルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発しました。 中心碑の下には、原爆で亡くなられた約12万人の方々の名前を納めた
原爆殉難者名奉安があります。この日は素晴らし晴天でしたが、原爆が投下された日も見事な青空だったと聞きました。
これは原爆で倒壊した浦上天主堂の、西に面した南側壁の一部を移設したものです。
8月6日、8月9日、そして8月15日。この3つの日付は、ワタクシ達日本人は未来永劫、心に刻んでおかねばならないのではないでしょうか。
去年の終戦記念日、ニュース番組で道行く若者に「今日は何の日か知ってますか?」と質問すると、
「わからない」「知らない」と答える若者が多く、ワタクシは愕然としましたわ。
続いて平和公園に足を運びました。体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいったそうです。
その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて造られたのが、この「平和の泉」です。
被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が胸を打ちます。
この長崎の鐘ですが、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、
多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。
これは平和祈念像ですが、長崎出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年に完成。
像の高さ約9.7メートル、重さ約30トンの青銅製で、「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と
作者の言葉が台座の裏に刻まれていました。ワタクシが前に見た時は、こんなに鮮やかな青色じゃなかったけどなぁと思ったのですが、
被爆75周年を前に、経年劣化している平和祈念像の修復(塗り直し)を、平成31年に行なったとのことでした。
平和…それは当然のようにあるもの、ワタクシはそう思い込んでいました。しかし、平和というのは砂上の楼閣のように、
不確かで脆いものだということを、この一年間思い知らされています。
独裁者、権力者にとっては人の命がなんら重いものではないことを、宗教というものが醜い争いを止める力を何一つ持たないことを、
国連という組織が何の役にも立たないことを、そして、自分がこのような状況の中で何も出来ないことを痛感した一年でした。
広島、長崎に加えて新たな被爆地が生まれてしまうのでしょうか。ワタクシは不安でなりません。
使用したカメラ:FUJIFILM X-T30
平和というものが理想論だけでは成立しないことは事実ですし、我が国も現実的な対応が必要になっていくことでしょう。
憲法改正という声も、今後は強まっていくかもしれません。職場で若い連中と話をしていても、
「日本は軍隊持たないから舐められてるんちゃいますか」「専守防衛だけじゃなく、攻撃出来る兵力が必要でしょ」なんて言葉が、
彼らから返ってくるんですよ。言っていることは十分に理解できるのですが、私は心の中で「俺みたいな爺さんは戦場に行くことはないけど、
そうなったらお前らは行く可能性があるんやで」と思わずにはいられないんですよ。
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さてさて、雲仙を後にしたワタクシ達はこの日の目的地であった長崎市へ向かい、お昼前に到着しました。
まずは原爆資料館を訪れたのですが、12月29日からは年末年始の休館日となっていました。
こういうのは事前にちゃんと調べておかないといけませんな。
次にワタクシ達は爆心地公園に向かいました。1945年8月9日午前11時2分、この原爆落下中心碑の上空約500メートルで
プルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発しました。 中心碑の下には、原爆で亡くなられた約12万人の方々の名前を納めた
原爆殉難者名奉安があります。この日は素晴らし晴天でしたが、原爆が投下された日も見事な青空だったと聞きました。
これは原爆で倒壊した浦上天主堂の、西に面した南側壁の一部を移設したものです。
8月6日、8月9日、そして8月15日。この3つの日付は、ワタクシ達日本人は未来永劫、心に刻んでおかねばならないのではないでしょうか。
去年の終戦記念日、ニュース番組で道行く若者に「今日は何の日か知ってますか?」と質問すると、
「わからない」「知らない」と答える若者が多く、ワタクシは愕然としましたわ。
続いて平和公園に足を運びました。体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいったそうです。
その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて造られたのが、この「平和の泉」です。
被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が胸を打ちます。
この長崎の鐘ですが、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、
多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。
これは平和祈念像ですが、長崎出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年に完成。
像の高さ約9.7メートル、重さ約30トンの青銅製で、「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と
作者の言葉が台座の裏に刻まれていました。ワタクシが前に見た時は、こんなに鮮やかな青色じゃなかったけどなぁと思ったのですが、
被爆75周年を前に、経年劣化している平和祈念像の修復(塗り直し)を、平成31年に行なったとのことでした。
平和…それは当然のようにあるもの、ワタクシはそう思い込んでいました。しかし、平和というのは砂上の楼閣のように、
不確かで脆いものだということを、この一年間思い知らされています。
独裁者、権力者にとっては人の命がなんら重いものではないことを、宗教というものが醜い争いを止める力を何一つ持たないことを、
国連という組織が何の役にも立たないことを、そして、自分がこのような状況の中で何も出来ないことを痛感した一年でした。
広島、長崎に加えて新たな被爆地が生まれてしまうのでしょうか。ワタクシは不安でなりません。
使用したカメラ:FUJIFILM X-T30
平和というものが理想論だけでは成立しないことは事実ですし、我が国も現実的な対応が必要になっていくことでしょう。
憲法改正という声も、今後は強まっていくかもしれません。職場で若い連中と話をしていても、
「日本は軍隊持たないから舐められてるんちゃいますか」「専守防衛だけじゃなく、攻撃出来る兵力が必要でしょ」なんて言葉が、
彼らから返ってくるんですよ。言っていることは十分に理解できるのですが、私は心の中で「俺みたいな爺さんは戦場に行くことはないけど、
そうなったらお前らは行く可能性があるんやで」と思わずにはいられないんですよ。
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たまたま地下の駐車場に車を停めて
地上に上がったその目の前に
平和祈念像が目に飛び込んできたんです。
一瞬に目に涙が。
その時を思い出すと今でもジーンときます。
平和公園へは二度行きました。
被爆75周年を前に、経年劣化している
平和祈念像の修復を、平成31年に行なったのですね。
それで色が変わっているのですね。
60年の昔、和歌山市の松竹館で「長崎の鐘」
という永井博士の映画を見ました。
その頃は何も思わず見ていましたが、
今なら涙が止まらないと思います。
長崎には、一人旅で行って、資料館も
訪れた事があります。
平和記念像、もっと緑っぽかったのかな?
青と言う印象はなかったです。
原爆投下日も、終戦記念日も知らない
若者たち。
色々と残念です。
凸
休館は残念でしたね
平和公園は写真やテレビで見ることが多いので
行ったことがあるような気になっていましたが
多分行ってないです
新たな被爆地が生まれませんように祈ります
その後行ってもグラバー邸とかでした
平和ボケしている今の日本人かもしれませんね
紋くんも13歳なんですね
ルーシーも13歳だし赤ちゃんを産んでいるので覚悟はしています
中学の修学旅行で行きました
その当時この辺の学校は必ず行った場所じゃないかな
ここも広島の原爆ドームも悲惨な戦争の遺産
大きな戦争も無くなってきてたのに今ロシアとウクライナの戦争
いつでも核爆弾打てる状況下での戦争
恐ろしい時代
早く終結してほしいですね
初めて原爆資料館を見学した時は、ショックでした。
話には聞いていても、それがリアルに感じられるところですね。
また機会があれば訪ねてみます。
巻き込まれそうでこわいです。
これから先が本当にこわい..。
長崎で平和を祈られたのですね。凸
必要になってきますね。
この1年ほど平和というものがこんなにも脆く崩れて
しまうものかというのを実感させられました。
平和を守るためにはのほほんとしているのではなく、
もっと積極的な意思表示、行動が必要と感じた
1年でした。
長崎も広島も…
平和公園には行ったことがありません。
私たちの時代は、公立の高校だと広島、長崎が修学旅行に行くことが多かったです。
本当に平和ボケしてしまっているので、改めて平和について考えなくてはいけないですね。
よっちんさん、先日はひなたにお悔みコメントありがとうございました。
まだまだ悲しみから抜け出せずにいますが、よっちんさんから頂いたコメントに救われました。
少しずつゆっくり前進していきますm(__)m
凸