1 呉善花 恨と火病と疑似イノセンスと― 異常な反日行為と心の病
『別冊正論』 「総復習『日韓併合』」
呉善花(評論家・拓殖大学教授)
反日行為を担う「代償的擬似健常者」
東日本大震災直後の3月末、韓国では「竹島は日本の領土」と明記した日本の教科書が検定合格したことに強く反発、
義捐金募集活動を中止し、全額を返還したり、独島守護団体や慰安婦支援団体への寄付に振り向けたりする自治体が続出した。
同年9月のAFCチャンピオンズリーグでは、韓国チーム全北現代の応援スタンドに「日本の大地震をお祝いします」と日本語で書いた横断幕が掲げられた。
また2013年8月にはKBS2のテレビ番組で、お笑いタレントが「旭日旗を振った日本の応援団に体にいい福島産さくらんぼを送った」と揶揄し、これを東亜日報など各紙が「よくぞいった」とばかりの評価で報じた。
「その神経を疑う」といった報道が諸国に見られた。
韓国人の反日行為は常軌を逸している。
こうした非文明性、異常性は世界的な「不可思議」の一つにまでなった。
だが彼らは明らかに文明生活を送っており、反日行為は病者ならぬ正真正銘の健常者たちによるものだ。
だからこそ「不可思議」なのである。
精神医学者の中井久夫氏は、精神障害というものは、自らの破滅を防ぎ、生き残るための知恵だという観点を示している(「治療文化論―精神医学的再構築の試み」)。
私もこの観点を強く支持したい。
その上で私が問題としたいのは、これも中井氏の観点の一つなのだが、正常・健常者といわれる人のなかには、病気からほど遠い余裕のある人だけではなく、
「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」によって自らの精神衛生を維持している人、中井氏のいう「代償的擬似健常者」が多数いるということである。
「代償的擬似健常者」による常軌を逸した人類最悪の行為が、中世ヨーロッパの魔女狩りやナチスのホロコーストなどだろう。
「代償的擬似健常者」が「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」を一挙に極端化していくと、こうした大虐殺が引き起こされることにまで至る。
常軌を逸しているとしかいえない場合の韓国人の反日行為は、大挙して群なす「代償的擬似健常者」によるものと考えればいい。
彼らは韓国人に特徴的な心の病に陥った人たちと同じように、韓国人に特有の苦悩やコンプレックスを抱えている。
しかし彼らは、病者のように自らを苛(さいな)むのではなく、他者を苛むのだ。
彼らは、他者への依存や他者への攻撃によって、自らの精神的危機を回避しようとする。
そこで彼らの反日行為は、病者が示す病像ときわめて近似していく。
彼らの反日行為が、非文明性、異常性をもって現れる最大の理由がここにある。
韓国人は〝魔女狩り〟ならずともすぐに火をつける。
日本の首相の靖國神社参拝に抗議して日の丸に,竹島問題に抗議して日本の教科書の写真や日の丸に米国産牛肉輸入問題で警察のバスに
以上のことを前提に、日本人をはじめ外国人には容易に理解できないと感じられている韓国人(韓民族)の反日行為の心理、情緒、精神のあり方の特異性を、韓国人に特徴的な心の病を通して照らし出してみたい。
その前に、韓国人との一定の比較という意味から、十分なものではないが、日本人に起きやすいとされる心の病と日本人の性格的な特徴の関係について、一つの事例から簡単に眺めておきたい。
日本人とメランコリー
日本人に起きやすい心の病の代表的なものに「内因性単極性鬱(うつ)病(メランコリー)」がある。
「内因性単極性鬱病」は、とくに日本人に顕著に見られるものだが、誰にも起き得るものではなく、ある特定の性格の人に限って発生率が高いことが知られている。
日本人はまじめゆえにメランコリーが起きやすい…
特定の性格とは「メランコリー親和型」と呼ばれる性格で、ドイツの精神科医テレンバッハが1960年代に理論化したものである。
テレンバッハは「内因性単極性鬱病」にかかった人の性格的な特徴として「几帳面、仕事熱心、堅実、清潔、権威と秩序の尊重、保守的、律儀」を挙げている(木村敏訳「メランコリー・改訂増補版」)。
これはまさしく日本人によくある性格だといってよいだろう。
最近亡くなられた経営学者の大野正和氏も、日本人の「働き過ぎ」に関連するとして次のように述べている。
「日本人に多いのは、前うつ病性格(うつ気質)であるメランコリー親和性だ。
真面目で几帳面、責任感が強く他人に気を遣う。この性格は、日本の職場では優秀な労働者の象徴である」(「過労死と日本の仕事」ブログ「『草食系』のための日本的経営論」)。
精神科医芝伸太郎氏は、この「メランコリー親和型性格はそのまま日本人一般の性格特徴(を極端にしたもの)に他ならない」と述べ、
テレンバッハらとは別に「日本人だからこそわかる」視点から、とても興味深い独自の理論を打ち立た(「日本人という鬱病」1999年)。
芝氏の理論は「お金理論」といわれるもので、概略、次のようなものである。
律儀な性格の日本人の多くは、人から借りたものは必ず返さなくてはならないと考える。
物品であれ、精神的な好意であれ、地位や名誉を与えられた場合であれ、まるで精神的な貸借対照表があるかのように、「借りたら返す」という原則を貫こうとする。
ちょっとしたミスを犯しても、必ず相手や社会に埋め合わせができるだけの良き行ないをしなくてはならないと考える―。
こういう性格の人は、社会に出ると「決して借りをつくるまい」と一生懸命になる。
会社では人並み以上に働き、他人に対しては執拗に「お世話」をしようとし、昇進をしようものならさらに時間を無視してまで働こうとする。
中年になって高い役職に就いた途端にこの種の鬱病を患う人が、日本人には多いそうである。
こういう人は、家庭生活にもとても生真面目に向かう。
ミスをすれば、その挽回を思って、ミスのために会社や相手が失ったもの以上のものを生み出そうと盛んに努力を重ねる。
そこでは、あらゆる人間関係があたかもお金のやり取りであるかのようになっていると芝氏はいう。
もちろんそれは、「姑息な金銭勘定の意識」とはまったく異なるもので、逆に「金銭勘定を無視して」がんばってしまうのだ。
そうすることで、自分が自分であることを保つことができている。
こういう極端な性格の人は、そのままではいつかはやっていけなくなる。
心身ともに疲れてしまうし、何をやっても不十分だと感じられていく。
そこで、「自分はだめな人間だ」「だらしない」と深刻に悩み、やがてはメランコリー状態に陥って鬱病を発現するまでなってしまう。
これが芝氏の「お金理論」である。
芝氏のいう「お金と同じように人間関係を考える」というのは、物事についての「借りる・貸す」の関係を、それぞれの関係のあり方の個別的な性格を無視し、何でもかんでも普遍的に向き合ってしまっていることを意味している。
確かに、日本人にはそうした性格的な傾向をもつ人が多いといえるだろう。
韓国人と火病
韓国人に顕著に見られる心の病が火病(ファッピョン)である。
火病は「韓国人にだけ現われる珍しい現象で、不安・鬱病・身体異常などが複合的に現われる怒り症侯群」とされる(米精神医学界「精神障害の診断と統計マニュアル」付録「文化的定式化の概説と文化に結び付いた症候群の用語集」)。
火病は「お腹の中に火の玉があがってくるようだ」といった韓国人に特有な愁訴が特徴で、「怒りを抑圧し過ぎたことによって起きる心身の不調」とされている。
韓国の精神科医キム・ジョンウ氏は、著書「火病からの解放」のなかで、ある中年女性の火病患者の訴えを、次のように記している(要約)。
その女性は長男にだけ関心と愛情が深かった。
長男を大学にやってから、今までの自分の生き方があまりにもむなしくて悔しいという気持ちになり、憂鬱な気分がはじまった。
その頃は身体的な症状はなかったが、自分には不服な長男の結婚問題がきっかけとなり、突然火病がはじまった。
14日の間大声を張り上げて泣く、眠れない、息苦しく胸から顔まで熱が出てくる感じ、喉が渇く、口の中が苦い、右脇腹が痛くてたまにぐらぐらする症状と、腕と足が麻痺する感じ。
全身がおかしいという訴えである。
また別の患者は、次のように訴えてきたという。
何か大きなかたまりが胸のなかで圧迫しているという感じ。
ある人に対する憤怒と悔しさが十四年過ぎても消えていない。
今もその人を見れば憤怒が吹き出す気持ちになる。
いろいろな病院を訪ねたが、誰もわかってくれない。
キム・ジョンウ氏は同書で火病を次のように説明している。
「怒りや悔しさをまともに発散できなくて、無理に我慢するうちに火病になるのです。
…略…火病も一種のストレスの病気です。しかし違うところがある。
一般的にストレス病は急にストレスが表に出る場合が多いのに対して、火病は同じストレスを六カ月以上受けるところが違います。
また火病は怒らせる原因、怒りをつくる原因はわかっているけれども、それを我慢して起こすのが特徴です。ストレスを発散すれば離婚したりすることにもなるので、我慢することが多いのです」
またキム・ジョンウ氏は、火病の原因は恨(ハン)にあると指摘している。
「火病の原因は恨です。弱くて善なる人間が強い人間に感じる劣等意識、葛藤として見えるものです。
かつては抑圧的な夫のせいで、女性たちの恨が溜まるしかありませんでした。
今では患者の3割は男性で、職場の人間、中年の事業家、定年退職を前にした人たちなどが病院に訪ねてくるようになっています」(同)
日本では怨恨の「怨」も「恨」もだいたい同じ意味で使われていると思う。
しかし韓国の「恨」は、韓国伝統の独特な情緒である。
恨は単なるうらみの情ではなく、達成したいが達成できない自分の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発している。
それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する「嘆き」として表され、具体的な対象をもつとそれがうらみとして表され、相手に激しく恨をぶつけることになっていく。
キム・ジョンウ氏は火病と恨の関係を次のように述べている。
「火病患者の一部は憤怒が目立って現れませんが、その場合恨が関係する場合が多いのです。
原因となるのは、貧困であること、弱者であること、悔しさ、怨痛さ、むなしさ、抑制などが積もりに積もること。症状面では、ため息、涙、苦しさ、胸の中の塊感など。そうした共通的なことが多いという点で、火病は韓国人特有の恨と関係が深いと推定できます」(同)
続けてキム・ジョンウ氏は「火病は、原因と感情反応で歴史的な民族固有の情緒的な恨と共通線上にあることと、時間的経過によって恨が克服されずに病理化されたことを示唆しています」と述べている。
韓国人の反日行為はまさしく火病のように、「時間的経過によって恨が克服されずに病理化された」状態であるかのようだ。
恨の多い民族
恨があるから強く生きられる、恨をバネに生きることができるというように、本来は未来への希望のために強くもとうとするのが恨である。
そうして生きていくなかで恨を消していくことを、韓国人は一般に「恨を解(ほぐ)す」あるいは「恨を解く」と表現する。
うらみにうらんだ末に恨が解けていくことを、大きな喜びとする文化は韓国に特有のものである。
そうした心情の典型を、朝鮮民族の伝統歌謡「アリラン」にみることができる。
「アリラン」は恨が解き放たれる喜びを歌った「恨(ハン)解(プリ)の歌」ともいわれる。
一般に行なわれている日本語訳で歌詞を紹介すると、その一番は次のようになる。
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く 私を捨てて行かれる方は 十里も行けずに足が痛む
ここでは親しい人が自分を捨てて去っていく恨が歌われている。
哀しい歌詞なのだが、これを喜ばしい気持ちで快活に明るく歌うのである。
二番、三番で、次のように恨解へと向かう心情が表現されていく。
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く 晴れ晴れとした空には星も多く 我々の胸には夢も多い
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く あの山が白頭山だが 冬至師走でも花ばかり咲く
固い恨があるからこそ未来への希望があるということでいうと、韓国人にとっては生きていることそのものが恨である。
自分の今ある生活を不幸と感じているとき、自分の運命が恨になることもある。
自分の願いが達成されないとき、自分の無能力が恨になることもある。
そこでは、恨の対象が具体的に何かは、はっきりしていないことが多い。
韓国人は、自分のおかれた環境がいかに不幸なものかと、他者を相手に嘆くことをよくする。
韓国ではこれを「恨嘆(ハンタン)」といっている。
そこでは、「私はこんなに不幸だ」「いや、そんなのは不幸のうちに入らない、私の方がもっと不幸だ」という具合に、あたかも「みじめ競争」のようになることも少なくない。
ここで特徴的なことは、
「自分は何の罪もない正しく善なる者なのに、誰(何)かのせいで自分が恵まれていない」と、一方的に自らを純化し自己責任を回避していることだ。
そうやってお互いにストレスを解消し合い、それでなんとかなっていれば火病に罹ることもない。
自分が今おかれている境遇や自分の過去の不幸を題材にして「ああ、私の人生は…」と節をつけて、自前の身世打令(シンセタリョン)(韓国伝統の雑歌)を友だち相手に披露することもよくある。
こうした場合の恨は、その対象が曖昧なままなのだが、それだけ、対象を求めてさまよっているのだともいえる。
だんだんと、自分の恨を固めている相手、恨をぶつける具体的な対象が欲しくなっていく。
韓国人はしばしば自分たち民族を、「恨の多い民族」と呼ぶ。
韓国には「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、決して屈することなく力を尽くして未来を切り開いてきた」と自分たち民族を誇る精神的な伝統がある。
こうした歴史性をもつ「我が民族」が「恨の多い民族」である。
韓国人がキリスト教を受け入れやすい一つの要素は、苦難の歴史を歩んだユダヤ人・イスラエルの民と、自分(たち)の境遇を重ねる意識が強く働くところにある。
韓国人とユダヤ人には、どんな罪もない優秀な民族が苦難の歴史を歩んできたという歴史的な共通性がある。
ユダヤ人がそうであるように、我が民族もまた神から選ばれた特別の民(エリート)であり、最終的な救済を約束された民である―というように。
実際、このように説く韓国人牧師は多く、韓国がキリスト教を受容した理由の第一をそこに求める論者も少なくない。
こうした考えは、すでに韓国の初期キリスト教にあったが、戦後に反日民族主義と結びつき、より強固なものとなっていった。
戦後韓国は、「日本帝国主義の支配」によって、我々は無実であるのに国を奪われ、国土を奪われ、富を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われ、過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたという、反日民族主義を国是として出発した。
そうした「無実の民」が蒙った「苦難の歴史」、その「誇りの回復」というところで、反日民族主義とキリスト教が一致していく。
キリスト教ピューリタニズムとも通じるところである。
欲望・希望・願望といったものが通らずに阻止され、これが抑圧されることで形づくられる「心の凝り」というものがある。
情緒的な色合いを強くもつことが特徴で、精神医学ではこれをコンプレックス(観念複合体)と呼んでいる。
韓国人が古くからいう「恨が固まる」とは、現代でいえばコンプレックスとしての「心の凝り」が形づくられることに他ならないだろう。
韓国の精神医学者イ・ナミ氏は、著書「韓国社会とその敵たち」のなかで、
韓国人は「物質、虚飾、教育、集団、不信、世代、怒り、暴力、孤独、家族、中毒、弱い自我」にわたる12種類のコンプレックスの塊だといっている。
そして、このコンプレックスの塊こそが、現代韓国社会に顕著に見られるさまざまな病理現象の原因をなすものだと断じる。