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幕末期の町奉行:戊辰物語

2023-03-09 15:35:15 | 日記
幕末期の町奉行:戊辰物語

「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。

南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。

今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。

正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。

それ故、公儀から報酬が出るわけではない。

それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

与力は二百石、同心は三十俵二人扶持、武士としては低い階級だが、なにしろ少ない人数で江戸の治安を所管しているとあって、えらい権力を持っていた。

その権力は、「与力、相撲に火消しの頭」という具合に江戸三男の筆頭に唄われたほどだった。

彼らは、一年の半分奉公するだけでよかった。

その半分も、一日中というわけではなく、午前十時に出勤して、午後四時には退勤した。

出勤時のスタイルは、与力が継上下、同心が羽織袴であったが、幕末の頃は与力も羽織袴になっていたという。

彼らは、八丁堀界隈に、組屋敷を作って住んでいた。それゆえ町の者たちは彼らを八丁堀の旦那と呼んだ。

八丁堀といえば、町人の住んでいるところの真ん中だ。

そこに武士が住んでいるところから、八丁堀の旦那たちは、普通の武士とは一味違った雰囲気を漂わせていた。

なにしろ絶対的な権力を背景にして有り余るほどの金をもっていたので、随分と贅沢をした。

「着物の仕立、着こなしから好み、髪の結い方から大小のこしらえ肩衣の肩幅、紋の大きさ、印籠の渋み、ちょっと見てすぐに八丁堀のものだと知れた。

八丁堀の者には実はどこが違っているかわからなかったが、何しろちょっと女中が使いに出ても世間では『ははあ町方の人だ』
とすぐわかった」ほどだという。

与力の仕事には色々とあった。調べ役というのが一番楽でしかも収入が多いというので、みなこれを目指した。

ついで、市中取締り、吟味方などがあり、末輩はだいたい番方というのに回される。

これはその日の新事件を受け付けたり、奉行が出るような白洲に陪席したり、死罪、磔、獄門など、その他いろいろな事件の検視に出かけるとか、宿直警備をやらされた。

当時の警察事例では、目上のものを殺すと獄門、磔に処せされていたから、その数は結構多かったと思われる。

明治になっても五・六年までは、打ち首は無論、磔もあれば、獄門、晒し首もあった。

「維新前後」には、某翁が初めて検死に行った時に、十二・三人一緒に磔されているのを見てびっくりしたことが紹介されている。

磔でまだ生きている人間へ、獄卒のはしくれが下から柄の長い槍でつつき絶命させるのだそうである。

たいていの場合は、柱へ架ける時に、ぐっと首縄を締めて絶命させるのであるが、中には絶命しないで磔台に晒されているものがいる。

そういうのを絶命させるために、槍でつつくわけである。

それにはだいたい形があって、柄の長い槍二本で、まずチャリンと穂先をあわせてそれを左右に引くと、今度は「アリャリャン、リャン」と声をかけて、胴から肩のほうへずぶりと刺しぬける。すると槍の柄を伝って真っ赤な血がさあっと流れてくる算段だ。

打ち首はいたって簡単に行われた。

小塚原や鈴ヶ森といった刑場に引き出すことはなく、死刑の言い渡し書を与力が牢屋まで持参して、そこで囚人を引き出して刑の言い渡しを行い、すぐその場で首を切ってしまったものである。

牢内には土談場といって、土砂を盛った首切り場ができていた。土談場に臨むというのは、そこから来ているわけである。

戊辰の年の正月は、鳥羽・伏見の戦いで始まったが、江戸では将軍不在ということもあって、静かなものだったという。

与力たちも例年と変わらず、奉行に年始参りをした。

夜が白む頃に八丁堀を出るのだが、そのいでたちは、麻裃で立派な大小をさし、供回りは若党一人大小をさし、背割羽織、たっつけ袴、紺足袋、わらじをはかせ、下男四人(御用箱持ち、草履とり、槍持ち、鋏箱持ち)いずれもあさぎの股引萌黄のふと帯を締め、素足にわらじをはいた。

帰って来ると屋敷の玄関で下男が「御帰り!」と声をかける。ちょっとした大名気分だ。

与力のみならず武家に共通した三ケ日中の忌み言葉があったそうだ。

ねずみ、なべ、箒。どういうわけで忌まれたか根拠がよくわからぬが、どうしてもこれらの言葉を使わざるを得ない場合には、ねずみをおふく、なべをおくろ、箒をおなぜと言った。

南北の町奉行所を官軍に引き渡して、市政裁判所と名称の変わったのは、戊辰の年の五月二十二日。

もっとも、実際に職を解かれたのは、南北の奉行だけで、与力以下はそのまま職務にとどまることを要請された。

新政府としては、江戸の治安に実績があった南北両奉行所の与力以下の働きを引き続き利用したいのと、与力を解任して彰義隊にでも入られたら面倒だと思ったというのが、その理由のようだ。

奉行所を官軍に引き渡すについて、奉行所がかねて保存していた莫大な金、いわば埋蔵金のようなものだが、その処置をどうするかで与力らが鳩首した。

その結果、奉行所が直接保存していた金については、与力の間で分配することとした。

そのほか各町々の会所に非常金の積み立てがだいぶあったが、これは着服しないで、官軍側に引き継ぐことにした。

どういうわけでそうしたか、詳しいことはわからない。





GSOMIA正常化推進へ 日本の輸出規制解除と連携=韓国

2023-03-09 15:23:54 | 日記
GSOMIA正常化推進へ 日本の輸出規制解除と連携=韓国

2023.03.07 

ソウル聯合ニュース

徴用賠償問題を巡る韓国政府の解決策発表を受け、韓国国防部が韓日の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の正常化を近く推進する見通しだ。韓国の政府筋によると、同部は関連官庁と協力してGSOMIAの破棄、そして破棄の効力停止通告を撤回する手続きを進める方針だ。

韓国政府はGSOMIAの正常化を推進する方針だ=(聯合ニュースTV)
 撤回の時期については、「GSOMIAの機能が維持されているため、急を要するものではない」として、「日本の対韓輸出規制解除の状況に応じて決まると思う」と明らかにした。
 GSOMIAは両国の安全保障協力の象徴ともいえる。文在寅(ムン・ジェイン)前政権は日本の対韓輸出規制に対抗して2019年8月に日本側にGSOMIAの破棄を通告した。米国の要求などを受けて同年11月に通告の効力を停止させた。
 GSOMIAによる情報交換は今も正常に行われているが、法的な地位は不安定な状態だ。これを解消するためには日本側に破棄と効力停止を撤回すると通告する必要がある。
 国防部のチョン・ハギュ報道官はこの日の定例会見で、国防分野の懸案解消の見通しについて「韓日と韓米安保協力強化のための諸般の事項を検討する」と述べた。一方、韓日間のもう一つの軍事的懸案となっている、韓国海軍の駆逐艦が日本の海上自衛隊の哨戒機に火器管制レーダーを照射したとされる問題は、徴用賠償問題を巡る政府の解決策とは無関係だと説明した。

ynhrm@yna.co.kr



韓国、「歴史は繰り返す」半導体政策、米国優先主義でコリアは不利「日本の二の舞い」

2023-03-09 15:00:23 | 日記
韓国、「歴史は繰り返す」半導体政策、米国優先主義でコリアは不利「日本の二の舞い」


2023年03月09日

  • 韓国経済ニュース時評米国経済ニュース時評

   
韓国は、メモリー半導体という汎用品で世界トップの座にある。この裏には、日米半導体協定(1986年)で日本が米国に苦杯を舐めさせられた事実がある。この間隙を縫って、韓国半導体が登場したのだ。その韓国が、今度は米国の半導体政策によって苦境に立たされようとしている。歴史は繰り返すのであろう。

『中央日報』(3月9日付)は、「半導体戦争に友邦はない」と題するコラムを掲載した。筆者は、同紙のイ・サンリョル論説委員である。

米国政府が、「超過利益」という考えを持ちだした。1億5000万ドル以上の半導体補助金を受ける企業は、予想を超過する利益の一部(補助金の75%まで)を米政府と共有しなければならないというものだ。

(1)「市場経済の宗主国を自任する米国が、このように出てくるだろうとは予想できなかった。米国の納税者の金を軽々しく使わないという論理だが、それなら外国企業と株主の利益は侵害しても構わないのか。もしかしたら私たちは米国が市場経済体制の砦になるよう望む無駄な期待に陥っているのかもしれない」

米国政府の補助金を受ける以上、規制が掛かるのはやむを得まい。超過利潤が出れば、米国政府に「特別納税」せよという理屈は当然だ。これを不服とするならば、補助金を受けないこと。理屈は簡単であろう。

(2)「政権を問わず米国の政策には、「自国優先主義」が貫かれている。1986年の日米半導体協定もそうだった。後発走者である日本の半導体メーカーが世界市場を席巻したためにインテルなど米国企業が窮地に追いやられると、レーガン政権が実力行使に出たのだ。日本の半導体メーカーの生産原価公開など毒薬条項が多かった。中でも圧巻は米国の半導体メーカー等の日本市場でのシェアを10%から20%に引き上げるというものだった。

自国優先主義は、どこの国でも行なっている。いわゆる、「国益追求」である。これは、外交政策の基本である。これをないがしろにすれば、「国辱外交」という批判を浴びる。米国が、日米半導体交渉で強硬姿勢であった裏に、「日米安保条約」が控えていた。米国は、半導体が兵器に使われる以上、自国の優位性が崩れてはならない。こういう理屈を日本に押し付けたのである。

日本は、米国に日米安全保障で守られている国だ。当時は、米ソ対立の真っ最中である。日本が米国へ譲歩せざるを得ない背景だ。また、当時の日本経済が日の出の勢いであったことも、米国の要請を受入れた理由である。「米国を助ける」というムードもあった。

(3)「『相手国市場で売れる自国製品のシェアを強制する』、市場経済とはほど遠いこの協定を契機に日本の半導体業界は勢いを失い、米国半導体は再び覇権を握った。奇しくも日本の没落が韓国の機会になった。日本の低価格供給にブレーキがかかりサムスンのメモリー半導体事業は赤字から抜け出して急成長軌道に乗り、果敢な投資と技術開発でメモリー世界1位に上がることができた」

韓国半導体の急成長は、僥倖に恵まれたと言うほかない。その後の急速円高(ウォン安)、バブル崩壊、金利急騰といったことで、日本半導体は体力を消耗した。この間隙を縫って、韓国は日本の技術を窃取して発展できたのである。日本の屍を利用したと言えよう。

(4)「ベールを脱いでいる米国の半導体政策には、超過利益共有でなくても韓国の半導体産業の急所を叩く内容が少なくない。断然目につくのは米国を最先端メモリー半導体生産基地にするという計画だ。米商務省は「米国の半導体工場は2030年までに最先端DRAMを競争力がある水準で生産するだろう」と明示した」

下線部は、米国半導体が補助金によって巨額投資を行ない、DRAMで競争力をつけるとしている。ならば、韓国企業も同じ条件で競争すべきである。超過利潤問題に拘っていてはダメなのだ。

(5)「1980年代の半導体戦争で日本を敗退させてから30年間、米国は半導体製造に執着しなかった。そこで設計は米国が、生産は韓国(メモリー)と台湾(ファウンドリー:半導体受託生産)が引き受ける世界的分業構造が定着した。メモリー市場にはいまもマイクロンなど米国企業がある。だが不動の1位はサムスンで、技術もサムスンが先導する。その次がSKハイニックスだ。米国はこの構図をこれ以上容認する意思がないようだ。米商務省は「スーパーコンピューティングに重要な次世代メモリー技術開発が米国でなされるだろう」とした」

世界が、冷戦後の「平和の配当」時代では国際分業が有利であった。だが現実は、再び新冷戦時代へ逆行している。半導体が戦略物資である以上、米国が囲い込むのは致し方ないのだ。韓国は、この流れをいかに利用するかであろう。

(6)「こうなると韓国半導体成功神話の土台となった国際分業構造を揺るがす。米国企業が生産しようが、サムスンとSKハイニックスが米国に工場を作ろうが、最先端メモリー半導体生産基地という韓国の独歩的地位と戦略的重要性は脅威を受けるほかない。半導体専門家である梁香子(ヤン・ヒャンジャ)議員は、「米国が思ったより早く爪を出した」と評した。やはり半導体覇権戦争には友邦がない。ところで、韓国の戦略は何なのか」

このパラグラフが、まさに現実世界である。韓国半導体の発展が僥倖であった以上、これから真の試練が待ち受けている。その解決案は、韓国自身が探し出すことになろう。

日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

2023-03-09 14:43:20 | 日記
日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

河合 敦 : 歴史研究家 著者フォロー

1937年の「盧溝橋事件」いったい何があったのか?
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で、日本の支邦駐屯軍第一連隊第三大隊第八中隊が夜間演習をおこなっていたが、数十発の銃声が聞こえたので、人員点呼してみると、1名が戻ってこない。
「さては、中国軍に殺害されたのだ」と判断した支邦駐屯軍は、付近の中国軍と戦闘状態に入った。これが盧溝橋事件である。
しかし翌日、戦闘は終結し、現地において停戦が成立した。行方不明だった兵士も、この日の未明に無事帰還した。おそらく、日本政府が動かなければ、盧溝橋事件はこのまま終息したはず。もちろん、成立したばかりの近衛文麿内閣も、事件の不拡大方針を唱えていた。
一方、陸軍参謀本部と陸軍省内では、大陸へ兵を増員するかどうかで意見が割れていた。だが、まもなく軍では出兵派が優勢になり、近衛内閣に派兵を求めるようになる。彼らの言い分は、「中国軍が40万人の大軍であるのに対し、現地の日本軍はわずかに6000人弱。もしこれ以上、戦闘が拡大することになれば、在留邦人1万2000人の安全は保証できない。
それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。牽制の意味でも兵を増員してほしい」というものだった。陸軍の要請を受けた杉山元陸相は、閣議で派兵を要求した。
すると近衛首相は「あくまで事件を拡大させず、現地で解決に努力する」と述べつつも、あっけなく前言をひるがえし、増派を容認したのである。
ただ、当時は軍部大臣現役武官制があり、杉山が陸相を単独で辞職し、陸軍が後任を出さなければ内閣は総辞職に追い込まれる。そうしたことも、近衛が方針を変えた理由だろう。
この動きに対し、中国を支配していた国民政府の蔣介石は、驚くべき決断を下した。7月17日、蔣介石は廬山(江西省北部)において「満州(中国北東部)を日本に奪われてから6年が経つ。日本軍は北京(北平)の門戸・盧溝橋まで迫っている。もし日本軍が北京を奪おうとするなら、弱国ながらわれわれは徹底抗戦する」という声明を発表したのである。


昭和6年(1931)から、日本軍は満州に軍事侵攻し、翌年、傀儡国家である満洲国を建国した。仕方なく国民政府は、翌年、塘沽停戦協定を結んで満洲国を黙認した。
じつは昭和2年(1927)から、国民党は中国共産党と内戦をしており、蔣介石はそちらとの戦いを優先させたのである。しかし、満洲事変後も、日本軍は華北5省に進出していくなど、侵略の手を緩めなかった。この状況に、中国人は強い不満を持っていた。
そこで昭和11年(1936)12月、国民党の重鎮・張学良は、戦いの視察で西安に来た蔣介石を監禁し、共産党と協力して統一抗日戦線をつくるべきだと迫り、受け入れさせた。
このように盧溝橋事件当時、すでに国民政府は共産党と停戦し、抗日へ向けて共闘できる体制ができつつあった。それが、蔣介石の徹底抗戦宣言につながったのである。
近衛文麿の安易な決断
まさに近衛文麿の安易な決断が、大戦争のトリガーとなったわけだ。もちろん、蔣介石にこう言われてしまっては、日本側も後へ引けなくなった。かくして続々と華北へ軍隊を送り、とうとう全面的な日中の軍事衝突に至ったのである。
すると中国も昭和12年9月、国民政府の蔣介石と中国共産党の毛沢東が第二次国共合作(国民党と共産党の提携)に踏み切り、抗日統一戦線をつくりあげた。
戦いは、上海で日本軍人が殺されたことをきっかけに、ついに華中へも飛び火していった。日本は2個師団を日本本土から上海へ派遣した。これまで日本政府は、盧溝橋事件からの一連の武力衝突を北支事変と称していたが、戦線が華中へも広がっていったことから、支邦事変と名称を変更した。
上海での戦闘は、華北でのそれとは大きく異なり、中国軍はすさまじい抵抗を見せた。日本はさらに3個師団を派遣したが、戦いでの死者は9000人を超え、負傷者も3万人にのぼっていった。柳川平助率いる師団が杭州湾から上陸して中国軍の背後を突いたこともあり、2カ月余りで中国軍が撤収、ようやく上海を制圧した。この戦いを第二次上海事変と呼ぶ。
日本軍は、この勝利の勢いを駆って300キロ離れた国民政府の首都である南京を目指すことにした。これは、現場の司令官による独断行動だった。ただ、現場の指揮官のなかには、南京を制圧する意義を疑問視する声や、長距離の移動に対して補給を心配する声が強かったが、結局、攻略派の意見に押し切られる形で、南京への遠征が決まったようだ。
だが、蔣介石はいち早く南京を脱出し、首都を漢口、さらに重慶へと遷した。昭和12年12月、ドイツ駐中大使トラウトマンは、全面的な武力衝突に発展してしまった日中戦争を終結させるべく、日中の調停に乗り出した。

蔣介石は、この和平案に乗る気を見せていたが、日本側では意見が割れてしまった。陸軍参謀本部は、重慶の蔣介石が、アメリカ、イギリス、ソ連の支援を受けて抗戦すれば、早期に戦いを収拾するのは困難になり、戦争は泥沼化して国力は疲弊し、ついに日本は衰亡してしまうと考え、トラウトマン工作の成功に期待を寄せた。
ところが、近衛内閣の閣僚は「もし、陸軍参謀本部が和平を求めるというなら、内閣は軍部とは別の所信を表明し、この戦争に邁進する」と主張した。このため、参謀本部のほうが妥協し、トラウトマンの工作は日本側の拒絶によって終わってしまった。
もし和平交渉が成立していたら
もしこのとき、和平交渉が成立していたら、太平洋戦争の悲劇はなかったろう。しかも悪いことに、近衛文麿首相は「帝国政府は、爾後国民政府を対手(相手)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して、更生新支那の建設に協力せんとす」という声明を出してしまう。
さらに、この意味について尋ねられた近衛首相は、「国民政府を対手としないというのは、否認するというより抹殺するということだ」と過激な捕捉説明をおこなった。
このように戦争している相手国政府を否定することによって、戦争終結の道を自ら閉ざしたのである。一方の蔣介石も、日本軍への徹底抗戦を表明した。かくして、日本政府と国民政府との和平の可能性は消滅した。
昭和14年(1939)末までに、大陸に派遣された日本兵は100万人に達した。その後、日本は国民政府の重鎮だった汪兆銘を重慶から脱出させ、彼に南京で新国民政府(日本の傀儡政権)をつくらせた。この新政権と交渉し、講和を結んで日中戦争を終わらせようと考えたのである。が、新国民政府は中国国民の支持を得ることができず、汪政権は蔣介石を圧倒するような大勢力とならなかった。
日中戦争が始まると、近衛内閣は「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンに、国民精神総動員運動を展開していった。
儀式や行事で精神教化をはかり、国債の購入や金属の回収を進め、貯蓄を奨励した。国民の戦時気分を盛り上げ、日中戦争に協力させていこうとしたのである。

昭和13年(1938)には、国家総動員法という超法規的な法律をつくり、戦争に人や物を自由に利用できる仕組みをつくった。
ただ、広大な中国との戦争は資源を消耗させる一方で、物資は急速に乏しくなり、切符制、配給制が広まってしまう。昭和15年(1940)には農村における米の供出制が始まった。農家は米を国家に安く買い上げられることになったのである。
この頃の農家は、一家の働き手が徴兵される家も多く、太平洋戦争が始まると化学肥料の輸入が途絶え、生産力は低下していった。
銅や鉄の使用まで制限される事態
供出は農家だけではない。昭和16年(1941)8月30日には、金属回収令が制定され、一般家庭にも鉄や銅製品の供出が命じられた。これをくろがね動員と呼ぶが、すでに昭和13年には、日用雑貨品に対する銅や鉄の使用も制限されていた。
郵便ポストも陶製となったが、同令により、国民は鉄の置物、門扉、看板、傘立て、手摺などを、微々たるお金と交換し、政府に引き渡さなければならなくなった。
戦争で石油が不足してくると、政府は昭和12年にタクシー営業を制限、翌年からガソリン・重油の配給制を実施した。また、石油にかわる代用燃料の開発が進み、アセチレンガスや大豆油、鯨油の使用やガソリンへのナフタリン混入などが考案された。
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だが、もっとも普及したのは木炭である。自動車の後部に釜を設置し、薪を蒸し焼きにして発生するガスをエネルギーに自動車を走らせるのだ。
昭和16年10月に、乗合自動車のガソリン使用が全面的に禁止されると、一気に木炭バスや木炭タクシーといった木炭車が町中を走るようになった。
こうした状況のなか、ドイツが第二次世界大戦で連戦連勝すると、日本は英米との戦争を覚悟のうえで、日中戦争継続のため、南方(東南アジア)へ進出していこうと決断。とうとう12月に、太平洋戦争へとなだれ込んでしまう。
もし盧溝橋事件で増派しなければ、もし国民政府との和平のチャンネルを自ら鎖さなければ、太平洋戦争での敗戦の悲劇は回避できたかもしれないのである。



大垣・養老での伊藤左千夫

2023-03-09 14:32:24 | 日記
 大垣・養老での伊藤左千夫
文・道下 淳
岐阜女子大学地域文化研究所
エッセイスト
 
 正岡子規の門人伊藤左千夫(1864-1913)は、歌人・小説家として知られている。とくにその長篇小説「野菊の墓」は、戦後映画にもなったから、ご記憶の方も多かろう。この人、大垣とは縁が深く、3回来垣している。
 左千夫が最初大垣に来たのは、明治36年11月のことである。敬慕する師の子規が、養老の滝見物のため、大垣に一泊したものの、豪雨により果たせなかったことがあった。その残念な気持ちを生前、左千夫らによく話していたらしい。そこで子規が死去、一周忌が済むと左千夫は、師の願いを果たすため、養老にやってきた-と、筆者は考えている。同38年9月には、歌人で小説家の長塚節が、やはり亡師をしのんで養老を訪ねている。
 左千夫には同行者がいた。子規門の歌人蕨真で、二人は浜松・名古屋と泊まりを重ね16日に大垣入りをした。名古屋では地元の歌人・俳人たちのほか、岐阜の俳人塩谷華園(鵜平)らも合流、大垣・竹島町の拓植潮音宅を訪問した。潮音も子規門の歌人で、左千夫や真・華園とは親しかった。潮音を含め6人で、養老に向けて出発した。この辺りのことは左千夫の記行文『西遊日抄』に、長歌短歌を交え記されている。以下はその一節。
 『多度山の山並み、北に漸く高く南に従いて低し。大なる鯨の臥したるを横ざまに視たらん如し。中ほどの峰少しく割り込みたるあたり、百木の霜葉やや色たちて崖の落ちたる所、岩のうす白く見ゆる辺に滝のかかれるなりという。麓の村里はおくてのの稲未だ収めず、夕煙遠く立ちこめる木立をさして、男をみなの農夫らが、物荷ない、駒ひきなどして堤帰りゆく。広く静かなる初冬の山家、なつかしさ限りなし。
 山本の里の木立の夕煙紅葉を占めし家居しぬばゆ
 この景色この歌、いとはづかし(後略)』
 これは90年余り前の大垣-養老間の風景である。馬を引き荷物を背負い家路を急ぐ人たちが行くのは、杭瀬川堤防か、また牧田川の堤防だろうか。現在、沿道はほとんど市街地化して、当時の面影など全く見られない。養老公園での一行は、緑台に腰をおろし、滝を見物した。その時、左千夫は滝に打たれている人物に気付いた。それは当時不世出の横綱といわれた常陸山であった。彼は早速二首の短歌を詠んでいる。
 日の下の荒雄常陸か此滝に立ちうたれし荒雄ひたちがいみじかる滝のしるしに力士の荒雄常陸が病癒きや
 常陸山は巡業の帰りにでも、何かの病気を治すため、霊験あらたかな養老の滝に打たれていたのだろうか。左千夫の歌からは、そのように感じられる。一行は同夜、養老公園に泊まった。
 翌朝、自然がいっぱいの神さびた養老山(多度山)に別れ難い思いを込め、左千夫は長歌を詠んだ。次はその反歌。「多度の山祗」とは、養老山に鎮まる神という意味である。
 うつみそに背くすべなみ山くだる吾を呼ばぬか多度の山祗
 左千夫は明治40年6月、再び来垣した。この時は潮音宅に立ち寄り、一緒に岐阜・長良川での鵜飼を見物した。ところが翌年5月にも潮音を訪問、同家に一泊している。この時は北陸線経由での来垣であった。
 左千夫に次ぎのような恋の歌がある。
萌黄さす桑の家居ははやけやし越後乙女や人待つらむか
 この「萌黄さす」恋人を訪ねて彼ははるばる彼女の実家、新潟県・柏崎在まで出かけたが会えなかった。その帰りに潮音宅に立ち寄ったのである。以上のことを柏崎の友人岡村(モデルは潮音)家での出来事として短篇小説にまとめ、同年9月の雑誌『ホトゝギス』に発表した。題名は『浜菊』
 『汽車がとまる。瓦斯灯に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。3、4人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、ただ歩いて通る(中略)乗客は各自に車扉を開いて降りる。日和下駄カラカラと、予の先きに3人の女客が歩きだした。男らしい客が4、5人また後から出た。一寸時計を見ると9時20分になる。改札口に出るまでは躊躇せずに急いで出たが、夜は意外に暗い。バッタリと闇夜に突き当たって予は直ぐには行くべき道に践み出しかねた。』
 これが冒頭の一章である。乗客がそれぞれ扉を開いて客車から降りる辺り、鉄道の時代性が出ていて面白い。小説では柏崎駅(北陸線)の描写となっているが、実際には大垣駅である。予(矢代)は人力車で岡村家に行き一泊したが、冷遇された旨、小説で述べ、終わりを次のように結ぶ。
『予は柏崎停車場を離れて、殆ど獄屋を免れ出た感じがした。(中略)とにかく学生時代の友人をいつまでも旧友と信じて、漫に訪問するなどは、警戒すべきであろう。(後略)』
 この作品を読んだ共通の友人長塚節が、二人の仲を心配した。『浜菊』を読んだ潮音は腹を立てたものの温厚な人柄だけに、事を荒立てることはせず、節あてに手紙を書いた。左千夫に対し『今後、それとなく一切の交信音信を断つべく決心致し候』と。
 この『浜菊』事件に対し、節や鵜平は潮音に同情的だったという。特に鵜平はわざわざ潮音を慰めに出かけたと、鵜平門の俳人高沢坡柳から聞いたことがある。
 左千夫門の歌人土屋文明によれば『左千夫は弟子の家の迷惑もかまわず泊まりありくというのも考え合わせて、拓植邸における嫌われ方も理解されないではあるまい』(『小説にはならない話23』)と記す。ここら辺りに真相があるのではなかろうか。