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“読売新聞のドン”渡辺恒雄氏と岸田首相が「異例」の会合…その後、意気軒昂、絶好調の理由
戦後日本の内幕
NHKチーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏の新刊『独占告白 渡辺恒雄―戦後政治はこうして作られた』(新潮社。今年1月刊行)を読んだ。
そして、改めて読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏(96歳)の“凄さ”を知った。
これまで筆者は渡辺氏著書の『派閥―保守党の解剖』(弘文堂。2014年刊行の復刻版)も『君命も受けざる所あり』(日本経済新聞出版社07年刊行)も読んでいる。
だが同書は、NHK-BS1スペシャル(20年3月7日)とNHKスペシャル(同年8月9日)が放送した渡辺氏ロングインタビュー(インタビュアーは元NHK報道局記者の大越健介氏=現・テレビ朝日「報道ステーション」MC。ディレクターが安井氏)をベースに安井氏が書き下ろしたものである。
同書を読んで新たに知った戦後政治秘史は多々あった。しかし本稿は書評ではないので、ここでは同書で渡辺氏が語ったことの一端に限定して言及したい。
「白さも白し冨士の白雪」
特筆に値するのは、第6章「密約と裏切り―政治家たちの権謀術数」にある「白さも白し富士の白雪」の一件だ。この顛末は『君命も受けざる所あり』にも記述されているが、概ね次のような「事実」である。
1956年12月の自民党総裁選で当時の岸信介幹事長、石橋湛山通産相、石井光次郎総務会長がポスト鳩山一郎を争った。この総裁選で初めて実弾(カネ)が飛び交ったことで知られる(註:当時の総裁選は公職選挙法が適用されなかった)。
有力視された岸は弱小派閥を擁した大野伴睦に平身低頭して支持を懇願するが、自らの心境は「白さも白し冨士の白雪」(「全く白紙」の意味)だと遇われる。だが密かに石橋に通じていた大野率いる大野派が決戦投票で(白雪が)溶けて流れて石橋支持に回り石橋内閣が誕生した。
そして4年後の60年7月総裁選では大野が岸の意趣返しに泣く。前年1月16日に首相の岸が大野、河野一郎、佐藤栄作と「次ぎは大野、次いで河野、佐藤の順で首相とする」誓約書(立会人は児玉誉士夫、萩原吉太郎、永田雅一)を作成していたのだ。しかし総裁選直前に岸は「俺の心境は白さも白し冨士の白雪」と言って密約を反故にした。結果、大野は土壇場で立候補断念を余儀なくされた。一枚の紙っ切れ(誓約書)など平気で無視される政治の世界は怜悧冷徹なのだ。
岸田父子との因縁
それから54年後の故・安倍晋三元首相である。中南米5カ国歴訪中の2014年7月31日、滞在先のチリ・サンティアゴでの同行記者団との内政懇談で、9月の内閣改造・自民党役員人事について「全くの白紙だ。人事はアンデスの雪のように真っ白。白さも白しアンデスの雪ということですね」と語った。安倍氏は一連の故事来歴を念頭に質問に答えたが、残念ながら同行記者でピンと来た者は皆無だった。
時代背景、人物攻勢、状況設定が異なるが、同年夏時点で永田町の関心事は安倍氏が続投を求める石破茂幹事長をどう処遇するのかに集中していた。ところが、安倍氏はまさに戦後政治秘史に違わず総裁経験者の谷垣禎一幹事長、石破地方創生相というサプライズ人事を断行したのだ。
なぜ、56年と60年の総裁選に関するエピソードを『独占告白 渡辺恒雄』から引いたのか。もちろん、理由はある。開成中学を卒業した渡辺氏は開成高校卒業の岸田文雄首相とは同じ開成学園出身であり、旧制東京高等学校では岸田氏の父・岸田文武元衆院議員と同級生である。すなわち、岸田父子とは二代にわたる同窓生なのだ。
現職首相が“読売新聞のドン”である渡辺氏のもとを訪れる――異例と言っていい。「首相動静」によると、3月8日に東京・大手町の読売新聞東京本社で午後1時44分~同2時20分まで懇談している。昨年も1月7日(会食)、6月3日(同)、10月26日(懇談)の3回、いずれも同紙本社であった。
仄聞するところでは、政治の「取材者」であり「当事者」でもある渡辺氏に「教えを乞う」というよりも「勇気を与えてもらう」というのが実相に近いようだ。まさしく効果てきめんなのか、最近の岸田氏は意気軒昂であり、高揚感が漲っているという。
韓国の尹錫悦大統領(16日)、オラフ・ショルツ独首相(18日)と相次いで会談した。さらに19日夜にインドの首都ニューデリーに向けて発ち、20日にはナレンドラ・モディ印首相と会談する。岸田外交ラッシュである。
恐らく23年度一般会計予算成立後の31日にウクライナの首都キーウを訪れてウォロディミル・ゼレンスキー大統領と対面し「日本はあなた方と共にある」と表明するのではないか。0泊3日の超強行日程だ。こうした外交成果を掲げて4月の統一地方選・衆参院5補選を戦い、G7広島サミット(5月19~21日)に議長として臨む腹積りなのだろう。