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米軍のアフガニスタン撤退は「惨劇」、米議会公聴会で海兵隊員が涙の証言

2023-03-09 17:41:49 | 日記

米軍のアフガニスタン撤退は「惨劇」、米議会公聴会で海兵隊員が涙の証言


BBC News によるストーリー • 1 時間前


アメリカ連邦議会下院の外交委員会で8日、2021年のアメリカ軍のアフガニスタン撤退をめぐる調査が始まり、現地で負傷した米海兵隊員が、当時の状況を「惨劇」だったと涙ながらに語った。

米軍のアフガニスタン撤退は「惨劇」、米議会公聴会で海兵隊員が涙の証言© BBCニュース 提供

アフガニスタンでは2021年8月、武装勢力タリバンが実権を掌握。

米軍による市民の避難が行われる中、空港で混乱が起きた。

ジョー・バイデン政権は同月末に、米軍を完全撤退させた。

下院多数だが政権野党の共産党が主導する外交委員会は、バイデン政権のこの判断について調査している。

この日の公聴会に召喚された兵士たちは、タリバンが実権を握った直後の混乱と、米軍の準備不足、自分のトラウマや心理的打撃が続いていることなどについて語った。

米海兵隊のタイラー・ヴァーガス=アンドリューズ軍曹(25)は当時、カブール空港を警備していた米兵の1人。

この空港では2021年8月26日、避難のために殺到していた市民を狙う自爆テロが2件発生し、アフガニスタン人170人、米兵13人が亡くなった。

ヴァーガス=アンドリューズ氏は、自分ともう1人の海兵隊員が爆発が起きる可能性を情報機関から入手しており、事件当日、容疑者を見つけたと証言した。同氏は上官に警告を送り、出動許可を得ようとしたが、許可は下りなかったという。

「単純に言えば、私たちは無視された」とヴァーガス=アンドリュース氏は話した。

ヴァーガス=アンドリュース氏は感情をあらわにしながら、爆発で空中に投げ出されたことや、次に目を開けた時には同僚が死んでいたり、意識を失って倒れていたことなどを証言した。

「身体が爆発によるけがに覆われていた。胴体が引き裂かれていた。むきだしになった体のあらゆる場所に、軸受けや破片が刺さっていた」

「もう助けられない人たち、置いてきてしまった人たちの顔が目に浮かぶ」

その上で、米軍の撤退は「惨劇」だったと述べ、「言い訳できない責任の欠如と怠慢があった」と指摘した。

委員会では、他の米兵や退役軍人からも、撤退によるメンタルヘルス(心の健康)への影響の証言があった。

アフガニスタン人の避難に携わっていたデイヴィット・スコット・マン中佐(現在は退役)は、味方を逃がそうとした経験は「とてもつらい」ものだったと語った。

また、アフガニスタンからの撤退後、退役軍人ホットラインへの問い合わせが81%増加したと指摘。アメリカは「メンタルヘルス問題の津波の最前線」にいると警告した。

マン中佐と共に従軍していた友人は、その後自殺したという。

「友人はただ、心理的打撃の暗闇から抜け出せなかった」

証言者の大半は、ジョージ・W・ブッシュ氏から現職のバイデン氏まで、米軍がアフガニスタンに派遣されて以降の全政権に責任があると述べている。

また、アフガニスタンやアメリカにいるアフガニスタン人協力者への支援を直ちに行うよう求めた。

マン中佐は、「アメリカは、協力者を何世代にもわたって構造的に見捨てるという、嫌な評判を作りつつある。ベトナムのモンタニャールからシリアのクルド人に至るまで、我々は人間のごみのように捨て去ってきた」と指摘した。

一方、長らく調査を求めてきた共和党は、バイデン政権を非難している。

同委のマイク・マコール委員長(共和党、テキサス州選出)は、撤退は「連邦政府の全方面のシステム崩壊と、バイデン政権によるとんでもないリーダーシップの失敗」だと述べた。

これに対し政権与党・民主党の委員たちは、バイデン政権を擁護した。

グレゴリー・ミークス議員(民主党、ニューヨーク州選出)は、バイデン氏は「全部隊をアメリカに帰還させるために正しい決定を下した」と述べた。

「アフガニスタンにこれ以上のアメリカ人を送り込んで戦わせることは、良心的に考えられない」

バイデン大統領は先に、「根本的に起こったこと全てについて責任を負う」と発言している。一方で、タリバンと撤退合意を結んだドナルド・トランプ前大統領を批判している。






2018年の大法院の判決は虚偽の記憶を歴史的事実と錯覚し韓日協定という国際法に正面違反した韓国司法府の歴史上消せない一大汚点である

2023-03-09 17:19:35 | 日記
謝罪をこう卑屈な外交を中断せよ!

日付: 2023年03月07日 12時27分
統一日報
 朝鮮日報の1日付に『反日種族主義』としてよく知られた韓国の知性、李承晩学堂の李栄薫学長名義の広告が掲載された。

要旨は、(1)韓国人が大量に連行されて奴隷として酷使されたという強制徴用主張は、韓国の間違った集団情緒である『反日種族主義』がもたらした虚偽の記憶で、この問題は1965年、両国が国交を正常化しながら締結した条約を通じて完全かつ永久に解決された

(2)2018年の大法院の判決は虚偽の記憶を歴史的事実と錯覚し韓日協定という国際法に正面違反した韓国司法府の歴史上消せない一大汚点である

(3)大法院の判決を執行するため韓国外交当局が取ってきた措置や日本側に懇願する行為は先進文明国家として決してやってはならない卑屈な外交だ

(4)尹錫悦政府は偽りで卑劣な対日外交を直ちに中断し、過去史問題はこれ以上ないことを宣言せよ!

■生首の歯に墨を塗る仕事  おあむは大垣城の中に居た。

2023-03-09 16:54:59 | 日記
戦国時代といえば戦いの連続。武士を中心に男たちの戦いというイメージが強いかもしれませんが、女性も戦っていました。

当時の女性の語りを記録したという、『おあむ物語』には、関ヶ原の戦いのころの女たちのある「仕事」が記されています。

かなーり、きつーい役目をやらされております…。本日はそれをご紹介します。


■生首の歯に墨を塗る仕事

おあむは、石田三成の臣・山田去暦の娘である。

そのおあむは大垣城の中に居た。

いまはもう石田三成らの西軍軍勢は関ヶ原に向かってしまって城にはいなかった。

大垣城には守将の福原長堯の守兵がいるのみである。

城には、おあむの他にも女性や子供がいた。

おあむなどは、母親も共にいた。

おあむの母は、「味方のお役にたちたい」と言って、以前から天守に登って鉄砲玉を鋳造したりしていた。

おあむも母について天守に行ってみた。そこで仰天する光景を目にした。

女たちが、生首の歯に墨を塗っているのである。

「お歯黒は高貴な人がするものだから、恩賞もいいというのですよ。」
母はそう言った。

これはつまり、「歯に墨を塗っておくと、身分の高い武将の首を取ったことにできる」らしい。

そこで、とにかくとった首の歯に墨を塗っておいてくれ、と武士が頼みにきて置いていくというのである。

おあむはその光景を見て、恐ろしいと思った。

しかし、母もその作業を始めたので、おあむも渋々手伝った。

生首を触るのが恐かった。意外と重いし、形相も凄まじいものがある。

できるだけ直視しないようにしながら、おそるおそる歯に墨を塗っていった。

しかし、いくつも塗っていくうちにだんだん慣れてきて、特に恐ろしいこともなくなってきた。

こういうところは、おあむの性格でもあるのだろう。
その日は、生首に囲まれて寝た。

■目の前で弟の死を見る

そんな風に城内で過ごしていると、銃声が響いた。

おあむは、落城するのかと不安になった。女たちも恐怖でにわかに騒ぎ出した。

すると、そこへ侍大将らしい甲冑をつけた男がやってきた。

「騒がぬように、敵方は既に逃げ去った。皆、騒がぬように。」

とりあえず、外の様子がわからないので、みんな「敵は逃げ去った」という言葉にほっと肩の力を抜いた。おあむもほっとした。

その時である。

おあむのすぐ横を鉄砲玉が通過した。
「おぼっ」変な声がした。

おあむが振り返ると、おあむの弟が倒れたのが見えた。

玉はおあむの弟に命中したのだった。弟は14歳だった。

おあむは数秒間、何が起こったかわからず呆然としたが、すぐにハッとして弟の元に駆け寄った。

しかし、弟は既に目と口を開いたまま、ビクビクと痙攣していた。そのまま何をできるわけでもなく、弟はおあむの目の前で死んでしまった。

その日のうちに、外にいた父・去暦から矢文がきて、落ち延びられるよう手配したから落ちるように促された。

女たちはそれぞれ、城を出る準備をした。しばらくして、去暦が直接来て、おあむたちを連れて城を落ちた。おあむは無事に城から脱出できたのである。

―――

老人になってから、おあむはこの時のことなどを近隣に住む子供たちに話して聞かせた。

その子供たちのうちの一人が、やはり老人になってから、おあむの話を思い出しながら書に残した。

それが今日までこの話を伝える『おあむ物語』である。

だんだん慣れてきた、って言ってますけど、こればっかりは慣れたくないですね~。

これを読むと、女性は女性で必死だったんですよね。

まあ鉄砲玉の鋳造はともかく、生首に墨を塗るのは…きつい…。いや、絶対やりたくないですよね…。


おあん物語

2023-03-09 16:11:50 | 日記
おあん物語


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『おあん物語』(おあんものがたり)は、江戸時代前期に老尼から聞き書きした戦国時代の体験記。

表題は『おあむ物語』、『御庵物語』とも表記される。

石田三成の家臣・山田去暦の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦いの頃の様子を子供たちに語った話の筆録で[1]、 正徳年間(1711年 - 1716年)の成立とされる[1]。

表題の「おあん」(お庵)は老尼の敬称である[1]。戦国時代の武家の暮らしを女性の立場から描写した貴重な史料とされる[2][3]。


内容[編集]


『おあん物語』は、「子供集まりて、おあん様、昔物語なされませといえば」の書き出しで始まり、老婆おあんが昔の思い出を語る体裁をとる[4]。

同書を書き記した人物は、幼少期におあんの昔話を聞いた親戚と思われる[4]。

おあんの父親・山田去暦は知行300石取りの武士で彦根に暮らし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃は石田三成の配下として大垣城(一説に佐和山城)を守備した[3]。

おあんは徳川家康方の軍勢から石火矢を打ち込まれる中で、母や城内の女性たちと城の天守にて鉄砲玉を作り、味方が討ち取った敵将の首に札を付けて天守に並べ置き、毎夜これに鉄漿(お歯黒)を付ける作業をし(戦においてお歯黒付きの武士は身分が高いとされていたため、のちの恩賞のため鉄漿首を作ったという)、寝泊まりもしたということ、

目の前で14歳の弟が撃たれて死亡し、明日は落城という日には、父母や家来と共に梯子をかけて城を脱出し、逃亡の途中で母が女児を出産した際は田の水で産湯を使ったことなどが語られる。

おあんはまた、彦根時代は貧しく、一日2食で、着る物も13歳から17歳まで同じ帷子一枚だった、などのことも述懐し、
今時の若者は衣服に凝り、金を費やし、食べ物に様々な好き嫌いがあり、沙汰の限りであると言って彦根時代の話を持ち出して子供たちを叱ったため、
子供たちからは「彦根婆」と呼ばれ、老人が昔のことを引いて現世に示すことをこの地方(土佐)では彦根と呼ぶとする俗説はこれに始まった、と綴られる。

おあん[編集]


おあんの本名および生没年は不詳。

戦国時代に生まれ、山田去暦の娘として関ヶ原の戦いを経験し、のちに父に従い土佐に渡り、山内氏に仕えていた近江出身の雨森儀右衛門の妻となった[2]

晩年は甥の山田喜助に養われ、寛文年間(1661年 - 1673年)に80歳余で死去した[3]。

「おあん」という呼び名は愛称で、庵に暮らす僧尼であることを意味し、それに敬称の「御」を付けたものである。

子孫に山田平左衛門がいる[矛盾 ⇔ 山田平左衛門]。

おあむの松[編集]


おあんら一行は城から逃げる際、天守の西側にあった腰曲輪の松の木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、たらいに乗って逃げたとあり、大垣城には樹齢300年ほどの大松があったが、第二次世界大戦の直前に枯れたために植え継ぎし、昭和44年(1969年)7月10日に2代目「おあむの松」の命名式が催され、解説板が設置された[5][6]。

大垣では毎年4月に物語を元にしたイベント「水の都おおがきたらい舟」が開催される[6][7]。

戊辰戦争とは?戊辰戦争が開戦する3つのきっかけと主な出来事5つ

2023-03-09 15:53:51 | 日記
戊辰戦争とは?戊辰戦争が開戦する3つのきっかけと主な出来事5つ

旧幕府軍と新政府軍が争った戊辰戦争とはどのような戦いだったのでしょうか。

この記事では戊辰戦争が開戦する3つのきっかけや戊辰戦争中の主な出来事、戊辰戦争から学べることなどをご紹介します。戊辰戦争について理解を深めてみてはいかがでしょうか。

戊辰戦争とは?
戊辰戦争とは旧幕府軍と新政府軍による日本統一戦争です。
戊辰戦争は1868年から翌年にかけて行われた旧幕府軍と新政府軍の戦争で、「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」から「箱館戦争(五稜郭(ごりょうかく)の戦い)」までの日本各地で行われた一連の戦いをまとめて戊辰戦争と呼びます。
この戦いで勝利した新政府軍は、倒幕を主導した薩摩藩と長州藩を中心に動いていくことになりました。
戊辰戦争が開戦する3つのきっかけ
戊辰戦争の開戦へ至るにはさまざまな出来事がありました。
戊辰戦争は多くのドラマを生みだし、現代でも新撰組や白虎隊などの名前が語り継がれています。それでは、戊辰戦争とはどのようなきっかけで何のために行われた戦いだったのでしょうか。
ここでは戊辰戦争が開戦する3つのきっかけをご紹介します。
戊辰戦争のきっかけ1:大政奉還
1867年11月に第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われました。
慶喜が大政奉還を決断した意図は、朝廷側から倒幕の勅命(天皇の命令)が出る前に先手を打ったとも、内乱を避けるためだったとも言われています。しかし、少なくともこの時点ではまだ慶喜が新しい政治体制の中で主導権を握る可能性は残されていました。
戊辰戦争のきっかけ2:王政復古の大号令
1868年1月3日、大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、岩倉具視(いわくらともみ)が慶喜抜きの新しい政治体制を確立するためクーデターを起こし、「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」を発して新体制の樹立を決定しました。
幕府を廃止して天皇のもとに新たな職を置いて有力な藩が共同で政治を行うという「王政復古の大号令」が発し、その夜の「小御所会議(こごしょかいぎ)」で徳川慶喜内大臣の辞職と領地の一部返上が決定されます。
戊辰戦争のきっかけ3:薩摩藩邸の焼討事件
1868年1月19日、薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組によって焼き討ちにされました。
王政復古の大号令後も旧幕府や慶喜勢力が健在であったため、薩摩藩は戦いに持ち込むことにしました。そして薩摩藩の浪士に江戸市中取締の庄内藩新徴組の屯所を襲わせ、使用人1人を殺しました。
そのため、旧幕府側は討伐として江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、112人の浪士が捕縛しました。この騒乱の影響が拡大し、その後、旧幕府軍と新政府軍が衝突する戊辰戦争へと繋がっていきます。
戊辰戦争中の主な出来事5つ
戊辰戦争では「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」「江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)」「東北戦争(とうほくせんそう)」「会津戦争(あいづせんそう)」「箱館戦争(はこだてせんそう)」という大きな5つの出来事がありました。
ここでは戊辰戦争中の主な出来事5つをご紹介していきます。
戊辰戦争中の出来事1:鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いは、会津藩や桑名藩などを含んだ旧幕府方が京都へなだれこもうとしたことで始まりました。
旧幕府方は1万5,000ほどの兵力、対する新政府軍の兵力は5,000ほどでした。しかし朝廷が徳川慶喜を朝敵とみなし、錦の御旗を掲げて「大義は我らにあり」と示したことで、旧幕府軍の士気はがた落ちしてしまいます。
そしてその結果、圧倒的な戦力差を覆され、旧幕府軍の敗北で戦いは終わります。
戊辰戦争中の出来事2:江戸城無血開城
江戸城の無血開城によって、江戸への総攻撃が行われることなく江戸城は新政府へ引き渡されました。
鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は江戸へ逃れましたが、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)と新政府軍の西郷隆盛の働きによって、江戸城は戦いではなく話し合いによって新政府へと引き渡されることになりました。
戊辰戦争中の出来事3:東北戦争
東北戦争は、朝敵とされていた会津藩と桑名藩の扱いをめぐる東北諸藩と新政府軍の対立によって発生しました。
東北諸藩は会津藩と庄内藩の「朝敵」扱いを許してもらえるように新政府へ嘆願を行いましたが、拒絶されたため「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」として新政府に対応する軍事同盟を結成しました。
そしてこの戦による被害は東北地方へと広がります。
戊辰戦争中の出来事4:会津戦争
会津戦争では、白虎隊の集団自決という悲劇が起こりました。
会津藩の処遇をめぐり、会津地方を主戦場に新政府軍と奥羽越列藩同盟の戦いが行われました。
しかし会津藩は不利な状況で、「白河口の戦い」や「二本松の戦い」などで旧幕府軍は敗れ、城下町の火災を若松城の落城と間違えた白虎隊が飯盛山で集団自決するという悲劇も起こりました。
戊辰戦争中の出来事5:箱館戦争
箱館戦争では、榎本武揚(えのもとたけあき)らが新政府軍に降伏したことで戊辰戦争は終結しました。
奥羽越列藩同盟軍や榎本武揚、土方歳三(ひじかたとしぞう)などは北海道へ出航し、朝廷の下での北海道の支配を求めましたが、新政府は認めず戦いとなりました。
そして青森に戦力を置いて上陸し、戦いの中で土方歳三は戦死し、旧幕府軍が鎮圧されたのを最後に戊辰戦争は終結しました。
戊辰戦争から学べること
戊辰戦争はお互いの主義や主張の違いによって起こりました。
新政府軍と旧幕府軍のどちらも己の信念に基づき、国のために深く考えていました。しかしお互いの主義や主張が認められなかったことから、大きな争いとなってしまいます。
立場、見方を変えれば「正義」「正しさ」のあり方も変わります。誰かと意見が衝突した時、自分は正義で相手が悪と思い込むのではなく、相手の見方を考えてみる視点をもてると良いのかもしれません。
戊辰戦争について理解しよう
戊辰戦争は旧幕府軍と新政府軍によるお互いの信念をかけた戦いでした。
旧幕府軍は将軍を統率者としてこれまでと同じように政治を行っていくことを主張し、対する新政府軍は天皇を中心として国をより強くしていくことを主張しました。
そして互いの主張が受け入れられなかったことから、争いは東北諸藩などを巻き込み、多くの悲劇を生む結果となりました。そして北海道へ逃げた旧幕府軍が鎮圧されたことで、戊辰戦争は終わりました。
最新鋭の武器アームストロング砲や銃の攻撃に1か月耐えた『会津若松城』に行ってみましょう
会津若松城は東北随一の堅城として有名なお城です。
会津若松城は幕末に京都守護職を務めた会津藩藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が住んでいたお城で、「鶴ヶ城」とも呼ばれています。
戊辰戦争では新政府軍の最新鋭武器であるアームストロング砲や、新型銃の猛攻に1ヶ月も耐えました。2011年には大改修が行われ、現在では江戸時代と同様の赤瓦に葺き替えられています。