大垣・養老での伊藤左千夫
文・道下 淳 岐阜女子大学地域文化研究所 エッセイスト |
正岡子規の門人伊藤左千夫(1864-1913)は、歌人・小説家として知られている。
とくにその長篇小説「野菊の墓」は、戦後映画にもなったから、ご記憶の方も多かろう。この人、大垣とは縁が深く、3回来垣している。
左千夫が最初大垣に来たのは、明治36年11月のことである。
敬慕する師の子規が、養老の滝見物のため、大垣に一泊したものの、豪雨により果たせなかったことがあった。
その残念な気持ちを生前、左千夫らによく話していたらしい。
そこで子規が死去、一周忌が済むと左千夫は、師の願いを果たすため、養老にやってきた-と、筆者は考えている。
同38年9月には、歌人で小説家の長塚節が、やはり亡師をしのんで養老を訪ねている。
左千夫には同行者がいた。
子規門の歌人蕨真で、二人は浜松・名古屋と泊まりを重ね16日に大垣入りをした。
名古屋では地元の歌人・俳人たちのほか、岐阜の俳人塩谷華園(鵜平)らも合流、大垣・竹島町の拓植潮音宅を訪問した。
潮音も子規門の歌人で、左千夫や真・華園とは親しかった。
潮音を含め6人で、養老に向けて出発した。
この辺りのことは左千夫の記行文『西遊日抄』に、長歌短歌を交え記されている。
以下はその一節。
『多度山の山並み、北に漸く高く南に従いて低し。大なる鯨の臥したるを横ざまに視たらん如し。中ほどの峰少しく割り込みたるあたり、百木の霜葉やや色たちて崖の落ちたる所、岩のうす白く見ゆる辺に滝のかかれるなりという。麓の村里はおくてのの稲未だ収めず、夕煙遠く立ちこめる木立をさして、男をみなの農夫らが、物荷ない、駒ひきなどして堤帰りゆく。広く静かなる初冬の山家、なつかしさ限りなし。
山本の里の木立の夕煙紅葉を占めし家居しぬばゆ
この景色この歌、いとはづかし(後略)』
山本の里の木立の夕煙紅葉を占めし家居しぬばゆ
この景色この歌、いとはづかし(後略)』
これは90年余り前の大垣-養老間の風景である。
馬を引き荷物を背負い家路を急ぐ人たちが行くのは、杭瀬川堤防か、また牧田川の堤防だろうか。
現在、沿道はほとんど市街地化して、当時の面影など全く見られない。
養老公園での一行は、緑台に腰をおろし、滝を見物した。
その時、左千夫は滝に打たれている人物に気付いた。
それは当時不世出の横綱といわれた常陸山であった。
彼は早速二首の短歌を詠んでいる。
日の下の荒雄常陸か此滝に立ちうたれし荒雄ひたちがいみじかる滝のしるしに力士の荒雄常陸が病癒きや
常陸山は巡業の帰りにでも、何かの病気を治すため、霊験あらたかな養老の滝に打たれていたのだろうか。
左千夫の歌からは、そのように感じられる。一行は同夜、養老公園に泊まった。
翌朝、自然がいっぱいの神さびた養老山(多度山)に別れ難い思いを込め、左千夫は長歌を詠んだ。
次はその反歌。「多度の山祗」とは、養老山に鎮まる神という意味である。
うつみそに背くすべなみ山くだる吾を呼ばぬか多度の山祗
左千夫は明治40年6月、再び来垣した。
この時は潮音宅に立ち寄り、一緒に岐阜・長良川での鵜飼を見物した。
ところが翌年5月にも潮音を訪問、同家に一泊している。この時は北陸線経由での来垣であった。
左千夫に次ぎのような恋の歌がある。
萌黄さす桑の家居ははやけやし越後乙女や人待つらむか
この「萌黄さす」恋人を訪ねて彼ははるばる彼女の実家、新潟県・柏崎在まで出かけたが会えなかった。
その帰りに潮音宅に立ち寄ったのである。以上のことを柏崎の友人岡村(モデルは潮音)家での出来事として短篇小説にまとめ、同年9月の雑誌『ホトゝギス』に発表した。
題名は『浜菊』
『汽車がとまる。瓦斯灯に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。3、4人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、ただ歩いて通る(中略)乗客は各自に車扉を開いて降りる。
日和下駄カラカラと、予の先きに3人の女客が歩きだした。男らしい客が4、5人また後から出た。
一寸時計を見ると9時20分になる。
改札口に出るまでは躊躇せずに急いで出たが、夜は意外に暗い。
バッタリと闇夜に突き当たって予は直ぐには行くべき道に践み出しかねた。』
これが冒頭の一章である。乗客がそれぞれ扉を開いて客車から降りる辺り、鉄道の時代性が出ていて面白い。
小説では柏崎駅(北陸線)の描写となっているが、実際には大垣駅である。
予(矢代)は人力車で岡村家に行き一泊したが、冷遇された旨、小説で述べ、終わりを次のように結ぶ。
『予は柏崎停車場を離れて、殆ど獄屋を免れ出た感じがした。(中略)とにかく学生時代の友人をいつまでも旧友と信じて、漫に訪問するなどは、警戒すべきであろう。(後略)』
この作品を読んだ共通の友人長塚節が、二人の仲を心配した。
『浜菊』を読んだ潮音は腹を立てたものの温厚な人柄だけに、事を荒立てることはせず、節あてに手紙を書いた。
左千夫に対し『今後、それとなく一切の交信音信を断つべく決心致し候』と。
この『浜菊』事件に対し、節や鵜平は潮音に同情的だったという。
特に鵜平はわざわざ潮音を慰めに出かけたと、鵜平門の俳人高沢坡柳から聞いたことがある。
左千夫門の歌人土屋文明によれば『左千夫は弟子の家の迷惑もかまわず泊まりありくというのも考え合わせて、拓植邸における嫌われ方も理解されないではあるまい』(『小説にはならない話23』)と記す。
ここら辺りに真相があるのではなかろうか。