秋の気配
かな?
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立花城古図の
見取り図を
見つけました。
これなら
よくわかりますね!
(^^/
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中央の松前嶽城は、立花道雪の側室として(実は人質として)やってきた、
色姫(当時25歳)に与えられた、と言われています。
それで、色姫は『松前殿』とよばれたそうです。
ただ、戦時中以外は、城にはいないので、青柳村に住んでいたらしい。
西郷300町(旧福間町)は、その時の化粧料として贈られました。
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色姫は、宗像一族最後の大宮司、氏貞の妹です。
氏貞と色姫は、実は第二夫人(照葉)の子だったので、
第一夫人(山田)との間で、相続争いに巻き込まれます。
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陶晴賢(すえはるかた)のバックアップで、
氏貞色姫組は、勝った!
けれども、勝ち方が悪かったよー (;一_一)
本妻とその娘(菊姫)とおつきの計6人を 惨殺だって (T_T)
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こわーい たたりが つぎつぎと・・・
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7回忌のとき、母照葉とかるたをしていた色姫は、
突然髪ふり乱して、母の咽笛にかみついた!
『ワレハ、ヤマダノ オンリョウナリ』と言ったとか!
ひえ~!こわいよ~
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氏貞は、6地蔵を祀ったり、お寺をいっぱい建てたり
そりゃあ、もう大変だったらしい。
宗像地区では、いまでも山田の地蔵さん参りがあり、
現代でも、この地区では祟りがあると言われている
そうです。
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・・・・・・ どう?
案内パンフに
『立花城古図』
(柳川古文書館所蔵)
というのがあったので
拡大してみましたが、
みずらいです(^^;
中央が井楼山の本城跡、
右に松尾嶽城跡
その右に白嶽城跡と
読み取ることが出来ます。
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松尾嶽から下って来たところに『独鈷寺』があります。ここは、天台宗を広めた
最澄が建てたと由来があります。中国から持ち帰った『独鈷』と鏡が寺宝となっている
そうです。(実物はみたことないのですよ)
最澄は、その時世話になった源四郎に、持ってきた法火を授け、横大路と名乗るように
姓も授けたそうで、横大路家では、法火を大事に消すことなく千年も続いたということで、
『千年家』と言われてきたそうです。
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4~5年前に見に行きましたら、おばあさんが竈(かまど)にまきをどんどんくべていました。
家は、国の重要文化財指定で、リフォームされており、『冬は前より寒くなった』とこぼして
ましたが、今日、新宮町の社会教育課の話では、そのおばあさんもお亡くなりになり、
火を守ることもかなわなくて、大宰府のみょうこう寺(漢字はあとで調べます)へ
お預けになっているらしい、とのことでした。
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最澄は、この火を使い、信心をなまけなければ、子孫は長く続くだろう、と教えた、と
書いてありますが、火を預けざるをえなかった、ご子孫も、さぞつらかったでしょうね。
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それにしても、千年続く法火と『源四郎』という名前とは、出来過ぎですね。
源四郎・・げんしろう・・原子炉・・(^^;キャー
朝焼け。
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先日の博物館でもうひとつ気になっていたことが、ありました。
それは、黒田の書簡の中に、鯛のしおからがあったとかいう話です。
今、あるとすれば、腸や玉子、白子がありそうですが、この時代には
ちょっと想像がしにくいですね。(一杯やれたら、つまみにうまそう!)
平城京の長屋王邸宅発掘現場から出た、木簡には、
宗像氏から贈られた中に、『鯛の醤(ひしお)』と『鮒鮨』が
あったようです。(天平年間のころです)
醤(ひしお)は、大豆を原料にした液状のもの。というから醤油
の原型みたいなもののことでしょう。
いずれも壺か甕に詰めて、木簡をつけて送られてきたのでしょう。
というわけで、鯛の塩からについては“わかりません”(^^;
誰か、わかる人、教えてください(^^/