🍀この一道に生きる🍀②
🔸越智、鳥羽さんはどういう経緯で起業したんですか?
🔹鳥羽、これは全く欲がなくてね、お金儲けがしたかったわけでも、社長になりたかったわけでもありません。
先ほどの話の続きですが、23歳でブラジルから日本に帰ってきて、もとのコーヒー卸会社で働いていたんですね。
その社長がある時、重要な得意先を他社に取られてしまった社員を往復ビンタでぶん殴ったんですよ。
それを見た瞬間、「辞めた」って。
これまでいろんな会社に勤めてきたけど、なかなか労使相協調する会社はない。
であるなら、自分がつくる以外にない。
そう思って「厳しさの中に和気藹々(あいあい)」という言葉をつくったんですね。
これが創業の理念なんですよ。
🔸越智、ええ言葉やな。
🔹鳥羽、真剣に働くことでお互いがお互いを認め合い、尊重し合う会社をつくるんだっていうのが僕の考えでした。
ただ、帰国した時に貯金を全部親父に上げちゃったので、お金は1銭もないんですよ。
友達に30万円を借りて、八畳一間の場所で、2人の仲間とコーヒー豆の輸入・卸の会社を創業しました。
理想はいいけど、まず技術がないので、品質がよくないわけですよ。
そうすると、明日潰れてもおかしくない会社から買ってくれる人はいないってことに気がついたんですね。
商品が売れないことの苦しさっていうのは骨の髄まで沁みました。
幸いにして僕の姿を見て買ってくれたのが千葉県の人で、そこからだんだん関東の地方都市に広がっていったんです。
あの頃は朝一番に車で横浜に配達して、次に千葉まで行って、それから群馬と、一日に三県回るなんてこともありました。
いま考えてみれば、売り上げよりガソリン代のほうが高くて全然儲けにならない時もあったと思いますが、
とにかく買ってもらったことが嬉しくて、収支計算しないで配達していましたね。
🔹鳥羽、そういう状況から脱していったのは、やっぱり「カフェ コロラド」を出店してからです。
🔸越智、それはいつ頃?
🔹鳥羽、創業から10年経った昭和47年、東京の三軒茶屋に12坪の店をオープンしました。
製造卸のままだったら、二進も三進も行かなかったでしょう。
平均で月に五千円買ってくれれば御の字でしたから。
これがコロラドをつくって、立地選定から店舗設計、社員教育、メニュー開発まで全部考え、フランチャイズ展開に切り替えたところ、
一店舗当たり月に30〜50万円の売り上げが出るようになりました。
🔸越智、卸時代の60〜100倍。
🔹鳥羽、幸いにして脱サラブームと相俟って、10年で270店舗になったんです。
これは決して先見性があったわけではなく、時代に沿ったことを運よくやれたっていうことですね。
🔸越智、ショップ展開の発想はどこから来たんですか?
🔹鳥羽、実は、ある女性がご主人を亡くして保険金を得たんですね。
で、ある経営コンサルタントに相談して、赤坂で喫茶店を始めたんですが、失敗してノイローゼになってしまった。
でも、そのコンサルタントは手を差し伸べなかった。
それを知った時、この人は生き血を吸う吸血鬼だと思ったんですよ。
人を不幸にするようなことは絶対許されない。
人を不幸にしないために自分が手本になる店をつくろう。
そう思って始めたのがコロラドだったんですね。
ですから、これも欲から出発したことではないんです。
結果的に当たっただけ。
それと、どうしてコロラドって名前にしたかというと、これには理由がらありましてね。
ブラジルに移民として渡った人たちが大変な苦労をしたんです。
電気もない、水道もないところへ行って、荒野を切り開き、コーヒー農園をつくった。
汚い話だけども、手の皮が剥けると薬がないから自分の小便を消毒に使って働いてきたんですね。
この中で三人の日本人が、自分たちが大変な苦労をしてつくったコーヒーを祖国に送りたい、
ぜひ日本人に飲んでもらいたいということで、コロラド輸出入会社をつくったんです。
この話を聞いた時、僕も実際にブラジルに行っていますから、
その人たちの苦労や思いが手に取るように分かったんですよ。
だから、彼らの遺志を継いでコロラドという名前にしたんですね。
🔸越智、ああ、そうですか。えらい感動的な話ですわ。
(つづく)
(「致知」3月号 鳥羽博道さん越智直正さん対談より)
🔸越智、鳥羽さんはどういう経緯で起業したんですか?
🔹鳥羽、これは全く欲がなくてね、お金儲けがしたかったわけでも、社長になりたかったわけでもありません。
先ほどの話の続きですが、23歳でブラジルから日本に帰ってきて、もとのコーヒー卸会社で働いていたんですね。
その社長がある時、重要な得意先を他社に取られてしまった社員を往復ビンタでぶん殴ったんですよ。
それを見た瞬間、「辞めた」って。
これまでいろんな会社に勤めてきたけど、なかなか労使相協調する会社はない。
であるなら、自分がつくる以外にない。
そう思って「厳しさの中に和気藹々(あいあい)」という言葉をつくったんですね。
これが創業の理念なんですよ。
🔸越智、ええ言葉やな。
🔹鳥羽、真剣に働くことでお互いがお互いを認め合い、尊重し合う会社をつくるんだっていうのが僕の考えでした。
ただ、帰国した時に貯金を全部親父に上げちゃったので、お金は1銭もないんですよ。
友達に30万円を借りて、八畳一間の場所で、2人の仲間とコーヒー豆の輸入・卸の会社を創業しました。
理想はいいけど、まず技術がないので、品質がよくないわけですよ。
そうすると、明日潰れてもおかしくない会社から買ってくれる人はいないってことに気がついたんですね。
商品が売れないことの苦しさっていうのは骨の髄まで沁みました。
幸いにして僕の姿を見て買ってくれたのが千葉県の人で、そこからだんだん関東の地方都市に広がっていったんです。
あの頃は朝一番に車で横浜に配達して、次に千葉まで行って、それから群馬と、一日に三県回るなんてこともありました。
いま考えてみれば、売り上げよりガソリン代のほうが高くて全然儲けにならない時もあったと思いますが、
とにかく買ってもらったことが嬉しくて、収支計算しないで配達していましたね。
🔹鳥羽、そういう状況から脱していったのは、やっぱり「カフェ コロラド」を出店してからです。
🔸越智、それはいつ頃?
🔹鳥羽、創業から10年経った昭和47年、東京の三軒茶屋に12坪の店をオープンしました。
製造卸のままだったら、二進も三進も行かなかったでしょう。
平均で月に五千円買ってくれれば御の字でしたから。
これがコロラドをつくって、立地選定から店舗設計、社員教育、メニュー開発まで全部考え、フランチャイズ展開に切り替えたところ、
一店舗当たり月に30〜50万円の売り上げが出るようになりました。
🔸越智、卸時代の60〜100倍。
🔹鳥羽、幸いにして脱サラブームと相俟って、10年で270店舗になったんです。
これは決して先見性があったわけではなく、時代に沿ったことを運よくやれたっていうことですね。
🔸越智、ショップ展開の発想はどこから来たんですか?
🔹鳥羽、実は、ある女性がご主人を亡くして保険金を得たんですね。
で、ある経営コンサルタントに相談して、赤坂で喫茶店を始めたんですが、失敗してノイローゼになってしまった。
でも、そのコンサルタントは手を差し伸べなかった。
それを知った時、この人は生き血を吸う吸血鬼だと思ったんですよ。
人を不幸にするようなことは絶対許されない。
人を不幸にしないために自分が手本になる店をつくろう。
そう思って始めたのがコロラドだったんですね。
ですから、これも欲から出発したことではないんです。
結果的に当たっただけ。
それと、どうしてコロラドって名前にしたかというと、これには理由がらありましてね。
ブラジルに移民として渡った人たちが大変な苦労をしたんです。
電気もない、水道もないところへ行って、荒野を切り開き、コーヒー農園をつくった。
汚い話だけども、手の皮が剥けると薬がないから自分の小便を消毒に使って働いてきたんですね。
この中で三人の日本人が、自分たちが大変な苦労をしてつくったコーヒーを祖国に送りたい、
ぜひ日本人に飲んでもらいたいということで、コロラド輸出入会社をつくったんです。
この話を聞いた時、僕も実際にブラジルに行っていますから、
その人たちの苦労や思いが手に取るように分かったんですよ。
だから、彼らの遺志を継いでコロラドという名前にしたんですね。
🔸越智、ああ、そうですか。えらい感動的な話ですわ。
(つづく)
(「致知」3月号 鳥羽博道さん越智直正さん対談より)