💕繋がってる命💕
命って不思議ですなぁ。
何で生きているんでっしゃろな。
私、いつもそう思うんですわ。
私の心臓は私が動かしているわけじゃないんです。
じゃぁ「生きてる」って何ですねん。
この前、血管の本を読んでいたんです。
そしたらね、
「血管には、動脈と静脈と毛細血管がある」
と書いてある。
栄養分のある血液が動脈を通って心臓から全身に送られ、
帰りは老廃物をもって静脈を通って戻ってきて、
要らん物は外へ出すんです。
この血管ですけど、成人の血管をすべ継ぎ合わせると、10万キロになるそうです。
ちょっと想像つかないでしょう。
地球1周が4万キロです。
地球を2周と半分です。
それほど長い血管が、この身体の中に張り巡らされているというのです。
しかも、心臓から出た血液は1分間で返ってくるんですて。
不思議なもんですねぇ。
こんなありがたい身体をいただき、命をいただいているんです。
遺伝子工学がご専門の村上和雄先生が
「命が誕生する確率は、1億円の宝くじが連続して100万回当たる偶然性や」
とおっしゃっています。
だから命を頂くということは、本当にありえないことを経験しとるということなんです。
さらに不思議に思いますのは、
この命は40億年昔と繋がっているんです。
途中で切れていたら私、今、おりませんから。
この地上にいる生きとし生けるものは私とみんなどこかで繋がっているんです。
ここに飛んでいる蚊の命も、私の命とどこかで繋がっているはずです。
タンポポもそうです。
スミレもそうです。
この宇宙全体で、この命を生かせしめているのです。
私なんて、こうして偉そうにしゃべっていますけど、
何も食べなかったら生きておられません。
ものを食べて生きているということは、
ものの命を食べているんだということでございます。
つまり空間的にも、私たちの命というものは繋がっているということです。
ですから皆さん方、ものをいただくとき、
「いただきます」と言いますね。
それは「そのものの命をいただく」ということです。
お膳の上にご飯があったとしますと、
日本では人と食べ物との間にお箸を横一文字に置きます。
韓国や中国もお箸の文化ですけど、
あちらは右側に縦に置きます。
スプーンと一緒に。
日本にはスプーンを置くという伝統はございません。
日本人は器を持って食べますから、スプーンは要らないのです。
向こうは器を持たないので、ご飯を食べるにスプーンが居るのです。
日本の伝統的な文化においては横一文字にお箸を置くことに意味があります。
それは、これから食べる食べ物が神聖なもので、
お箸は食べ物と「私」という人間との結界になっているのです。
茶道においてもそうです。
お茶の席に入らはるるときには必ず扇子を持って入ります。
ご主人が出てきはったら扇子を置いてごあいさつをして、
そして、今度はその扇子を外します。
そうしますと、お茶席は
「ご亭主もお客さんもない」
という平等な世界になるのです。
お食事の席にお箸が横一文字に置いてあるということは、
食べるものが、いかに神聖かということです。
ものの命ですから。
これを食べさせていただかないと私たちは、いっときとして
生きていくことができんわけでございます。
そういう空間的な、あるいは時間的な条件というものによって、
私たちはちゃんとここに生きることができているのです。
(「みやざき中央新聞」H29.1.16 清水寺貫主 森清範さんより)
命って不思議ですなぁ。
何で生きているんでっしゃろな。
私、いつもそう思うんですわ。
私の心臓は私が動かしているわけじゃないんです。
じゃぁ「生きてる」って何ですねん。
この前、血管の本を読んでいたんです。
そしたらね、
「血管には、動脈と静脈と毛細血管がある」
と書いてある。
栄養分のある血液が動脈を通って心臓から全身に送られ、
帰りは老廃物をもって静脈を通って戻ってきて、
要らん物は外へ出すんです。
この血管ですけど、成人の血管をすべ継ぎ合わせると、10万キロになるそうです。
ちょっと想像つかないでしょう。
地球1周が4万キロです。
地球を2周と半分です。
それほど長い血管が、この身体の中に張り巡らされているというのです。
しかも、心臓から出た血液は1分間で返ってくるんですて。
不思議なもんですねぇ。
こんなありがたい身体をいただき、命をいただいているんです。
遺伝子工学がご専門の村上和雄先生が
「命が誕生する確率は、1億円の宝くじが連続して100万回当たる偶然性や」
とおっしゃっています。
だから命を頂くということは、本当にありえないことを経験しとるということなんです。
さらに不思議に思いますのは、
この命は40億年昔と繋がっているんです。
途中で切れていたら私、今、おりませんから。
この地上にいる生きとし生けるものは私とみんなどこかで繋がっているんです。
ここに飛んでいる蚊の命も、私の命とどこかで繋がっているはずです。
タンポポもそうです。
スミレもそうです。
この宇宙全体で、この命を生かせしめているのです。
私なんて、こうして偉そうにしゃべっていますけど、
何も食べなかったら生きておられません。
ものを食べて生きているということは、
ものの命を食べているんだということでございます。
つまり空間的にも、私たちの命というものは繋がっているということです。
ですから皆さん方、ものをいただくとき、
「いただきます」と言いますね。
それは「そのものの命をいただく」ということです。
お膳の上にご飯があったとしますと、
日本では人と食べ物との間にお箸を横一文字に置きます。
韓国や中国もお箸の文化ですけど、
あちらは右側に縦に置きます。
スプーンと一緒に。
日本にはスプーンを置くという伝統はございません。
日本人は器を持って食べますから、スプーンは要らないのです。
向こうは器を持たないので、ご飯を食べるにスプーンが居るのです。
日本の伝統的な文化においては横一文字にお箸を置くことに意味があります。
それは、これから食べる食べ物が神聖なもので、
お箸は食べ物と「私」という人間との結界になっているのです。
茶道においてもそうです。
お茶の席に入らはるるときには必ず扇子を持って入ります。
ご主人が出てきはったら扇子を置いてごあいさつをして、
そして、今度はその扇子を外します。
そうしますと、お茶席は
「ご亭主もお客さんもない」
という平等な世界になるのです。
お食事の席にお箸が横一文字に置いてあるということは、
食べるものが、いかに神聖かということです。
ものの命ですから。
これを食べさせていただかないと私たちは、いっときとして
生きていくことができんわけでございます。
そういう空間的な、あるいは時間的な条件というものによって、
私たちはちゃんとここに生きることができているのです。
(「みやざき中央新聞」H29.1.16 清水寺貫主 森清範さんより)
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