2021年12月12日大阪東教会主日礼拝説教「誘惑は滅びの門」吉浦玲子
今日の聖書箇所も少し怖いような過激な言葉が多く書かれています。教会に入り込んで来た悪しき者たちへの激しい非難が並んでいます。主を待ち望むアドベントの時期にそぐわないように思われるかもしれませんが、私たちを惑わし、神の恵みから引き離す存在に対して声の限りに忠告されています。前の週にも申し上げましたように、この手紙が成立した2世紀の深刻な状況が背景にあったのでしょう。当時、グノーシスなどの異端がはびこっていました。「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので」と激しい言葉があります。キリスト教はパレスチナの狭い地域から飛び出し、各地に広がっていました。それは同時に多くの異教に囲まれた環境の中にキリスト教があったということです。そこには多くの誘惑があったと思われます。なにより面倒なのは、教会の外の誘惑以上に、教会の中に、そのような誘惑や異教的なもの異端的なものが入り込んでくることです。昼間から享楽にふけるというと性的放縦も含んだかなりいかがわしいことのようです。実際そういうこともあったのでしょう。今日の聖書箇所で描かれているのはかなりの悪徳のように思えます。
しかし私たちは注意をしたいのです。私たちは昼日中から、一般的に言ういかがわしいことはしないかもしれません。しっかりと社会生活をしている、常識的な健康的な生活をしているかもしれません。しかし、そこにしっかりと神の方を向いた生活がなければ、社会通念上は何ら問題のない生活をしていたとしても、クリスチャンは<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>を持つ場合があります。それは教会が陥りやすいところです。一見、厳粛でかっちりした雰囲気のなかに、まことの愛がなく、交わりを排除する冷たさ、そんな「上品な冷たさ」を教会が持つ場合があります。あるいは一見、なごやかで和気あいあいとした雰囲気でありながら、異質なものを排除して同質なものしか受け入れない多様性を排除していく、内輪で固まって外から入りづらい、「和やかな排他性」の傾向も教会は持ちがちです。もちろん教会は、神の言葉によって一致をするのであって、人間的なつながりで一致をするわけではありません。一方、神はすべての人を救うために御子をこの世界に確かに送られました。ですから、教会はすべての人に扉を開きます。しかし、同時にそこには神への誠実な応答も求められます。神への誠実な応答をする共同体が教会です。そこにはまことの神の愛に根差したあり方がおのずと生じるはずです。しかし、残念ながら教会の中に、<上品な冷たさ>や<和やかな排他性>といったことがうまれてくることがあります。これは、ペトロのいうひどい悪徳とは異なるかもしれません。しかし、共同体の中の人々をまことの神から引き離していく、かなり根強い悪であることにおいて変わりはありません。御言葉を求めてくる人を御言葉から引き離し、排除していくことの罪はとてつもなく大きいのです。
なぜそのようなことが生じるかというと、最初の神の救いの出来事、さらに言えば神との出会いの出来事を忘れているからです。いま、アドベント、クリスマスを待ち望む季節です。聖書には2000年前にこの地上の人間の歴史の中にたしかに到来されたイエス・キリストの出来事が記されています。神が人となってこの地上にお越しになった。それは2000年前のことでしたが、キリストの到来は21世紀に生きる私たち一人一人のためでもありました。次週のクリスマス礼拝では一名の高校生が洗礼をお受けになります。その方のところにもたしかにキリストが来られたのです。そしてまた私たち一人一人のところにもたしかにキリストが来られました。私たちは、一人一人、異なったあり方で、ある人には劇的に、ある人にはいつの間にかいう感じで、到来したキリストと出会いました。それぞれに最初のクリスマス、ファーストクリスマスがありました。私たちはすでにキリストと出会っているのです。そして新しい命をいだだきました。さらに、自分で意識するとしないに関わらず、キリストと出会った者は変えられます。自分では変わっていないと思っても変えられているのです
しかしまた、自分が変わったかどうかなど、ある意味、どうでもよいのです。キリストと出会い、キリストと共に歩んでいる私たちは、どれほど恵みを受けているか、どれほど神の祝福の内に生かされているか、そのあふれるばかりの恵みと祝福に感謝をする、感謝をして神を賛美する、そちらのほうがはるかに重要なのです。日々、守られている、助けられている、一つ一つは些細なことでも、その中に神の奇跡を見ていく、そのことがとても大切なのです。いま、アドベント、そしてまた一年の最後の月です。皆さんは、今年、どのような神の奇跡と出会われたでしょうか?どのような神の恵みを感じられたでしょうか?
日々、神の恵みを数えつつ、神の助けを感謝しつつ歩む時、神を賛美して歩む時、私たちは、右にも左にも逸れることなく、信仰生活を行っていくことができます。いえ、極端に言えば、私たちは右に左に逸れて良いのです。神に対して疑問に思ってもいいのです。さまざまな思いなやみの中で、忙しさの中で、神のことを忘れていることもあるかもしれない。でも、日々たえず立ち帰るのです。神を忘れていた自分から、神を向く自分に方向転換をするのです。神へ向き直る、回心する、神へと向きを変える、そうすると見えてくるのです。自分の上に確かに働かれている神の力を。そのとき、私たちは、よい意味で神を畏れ、へりくだって生きることができます。そのとき、ペトロのいうような悪徳からも守られますし、「上品な冷たさ」にも「和やかな排他性」にも陥りません。
ところで、私は18年前のクリスマスの後の12月最終週に初めて教会に行き、翌年のペンテコステで洗礼を受けました。ちなみに洗礼を受けた時、牧師からクリスマスのときに初めて教会に来る人は多いけれど、クリスマスの翌週から来た人は珍しいと言われました。クリスマスの翌週から教会に行き始めたので、洗礼を受けた年のクリスマスが、初めての教会でのクリスマスでした。クリスマス礼拝では聖歌隊で奉仕をしてたいへん緊張しましたが、その後の愛餐会では、教会学校の子供たちの劇やら、クリスマスで受洗した人のお祝いやら、にぎやかな雰囲気がありました。特に、印象的だったのは、当時40代だった男性牧師を中心にした壮年男子の方々が黒人霊歌を歌われ、それが大変盛り上がったことです。その雰囲気を言葉ではうまくお伝えすることはできないのですが、40代から70代の男性が、とても上手に黒人霊歌を歌われたのです。黒人霊歌といってもクリスマスらしいたいへん陽気な曲でした。歌の歌詞の中で「アーメン」という言葉が、南部なまりで「エイメン」と歌われるのですが、男性たちがとてもうれしそうに「エイメン」「エイメン」と歌うのです。牧師先生がギターで伴奏をして、それはそれは楽しそうに歌われました。ふだんは難しい神学議論をしているような男性やら、どう見ても普段は仲の悪い役員さん同士も、ひどく盛り上がって歌っておられました。ほんとうに楽しそうで、実際、聞いている人も盛り上がって、何度もアンコールがでて、最後には牧師先生の声が枯れるくらいにぎやかに歌っておられました。それを見ながら、横にいた年配のご婦人が感心して「あの男の人たちしらふだよね、お酒なしで、なんであんなに盛り上がれるんだろう」と笑っておっしゃっていて、私もたしかにそうだなと思いました。当時は私は会社員で、よく飲みに行ったり、二次会でカラオケに行ったりしていたのですが、そういう飲み会やカラオケのお酒の入った盛り上がりとは違う盛り上がりがそこにありました。私自身、その年に洗礼を受けたばかりで、まだ教会になじんではいなくて、愛餐会でも、周囲に親しい人もいなくて、どちらかというとぽつんと浮いていたのですが、それでもなんだか楽しかった記憶があります。これが教会のクリスマスというものか、と思いました。懐かしい思い出です。もちろん、私の母教会に「上品な冷たさ」や「和やかな排他性」がまったくなかったとは言えないとも思うのです。それは教会が陥りやすい罪だからです。しかし、日々、神に立ち帰りながら歩む時、教会も個人も守られるのです。そしてもう一つ言えば、神への賛美があるところには悪しきものは入り込めないのです。「エイメン」「エイメン」と共に賛美をするとき、人間的な仲の良さとか、対立を越えて、神の恵みが注がれます。
ところで、カルヴァンは礼拝における賛美が情感に流れるのを嫌いました。ですから、礼拝の音楽を、詩編歌のみにしていた時期があると言われます。音楽には音楽そのものに心を慰めたり、逆に鼓舞したりする効果があります。カルヴァンは音楽の力をよくよく知っていたのです。神を賛美するのではなく、音楽そのものに心が酔ってしまうことをカルヴァンは危惧したのです。「エイメン」と盛り上がっていた愛餐会は神を賛美していたのか音楽で単純に盛り上がっていたのか、客観的な判断は難しいところですが、飲み会の後のカラオケの盛り上がりとはもちろん違いましたし、長く良い思い出として残っているので神を賛美する心があそこにはあったのではないかと思います。ただ私たちは神を賛美する時ですら、神よりも自分の気持ちを大事にしてしまうこともあることはわきまえておくべきではあります。もちろん自分の心を大事にすること自体は良いことです。しかし、賛美は神へ向けるべきものであることをわきまえつつ、賛美をします。神へ感謝しつつ賛美をします。よく「聖霊に酔え」と言いますが、お酒や自分の気持ちに酔うのではなく、聖霊に導かれて聖霊に酔って賛美します。使徒言行録で聖霊に導かれて福音を語っている弟子たちを「彼らは酒に酔っているのだ」と悪口を言う人々もあったことが記されています。それが真の賛美であるかどうかは外側からは分かりにくいとしても、私たちは賛美をします。そして神に立ち帰ります。
ペトロは「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれ打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」と語ります。私たちはたえず悪しき力に巻き込まれそうになります。「上品な冷たさ」「和やかな排他性」を持ってしまいがちになります。神に救われながら、隣人を救いから引き離す行いをすることは、自分自身を「前よりずっと悪い」状態に置くことになります。そうならないために、私たちはたえず神に立ち帰ります。そしてたえず素直に喜びをもって神を賛美します。
クリスマスは、私たちが救い主のもとに、立ち帰る時です。そして心からなる賛美を捧げる時です。ちまたにはたくさんのクリスマスソングが流れています。私たちが歌うより、もっと上手な歌や演奏があふれているかもしれません。でも私たちは素朴に素直に神に心を向けて歌います。賛美をします。神はその賛美を、私たちからの心からなるよきなだめの香りとしてうけとってくださいます。そして私たちは良き力によって守られます。
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