2021年11月14日大阪東教会主日礼拝説教「あなたが世を去ったあとも」吉浦玲子
昨日、まだ十代の少年ーその実績からして少年などと軽々しく呼んではいけない感じですが―が将棋の世界で4つ目のタイトルを取ったというニュースが流れました。将棋のことはまったく分からないながら、とんでもないことなのだろうなと感じました。世の中には将棋の世界のみならず、とびぬけた才能で、記録に残る人々、歴史に残る人々がいます。
翻って聖書の世界を見ますと、たしかに優れた人物は出てきます。ダビデやソロモンはイスラエルに帝国を打ち立てました。ダビデは戦争の天才であったと言えますし、ソロモンは行政においての天才であったといえます。しかし、ダビデもソロモンも聖書ではその天才性を称賛されているわけではありません。彼らの上に働かれた神の働きが記され、神の前にあって、ダビデもソロモンも罪人に過ぎなかったことが語られます。さらに新約聖書の時代の登場人物を見ますと、歴史的な観点でみて、特記すべき人々はいないように感じます。イエス様の弟子たちは、もちろん聖書の中では重要な人々ですけれど、彼らは王国を立てたわけでも、この世的において実際的な影響力があったわけでも実績をあげたわけでもありません。
今共にお読みしています手紙に名前を冠されているペトロにしても、主イエスの一番弟子であり、ローマ・カトリックにおいては初代教皇とされている人物です。プロテスタントの私たちにとって、偉大な信仰の先人ではありますが、一般的に言うところの天才や偉人というわけではありません。
昔、少し読んだキルゲゴールの本に、「天才と使徒(キリストに選ばれた弟子)は異なる」という文章があったと記憶しています。読んだ当時は、天才が羨ましくて天才に憧れていた頃なので、少し反発するような思いがありました。天才はすごいし、使徒より天才がいいと思いました。
もちろん、天才と使徒、どちらがいいというようなものではなく、全く異なるものです。天才というのは言ってみれば、神から特別な才能という賜物を与えられた人々です。使徒は、神に仕えること、福音を伝えることへの特別な召しを与えられた人々です。使徒というのは基本的にはキリストの直接の弟子たちに与えられた称号ですが、今日を生きる私たちもキリストの証し人として生きる時、福音を伝えていくとき、使徒的なあり方を受け継いでいるといえます。天才はごくごく一握りの人間しかなれないけれど、使徒的な生き方は、ある意味、誰でもできると言えるかもしれません。
今日の聖書箇所を読みますと、まさにペトロは使徒として語っています。使徒として何を語っているかというと「思い出せ」と語っているのです。今日の聖書箇所では三回「思い出す」という言葉をペトロは使っています。最初は「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。」これは手紙の前の箇所を受けています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と語られていました。キリストにすでに招かれている者、選ばれた者としてふさわしく生きていきなさいということを思い出させたいというのです。そもそも、これらはここでペトロが語る前に皆さんは知っていたはずだというのです。「あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。」
ペトロは使徒であって天才ではありません。何か特別な才能で弟子たちに彼が真理を授けたわけではありません。真理に至るための方法を伝授したのでもありません。すでに神ご自身が授けてくださっている真理を思い出すように語っています。真理とはキリストであり、福音です。キリストに愛され、キリストに罪赦され、希望を与えられたことそのものです。
「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」また「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」使徒たるペトロは、その生涯をかけて、弟子たちが最初の信仰にとどまりつづけるように、最初の信仰を「思い出すように」語り続けました。ペトロの手紙Ⅱの最初で申し上げましたように、この手紙は新約聖書のなかでもっとも成立が遅い時期のものです。2世紀半ば、迫害の中で生きるキリスト者に、最初の信仰にとどまれ、最初に与えられた福音を思い出せと語られているのです。そのなかで、何か新しいことを知るのではなく、また、新しいものを手に入れるのではなく、私たちがすでに手にしていることを忘れるなというのです。
いま、会堂にいる私たちはすでにキリストによって福音の灯を心に灯された者です。まだ洗礼をお受けになっていない方も、すでにキリストによって招かれています。しかし、私たちは私たちの内に灯されているともし火がときどき分からなくなったり、弱まったりします。しかし、ペトロは、もともと灯されているともしびを思い起こしてほしいと言っているのです。使徒は、神によってすでに灯されているともしびを思い起こすために、消えかかった炭火に風を送るかのように言っているのです。
ところで、私がまだ洗礼を受けてそれほどたっていない頃のことです。当時、教会に少し癖のある年配の婦人がいました。彼女はトラブルメーカー的なところがありました。その人の言動で傷つく人がときどきありました。私自身、ある集会の時、かなり意地悪なことをされました。お子さんが障害をもっておられ、そのお子さんの障害に関わる製薬会社との裁判や親族との争いなど、苦しみ多い人生を送って来られた方でした。その方の言動にはそういう人生の背景があったのかもしれません。意地悪をする癖に、人恋しい思いの強い方で、その方がご病気で入院された時、なんとなくお見舞いに行かないといけないかなと思わされるようなところのある方でした。で、実際、お見舞いに行ったら行ったで、さんざん愚痴や不満ばかり聞かされる感じでした。それでも、帰り際には「また来てや、また来てや、絶対やで」とおっしゃるような方でした。やがてその方は天に召されました。その方は天に召される前に、伝道のために使って欲しいといくばくかのお金を教会に託されました。そのお金で教会は自動で照明が点灯する大きな看板を設置しました。教会は通りから少し奥まったとろこにあったので、遠くからも教会の場所を示すことのできる看板ができて、教会の場所が分かりやすくなりました。夜でも、あそこに教会があるということがはっきりわかるようになりました。そういう献金をされたから、というわけではないのですが、あの少々お付き合いするにはしんどかった方も、キリストに召された方だったのだなと思いました。こじつけめきますが、キリストによってともし火を与えられた方だったから教会を示す明かりをともされたのだと思います。年中、文句ばっかり言っておられ、けっして、模範的なクリスチャンというわけではなかったのですが、彼女もまたキリストによって、心に福音のともし火を灯され生きた方であったと思います。彼女の苦しみ多い人生の傍らにキリストがおられた、怒り、涙し、不満を言う彼女をキリストはいつも抱きしめられていた。「また来てや、絶対やで」とおっしゃっていた、その傍らにキリストがおられたと思います。
ペトロも、またパウロも、そしてまたこの教会の先人たちも、キリストによって福音の光を灯された人々でした。すばらしい才能を持った方や、この世でさまざまに貢献された人々もあったでしょう。家族にとってかけがえのない一人一人であったでしょう。また信仰生活においても、模範となるような方々も多くおられたことでしょう。しかし、キリストと共にある人生は、誰かに、キリストのことを知らせる人生であり、またキリストを思い出させる人生なのです。それはその一人一人の自然な生き方において為されることです。決して信仰者として模範的とは言えなかった「また来てや、絶対やで」とおっしゃった方もまた、その人なりのあり方でキリストを人々に思い起こさせてくださったと思います。
私たちがこの地上に残すのは人の記憶に残る記録ではありません。データとして残る歴史ではありません。神の歴史のなかに記される使徒的なあり方です。神によって選ばれ、キリストと共に歩んだ、そしてそのことを通して誰かにキリストを示した、キリストを思い出させた、それは神の歴史の中に確かに刻まれるのです。その歴史は、命の歴史です。冷たい死んだ記録としての歴史ではありません。一人一人が喜びの時も悲しみの時も、神の命の中で、生き生きと生かされたその命が脈々と受け継がれていく歴史です。
今日は逝去者記念礼拝です。私たちの教会の先人たちを導かれた神を覚え、神を讃えます。先人たちが神の歴史に記され、それぞれに光をともされ、命を継いで来てくださったことを覚えます。教会は命から命をつないでいく場所です。自分だけが救われればいいということではありません。自分だけが崇高な真理に到達したらよいということではありまえん。そこには本当の命はありません。冷たく滅びに至るむなしさだけがあります。
しかし、私たちの信仰は新しい命を生み出す信仰であり、教会は命が連綿と続いていく所です。新しい命を生み出さなかったとしたら、それは信仰共同体ではありません。自分たちだけが楽しく過ごせたら良いとするなら、それは教会ではありません。先人たちが、この地上の仮の宿におられたとき、のちに続く者たちに、キリストを示してくださったように、そして、キリストの命を手渡してくださったように、私たちも続く人々に信仰の命を手渡します。神に与えられた命は、自分の中で握りしめている時ではなく、誰かに手渡す時、輝くのです。
「また来てや」といったご婦人の話をまたすれば、その方は高校生の時、小さな伝道所の集会に出ていたそうです。その伝道所は、牧師でも宣教師でもない、一信徒の老婦人が、当時、教会のなかった地域にぜひ教会を立てたいと、所属教会の牧師にかけあって、副牧師や神学生を派遣してもらって、公民館のようなところ借りて伝道所として始めたところでした。高校生だったその方は、伝道所で一生懸命働いておられた老婦人から、「いまは借りている会館でやってるけど、いつか会堂を建てるねん、会堂のある教会にすんねん」という言葉を聞いたそうです。高校生だった女性は、こんな少人数でそんなことができるわけがないと笑ったそうです。でも老婦人は大まじめで、「いや、あそこに教会が建つ、あのあたりや」と指さされたそうです。高校生だった女性は、それを聞いて「ありえない」と思って大笑いしたそうです。その方はその後、その土地を離れ、20年後に戻って来られました。そして町を歩いていると、ある場所に教会がありました。その場所は、かつてあのおばあさんが「あそこに教会を建てる」と指さしていた場所でした。まさかと思って、教会に入って、牧師に聞くと、まさにあの老婦人が始めた伝道所が発展して、この教会になったのだというのです。その婦人は腰を抜かさんばかりに驚いて、その教会に通うようになったそうです。一老婦人がキリストを指さし、教会を建て、その老婦人からキリストを指し指めされた婦人が、教会を遠くからも指し示す夜に輝く看板を捧げられました。信仰がつながり、命が今も続いているのです。
多くの人間は天才ではなく、天才のようなまぶしい輝いはその人生にはないと思われるかもしれません。そうではないのです。私たちは、輝かされるのです。命を手渡していくとき、美しく輝かされるのです。神が輝かされるのです。神に特別な賜物をいただき、その才能を発揮する天才たちも確かにまぶしく美しい存在です。しかし、私たちもまた、美しく輝かされる存在です。信仰の命を手渡す者として輝かされるのです。すでに仮の宿を離れた方も、今仮の宿にいる私たちも、共に神によって輝かされています。
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