2022年5月1日大阪東教会主日礼拝説教「正気に戻った男」吉浦玲子
【聖書】
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
【説教】
<墓場に住む人>
主イエスと弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸、南東部にありますゲラサ人の土地に着きました。主イエスが舟から上がられるとすぐに汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた、とあります。汚れた霊とは悪霊であり、人間に災いを起こす霊のことです。神の霊ではなく、悪しき霊です。
この悪霊に取りつかれた人は墓場を住まいとしていた、とあります。これは象徴的なことです。墓というのは「死」を象徴する場所です。そこにこの人はいました。それは、この人は命ではなく、死に捕らえられていたということです。生物学的には生きていましたが、この人の日々は死に捕らえられていました。完全に正気を失い、自分で自分を全くコントロールできない状態でした。通常の社会生活ができない状態で、周囲の人々に迷惑をかけないためであったと思われますが、足枷や鎖で縛られることもあったようです。しかし、足枷や鎖で縛られても、それらは破壊され、「だれも彼を縛っておくことはできなかった」とあります。では、彼は縛られることなく自由であったかというと、もちろんそうではありません。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあるように、自分で自分を害する行為をしていました。それは本人が望んだことではなく、汚れた霊がさせていたことです。彼を支配していた悪霊の力を周囲の人も本人もどうすることもできなかったということです。
こういった悪霊という存在は現代に生きる私たちにはとらえにくいところがあります。聖書のこういう記述を読むと、科学の進んでいなかった時代において、原因の分からない病気や現象を悪霊の仕業と考えていたのではないかと思ったりします。しかし、たしかにこの世界には悪しき霊が働いているのです。私たちを傷つけ、苦しめる存在があります。それはある時は心身の病として私たちを苦しめます。もちろんすべての病が悪霊の仕業というわけではありません。特に注意をしないといけないことは、ある種の精神的な病を悪霊の仕業だと考えることです。しかしまた、同時にたしかに私たちの命を損ないような力は現代においても働いています。
<レギオン>
主イエスはおっしゃいました。「汚れた霊、この人から出て行け」。この悪霊に取りつかれた人は不思議なことに、この言葉を聞いて「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」と言いました。かまわないでほしいのなら、自分から近くに来なければよいのに、走り寄ってきたのです。これは汚れた霊は、自分が主イエスには歯が立たない相手だということが分かっていたということです。先週、主イエスが夕方、わざわざ舟を出して、このゲラサ人の住む土地に向かわれ、嵐にあわれた箇所を読みました。主イエスは、おそらく天候が芳しくないことはご存じの上で舟を出すように弟子たちに命じられ、この土地に来らました。この悪霊に取りつかれた人を救うためです。そのことは悪霊の側も分かっていたのです。自分を苦しめる「いと高き神の子イエス」が来たことを。そして勝ち目がないことを。
また不思議なことに、主イエスはこの汚れた霊に名前をお聞きになっています。名前があるということは、人格的存在、というと変ですが、この汚れた霊は意志をもった存在だということです。そしてまた名前を聞くという行為は相手への優位性を示しています。主イエスはこの点においても悪霊より上の立場なのです。そして悪霊が答えた名はレギオンと言いました。「大勢だから」と霊は答えます。これは<もろもろの悪霊>ということです。もともとレギオンとはローマの軍隊の一軍団をさす言葉です。一レギオンには四千から六千人の兵士がいたようです。それだけの悪霊がこの人を支配していたのです。このレギオンは「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願」いました。ここでも、あくまでも主イエスが圧倒的な権威を持っておられレギオンより優勢なのです。
<目に見えない王国>
さきほど申し上げましたように、たしかに悪しき霊の力というのはこの世界にあるのですが、神の力に対抗する悪しき力があって、その二つの勢力が拮抗してこの世界で戦っているというわけではないということです。善悪二元論的なことを聖書は語っているわけではないのです。世界は神によって支配をされています。しかし、たしかに悪しき力は今も働いています。終末の時、神の救いが完全に完成するとき、その悪しき力は完全に取り除かれます。しかし今は、その悪しき霊が働くことを神がおゆるしになっているのです。
そう考えますと、私たちの世界には、悪しき霊が満ち満ちているように感じます。ウクライナのこと、コロナのこと、さまざまなことを考えますと、なにか深い闇で世界が包まれているように感じます。人の心も荒び、ニュースやネットなどを見ていますと、ひどい事件や発言が目につきます。この世界は神の力ではなく、悪霊の力によって支配されているのではないかと思うようなことが満ちています。
ところで、数年前、壮年婦人会で「ヨハネの黙示録」を学んだことがありました。その時、参考にしたのが「小羊の王国」という本でした。その中で語られていたことは、黙示録が描く終末の時まで、たしかに悪しき力がこの世界に満ちるのです。悪の王国が成長していくのです。悪霊の力が増大していくのです。福音書の中のたとえ話で申しますと、毒麦が成長していくのです。実際、この世界には、毒麦が満ちて、いまもどんどん成長しているように見えます。良い麦はほとんど見えないように感じます。しかし、「小羊の王国」の作者は言うのです。終末に向かって、キリストの王国、つまり小羊の王国もまた成長しているのだ、と。毒麦がたわわに実っているようで、実は、それ以上に良い麦が育っているのだと。
これは単なる楽観論ではないのです。なぜなら、たしかに、2000年前、キリストは来られ、良い麦の種を蒔かれ、それは今も増え続けているからです。そしてその王国は肉眼で見えず知性でも理解をすることはできないけれど、たしかに成長しているのです。それは単にキリスト教の信徒数が増えているとか、教会が栄えているということではなく、神の御業が今日においても豊かに進んでいるということです。一見、悪に打倒され廃墟のようにみえるところにすでに豊かに良い麦が実っている、目には見えないけれど、すでにキリストの王国はこの世界で成長しているのです。私たちが信仰の目を開けているとき、それに気づくことができます。
<悪霊を追い出されては困る?>
さて、このゲラサ人の土地は、異教の土地でした。つまり神を知らない土地でした。神と関係なく生きていけるのです。レギオンは主イエスに「かまわないでくれ」と言ったとありましたが、これは、「わたしとあなたは関係ないだろう」という意味の言葉です。さらにいえば「いと高き神の子」という言葉は、よその神に対して言う言葉です。レギオンにとって、主イエスは、自分とは関係のない神、離れてほしい神なのです。ゲラサ人の土地は神から離れていた土地であったゆえですから、レギオンにとって居心地がよかったのです。そして、豚の中に乗り移らせてほしいとレギオンは願います。主イエスがお許しになると、レギオンは豚に乗り移りますが、その数が二千匹だったと書かれています。その豚が湖の中になだれ込んでおぼれ死にました。豚は律法においては汚れた動物でした。この異教の地では豚が飼われていて、その豚もろともレギオンは滅びました。この場面は、強烈です。二千匹もの豚が湖になだれ込む状況は恐ろしい光景です。それだけの力がこの男性を縛り付けていたということです。
そしてこの男性はレギオンから解放されました。しかし、これでめでたしめでたしではありませんでした。レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気に戻った様子を見て、そしてそれが主イエスがなさったことだと知ったこの土地の人々は、主イエスに出て行ってほしいと言いました。これまで悪霊を追い出された主イエスを見たユダヤの人々は「ここにずっといてもらいたい」と主イエスに願いました。しかし、ここでは出ていってもらいたいと言ったというのです。二千匹の豚が溺れ死ぬという状況があまりに凄惨でおぞましく、強烈だったので、人々は恐れを覚えたのかもしれません。あるいはまた、この地方では豚が飼われていましたから、二千頭もの豚が死ぬということは経済的損失と考えられたのかもしれません。
普通に考えますと、悪霊が追い出されることは喜ばしいことです。しかし、人間にとってそれは必ずしもそうではないのです。私たちは墓場には住んでいません。裸で叫んだり自分を傷つけたりはしていません。周囲の人々が足枷や鎖で自由を奪おうとしているわけではありません。しかしまた、私たちもキリストを知る前は、墓場に住んでいたと言えます。私たちはそれなりに心身が健康であったとしても、けっして自由な存在ではありませんでした。罪に縛られ、この世に縛られていました。私たちはこの社会の様々な制約の中で生きていました。それを不自由に感じる心ももちろんありましたが、一方で、そこから解放されることを心から望んでいたわけでもない側面もあったのではないでしょうか。レギオンが汚れた豚の中に入りたかったように、罪の世界にとどまりつづけること、悪事をやめないことは心地よかったと感じていた側面があったのではないでしょうか。そう感じさせられていたこと自体がまさに悪霊に支配されていたということです。
かまわないでくれ、わたしとあなたに何の関係があるのだ?そう神に向かって叫んでいたのはレギオンのみならず自分ではなかったでしょうか。神の支配より、レギオンの支配の方が心地よい、神から離れている方が自由で楽しい、そういう思いが人間の中にはあるのです。実際に主イエスが来られても、主イエスに自分の日常から出て行ってもらいたいと願うのです。それはクリスチャンであっても同様です。あまり使いたくないいやな言葉に「日曜クリスチャン」「サンデークリスチャン」という言葉があります。普段は神とは関係のない生活をしながら、日曜だけは教会に行って、クリスチャンらしく振舞うクリスチャンのことです。普段は神様にかまわないでくれという態度で、その罪滅ぼしのように日曜だけ教会に来て、それでちょっとすっきりした気分になって帰っていく。こう言われると、特に会社員時代の自分を振り返りますと胸が痛いところがあります。日々のしんどさ慌ただしさのなか、日曜の礼拝だけは守る、それだけで精一杯というところが正直ありました。しかし、日々のしんどさ慌ただしさの中、毎日ほんの少しでも、一瞬でも立ち止まる、そして神を向く、その心があるとき、私たちは日曜クリスチャンではありません。
<正気に戻る>
私たちはキリストの前にあって、このレギオンに取りつかれていた人のように、正気に戻るのです。こういうと少し変な言い方になりますが、教会は日常と離れた清らかな空気を味わうためではなく、正気に戻るために来るのです。この悪しき霊が跋扈する世界に生きて、私たちはともすれば正気を失うのです。そしてレギオンにコントロールされるのです。ですから私たちは教会でキリストと出会い、そしてまた日々においても祈りにおいてキリストと交わります。十字架から復活されたキリストは死ではなく命を与えてくださる方です。レギオンをも追い出される方です。私たちは安心してよいのです。この世を支配する悪しき霊に怯えて生きる必要はありません。そして悪しき霊と自分で戦う必要もありません。ただ、キリストと共に生きるのです。キリストの命に自分がすでに入れられていることを確信して生きるのです。墓場ではなく、光に満ちたキリストの王国、小羊の王国に私たちは今生かされています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます