大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第2章1~12節

2022-01-30 12:34:05 | マルコによる福音書

2022年1月30日大阪東教会主日礼拝説教「屋根を壊す」吉浦玲子 

<屋根をはがすのは信仰か> 

 ガリラヤ中に福音の宣教をされ、病を癒され、悪霊を追い出し、重い皮膚病を癒し、神の御業をなされた主イエスが、ふたたび、その宣教の始まりの場所、カファルナウムに戻って来られました。おそらく以前と同様、主イエスはシモンとアンデレの家、つまりペトロの家におられるのではないかと考えられます。主イエスがカファルナウムに戻られたことが知れ渡り、また、たくさんの人々がペトロに家に押しかけてきました。今日の場面もこれまでと同様、病の人が癒されましたという話になるのですが、この2章は単なる奇跡の治癒物語ではなく、さらに主イエスの秘密といいますか、主イエスがどういうお方なのかということが少し人々の前であかされている場面となります。つまり、主イエスが単なる治療家、福祉活動家ではなかったことが描かれています。同時にそれゆえにこの地上において起こって来る確執が姿を現してきます。具体的には当時の権力者たち、ファリサイ派や律法学者との対立の構図が見えてくる箇所です。 

 今日の聖書箇所で、驚きますのは、これまでと同様、病の人を主イエスのもとに連れてくるのですが、その人たちは、「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床を吊り降ろした。」とあります。当時の家は定期的に屋根の補修をしたようで家の壁には屋根に上りやすいように屋根までの階段のようなものがあったと言われます。だからといって人様の家の屋根を断りもなく剥がして穴をあけるなんて、とんでもないことです。非常識極まりないことです。4人の人々は何としても病人を癒してもらいたいと願い、屋根をはがすというとんでもない行為を行いました。逆に言いますと、主イエスにはきっと癒していただけるという思いがあったからでしょう。病人と病人を担いできた人々の間柄は分かりませんが、どうかこの人が主イエスに癒されますようにと願い、屋根まではがしたのですから、病人と担いできた人々の間には深い交わりがあったと思われます。 

 ここで「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれています。人の家の屋根を勝手に壊すことが信仰でしょうか?信仰熱心なら何をしてもいいのでしょうか?いやそもそもこの病人を連れてきた人々は、ただただ病人を癒してほしいという一心で主イエスのところに連れて来たのであって、主イエスのおっしゃっている福音や神の国を求めていたとは思えません。実際、彼らは、主イエスが御言葉を語っておられたのに中断するような行為をしているわけです。しかしなお主イエスはその人たちの「信仰」をご覧になったのです。福音宣教をむしろ邪魔しているような彼らの行為を信仰だと認めてくださったのです。 

 あるSNSで、こういうことを書いておられる牧師がおられました。「叫ぶ信仰」と「平静な信仰」についてです。弟子たちはガリラヤ湖で嵐にあった時、主イエスに助けてください、船が沈みそうです、と叫びました。これまでさんざん主イエスの奇跡を見てきた弟子であったのに恐れ怯えて叫んだのです。聖書に限らず、一般的に宗教的態度としては、どのようなことがあっても平静で神や仏に信頼して平静である姿こそが宗教的、信仰的だと感じられます。実際、私たちの信仰は、良き時も悪しき時も神に信頼するものです。しかし、いきなり、どのようなときでも「神よあなたにゆだねます」とか「御心のままに」と神に信頼しきる信仰というのは得られないのです。生涯、私たちはガリラヤ湖で叫んだ弟子たちのように神に叫ぶのです。実際、神はそのような試練をわたしたちにお与えになるのです。その都度、私たちは、神に助けられ、神の奇跡を見せていただくのです。そしてなお、ふたたび試練の嵐に襲われる時、「助けてください」「なんで私がこんな目に遭わないといけないのですか」「今すぐどうにかしてください」とおたおたして叫ぶのです。SNSに書いておられた先生は、まず神に叫ぶ信仰が大事なんだとおっしゃっていました。日本ではあまりにも「御心のままに」「御手にゆだねます」と平静な心を持つようにという信仰教育が強すぎて、むしろ「叫ぶ信仰」が育っていないと。私もそう思います。「叫ぶ信仰」が育っていないところで「御心のままに」とゆだねるのが立派な信仰者だと教育されすぎて、本当のところの神との信頼関係が結べない信仰者が日本では多いのです。今日の聖書箇所の屋根をはがした人々は、とにかく主イエスにお願いしたら癒していただけるという素朴な信仰をもってまさに「叫ぶ信仰」をもって主イエスのもとに来たのです。そしてそれを主イエスは「信仰」と認められたのです。 

<あなたの罪は赦される> 

 そののち、主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「子よ、あなたの罪は赦される」これはいつか赦されるでしょう、ということではなく、すでに赦されていると訳せる言葉です。ここは、下手をするとこの人の病気はこの人の罪に原因があるのかと思ってしまうようなお言葉です。不幸な状況にある人が、その人の罪のゆえにその状況にあるとしたら、それは因果応報を語っていることになります。しかしそうではないのです。担がれてきた人は中風、いまでいう脳血管障害を起こし、その後遺症で体の自由を奪われていました。しかし、その中風という病、体を自由にできない苦しみ、それ以上に、この人をとらえているものがある、それが罪の力だと主イエスはおっしゃるのです。この人にとって、もっとも大事なことは、肉体の病が癒されること以上に罪から解放されることだと主イエスは考えられたのです。これはこの中風の人だけのことではありません。いま、病や大きな試練の中にはなくとも、一人一人の日々にはそれぞれに苦しみがあります。その苦しみのおおもとにあるのは、罪なのです。ですから主イエスはおっしゃったのです。「子よ、あなたの罪は赦される」 

 さて、これを見ていた律法学者が「心の中であれこれ考えた」と書かれています。律法学者は聖書に精通し、神のこと、罪のことを、よくよく知っていた人々です。その人々は「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えたのです。律法学者というと、新約聖書においては悪役的な位置づけで、この言葉も主イエスに反抗しているように感じます。しかし、この律法学者の「罪を赦すことができるのは神おひとり」ということ自体は、まったく間違ってはいないのです。いたってまっとうなことです。 

 律法学者たちには主イエスがどなたかということが分かっていなかったのです。もちろん屋根をはがされた家に集まっていた人々は弟子たちも含めて、主イエスがどのようなお方かはっきりとはわかっていませんでした。しかし、彼らは、主イエスの業を見たのです。それを神の業だと考えたのです。ですから主イエスの言葉を聞こうと集まって来たのです。しかし、律法学者たちはその神の業を見たり聞いたりしても、そこに神の力、神の権威を感じることができなかったのです。彼らはイエスの行いやお言葉を律法と照らし合わせチェックしていたのです。病の人が癒され、悪霊が追い出される、そのダイナミックな神の業に喜びや驚きを感じることができなかったのです。信仰というのは喜びや驚きから始まるものです。さきほどの「叫ばない信仰」もそうですが、喜びや驚きのない、したり顔の宗教者には主イエスがわからないのです。 

 そのことを知ったうえで、主イエスはおっしゃるのです。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」 

 病の癒しと罪の赦しのどちらが人間にとって大事であり、そしてまた困難なことであるか、それを主イエスは知らせようとおっしゃいました。そして神にある罪の赦しの権威がご自身にあることを知らせようとおっしゃいました。そして中風の人を癒されました。「わたしはあなたに言う、起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、それまで体の自由が聞かなかった人が、どうにか起き上がれるようになったとか、歩けるようになったというだけでなく、自らが横たわっていた床を担いで出て行ったのです。<人々は皆驚き、「このようなことは、今までみたことがない」と言って、神を賛美した>とあります。人々はこれは神の業だと驚き、神を賛美したのです。「皆」と書いてありますが、その賛美の中にさきほどの律法学者たちは入っていなかったと思われます。もともと人々から敬われる存在であった自分たちが人々の前で面子をつぶされ、主イエスへの怒りと嫉妬の思いを持ったと思われます。こういうことがこれから繰り返し起こり、やがて十字架へとつながっていきます。 

<十字架と生きる力> 

 ここで主イエスはご自分の権威を語られましたが、もちろん、それを人々の前で誇ろうとされてこのような業をなさったわけではありません。なぜなら、その権威は、やがて十字架におかかりになる、ご自身の死によって立てられる権威だからです。主イエスが血のような汗を流され祈り、父なる神からいただいた杯をお受けになった、その苦しみの極みの十字架によって主イエスは栄光と権威をお受けになるのですから、そこには私たちには想像もできない主イエスの御覚悟と人間への愛があるのです。 

 その主イエスの御覚悟と愛によって、この中風だった人のように私たちも罪の重荷がゆるされ、軽やかに歩き出せるようになりました。それが神の赦しの力です。パウロは罪の報酬は死だと言いました。実際私たちは、本来、罪のために死ぬべき存在でした。しかし、命をいただきました。それはやがていただく永遠の命でありますが、この地上を生きる時も、すでにその永遠の命の輝きに生かされます。この地上での生涯を根底から力づけ、生きる力を与えるのが神の赦しの力です。 

 ここでもう一つ注意したいのが、皆さんもお気づきと思いますが、癒された人自体は治りたいとも何も言っていないのです。彼が言葉を話せたのかどうか分かりませんが、彼を連れてきた人々は親しい人であったでしょうし、当然、彼も治りたいと思っているだろうと考えては連れて来たかもしれません。しかし主イエスは「その人たちの信仰を見て」とあるように、屋根をはがした人々の信仰をご覧になったのです。中風の人本人ではなく、その人を連れてきた人々の信仰によって中風の人は癒されました。これは単純な意味で、ある人の信仰によって他の人が癒されるということではありません。ここで言われているのは、救いとは恵みなのだということです。自分でつかみとるものではないということです。ただ床に寝ているだけ、何もできない、しかしその人にも神の恵みは注がれているということです。叫ぶ信仰と申し上げましたが、叫ぶことすらできない、そこにも恵みが注がれているということです。さらに言えば、伝道とは叫ぶことのできない人を主イエスの側に連れて来ることだともいえます。その人にすでに注がれている神の恵みが、はっきりと見える場、主イエスがおられる場へと連れて来る、それが伝道であり、そこに救いの恵みが起こります。いま、礼拝でみ言葉を聞いておられる方は自分で主イエスのおられる場へと今は来ておられます。会堂へ、ネットの繋がる機器の前へご自分で来られました。しかし、最初はいろいろな形で誰かに連れてこられたのではないでしょうか。人に連れられて来た方もあるかもしれないし、何かの契機があって来られた方もあるでしょう。しかし、誰かによって、あるいは何かによって連れてこられたのです。そこに恵みがありました。主イエスは、中風の人に「起き上がりなさい」とおっしゃいました。これは1章でペトロのしゅうとめを癒された場面で、しゅうとめを起き上がらせた時と同じ言葉です。1章の時にも申し上げたように、起き上がるという言葉は、主イエスが復活する時に使われる言葉です。よみがえるということです。罪のなかで横たわっているのではなく、罪赦された者として新しい命の中に生きなさいとおっしゃったのです。私たちが立派だからではないのです。自分では何もできなかった。ただ恵みの内にキリストの言葉を私たちは聞いたのです。起き上がりなさい、命の中に起き上がりなさい。罪による死ではなく、本当の命に生きなさい。いま、コロナの禍の中で、肉体の命が脅かされています。恐れや不安を感じる日々ですが、なお私たちは聞きとるのです。主イエスの起き上がりなさいと言う声を。本当の命に生きなさいと言う声を。 



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