大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録第26章19~32節

2021-05-16 14:54:53 | 使徒言行録

2021年5月16日大阪東教会主日礼拝説教「人間には愚かで神には貴いこと」吉浦玲子   

【説教】  

<光を語り告げる人> 

 さて、先週、共にお読みした箇所の最後にところ26章18節にキリストがパウロに語った言葉がありました。「こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」。彼らとはユダヤ人と異邦人、つまりすべての人です。そのすべての人が罪赦され、恵みの分け前にあずかるようになるためにキリストはパウロに語られました。神を知らず、神に背いていた人間が、その罪を赦され、そして赦されるのみならず、恵みの分け前までも与えられる、そのことのためにパウロはキリストによって伝道者とされました。 

 恵みとは、神と共に生きることです。良き時も悪しき時も、神が共にいてくださり、神と共に歩むということです。喜びの時も試練の時も、神と共にあって、そのすべてのことが豊かなものとされるのです。健康な時も病の時も、若い時も年老いた時も、その日々に神の配慮が満ちているということです。回り道のようなうまくいかない時期でさえ、神の豊かな導きがあるのです。 

 そしてパウロは今日の聖書箇所ではそのイエス・キリストの救いと悔い改めについて自分が語ってきた内容において、預言者やモーセが必ず起こると語ったこと以外は語っていないと言っています。つまり現代でいうところの旧約聖書に記されていることとなんら矛盾をしないことを語っているのだと言っています。 

 ここは特に、イスラエルの王であるアグリッパ王を意識してパウロは語っています。アグリッパ王は、血筋的にも純然たるユダヤ人ではなかったようで、またユダヤ教の熱心な信徒ではありませんでした。しかし、ユダヤの王として、一応はユダヤの律法や伝統はある程度知っていたのです。パウロはアグリッパ王に対して、自分はユダヤの律法や伝統から外れたことをしているのではないのだと言っているのです。ここまでなら、アグリッパ王にも話は通じたかもしれません。しかし、さらにパウロは語ります。「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」メシアはもともとユダヤ人が待ち望んでいた救い主です。そのメシアが苦しみを受け、復活して、民にも、つまりユダヤ人にも異邦人にも光を語り告げるというのです。 

 光とは救いであり、福音です。まさに闇に射し込んでくる神の恵みです。井戸の奥底に落ち込んでいたような人間にさっと光が射し、救いの手が差し伸べられたのです。その救い主の十字架と復活をパウロは語りました。そしてその光の出来事をメシア自身がお語りになるのです。キリストご自身が救いであり、光であることを、キリストご自身が私たちに示してくださるのです。そのことをパウロは語りました。 

 パウロは熱心に語りました。今日は教会学校で青年が子供たちに説教をしてくださいました。パウロも、現代における牧師もまた信徒も、キリストについて、このようなお方であると語ります。神の恵みはこんなに素晴らしいと語ります。しかし、パウロや現代の牧師や信徒さんが語っているようで、実際に語っておられるのは主イエスご自身なのです。主イエスご自身が光を語り告げてくださっているのです。私たち一人一人が、誰かの前で説教はしなくても、聖書の話を直接にはしなくても、聖霊が働くとき、そして私たちが聖霊によって祈りつつ歩む時、主イエスご自身が私たちにも、そして私たちの隣人にも、光を語り告げてくださるのです。 

<神に貴く人間には愚か> 

 しかし、人間がかたくなな時、主イエスご自身が光を語られても、その言葉を聞きとめることはできません。ローマ総督フェストゥスはパウロが話しをしている途中で大声で言います。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と。たしかに聖霊が働かなくては、光の言葉は聞きとることはできません。ユダヤ教徒でなくても、救い主が苦しみを受けるだの、死者が復活するだのということは理解できません。しかし、キリストの死と復活こそが、私たちに救いをもたらすことなのだということは分かりません。キリストの復活を聖霊によって知らされなければ、私たちはまことの命に生きることはできません。 

 そして、まことの命に生かされている者、光の言葉を告げ知らされた者は、キリストを語ります。生き方においてキリストを証しします。しかしそれは必ずしも立派な生き方であったり、尊敬されるようなあり方になるとは限りません。幸い、日本は宗教に対して本質的な理解は薄いながら、キリスト教に対して、それほど否定的ではありません。ミッションスクールやキリスト教系の病院や福祉施設の良き働きによって、キリスト教に対して大きな嫌悪感は持たれていません。世のため人のために奉仕をすることに対しては一般的には良いイメージを持たれているのです。 

 しかし反面、信仰の本質においては理解されないのです。善い行い、優しい態度、献身的な姿勢は評価をされても、キリストの死と復活によって私たちがまことの命に生かされているのだという真理に関しては、「その話はいずれまた」と言われたり、「頭がおかしい」と言われるのです。 

 パウロの言葉は、着飾って物見遊山のように集まった権力者たちには届きませんでした。パウロの粘り強い自分のようにキリストの死と復活を信じてほしいと訴える言葉についに人々は立ち上がって話を打ち切ってしまいます。そして、アグリッパ王は言います。「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもあらえただろうに」。アグリッパ王たちに、キリストの告げる光の言葉は届きませんでしたが、パウロが無実であることは分かったのです。彼らには、パウロが愚かな男に見えました。パウロは鎖につながれること以外においては私のようになってほしいと語りましたが、囚人として実際に鎖につながれ自由を奪われているパウロはただただアグリッパ王たちにとってはみじめな存在でした。彼らにとってパウロはみすみす釈放されるチャンスを逃した馬鹿な奴でした。しかし、神からご覧になったとき、その姿はまるで違います。鎖につながれ、これからローマへと護送される囚人のパウロは光の言葉を聞いた光の子とされています。貴い存在とされています。着飾った裕福で力ある人々は、神の目には愚かな無知な存在なのです。私たちはパウロのようにも生きることができますし、アグリッパ王たちのように生きることもできます。私たちには選択の自由があります。一度選択しても、人間は揺れやすく、どちら側にでも振れるものです。その私たちを導かれるのが聖霊です。 

<キリストを感じられない時> 

 ところで、先週の13日の木曜日は教会暦では主イエスの昇天日でした。いまお読みしています使徒言行録の第1章に主の昇天について描かれています。主イエスがこの地上で宣教をなさり、十字架におかかりになり、復活をなさった、その復活の主のお体が天に上げられました。その主の昇天を覚えるのが昇天日です。そして昇天から10日後が聖霊降臨日です。キリストが天に昇られ、聖霊が降ってくるまでの間の9日間、弟子たちは待っていました。聖霊降臨がいかなるものかは、弟子たちにははっきりとは分からなかったでしょう。しかし、聖霊が注がれるまでエルサレムにとどまるようにという主イエスの言葉に従って、弟子たちは祈りつつ待っていました。キリスト不在の地上で待っていたのです。 

 教会暦で言いますと、いまはまさに聖霊の注ぎを待っていたそのような弟子たちの祈りを覚える時です。聖霊降臨日、聖霊が注がれ、この地上に教会が立ち上がりました。教会は人間が立てたものではありません。初代教会もそののちの教会もそうです。この大阪東教会も神が立てられたのです。ヘール宣教師を始め先達の祈りと努力はあったでしょう。しかし、先立ち歩み働かれたのは神です。 

 しかし使徒言行録によりますと、最初の教会はキリストが昇天をなさって、すぐに立ったのでもありません。キリスト不在の9日間を弟子たちは祈りつつ過ごしました。私たちもまた、祈りつつ待つという時を人生において過ごします。神が何事かを起こされるその前の時、期待しつつ待ちます。ある時はこれから先の展望が見えない、祈っても祈っても答えがなく途方に暮れている時、心折れそうになる時、まったく動きのない現実の中で、キリストの思いがわからないようななか、待ちます。今お読みしています使徒言行録の箇所ではパウロは監禁されています。何度も裁きの場へ引き出され明確な罪を指摘されないまま囚人とされています。主イエスからローマで宣教せよとご指示を受けながら、いっこうに進まないローマへの道のりの中、神がいよいよ事を起こされるその時を、パウロも待っています。 

<聖霊によって希望の道が拓かれる> 

 ところで、使徒言行録は、昨年の5月17日から読み始めました。昨年の聖霊降臨日の2週前、最初の緊急事態宣言発令中のことでした。礼拝は非公開で、当時はリアルタイム配信はできておりませんでした。ですから、ブログや音声で皆さんは読んだり聞いたりなさったと思います。この一年あまり、教会において、コロナ前は当たり前にそれまでやってきたことができなくなりました。皆で共に会堂でお捧げする礼拝も、信仰者同士の交わりも、伝道活動も。いやがおうでも、教会とは何か?信仰生活とは何か?ということを考えさせられたこの一年でした。この一年を、2000年前の生まれたばかりの教会の物語を読みつつ歩むことになったというのは神の導きであったと思います。同時に、この一年は、昇天日から聖霊降臨を待つような、長い長い祈りの一年であったとも思います。繰り返し申してきましたように、使徒言行録は、聖霊言行録です。弟子たちの活躍や初代教会の発展ぶりを、すごいねと読むのではなく、それを導いておられた聖霊の働きを読むべきものでした。次週は聖霊降臨日、そしてその翌週は三位一体主日です。その三位一体主日でこの使徒言行録を読み終えます。神がどのような意図をもってこの世界にパンデミックをもたらされたのかは分かりません。しかしながら、このパンデミックの一年を、聖霊言行録を読みながら歩んできたことは恵みであったと思います。神のご意思を私たちは分かりませんが、しかしなお神は大阪東教会に、そしてこの世界のキリスト者に希望を持っておられます。ペトロやパウロが特別だったから守られたのではなく、神が愛しておられるすべての民に神は聖霊を注ぎ、それぞれのローマへと導かれます。聖霊の風が吹き渡る時、そこには失望ではなく、行き止まりではなく、かならず神の新しい世界が開けることを私たちは聖霊言行録によって知らされてきました。パウロは、周りの人々からは愚か者とみなされ鎖につながれローマへと向かいます。しかし、その歩みは神に導かれ神に貴いものとされ神の光の言葉と共に守られるのです。私たちもローマへ向かいます。聖霊に導かれ光の言葉を聞き、光の言葉を携え、神に貴い者とされて歩みます。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿