be with you 共に生きる

共に生きるあらゆるものたちのこと

車が高い?

2018年06月29日 21時33分48秒 | 日記
最近の車の価格は高すぎる!

昔を偲んでもしょうがないのだが、私の感覚は2000なら200万、1600なら160万、1200なら120万。軽自動車なら70万が納得の価格だ!

中古も高年式だた元値が200万でも150万程度で高い!

なんでこうなったのか?

結局、付加価値を付けすぎて高くなり、しかも、付けられた付加価値部分を外す選択肢がない。付加がデフォルトになっている。

また、同じ言い方になるのだろうが、尖った物がない。走りにだけ徹した物、つまり、エンジンだけをチューニングしたのみのとか。今はソフトでチューンしてごまかして?いる。つまりエンジン自体のチューニングではなく付加価値のソフトでやっている。さらに、クーラーも必要だ、ナビもだ、後席も乗り心地よくするのだとか。尖らなくなっていくよね。

でも馬力がほしいからエンジンでかくするとか。

エントロピーの増大がもたらす結果、過程なのか!
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自分の時間

2018年06月27日 15時48分38秒 | 日記
今は仕事もなく、自由を満喫している。
自由とは何なのか最初は良く分からなかった。

仕事が無いと収入は、当然無い。時間はある。
それが自由なのかと当初考えていたが、なんか、実感がない。

過ごしてきて、ようやく分かった気がしてきた。

自己決定権なのだと思う。

自分の生きている24時間全てを自分の流儀で消費できる。
勿論、都市部で社会生活を送る以上は従うべきルールはある。

それを踏まえても、全ての時間の中で、いつ頃それを行うかを自分で決められる。自分の人生のマスターが自分である事が自由なのだ。その上で対外的な事への関わりを決められる。サラリーマンのほとんどは自分の時間を仕事に捧げている間は、従属的である。

解放イコール自由?上手く伝えられない。

サラリーマンも休日とかは、その一日は決定権はあるが、私の場合は、休日後の仕事を考えるとハメは外せなかった。貧乏根性?心配性?

自己決定権を得ると自己責任も付いて来る。

これが自由の裏表なんだ!

こんな素敵な事を受験の頃は知らなかった。ただ成績を上げ、有名大学へ合格する事だけにシノギをけづってしまっていた。受験戦争は良くないと感じているこの頃です。
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p20 lite vs nova lite 2

2018年06月19日 05時38分09秒 | 日記
14,800 vs 6,800
結果 nova lite 2を購入してしまった。音声契約だがキャンセル料が8,000なので22,800 vs 14,800。

画面の解像度ならp20liteだが値段に負けた。たかが1万円程度の差額だけど、そこが重要。lgl24の電源入らない故障、韓国製ではよく起こるみたいだそうだが、同等以上の解像度を探していた。

中華製はどうなのか?

気がつけば全てのメイン端末、外出時、屋内用のふたつだが、中華製だ!

以前は韓国製と台湾製だったが。

日本製が希望だが周回遅れは否めない。

第2位である事を認めざるを得ない。残念だ!
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便座交換

2018年06月07日 23時33分32秒 | 日記
午後便座を交換。料金を支払っての交換だったので、あっという間だった。30分位です。

便座の三分の一が料金だった。購入時は自分でやるつもりだったがケーズデンキの売り子に止められた。youtubeでは簡単そうだが細かい所で失敗するとの事。

交換作業を見て、なるほど だった。

水回りの微妙な取り回しや配管の締め具わいは、やっぱり手慣れていた。

素人、つまり、私がやったら時間は2倍、以前の便座を粗大ゴミで出す手間、そして一番は水漏れの心配があったろう。

納得の料金だった!
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c# delegete 匿名クラス ラムダ式

2018年06月06日 00時50分22秒 | C#理解
c#でのラムダ式は記号化の入り口!

記号化は好きになれない。行き着く先は、ニュートンとライプニッツの往復書簡のよう。聞いた話で確認した訳ではないが。

要は内向きの超ショナイ言葉になり、排除の言葉になり得る。
ある「頭のいい?」グループとその他を分けるものに成り下がる。そこが嫌いな部分だ!差別を内包しやすい。

私はasmからスキルが始まった。古い話だが某IBMのMVSのコードを見た時あまりに稚拙なコードに驚いた。しかし、それでOSの価値が下がった訳ではなく、設計やコンセプトの良さ、高さに世界の誰もが脱帽だった。コードではない事を学んだ。

近年linuxなどでいかに短いコードで表現するかがブームであり、トリッキーなコードがもてはやされたりする。本来はコンパイラーが処理すべき課題を代わって人間が行う事で良いのか?

コードを理解するのに考え方ではなく特定のコード化技術を要求するのは方向が違うと思う。

asmからCOBOLを知ったとき「ドキュメント」として分かりやすさに感動だった。更に、平易なコードで表現すればある程度の知識が有れば誰でも理解可能に新しさを感じた。

javaではオブジェクトの集まりで設計する事が新鮮であり驚きでもあった。オブジェクトは世界の写像である!世界の感じ方が論点となり得る。

手段が目的化してはいないだろうか?
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