横浜市都筑区耳鼻咽喉科

南山田(センター北と北山田の間)の耳鼻咽喉科院長のブログ。

サウスポー2 左利きの音楽家

2011-12-14 09:57:30 | 絵画・音楽・文学

現在TOHOららぽーと横浜で、"ジョージ・ハリスン/リビング・イン・マテリアル・ワールド"と”ポール・マッカートニー THE LOVE WE MAKE”が上映されています。オノ・ヨーコさんの呼びかけで始まったジョン・レノンスーパーライブが、今年もジョンの命日の12/8に行われました。また最近iTunesでビートルズのキャンペーンをやっています。1970年に解散してもう40年になりますが、ビートルズは現在も生きています。

ビートルズの4人のうちポールとリンゴが左利きです。映像を見ても、ポールだけ、ジョージとジョンとは、ギターの向きが逆です。ギターは左利き用があるのですね。

ヴァイオリンは左利きでも、普通右利きの人と同じように持って引きます。おそらく左利きのヴァイオリニストはたくさんいるのでしょうけど、演奏を見ただけでは分かりません。ちなみに、”ライムライト”で、キートンとの共演シーン、キートンがピアノを弾き、チャップリンは、ヴァイオリンを反対向きに持って(弓を左手に持って)弾いていました。これが私の見た、唯一の左弾きヴァイオリン演奏です。

左利きのピアニストっているのでしょうか。左利き用ピアノなんてないでしょうし、主旋律を右手で弾くことが多いので、どうなのでしょうか。と思って調べたら、グレン・グールドがそうなのですね。左利きが音楽家に不利ということは、なさそうです。

左利きの人が生まれつき天才なのかどうかは分かりませんが、世の中の道具がほとんど右利き用ですから、子供のころから何かしら工夫をすることを強いられ、また人は皆同じでなくてもいいのだということを実感しながら育つのですから、賢く自我の確立した人間になりやすいということも、あるのではないかと想像します。

 

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1969年のオールナイトニッポン

2011-12-09 09:01:48 | 絵画・音楽・文学

残っているLPがジャズばかりなので、あの頃ジャズばかり聴いていたように記憶していましたが、違うようです。レコードを買うことがなかっただけで、歌謡曲もポップスも、ラジオで聴いていました。

1969年には、私は中学2年生だったのですが、夜中に勉強していると称して、深夜放送オールナイトニッポンをよく聴いており、昨日のリストの中でも、フランシーヌの場合は、や、真夜中のギターは、オールナイトニッポンでもよくかかっていたことを思い出しました。

1969年のオールナイトニッポンのパーソナリティは、糸井五郎さん、今仁哲夫さん、亀渕昭信さんなど。局のアナウンサーが中心でした。亀渕さんは後にニッポン放送の社長になり、ベイスターズを買収しようとして果たせなかった方です。当時の大分では、遠い東京から届く、ときどき弱くなって聴き取れなくなる電波で、聴いていたのが懐かしいです。

私が聴いていたのは、1969年頃の短い期間だけで、オールナイトニッポンのパーソナリティは、その後小林克也さん、泉谷しげるさん、岸部シローさん等を皮切りに、歌手やタレントさんが担当するようになったようですが、その頃には、全く聴かないようになっていました。

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1969

2011-12-08 12:36:28 | 絵画・音楽・文学

今朝いつものように出かける支度をしながらテレビを見ていると、また由紀さおりさんのことが話題になっていました。でも、、アルバムのタイトルは1969?、昨日のわたしのブログのタイトルは1968だっのに。どちらが間違えているんだ?もちろん私の方の間違いでした。これでもう1日分、ブログねたができました。

1969年のヒット曲というと、時には母のない子のように(カルメンマキ)、白いブランコ(ビリーバンバン)、みんな夢の中(高田恭子)、白い珊瑚礁(ズーニーブー)、真夜中のギター(千賀かほる)、坊や大きくならないで(マイケルズ)、恋の奴隷(奥村ちよ)、人形の家(弘田三枝子)、フランシーヌの場合(新谷のり子)、風(シューベルツ)、禁じられた恋(森山良子)、ある日突然(トワエモア)、長崎は今日も雨だった(内山田洋とクールファイブ)。

全部、何コーラスかは、今でも歌えます。

 

 

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1968

2011-12-07 20:11:44 | 絵画・音楽・文学

中高生のころは生意気にジャズを聴くことが多かったのですが、あの頃は歌謡曲の全盛期でした。あの頃流行した歌に今も忘れられないものが多いのは、単に記憶力が良かったためだけではないように思います。

最近、加藤登喜子さんのCDで、ひとり寝の子守歌や知床旅情を聴く機会があり、うまいなあと思ったりしたのですが、1ヶ月ぐらい前に、これも新聞で由紀さおりさんの”1968”というアルバムが、海外でヒットしているという記事を見て、iTunes Storeでダウンロードしました。このアルバムは、1968年頃にヒットした歌謡曲などをアメリカのピンクマルティーニというバンドをバックに、アレンジもほとんど変えずに日本語で歌ったもので、今聴いてもけっこういけます。私と同じような人は多いらしく、日本でも最近売れているようで、今日のTVでも由紀さおりさんのインタヴューなどをやっていました。

夜明けのスキャット、ブルーライトヨコハマ、いいじゃないの幸せならば、夕月といった1968年頃の歌謡曲のほか、ピータ・ポール&マリーのパフ、セルジオメンデスがヒットさせたマシュケナダなど、フォーク、ボサノバのヒット曲も含まれています。

ちなみに1968年のヒット曲を調べてみると他に、恋の季節(ピンキーとキラーズ)、今は幸せかい(佐川満男)、ゆうべの秘密(小川知子)、愛の奇跡(ヒデとロザンナ)、グッド・ナイト・ベイビー(ザ・キングストーン)、伊勢佐木町ブルース(青江三奈)、三百六十五歩のナーチ(水前寺清子)、好きになった人(都はるみ)、小さなスナック(パープルシャドウズ)、小さな日記(フォーセインツ)、花の首飾り(ザ・タイガース)、亜麻色の髪の乙女(ザ・ヴィレッジシンガーズ)、エメラルドの伝説(ザ・テンプターズ)、悲しくてやりきれない、青年は荒野をめざす(ザ・フォーク・クルセダーズ)、受験生ブルース(高石友也)、ケメ子の歌(ザ・ダーツ)

こうしてみると、この年は、フォークとグループサウンズのブームが始まった年でもあるのですね。

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小松左京さん逝く

2011-07-29 00:10:18 | 絵画・音楽・文学

星新一氏がはじめて足を踏み入れたSFという名のジャングルを、小松左京氏がブルドーザーで切り開き、その上を筒井康隆氏がヘリコプターで飛んでいく。日本のSFの先駆者3人を、誰かがそう評しているのを、高校生のころに読みました。この3人は、既に多くのSF作家が登場していた当時でも、特別な存在でした。

その中で、小松左京氏は、初期に”地には平和を”、”日本アパッチ族”などの傑作もありますが、どちらかというとSF作家の枠を越えた存在でした。日本SF作家クラブの創設にかかわり、国際SFシンポジウムを主催、大阪万博では、岡本太郎チーフ・プロデューサーを助けるサブ・プロデューサー、国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーなどを務めました。

1973年の”日本沈没”は、社会現象とも言われた大ベストセラーになりましたが、このころの小説は多作過ぎて小説としては薄くなってしまっているように感じられました。”日本沈没”も小説というよりも、プロデューサー小松左京が仕掛けた大イベント、あるいは知識人小松左京の大論文だった気がします。

小松左京氏といえば、若くして亡くなった、氏の友人の作家高橋和巳氏を思い出します。”邪宗門”など、高校生のとき中間テスト期間中に気分転換に読み始めたのが、あまりの衝撃的な面白さにやめられなくなって、夜中までかかって最後まで読んでしまったのを憶えています。当時、高橋和巳は当然文学史に残る大作家だと思っていましたが、最近はその名前を聞くこともありません。というより、文学全体の存在が、現在では希薄なものになっているのかも知れません。

純文学どころかSFだって、映画やアニメの中でこそ大きな存在になっていますが、小説としてのSFには当時のような勢いはありません。

私の若いころカリスマだった人が、またひとりいなくなりました。ご冥福をお祈りいたします。

 

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