仲間から讃岐遠征が完結していないという指摘を受けた(笑)
逆に覚えてくれてたことに驚きと感謝をしている。
心の中では気にしていたのだがなんせ一つのブログを書くのにほぼ一日使うという遅さなもので・・・(笑)
ご指摘いただきありがとうございます。
では、改めて・・・。
「東洋のマチュピチュ」
最近「四国のマチュピチュ」とか「東洋のマチュピチュ」とか言われ非常に人気の観光地があるよと聞き、それなら讃岐の帰りに寄ってみようということで予定には入れていた。
今日(11月17日)の予定は少しハードだ。
朝、香川県の高松を出発し愛媛県の「マチュピチュ」に行き、そこから徳島県の「かずら橋」という四国3県をまわる強行軍。
まぁ、最後は「大歩危小歩危」のホテルに泊まればいいかなくらいの気軽旅。
家に帰っても夫婦2人だけなのでそこはのんきなもの(笑)
「マイントピア別子」
まずはここを目指す。
場所は愛媛県新居浜市別子銅山跡の産業遺跡のひとつ、東平(とうなる)にある索道場跡。
午前7時に高松のホテルを出発し、「マイントピア別子」に着いたのが9時前。
マイントピア別子は『端出場(はでば)ゾーン』と、『東平(とうなる)ゾーン』に分かれている。
連休後とあって広い駐車場にはまだ数台の車しかない。
ここで「顔出しパネル」で遊んでいる時間はない(笑)
とりあえず中に入って「マチュピチュ」のある東平(とうなる)のパンフレットを貰い先を急ぐ。
なぜそんなに急ぐのか?
今日の目的地である、『東平(とうなる)ゾーン』までの道が非常に狭い。
ここからしばらく行くと離合(すれ違い)のできない向こうの見えない狭い道がくねくねと続く。
「俺は腕に自信があるから大丈夫」と言われるかもしれないが、あなた1台ならそうかもしれない。
ところが前から「若葉マーク」後ろから付いてきたのがヤンキー車。
どちらも下がれないし下がらない(笑)
自家用車ではなくこのマイクロバスをお勧めする。
事実、帰りは離合、離合で大変だった。
「ループ橋」
このループ橋はできてから新しいもの。
以前は岩の崖が車に当たるくらい凄く細い道だったそうだ。
快適に県道47号線を走る。
道がいいのはこのトンネルまで。
この看板が目印。
ここを見逃さないように。
柵があって通れなくしてあるのは「大雨警報」などが出たら交通規制するため。
周りの景色に見とれていいのは助手席にいる嫁だけ。
運転手はカーブから現れる車を察知しなければ本当に危ない。
何度も野生の猿が道を横切った。
『東平(とうなる)ゾーン』
索道場跡がある標高750mの「東平(とうなる)」地区に到着。
朝が早かったのと、平日ということで一台も離合せずにすんだのはラッキーだった。
今までの狭い道路がウソのように駐車場は広い。
私達が着いたときには車はまだ一台しか止まっていなかった。
今日は貸切かなと思ったが甘かった。
後で団体客がたくさん来た。
↓の案内図がわかりやすいと思う。
今いる場所が「P」と書かれた場所になる。
走ってきたのが右上の道路。
ここはは住友によって1691年から1973年にわたって経営された銅山。
世界的に見ても一つの企業が300年近くも採鉱を続けた鉱山は珍しいそうだ。
明治35年から、昭和43年頃まで最盛期には3700人を超える人が住んでいた。
学校や劇場、社宅が立ち並び、町として大変な賑わいを見せていた。
町には子どもたちの元気な声が溢れ、道沿いの劇場からは、賑やかな笑い声。
そんな多くの人々が閉山と同時に姿を消した。
そしてインカ遺跡を思わせる建物跡。
まさに天空都市「東洋のマチュピチュ」と形容するのにピッタリの場所だ。
閉山後は、ほとんどの施設は取り壊され、
山に戻すため植樹されたので町のあった痕跡は
ほとんどなくなってしまった。
遺跡の一つでもある建物を上から見下ろすことが出来る。
この看板を右に曲がり
「インクライン」
インクラインは、生活用品や資材を引き揚げたり降ろしたりするため、傾斜面にレールを敷いたトロッコを走らせるケーブルカーの一種が造られていた。
跡地は220段の長大な階段に生まれ変わっている。
この「220段」の階段を下りていき。
中ほどで右に曲がり石垣を進むと
「貯蔵庫跡」
近くで見るとその大きさに圧倒されてしまう。
団体客が来る前にタオマフを揚げる(笑)
「索道基地跡」
実際に目の当たりにすると、その歴史の重みを感じてしまう。
他に道がないのでもう一度「220段の階段」を登っていく。
この時点で体力はほぼ半分に(笑)
「かご電車 鉱山運搬機器」
東平歴史博物館の入口奥の隧道内に かご電車の車両が保管展示されている。
昭和13年から昭和48年の休山まで、東平坑口と日浦坑口の間、約4000メートルの坑口を往き来る人々が乗った電車である。
銅山で働く人以外でも無料で乗車でき、電車はその形から「かご電車」の愛称で親しまれていたという。
「東平(とうなる)歴史資料館」
この歴史資料館を過ぎて奥に奥に進んでいく。
ここは車でも行ける。
私達は紅葉を楽しみながら歩くことに。
突然現れた広い場所。
サッカーができるんじゃないかと思ってしまう。
この山奥に・・・と不思議でしょうがない。
が、しかしよく考えると約4000人近い人が生活をしていた町だからね。
「山の上であっても都市部にいるのと同等の生活を保障する」
ということで、劇場では一流の人たちが公演をし、病院や学校も整備され、鉱山の人々の生活は守られていた。
さらに奥へ入っていく。
ここからは危険な動物(クマ・イノシシ・サル)が出てくるのではないかと「トリニータ・オーレ」を大声で歌う嫁(笑)
実はその動画を持っている(笑)
ワハハハハ。
「社宅跡」
鉱山というと、男の職場というイメージだが、男だけの世界ではいけないと家族で移り住むことが基本とされていた。
またまた広いところに出てきた。
この広場では「第3変電所跡」「火薬庫」「第三通洞」を見る事ができる。
嫁が指差す先にあるのが・・・
「第3変電所跡」
近寄ってみる。
どうやら中を見る事ができるようだ。
部屋の中の空気は冷たく時間は動く事を拒否しているかのようだった。
「第三通洞」
暗闇をのぞくと今でも削岩機の音や労働者の声が聞こえてきそうだ。
「火薬庫」
『東平(とうなる)ゾーン』にお別れして、朝行った『端出場(はでば)ゾーン』に帰ることにした。
また、あの狭い道を通ることに。
帰り道こんな狭い道を煽ってくる車があったことにビックリした。
当然、先に行かせたけれど猛スピードで下りて行った。
谷底に落ちなければいいけれどと本気で思ったからね。
『端出場(はでば)ゾーンに到着』
「鉱山鉄道」
マイントピア本館にある。
時速10kmでのんびりと当時のままのトンネルや鉄橋を走る。
「冬桜」が見頃をむかえていた。
その「冬桜」と「紅葉」の中を走る列車。
列車の到着駅は元ダイナマイト倉庫を利用して作られた「観光坑道」
いろいろなゾーンがある体験型遊学パーク。
子供達には面白いかも。
「第四通洞」
大正4年完成の長さ4600mもある坑道。
夏には冷気が吹き出し天然のクーラーが体験できるそうだ。
「水力発電所」
すっかり色づいた紅葉の下を・・・
のーんびり歩く一匹の・・・ネコ。
この町で、生まれ育った人たちにとって
故郷が山になってしまったというのはどんな気持ちなのか。
ふと長崎の「軍艦島」を思い浮かべてしまった。
「祖谷のかずら橋」
「マイントピア」を後にして向かったのが徳島県にある「かずら橋」
午後2時半 到着。
ここからかずら橋を眺めていた団体のあるおばあちゃん。
「あら? 高いかと思っていたら低いのね、フフン」
このあとそのおばあちゃんがどうなったかは想像におまかせします(笑)
車を駐車場に停めさっそく橋の方に急ぐ。
嫁、ここまで強気。
多分、私が「高所恐怖症」なので絶対に橋を渡るのは無理と思っているようだ(笑)
「かずら橋は一方通行」
ここが重要になってくる。
さぁ、行くぞ。
恐いが意地でタオマフを揚げる私。
下を見ると木と木のすき間が広い。
お、やばいか?
前を行くのは杖をついたおじいちゃん。
ええええ、大丈夫か?
嫁、ここで「私、行かない」とリタイア宣言。
「えええ?」
私は引き返そうにも橋は一方通行。
仕方なく真ん中まで進む。
さっきの橋まで行ったのかと探すがいない。
ふと振り向くと後ろから嫁の姿が。
待つ間にも何人もの団体さんが橋の真ん中で止まっている私を見て「目で抗議」してくる(笑)
その視線が痛いのなんの(笑)
多分、嫁目線がこういう状態(笑)
小学生のときの鉄棒の上を渡る体育があったがそれがトラウマになっているらしい。
私も数年前に追突事故にあっていらい後ろの車が追突してくるのではないかと緊張してしまうからそれと同じだね。
その後「大歩危」の方に車を走らせる
紅葉はまだまだと思い、車を停めたとたん「太田社長」の訃報が入ってきた。
すぐに観光を辞め、帰るフェリーを確認し、夜中に家に着いた。
冷静に努めたつもりですが大歩危から家までの道中の記憶がすっぽり抜けています。
ただ車の中で私の落ち込みように嫁がずっと声をかけてくれたのは覚えています。
このブログを書いたことで自分の中で気持ちの整理ができつつあります。
今回の讃岐遠征でご一緒したみなさん。
出会ったみなさん。
本当にありがとうございました。
みなさんに感謝します。
讃岐遠征 天空都市・東洋のマチュピチュ&かずら橋 完結です。
逆に覚えてくれてたことに驚きと感謝をしている。
心の中では気にしていたのだがなんせ一つのブログを書くのにほぼ一日使うという遅さなもので・・・(笑)
ご指摘いただきありがとうございます。
では、改めて・・・。
「東洋のマチュピチュ」
最近「四国のマチュピチュ」とか「東洋のマチュピチュ」とか言われ非常に人気の観光地があるよと聞き、それなら讃岐の帰りに寄ってみようということで予定には入れていた。
今日(11月17日)の予定は少しハードだ。
朝、香川県の高松を出発し愛媛県の「マチュピチュ」に行き、そこから徳島県の「かずら橋」という四国3県をまわる強行軍。
まぁ、最後は「大歩危小歩危」のホテルに泊まればいいかなくらいの気軽旅。
家に帰っても夫婦2人だけなのでそこはのんきなもの(笑)
「マイントピア別子」
まずはここを目指す。
場所は愛媛県新居浜市別子銅山跡の産業遺跡のひとつ、東平(とうなる)にある索道場跡。
午前7時に高松のホテルを出発し、「マイントピア別子」に着いたのが9時前。
マイントピア別子は『端出場(はでば)ゾーン』と、『東平(とうなる)ゾーン』に分かれている。
連休後とあって広い駐車場にはまだ数台の車しかない。
ここで「顔出しパネル」で遊んでいる時間はない(笑)
とりあえず中に入って「マチュピチュ」のある東平(とうなる)のパンフレットを貰い先を急ぐ。
なぜそんなに急ぐのか?
今日の目的地である、『東平(とうなる)ゾーン』までの道が非常に狭い。
ここからしばらく行くと離合(すれ違い)のできない向こうの見えない狭い道がくねくねと続く。
「俺は腕に自信があるから大丈夫」と言われるかもしれないが、あなた1台ならそうかもしれない。
ところが前から「若葉マーク」後ろから付いてきたのがヤンキー車。
どちらも下がれないし下がらない(笑)
自家用車ではなくこのマイクロバスをお勧めする。
事実、帰りは離合、離合で大変だった。
「ループ橋」
このループ橋はできてから新しいもの。
以前は岩の崖が車に当たるくらい凄く細い道だったそうだ。
快適に県道47号線を走る。
道がいいのはこのトンネルまで。
この看板が目印。
ここを見逃さないように。
柵があって通れなくしてあるのは「大雨警報」などが出たら交通規制するため。
周りの景色に見とれていいのは助手席にいる嫁だけ。
運転手はカーブから現れる車を察知しなければ本当に危ない。
何度も野生の猿が道を横切った。
『東平(とうなる)ゾーン』
索道場跡がある標高750mの「東平(とうなる)」地区に到着。
朝が早かったのと、平日ということで一台も離合せずにすんだのはラッキーだった。
今までの狭い道路がウソのように駐車場は広い。
私達が着いたときには車はまだ一台しか止まっていなかった。
今日は貸切かなと思ったが甘かった。
後で団体客がたくさん来た。
↓の案内図がわかりやすいと思う。
今いる場所が「P」と書かれた場所になる。
走ってきたのが右上の道路。
ここはは住友によって1691年から1973年にわたって経営された銅山。
世界的に見ても一つの企業が300年近くも採鉱を続けた鉱山は珍しいそうだ。
明治35年から、昭和43年頃まで最盛期には3700人を超える人が住んでいた。
学校や劇場、社宅が立ち並び、町として大変な賑わいを見せていた。
町には子どもたちの元気な声が溢れ、道沿いの劇場からは、賑やかな笑い声。
そんな多くの人々が閉山と同時に姿を消した。
そしてインカ遺跡を思わせる建物跡。
まさに天空都市「東洋のマチュピチュ」と形容するのにピッタリの場所だ。
閉山後は、ほとんどの施設は取り壊され、
山に戻すため植樹されたので町のあった痕跡は
ほとんどなくなってしまった。
遺跡の一つでもある建物を上から見下ろすことが出来る。
この看板を右に曲がり
「インクライン」
インクラインは、生活用品や資材を引き揚げたり降ろしたりするため、傾斜面にレールを敷いたトロッコを走らせるケーブルカーの一種が造られていた。
跡地は220段の長大な階段に生まれ変わっている。
この「220段」の階段を下りていき。
中ほどで右に曲がり石垣を進むと
「貯蔵庫跡」
近くで見るとその大きさに圧倒されてしまう。
団体客が来る前にタオマフを揚げる(笑)
「索道基地跡」
実際に目の当たりにすると、その歴史の重みを感じてしまう。
他に道がないのでもう一度「220段の階段」を登っていく。
この時点で体力はほぼ半分に(笑)
「かご電車 鉱山運搬機器」
東平歴史博物館の入口奥の隧道内に かご電車の車両が保管展示されている。
昭和13年から昭和48年の休山まで、東平坑口と日浦坑口の間、約4000メートルの坑口を往き来る人々が乗った電車である。
銅山で働く人以外でも無料で乗車でき、電車はその形から「かご電車」の愛称で親しまれていたという。
「東平(とうなる)歴史資料館」
この歴史資料館を過ぎて奥に奥に進んでいく。
ここは車でも行ける。
私達は紅葉を楽しみながら歩くことに。
突然現れた広い場所。
サッカーができるんじゃないかと思ってしまう。
この山奥に・・・と不思議でしょうがない。
が、しかしよく考えると約4000人近い人が生活をしていた町だからね。
「山の上であっても都市部にいるのと同等の生活を保障する」
ということで、劇場では一流の人たちが公演をし、病院や学校も整備され、鉱山の人々の生活は守られていた。
さらに奥へ入っていく。
ここからは危険な動物(クマ・イノシシ・サル)が出てくるのではないかと「トリニータ・オーレ」を大声で歌う嫁(笑)
実はその動画を持っている(笑)
ワハハハハ。
「社宅跡」
鉱山というと、男の職場というイメージだが、男だけの世界ではいけないと家族で移り住むことが基本とされていた。
またまた広いところに出てきた。
この広場では「第3変電所跡」「火薬庫」「第三通洞」を見る事ができる。
嫁が指差す先にあるのが・・・
「第3変電所跡」
近寄ってみる。
どうやら中を見る事ができるようだ。
部屋の中の空気は冷たく時間は動く事を拒否しているかのようだった。
「第三通洞」
暗闇をのぞくと今でも削岩機の音や労働者の声が聞こえてきそうだ。
「火薬庫」
『東平(とうなる)ゾーン』にお別れして、朝行った『端出場(はでば)ゾーン』に帰ることにした。
また、あの狭い道を通ることに。
帰り道こんな狭い道を煽ってくる車があったことにビックリした。
当然、先に行かせたけれど猛スピードで下りて行った。
谷底に落ちなければいいけれどと本気で思ったからね。
『端出場(はでば)ゾーンに到着』
「鉱山鉄道」
マイントピア本館にある。
時速10kmでのんびりと当時のままのトンネルや鉄橋を走る。
「冬桜」が見頃をむかえていた。
その「冬桜」と「紅葉」の中を走る列車。
列車の到着駅は元ダイナマイト倉庫を利用して作られた「観光坑道」
いろいろなゾーンがある体験型遊学パーク。
子供達には面白いかも。
「第四通洞」
大正4年完成の長さ4600mもある坑道。
夏には冷気が吹き出し天然のクーラーが体験できるそうだ。
「水力発電所」
すっかり色づいた紅葉の下を・・・
のーんびり歩く一匹の・・・ネコ。
この町で、生まれ育った人たちにとって
故郷が山になってしまったというのはどんな気持ちなのか。
ふと長崎の「軍艦島」を思い浮かべてしまった。
「祖谷のかずら橋」
「マイントピア」を後にして向かったのが徳島県にある「かずら橋」
午後2時半 到着。
ここからかずら橋を眺めていた団体のあるおばあちゃん。
「あら? 高いかと思っていたら低いのね、フフン」
このあとそのおばあちゃんがどうなったかは想像におまかせします(笑)
車を駐車場に停めさっそく橋の方に急ぐ。
嫁、ここまで強気。
多分、私が「高所恐怖症」なので絶対に橋を渡るのは無理と思っているようだ(笑)
「かずら橋は一方通行」
ここが重要になってくる。
さぁ、行くぞ。
恐いが意地でタオマフを揚げる私。
下を見ると木と木のすき間が広い。
お、やばいか?
前を行くのは杖をついたおじいちゃん。
ええええ、大丈夫か?
嫁、ここで「私、行かない」とリタイア宣言。
「えええ?」
私は引き返そうにも橋は一方通行。
仕方なく真ん中まで進む。
さっきの橋まで行ったのかと探すがいない。
ふと振り向くと後ろから嫁の姿が。
待つ間にも何人もの団体さんが橋の真ん中で止まっている私を見て「目で抗議」してくる(笑)
その視線が痛いのなんの(笑)
多分、嫁目線がこういう状態(笑)
小学生のときの鉄棒の上を渡る体育があったがそれがトラウマになっているらしい。
私も数年前に追突事故にあっていらい後ろの車が追突してくるのではないかと緊張してしまうからそれと同じだね。
その後「大歩危」の方に車を走らせる
紅葉はまだまだと思い、車を停めたとたん「太田社長」の訃報が入ってきた。
すぐに観光を辞め、帰るフェリーを確認し、夜中に家に着いた。
冷静に努めたつもりですが大歩危から家までの道中の記憶がすっぽり抜けています。
ただ車の中で私の落ち込みように嫁がずっと声をかけてくれたのは覚えています。
このブログを書いたことで自分の中で気持ちの整理ができつつあります。
今回の讃岐遠征でご一緒したみなさん。
出会ったみなさん。
本当にありがとうございました。
みなさんに感謝します。
讃岐遠征 天空都市・東洋のマチュピチュ&かずら橋 完結です。