母の死後、やらなければならないことが山積みだった。その中のひとつが喪中はがき。ここ数年は、字が書けなくなった母に代わって、母用の年賀状を毎年80枚くらい出していました。喪中はがきが届いた頃から、色んな方にご連絡を頂きました。泣きながら電話して来てくれたのは、広島時代にとてもお世話になったSさん。この弔花はSさんから届きました。Sさんは数年前に一度、千葉に会いに来てくださったもんね。
そしてこちらはお手紙と共に、やはり広島時代の友人Nさんから。私が高校生の頃、家の隣に住んでいた若くてキレイなお姉さんだったNさん。独り暮らしのお風呂を、ある日誰かに覗かれたと知って、母は無理にでも、今日から家のお風呂に入りなさいと勧め、お嫁に行くまでの数年間、お風呂に入りに来てたんだよなぁ。笑
お葉書も何通も届きました。広島時代のKさん。読めば昭和58年にお会いしたのを最後に、その後お会いすることも無かった方なのに、こんなお葉書を。でもそのお名前は、母から何度も聞かされていたので、私もよく知っていました。とにかくね、母は本当に筆まめな人でした。字に物凄いコンプレックスを持っていたのに、そのことよりも、気持ちを伝えることを大事にしたのでしょう。
お母さん、凄いね。大人気だね。他にも手紙を書いて、わざわざお香典を送ってくれた次兄の親友K。お礼の電話を入れると、私にまで「俺が知っとる〇〇は、いっつも鼻たらしとったのに、〇〇もようがんばったな」って労いの言葉を掛けてくれた。「おばちゃんの玉子焼きの味が忘れられんのよ」と大昔のことを懐かしんでくれた。
沢山の方たちが、お母さんの訃報を悲しんでくれたよ。有難いし、嬉しいね。お母さんが眠るようにして逝ったこと、お知らせしてホント良かったと思ったよ。
娘が「ねぇ、お婆ちゃんって、人としてどうなの?って思ったこともあったけど、こうして色んな方から惜しまれてるのを見ると、あれ?ホントは凄く良い人だったの?って思っちゃうね」笑
「家族の前では、それだけ気を許して、自分を丸すっぽ全部出してたってことでしょ?だって家族だもん。それでもお婆ちゃんのこと、心配で、会いたくて、亡くなった後もお弁当の配達の途中、お婆ちゃんに会いに行こうか、って思って、あぁもう居ないんだった・・・って、胸が潰れそうになったんでしょ?」
母には母の世界があって、その中で母なりに一生懸命生きて来たのだろうと思います。だからその世界の方々が、そんな気持ちになってくださったことは、本当に幸いなことだと思うのです。
そしてこちらはお手紙と共に、やはり広島時代の友人Nさんから。私が高校生の頃、家の隣に住んでいた若くてキレイなお姉さんだったNさん。独り暮らしのお風呂を、ある日誰かに覗かれたと知って、母は無理にでも、今日から家のお風呂に入りなさいと勧め、お嫁に行くまでの数年間、お風呂に入りに来てたんだよなぁ。笑
お葉書も何通も届きました。広島時代のKさん。読めば昭和58年にお会いしたのを最後に、その後お会いすることも無かった方なのに、こんなお葉書を。でもそのお名前は、母から何度も聞かされていたので、私もよく知っていました。とにかくね、母は本当に筆まめな人でした。字に物凄いコンプレックスを持っていたのに、そのことよりも、気持ちを伝えることを大事にしたのでしょう。
お母さん、凄いね。大人気だね。他にも手紙を書いて、わざわざお香典を送ってくれた次兄の親友K。お礼の電話を入れると、私にまで「俺が知っとる〇〇は、いっつも鼻たらしとったのに、〇〇もようがんばったな」って労いの言葉を掛けてくれた。「おばちゃんの玉子焼きの味が忘れられんのよ」と大昔のことを懐かしんでくれた。
沢山の方たちが、お母さんの訃報を悲しんでくれたよ。有難いし、嬉しいね。お母さんが眠るようにして逝ったこと、お知らせしてホント良かったと思ったよ。
娘が「ねぇ、お婆ちゃんって、人としてどうなの?って思ったこともあったけど、こうして色んな方から惜しまれてるのを見ると、あれ?ホントは凄く良い人だったの?って思っちゃうね」笑
「家族の前では、それだけ気を許して、自分を丸すっぽ全部出してたってことでしょ?だって家族だもん。それでもお婆ちゃんのこと、心配で、会いたくて、亡くなった後もお弁当の配達の途中、お婆ちゃんに会いに行こうか、って思って、あぁもう居ないんだった・・・って、胸が潰れそうになったんでしょ?」
母には母の世界があって、その中で母なりに一生懸命生きて来たのだろうと思います。だからその世界の方々が、そんな気持ちになってくださったことは、本当に幸いなことだと思うのです。
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