玉川からの分水について、もう少々勉強しよう。江戸時代に造られた玉川上水は、
東京の多摩地方では人口が増加するに合わせて、水田を増やすことが各地でおもなわれた。
この時玉川の水をこの水田に引き込むために、分水がひかれたのである。この水は、飲み水
ではなく、洗濯や炊事などに使われるだけでなく、水車などを利用して、動力として使用
されたのだ。すなわち、米の脱穀や和紙の製作、絹糸の製作などに、明治に入ってきた電気
の動力に置き換わるまでは、盛んに使用されたのだ。水車は610年ごろに中国から入ってきたようだが
発祥の地は、ギリシャとトルコらしい。このように、分水の役目は、江戸時代は、非常に
重要で、そのため、この分水を引くためには、その大きさ(水量)に応じて売買されたとのこと。
この大きさは、単位を坪と称し、五寸角の間口で水を取り入れると5×5で25坪となるのだ。
この坪が増すと動力がそれだけ豊富に使用できるのだ。現在の電気料と同じだ。所で、人が
飲む水はどうしていたかと言うと、やはり井戸が利用された。写真のように、井戸が各地で
掘られ、利用されたが、今でも、この福生の地頭の井戸呼ばれて観光の一つとなっている。