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79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

徳川幕府と尊王攘夷

2018-09-24 10:20:37 | 日記

秋である。写真は、黄色く実った稲であり、もうすぐ収穫だ。今日は、先日の続きとして、徳川幕府は

どうして、天皇を上位に据えて、幕府体制を返上せねばならなかったのか。信長は、天皇を嫌って、自分が

征夷大将軍として上位に位置図けていたものが。この考え方がどうして生まれたかを調べた。

これは、水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想のバックボーンとなったことからわかる。

「徳川の御三家にもかかわらず」である徳川一門の水戸藩が、なんで反幕府思想の温床みたいになっちゃったのか、

を考えないと、まず前提として、「尊王攘夷=反幕府」では全然ない。尊王攘夷というのは「正統な君主のもとに団結し、

外国に屈するな」という思想であることは日本人の一般常識である。その先頭に立つのが征夷大将軍であるが、平安時代、

鎌倉時代、室町時代までは、天皇が政権を任せている幕府を中心に「尊王攘夷」を進めるべきだであると言う思想が

常識的な考え方であった。つまり、水戸はべつに「反幕府思想」を広めていたわけでは決してない。しかし、徳川のなか

でも水戸家がとくにこの思想に熱心だったのはなぜか、これは「水戸は、御三家のなかで三番手だから」だ。石高も官位も

尾張、紀州に比べて一段下、万が一のとき将軍位を継ぐ資格だって、尾張や紀州をおしのけて回っていく可能性ない。

そんな水戸が、存在感を示したいと思うなら、何か他にない特色を持たなきゃならない。それが「水戸学」だと考えれば

分かりやすい。この国の主君が将軍ならば、水戸は未来永劫、絶対服従の家来にすぎない。しかし、天皇が主君であれば、

他の大名はすべて天皇の臣下であると考えるられる。将軍も水戸藩主も同じく天皇の臣下だ、というふうに考えることが

できたのである。「永久に将軍になれない御三家」の水戸家で、「天皇絶対」という学問が隆盛するのは、ある意味、

自然の流れ、ともいえるわけです。幕末の水戸藩主・徳川斉昭は、この「水戸学の本家」の立場をフルに利用して、

幕政にグイグイ食い込んできます。「今こそ、尊王攘夷の総本家であるウチの出番だ、さあ、オレの言うことを聞け、

幕府の実権をこっちに渡せ」というわけです。光圀の「三番手戦略」は、ある意味ここにきて効を奏した、ともいえる

わけです。この思想に乗ったのが長州と薩摩です。これは関ヶ原の戦いで西軍に付き、その後いじめられた藩てあり、

いち早く外国の動きをキャッチし、藩政の改革に取り組み力をつけて来た藩でした。この幕府が先代の将軍が若くして

亡くなり、その後の後継者として、水戸家の徳川慶喜が引き受けたことが御三家のバックアップを受けずらく、戊辰戦争

へとなり、会津藩などの東北勢の徳川を押す体制がこの徳川御三家の協力をえられなかったことが江戸時代の終わり

となったことの原因かと思える。皆さんは、どう感じますか。