この疑問は、私だけではないのでは。すなわち、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、日本の覇者となり、
戦のない社会をつくることから、参勤交代や鎖国、宗教弾圧、身分制度などを設けて、諸国の大名が力を
付けてたちあがらないようにしたはずと思っていた。関ヶ原で西軍にまわった薩摩や毛利(長州)などには、
国を小さくさせられただけではなく、参勤交代、江戸城や神社や河川などの修理を命じて、金を使わせた。
また、江戸には、妻子を置かせて人質的に屋敷まで作らせている。このように、徳川の権力は、強大であった
ものが、江戸の末期において、何が原因で政権をてばなしたのであるか。一般的には、尊王攘夷の風潮と
外国の圧力に屈した幕府が薩長などの諸藩の力に耐えられなくなったとして伝えられているようだが。
はたして、それだけだろうか。私は、それをいろいろと調べてみた。
江戸時代を通じてゆっくり手工業が発達し、それに伴って商品経済が発達しました。しかし、幕府の財政の基礎は、
税として徴収する米であったわけで、これが江戸幕府がこけた理由のひとつある。すなわち経済である。
18世紀以降の江戸時代は、小氷河期ともいえる世界的な低温期にあたっており、飢饉や不作が頻発したことが、
このようなシステムに基礎をおく幕府を弱体化させてしまった。
さらに、開国以降は、急激な貿易の発展によって、極度の輸入超過の状況となり、その結果、幕府の財政を支える
はずの金(小判)が急激に流出して、財政の弱体化に拍車をかける状態となった。ちょうどこのようなタイミングで、
倒幕の動きが集約されたため、幕府は政治の舞台から降りざるをえなかったのある。
そもそもこの倒幕が、「尊皇攘夷」として始まり、いくつかの経過で攘夷が不可能とわかるや、倒幕に転じたことも把握
すべきである。倒幕の中心となった薩長が、ともにいち早く外国と結んで藩政の転換を成功させている。
今の政治を見ても解るように一党独裁政治は国民のためにならず、永い年月のうちに更新されていくのです。
まして朝廷をないがしろにしての300年間には意識改革が自然と起こり、タイミングよくペルーによる開国要求が引き金と
なり崩壊へとつながっていったのある。あの時天皇を奉る勤皇派がそれ相当の力をつけていなかったら、又徳川家がいち早く
鎖国を解き外国からの武器弾薬を取り入れ、その上で近代政治を行っていたらあるいは江戸時代がもっと続いていたかもしれませね。