長年住み着いているとこの場所が昔はどうであったのかを知りたくなるのは、歳のせいか。
福生市の案内チラシで、熊川分水に親しむ講座があると言うことを知り、近くの白梅公民館へ
足を運んだ。東京では、玉川上水が有名であるが、江戸時代に徳川の時代にひかれたのは知られている
が、江戸の末期には、米の増産のために、開拓が進み、82か所の新田ができ、多摩地区には、82カ村が
出現したとのこと。このことで、今までの玉川の水では不足するため、帰流と言う複数の分水を結んで戻す
工事を田村酒造が資金を出して行った。慶応3年にはこの玉川上水を筏船が一時期運行するようになったが
水位の低下で取り止めとなったこともあった。戊申戦争の後、明治になり、現在の羽村市、福生市の地区
には、開拓で水が不足してきた対策として、石川酒造が中心となり、熊川分水の工事が進められた。
このころは、神奈川県第十二大区六小区と称し、福生、熊川、川崎、五ノ神、羽村、の五村で、その後
明治20年に各村への分水が完成している。一方、水道行政の中に圧倒的な力のあった砂川源五右衛門
は深大寺分水から引き込んだ富沢の砂川分水を買い取り、その一部を熊川が熊川分水として買い取っている。
このように多摩地区の農家の田んぼの水や工場で使われる水車の動力の水は、貴重なもので、役人だけではなく
その地区の有力者と住民によって完成された、各地の分水工事のおかげであることがこの講座で理解
できた。しかし、戦後になって、奥多摩の小河内ダムが完成し、そのおかげで、このような水の争いも、
なくり、東京は世界に誇れる水の都市として知られるようになっているのは、このような歴史を経ての
事だと思った。