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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2006年12月出雲の旅 Ⅱ

2010-12-22 10:09:14 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

須佐神社                              稲荷社

翌朝は心配した雪も無く良い天気だった。朝風呂に入リ辺りを見回すと昨夜は暗闇で見えなかった宿の周辺や渓谷の様子が改めてわかった。

この日は須佐之男命が晩年を過ごされその御魂を鎮められたという須佐神社からお参りした。宿はこの神社に近かったが、神社の隣にある温泉のゆかり館の前には沢山の参拝者らしき人たちがいるのが見えた。

幸いにも境内にはまだ人は少なく、御神気を感じた。ゆっくりと境内を回りお清めしたり、塩の井の水を頂き周辺を清めた。境内は杉の木に囲まれ、此処のお稲荷さんはとてもかわいらしく御キツネ様の耳が丸く愛嬌があった。

道路を隔てた天照社に行くと、ゆかり館の前にいた団体がいた。何か宗教団体の人達みたいでリーダーの方について歩かれ一つ一つ説明をされていた。

その後、出雲大社に向かった。

今年程ではないが、やはり人は多い。拝殿でお参りして東十九社から素鵞社に行きお参りすると、後ろの岩が御神体というので裏手に周った所、「清めて欲しい」と言う言葉をノワタリさんが頂いた為、私達は水、酒、塩を取りにに帰った。しかし、酒だけが見当たらない。周辺に酒屋も無い。ウチダさんは食堂からコップ酒を買って来た。私達はやっと近くの売店で土産用の地酒の五合瓶を見つけて買って来た

私達がせっせと清めていると、何故かそれまで裏手に来なかった人達が入ってきた。行過ぎるのを待ち、ノワタリさんは歌われた。前回書き忘れたが、境内の露天に売っている生姜漬を買った。これは体にも良く、ピリピリとした生姜の辛味が砂糖と良い塩梅で美味しかった。ぜひ、お勧め。

その後、楽しみだった出雲そばを食べに江戸時代から営業していると言う荒木屋にウチダさんの案内で行くと、店の外には行列だった。15分か20分ほど待ち店内に入り、割りこそばにぜんざいとおみくじが付いた縁結びセットを頂いた。とても美味しかったです。今年食べれなかったのが残念。その後神社近くの和菓子屋で栗鹿の子ノワタリさんが買い、みんなで車の中で頂いた。松江だけでなくここのもとても美味しい。出雲は食べ物の美味しい所だねとみんなで喜んだ。

その後、八重垣神社に行った。ここも縁結びで有名な神社なので明るく華やかな雰囲気だった。板絵を見て裏の鏡池でハヤシさんとウチダさんが占いをした。見回すと妹以外はみんな一人者だった。其処を出るころ、団体バスが行ってきた。

その後神魂神社に向かった。一瞬何処にあるのだろうと戸思っていたら、道路横の鳥居をくぐり石段を登るとお社がいくつかあった。此処の本殿は日本最古の大社造りで国宝だと言う。ここでも人に会うことなくゆっくりとお参りした。天穂日命が降臨された時に乗ってきたと言うお釜が在ると言う。しかし、隅にお釜があるのを見たがおばかな私は何の事か分からなかった。

又此処をでる時、入れ違いにバスが来た。

最後になるが熊野大社に行った。何とが多いと思ったら、隣の温泉の駐車場だった。此処では雨になってきた。

穂かに参拝者は無く、猫が寒そうに拝殿の前に座っていた。ウチダさんが「此処が一番格式が高いのに。。。」と言っていた。

出る頃には雨足も強くなり、米子に向かった。

 

このお社が何処だったか思い出せない。

ノワタリさん達と食事をしたかったが、チェーンも持ってない私達は雪が気になり、境港の夢タワー近くでお別れした。悪天候になってきたので心配され、私達のを清められ、龍神様に守ってもらえるようお祈りされた。「帰ったら、必ず空に向かって龍神様にお礼を言ってね。」と言われた。其処を出たのは5時半でもう暗くなっていた。

20年前境港に行った時、米子と境港の間には何も無かったが、ガソリンスタンドやチェーンのお店が隙間無く出て町に様変わりしているのに驚いた。案の定、米子自動車道を走っていると雪になり、蒜山のサービスエリアに近づくにつれ、路肩は見る見るうちに白く雪が積もっていった。おなかはすいてきたが一刻も早く雪にタイヤを取られないようにと祈りながら瀬戸内にと車を走らせた。岡山を過ぎ安堵すると、お腹がグーグーと我慢できなくなった。しかし鴻池、与島のパーキングエリアによったが、いずれもファーストフードのような物しかなく、県境の豊浜サービスエリアで食事をして一息つき帰った。

10時半ごろ付き、妹と空に向かって龍神さまに無事帰れたことのお礼を言った。これで2006年の旅は終わった。

 今回の出雲の神社はいずれも厳かであり、心地よかった。いつもならば、厳しいところがあったり、で走っているとノワタリさんが呼び止められ、お清めしたり神事を行う事もたびたびあるが、今回は全く無くさすが神々の国、この地方の方達の心がけも神に対して真摯であるのだろうと思った。

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2006年12月出雲の旅

2010-12-21 09:43:59 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2006年12月2日、3日の土日で出雲の神社を旧暦の12月ということもあり周った。私と妹はで早朝5時出発し、鬼太郎米子空港でノワタリさん達と合流した。途中高梁市の高速道路の霧がすごく前のがノロノロ運転になり空港の外でノワタリさんたちは待っていた。

三保神社→佐田神社→日御碕神社→素佐神社→出雲大社→八重垣神社→神魂神社→熊野大社の順でお参りした。

三保神社

宍道湖

まず、眼下に海を見ながら境水道大橋を渡り、三保神社にお参りした。今年のようにゲゲゲの影響は無く境港の町は閑散としていた。

雨の中を神社は参拝者がボツボツと来ていた。神社は大きく開けっぴろげな造りでおおらかさを感じた。神社の周辺は昭和の前半のような雰囲気でレトロな小路があり歩きたいと思った。神社入り口のみやげ物店で駐車させてもらったので此処が初めでもあるに係わらず、みんなで土産をあさった。私は桜海老とか海産物を買ったがとても安く、後で母に手渡すと「もっと買えばよかったのに」と言われた。以前テレビのコマーシャルで賞を取ったドジョウすくい饅頭が目に付いた。アドルフマンジューをもじってフランス人が「ドジョウスクイマンジュー」と言っていたのを思い出した。そこで温かいお茶を頂、佐田神社に向かった。途中松江市内に入り神事湖畔まで来た時、宍道湖は白波が立ち濁り大荒れだった。こんな宍道湖を見たことは無い。風が吹くと外海のように荒れる事を知った。

そこでノワタリさんから「お清めです」の言葉が出た。それぞれ酒、塩、水を持ち湖に近寄り撒いたが余り近寄ると波が押し寄せて来た。ノワタリさんがお祈り歌を歌い、私達は真言を唱えた。

ナビの無いで地図を見ながら佐田神社にどうにか着いた。

佐田神社もとても広く立派だったが参拝者は私達だけだった。それぞれのお社をお参りした後、少し上にイワクラがあることにウチダさんが気付き御清めしてお参りした。此処が本元であるらしくエネルギーも強かった。

その後出雲大社に向かって走ったが、昼食を取ってない私達は島根ワイナリーに入り遅い昼食を取った。もう3時ということもありレストランは私達だけである。出雲牛のステーキと言いたいところだったが、中途半端な時間で其処まで重いものを食べると夕飯が入らなくなるのでバーベキューで我慢した。その後は運手しているウチダさんには気の毒だったがワインの試飲をしてまた土産物をあさった。この地方の和菓子はどれをとってとても美味しく、今回は車で来ているのでワインを数本と目当ての菓子を買った。

その日は出雲大社に行く時間はなく、日御碕神社に向かった。

日御碕神社は日沈社と神の宮があると書いてあったが本当に私達は日没前にお参りした。境内をぐるりと周ったが残念ながら神の宮の方は改築中であった。経島の方まで歩いてでたが風が強く漁船が港に沢山泊めてあった。対岸から経島にむかってご挨拶して今日は終了。

その後、今夜の宿である立久恵峡温泉に向かって走ったが雪がちらつき出し、真っ暗になり何処を走っているのかわからない。ナビがないので今思うとウチダさんは大変だっただろうと思う。宿に着いた時はまだ6時前だったが、暗く朝早くから動いたので8時頃のような感覚だった。私達の宿は御所覧場というお殿様の別荘もあった所の木造の宿であった。二間続きの和室に案内されると、宿の方は窓のカーテンをさぁ~と開けられ、ライトアップされた渓谷の奇岩の山を見せられた。ご自慢の景色らしく、暗い中に岩肌が白く浮かびでてとても幻想的で綺麗だった。

さてお茶でも飲んでと一息つき部屋のお手洗いに行くと、腰を落とした途端、ズズズーと10センチ位便座が地面に沈見込む感覚がしてとっさに私は地震だぁ~大変だと思い、座敷に駆け込むとみんな平静にお茶を飲んでいた。あれはいったい何!今あった事を話すと、何と私だけでなく、妹を除いてみんなその感覚を知っていたのに平静を装っていた。私が口を開くと、その事について話し出した。その頃地震のように揺れる感じが度々あった。ノワタリさんにお尋ねすると「地の深い所であったのを感じたのだろう」と言われた。

当然、夕食はみんな余り入らず二腹はなかった。ご馳走を目の前にして食べる事は出来なかった。楽しみな露天風呂は宿を出て渓谷沿いにあったが、雪の為か温く風邪を引きそうなので又内湯に入り直した。

その日一日どうにかもったが翌日の天気が気になり、をつけると初雪のニュースだった。しかし、その夜も疲れが出て爆睡だった。

今回の旅を7月から書こうとしていたが、書けずにいた。宿での地震のデジャブのインパクトが強く神社と関係ないことばかり覚えていた。一つ一つの神社を調べていく度、段々と記憶がよみがえってきた。又旅行している気分である。

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間違い電話

2010-12-01 21:25:32 | 日々のつぶやき

先週の週末の夜、2日続けて電話の音がツルルと一度鳴って切れた。電話しようかどうしようかとためらった様な音。後かかるかなと思ったが無かった。

最近は携帯が多いので間違い電話は少なくなったが、年末近くなると深夜の電話が多い。私のうちの電話は間違い電話は可笑しなものばかりである。

20年くらい前、11時過ぎの寝入りばなに電話が鳴る。心地よく寝始めたばかりなのにと思いながら、しぶしぶ取ると、「○○ですか?」とスナックの名前を言う。スナックの名前であればまだ良い。余りにもよく間違えられたので何処にあるか調べて、一度覗いてみようかしらと思っていたら、友達から余り良いうわさを聞かなかったので止めた。その後、経営者が替わったらしくスナックの名前も変わった。

名前も言わずいきなり「○○さんを出して」と暗い女性の声、「いません!」と言って切ると、同じ女性の声で又かかる。そのスナックでない事を言って切った。それでも再々夜中に間違い電話があるので、夜中の電話は低く暗い声で「こちら、市立病院霊安室とか墓場ですぅ」と言って切る事にした。

御巣鷹山の飛行機事故のあった8月の10日の深夜、電話の音いつものごとく「市立病院霊安室です」と言って切ろうとすると、電話の向こうから隣町の消防署から祖父が救急車で病院に運ばれたとの知らせで慌てて両親は隣町まで走った。

祖父の家は2キロほど先にあり、その夜飲み会に出て9時前に店を出たが、どういう訳か自宅前を通り過ぎ、長いトンネルを抜け隣町の郊外の坂道で転んで血だらけで倒れた所を通行人からの通報で運ばれたらしかった。しかも祖父は浴衣に下駄履きで自転車を漕いでいた。姿を想像するだけでも凄い、祖父はもうその頃85歳を過ぎていた。

事故と事件の両方で調べられたが転倒事故だった。隣町の病院では不便なので近くの病院に移ったが、急な事で部屋が無く、手首にチンケナ桃の刺青のあるやくざの横のベッドしかなかった。祖父は我慢できず、半日で退院し帰ってきた。

その日1日中飛行機事故の報道をしており、「あれはどうした」と何度も頭を打っている祖父は聞いてきたが、いくら説明しても同じ事ばかりずっと聞いていた。そのうちか怪我もよくなり、一人暮らしを心配していた両親だったが、そのまま祖父は家で暮らした。

私が中学生の頃、水商売の店と間違え夜中の3時頃「これから、いくからな~」とガヤガヤとうるさい店で酔っ払いからの電話がったりした。「うちはバーとちがいます~」と怒って切った。翌朝、母に言う「なんで『どうぞ待ってるわ』」と言わなかったの」と軽くいなされた。しかし、中学生の私にはその余裕はなかった。

それからもスナックの名前は変ったが最近は不景気のせいかスナックの名前を言ってくることは無くなった。

ある晩8時頃、年配の男性から私がでると、「ハルコか?」「いいえ」「アキコか?」「いいえ」「ミチコか?…」とありったけの家族らしき女性の5,6人の名前を並べた後、「お前、誰や?」と言う。「あんたこそ誰?何処に掛けてるの?」それはたぶん自宅に掛けたつもりだったのだろう。途中で気付いてもいいはずなんだけど…

また、外国人のたどたどしい日本語で「○○サン、イマスカ?」との電話、当然「いません」と断ると「オシゴトクダサイ」いったい何処に掛けてるの??? 商売替えしようか知らん。

 

 

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