Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2008年7月ローマ Ⅳ

2011-05-31 21:23:03 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

ローマを発つ朝、二人とも2時に目が覚めた。ベッドに横になっておしゃべりをして明けるのを待った。ボツボツと荷造りをして食事をしていると、突然入り口付近から奥の私達のところまでコン!コン!コン!…!と壁を叩く音がだんだん大きくなり近づいてきた。

しかし、壁はコンクリートで木造ではないのでそんな音はしないはず、しかも壁の向こうは階段でどんなに背の高い人間でも手は届かない…。背筋を冷たいものが走った。

「『早く、出て行け!』といってるわ。」とノワタリさんは言われた。役目が終了したのでこの部屋の主さん達は動き始めた。そして「早く空港へ行ったほうがいいそうよ。」と言われた。

そういう事で早朝から幽霊に部屋を追い出された。6時になるかならないかの時間だった。

チェックアウトして早朝の町を駅に向かって歩いて行くと、アーケードの下で集団で寝ている人達の姿を見かけた。不法入国者みたいだった。しかも、道路はゴミだらけできれいでなかった。

駅の前には客待ちの5,6人の運転手が集まっておしゃべりをしていた。1番前の車の運転手と今回は乗る前に料金を交渉して乗った。まだ、朝日が昇ったばかりである。

先日、清めたコロッセオも明るくなって朝日に照らされていた。

運転手に旅行社の指示通りBターミナルで降りた。

しかし、ミラノの名前は無い。え!どうしようと一瞬パニックになり、右往左往した。ガイドブックはもう必要ないと思いトランクの中にしまい込んだままである。日本であれば、別の空港会社のカウンターであってもおしえてくれるが、違うからその会社へ行ってくれと不親切に取り合ってくれない。

じっと、出発時刻のボードを見ていて気付いた。表示されると指名はすべてヨーロッパの都市名だった。それならば、国内はAかCである。やっとアリタリア空港のカウンターに男性が出てきたのを見つけ、尋ねると、「アッカ」と言われた。

Aターミナルへ急いで走ったミラノ行きには充分時間が有ったが、そこで乗り継ぎなので早く手続きを済ませ落ち着きたかった。搭乗手続きはすべては自動処理で困ってしまったが、係員が手際よく手続きをしてくれた。搭乗口で待つ間、どっと疲れが出て、甘いコルネットとコーヒーを買って一息ついた。

10時前後にみやっとに乗ることが出来た。小型機だった。しばらくすると雲の中に雪を被った山々が遠くに見えて来た。どうもアルプスみたいだ。1時間ほどでミラノに到着。

其処では私達と同じ便で帰国するツアーの日本人客達と一緒になり、免税店で買い物する間もその人達の動きに気をつけた。

そこで、初めて私はチョコレートやクッキーを土産に買った。ノワタリさんは又ワインを買った。

レジのお姉さんが手にしていた「ポケットイタリア旅行会話」を目にして「ミセテクダサイ」と言われるので渡すと、ぱらぱらとめくりふ~ん「イイデスネ」と言いながら返してくれた。

やはりユーロが高いので免税店でも化粧品も安いとは思えなかった。

搭乗口へ団体に付いて行き待っていると、隣に座っていた70歳台の奥さんが「なんで、到着が朝なのよ。」と不満そうに言っていたので、「地方から来た人間は午前中でないとその日の内に帰れないでしょ。」と言うと納得されたみたいだった。成田から羽田への移動も不便である。

帰りのも長いので疲れるだろうと思っていたら、とても賑やかで12時間はあっという間だった。

映画でも見ようと思っていたら、ノワタリさんが「今ね、ダビデが灰色の姿で腰に布を巻いてやってきて話しかけてくるの、私の名前じゃない名前で呼んでいろいろ言うのよ。」

「え!ノワタリさん、ダビデってあんな西洋人じゃないでしょ。」と言うと、

「これは仮の姿だと言ってるわ。」と言いながら、ノワタリさんとダビデはしばらく話していた。

その後、また「あの今度はアポロンがやってきたわ。」と忙しい。

「何で私に!」とノワタリさんは話されていた。残念ながら、私には見えないし、聞こえない。でも、私はシニョーリア広場に有った蛇だらけの頭のメドウサでなくて良かったと内心思った。

後日、アポロンの事を調べたら「カッサンドラの呪い」と言う事が分かった。まるでノワタリさんの現在の状況に良く似ている。たぶん、これも彼女の前世の一つのような気がする。

カッサンドラを見初めたアポロンが求愛した時「未来が見える能力をあげる」と言って、その能力を与えたが、その力を得たカッサンドラがいずれ捨てられるのを見て、応じなかった為、アポロンはのろいを掛け、予言は出来ても周りの人間は誰も信じないと言うものだった。

そんな事が続き、私は退屈せず楽しく過ごせた。

帰国して、横浜のおば家族と一緒におすし屋さんで昼食を取った時、本当に安堵した。

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2008年7月ローマⅢ (フィレンツェ)

2011-05-31 00:42:38 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

天井画は最後の審判だと言う

ドゥオモ(花の聖母教会と呼ばれている)

その翌日はやっとフィレンツェに行く事が出来た。旅行社の前に止めたバスに集合時間の7時半前にボツボツと人が集まった。日本人だけかと思っていたら、さまざまに国籍の観光者だった。最後にアジア系の男性家族が乗り込んできて20人あまりだっただろうか。

ガイドも英語、日本語、スペイン語 ドイツ語などなど数人が乗り込んだ。日本語のガイドは30歳代の女性だった。こちらでの滞在は長いらしく、バスに居ると、用の無い時後部座席からガイド達がイタリア語でおしゃべりしているのが耳に入ると、まるでイタリア人のように大きな声でキャッキャッと話していた。

 ローマ市内を出て高速に乗ると、のんびりした田園風景が見えて来た。黄金色の大きな糸巻きのような藁束があちらこちらに見える。待ちの中の建造物を見るよりもずっと心地良い風景で落ち着くし、飽きない。

ガイドは時折、見えてくる山の上の街の説明などをしていたが、こういう旅ならお決まりのトイレ休憩を兼ねたショップへ案内された。菓子、チョコやワイン、ハムがあり、農業法人のショップ見たいな所であった。

山の上から、オレンジ色の屋根と白い壁と教会の丸い屋根や塔が見えてきた。フィレンツェの街だ。バスはブドウ畑に囲まれた坂道を下って行った。ノワタリさんは此処でワインを買って帰りたいと言った。その頃には前の席に座っていた男性と話していた。その人たちはインドネシア人でジャワから家族旅行をしていてイタリアとフランスを20日くらいで回ると言われた。車屋さんで以前名古屋にいたと言われた。12年前にバリ行った時は、空くりバットのように何人もがバイクに乗っていたが、今は車の時代で、とても景気がいいらしい。しかし、外見はとても質素な格好をされていて、奥さんはイスラムのベールを被っていた。ただ、後でお手洗いで娘さんのリュックの中が見えた時、シャネルのサングラスが入っていた。

街に着くと、大型バスは中に入れず、其処からは徒歩だった。このツアーはアカデミア美術館、ドゥオモ周辺、シニョリーア広場周辺(残念ながら、ウフィツィ美術館は含まれない)のコースであった。この町にはダビデ像を見るのが目的であるから仕方ない。

まず最初にアカデミア美術館へ行ったが、入場まで外で15分余り待っていたら、数人の男性が路面いっぱいに自分の書いた絵を買ってくれと言わんばかりに並べておいた。日常の事であるらしく、パトカーの見回りが来ると隅にさっと寄せた。その後も車が来ても分かっているらしく踏まれ無いように並べていたが誰も買わない。ガイドによると彼らは北アフリカからの不法入国者と言うことだった。

私達は夜外へ出る事は無かったので遭遇する事は無かったが、夜は夜でローマの角々に家族の生活を支える為、クロアチアの女性が立つそうである。

この美術館もミケランジェロの有名なダビデ像の他、ミケランジェロの像が幾つかあったが、ボッチリなどの絵画も宗教画を見たが、私にはネコに小判であった。

 その次はドゥオモまで歩いて移動、道沿いのお店を見ながらガイドに付いて歩いて行くと、通りの先にドゥオモの白い壁が見えて来た。ゴシック建築の美しさに圧倒された。ルネッサンスの頃140年も掛けて建築されたと言う。ドゥオモとしてヨオーロッパで4番目に大きいと言う。

その中に入り説明聞いたが、暗い。

サン・ジョバンニ洗礼堂

その後、昼食にフェトチーネなどを頂いた。合い席になった日本人カップルはホテルであった人と対照的で同じくらいの年齢だったが昨年結婚して遅くなったけれど、今回新婚旅行に来たと言われた。私達と同じようにテルミニ駅近くのホテルだったが、「安いのでバスタブが在るかどうか心配したけど、有ったのでほっとした。」と同じような事を言われた。昨日はナポリへ行ったそうだ。

ヴェッキオ宮殿

シニョリーア広場周辺

ヴェッキオ宮殿は今は市役所だと言うが元はメジチ家の宮殿だったと言う。それからは自由時間で、私達はガイドに手伝ってもらいワインを買いに行った。通りの両替の表示は188円となっておりこれに手数料を払うととても高い。ノワタリさんとユーロ札と交換した。

そこでキャンティ・クラシッコともう一つの銘柄を土産にノワタリさんは買われた。その時も、ガイドはカウントしながら手渡していた。「親しそうだけど、それでも数えるの?」と尋ねると、「この国ではどこでもね。」と言われた。その後バックの製造所も案内されたがすぐに出た。

その周辺のおしゃれな店を見ていたら、観光用の馬車がカッポカッポと石畳の上を歩いてきた。観光客が多いので有名ブランドに店も多かった。

フィレンツェと言えば、メジチ家そして血なまぐさい政争とお高いイメージがあったが、実際歩いてみると、明るく青い空と観光客であふれていてそれは大分昔の事だとイメージが少し変った。

集合まで広場の隅っこのカフェで休んだ。夕方、バスはアルノ川沿いまで迎えに来いた。

途中寄ったサービスエリアで生ハムのサンドイッチや飲み物を買った。それが私達の夕食だった。

ローマに着くと、小雨が降ってきた。そしてそれぞれのホテルへ順番に送っていった。ジャワの車屋さんは高級ホテルの並ぶヴェネト通りで降りられた。最後が旅行社前だった。そこで数人降りたが、もう薄暗くなってきて、道路にテーブルが数件出ていた。

これが最後の夜だった。

 

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2008年7月ローマⅡ

2011-05-29 22:46:46 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

テルミニ駅で、売店で軽い食事と飲み物を買った後往来で財布を終おうとしていたら、視線を感じた。男がじっと見ていた。するとバスのチケット売り場の叔父さんが「マダム、危ないから此処に入ってしまいなさい。」と言って、売り場の小屋に手招きされた。少し話していると、2階建てのオープンバスの乗り降り自由な仕組みを教えてもらい、まだ時間があるので、チケットを買った。

そのバスは7ヶ国語の案内ができるイヤーホンが付いていて、各名所で案内してくれる優れものだった。ノワタリさんは1階席に、私は2階で開放感はあるが少々暑い。が走り出すと風が出てきて我慢できなくはない。後ろの席に座っていたスペイン人の若いカップルが「イヤーホンが壊れているのでその前が空席かどうか」と声を掛けてきた。そのバスで1度も降りずにローマの観光地を一周した。目的の観光地で観光し、また、次の観光地と巡ってくれる。なぜかパラチティーノの丘の写真を沢山取っていた。

バスは此処も通れるのと思うほどの込み合った通りも進み、テレベ川を渡、先程のバチカンにも行き、やがて街路樹のある落ち着いた通りに出た。テラスカフェなどがあった。その歩道を後姿しか見えなかったが、颯爽と歩いていくセンスの良いワンピースで通り過ぎていく中年女性の姿を目にした。それまで観光客のラフな姿ばかり見ていたのでとても上品に見えた。

その辺から道沿いにディナーの用意をし始めた店がポツポツと現れてきた。後で調べると、先程の通りはアメリカ大使館のあるヴェネト通りだった。時間があれば、その通りをゆっくり歩きたいと思った。

テルミニ駅まで帰ると、夕方になっていた。翌日フィレンツェ行きのバスの出る旅行社の場所を下調べ先のヴェネト通りと比べるとこの辺はずっと猥雑な雰囲気がした。

しかし、午後4時を過ぎるととても眠い。外でディナーを楽しもうという気も起こらないし、まだ店も開いていない。駅のショップで夕飯は済ませてしまい6時頃には就寝した。

翌朝、6時半出発で申し込んでいたフィレンツェ日帰りツアーに参加する為、旅行社へ行くと「今日は参加者が少ないので明日になります。ナポリであれば今日出発いたします。」と言われた。パンフレットでは毎日催行と書いてあったがいい加減なものである。

ホテルに帰り、朝8時から朝食サービスと言うので地下の部屋へ行くと、アラブのベールをまとった女性や北アフリカと見られる色のちょっと浅黒い男性や二人の若い日本人女性が食事をしていた。

朝食は硬いパンと生温いコーヒーとあと少しフルーツがあったかな?ノワタリさんと食べていると、ジャケットを着た30歳代の日本人カップルが入ってきた。男性はとても不機嫌そうで挨拶を交わした途端不満を私達にぶちまけた。

昨日の夕方、フィレンツェから鉄道で来たのだがジプシーの女5人組みに取り囲まれたが、運良くホテル前であったのと突破できたと言ったが、朝食と部屋の不満を言い、旅行社に文句を言って替えてもらうと息巻き、出て行った。女性の方は困ったような顔をして私達の方に会釈して出て行った。でも、金額をもっと出してこれより上のランクのホテルに決めればよかっただけの事ではないか。個人旅行だから条件を細かく決めているはずだ。

その日は予定を替え、コロッセオへ行く事にした。昨日のオープンバスに乗り出かけた。

コロッセオ、コンスタンティヌスの凱旋門、フォロ・ロマーナ パラティーノの丘

コロッセオと古代の遺跡のフォロ・ロマーナの入場券を一緒に買い求めてコロッセオに入った。その日はお清めグッズを持参して行った。

其処はとても広く、展示物もあったが、見るだけで読めないので素通りである。3階まで上がったり、行ける所まで歩き回った。皇帝の席、貴族の席とあり、競技場の下も見えていた。出来るだけ、下に降りて行き、競技場に向けて清めた。ノワタリさんはいつものように歌われたが、しばらくすると涙を流しながら泣かれていた。どうしたんだろうと思っていると、「私もここの競技場に出されたみたいよ。命は助けられたみたいなんだけど。」と話し始められた。でもそれはまるで「クォ・ヴァディス」の話と同じだったが、彼女はその小説をご存知ではない。その小説に出てくるキリスト教徒の外国の人質に取られた王女である。帰国してから、彼女に頼まれその本を取り寄せた。

ふと気付くと猫が一匹観客席に座っていた。まるで哲学者のような感じで遠くを眺めていた。それから出ても、周囲を歩いた。

その足で、貴族の館のあったパラティーノの丘へ行ったが人はいない。そして地下にある牢のような所も見た。私もネロの時代に此処にいたと言われた。「宰相で偉かったのよ。白いおひげのおじいちゃん」と言われた。でもネロに従わず牢入れられ自害したそうだ。私の前世は知っているだけでも、戦か、陰謀かでまともな死に方をした事が無い。これってどういうことだろう?

 下の遺跡群へ行くと、数人の古代のローマ兵士の格好をした人が記念撮影する客を待っていた。そして不法入国で北アフリカから来た男性達が簡単な蛇の目の日傘やアクセサリーを売っていた。

その近くのネロの丘へ行こうとしたら、裏口に行ってしまい入れなかった。たぶん縁が無いのだろう。そこでも物乞いにあった。今度はおばあちゃんであった。カフェで一休みしようと思ったがその辺は何処も満席だった。近くのバス亭へ行くが、ちっともバスは来ず、またコロッセオまで行き、中を歩けなかった半周をまた外側を歩いた。

街角のレストランで今度はピザを食べていると、アコーデオンを弾きカンツォーネを数曲歌ってくれた。その後今度は観光する為、バスに乗った。

コンドッティ通りに出ると乗客は一斉に降りた。トレビの泉もひとでごった返していた。ここで従兄弟はすりに遭ったと言うから用心して歩いた。その後、バーゲンをしているブティックで色鮮やかなを見つけたが、ユーロ高で割高感を感じ買うのは止めた。

そこでやっとのんびり、カフェで休んだ。その後、スペイン広場へ行くとここも驚くほどの人、周辺には高級ブランド店が多く、ウインドウショッピングをした。その後、昨日のヴェネト通りへ行こうと思い歩いたが、暑く疲れてしまい三越へ入って土産物を見ながら涼んだ。当然のこながら、客は日本人ばかりだった。炎天下の中歩きまわったので膝を痛めているノワタリさんにはきつく。そのままホテに帰った。

国内外知らない街を歩き回る事の好きな癖のある私は配慮が足らなかった事を反省した。

その近くで小さな果物屋さんを見つけ、幾つかのフルーツを買って帰った。ノワタリさんは横になって休んでいたが、水も無くなり、夕飯をどうするかということになった。まだ、レストランは開いていないので、駅のスーパーへ買い物に出た。数種類のパンやチーズ、生ハム、デザートや果物などビールもワインも合ったが、冷蔵庫がないので今夜と明日の朝食分くらいしか買えない。おまけに水のペットボトルを持つとそれは寒気がするというので違うブランドの物にした。レジの若いお兄さんはおつりをくれず手を休め、後ろの客とおしゃべりに夢中になっていた。やっぱり、イタリアらしい日本であれば考えられ無い事である。客に言われ、慌てて釣を渡された。

この日もまた、6時就寝でライトアップされたコロッセオや建造物も見ることも無く、外で豪華なディナーを取る事も無かったかわり、怖い思いをする事も無かった。

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2008年7月ローマ

2011-05-29 12:15:52 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

5月に続き、7月は海の日の連休を利用してローマへ行った。

3月中にローマへ行く事をノワタリさんから誘われた。私は仕事があり、1週間以上休む訳にもいかず、外国旅行も余り好きではないので、これまで断る事が多かった。しかし、今回、是非私は行かなければならないと言われた。

安く付くパック旅行を調べたが最低でも、7泊8日プラス成田までの往復が2日で10日掛かってしまう為、初めてなのに無謀にも個人旅行となった。ローマとフィレンツェという事でそれでも4泊5日で7月21日の朝成田に帰国する予定で旅の予定を組んだ。

その年、今と同じように石油は高騰したが、4月中に手配したのでそれでもチャージ料金が付かず、少し安くなったがとホテルとで25万くらい払った様に思う。しかし、ユーロは7月には¥168になり、旅行中割高感を否めなかった。

また、従兄弟や周りの人間にローマの治安の悪さを聞かされ、引ったくりやすりに注意するよう散々聞かされた。

今回の目的地は、システィーナ礼拝堂、コロッセオ、そしてフィレンツェでダビデ像を見る事だった。

出発の前日最終便で上京し、その晩はノワタリさんの娘さんに取っていただいたエクセルホテル東急で2人で泊まり、を見ながら休んだ。とても広く快適な部屋だった。

で12時間余りのエコノミー席は結構きつい。アリタリア航空だったのでスタッフはみんなイタリア人で2度の食事とおやつが出たが、30代と思われる男性客室乗務員が大きな急須を持ち「オチャ、オチャ」と言いながら歩いていたのなんともおかしく二人とも「クス」と小さく笑ってしまった。

ノワタリさんの隣の70歳ぐらいの女性はイタリアが大好きで今回が3度目だと言われた。今夜はフィレンツェでそのほか、バローネでジュリエットの像を見て、ベニスで…とまるで夢見る乙女のように話された。しかし、1週間で80万の費用だと言うがそれでもエコノミーなのはよほどホテルでも良いのだろうか?そして付近の人の情報を受けてしまうノワタリさんは「う~!痛い」と小声で言いながら足をさすっていた。隣の女性は転んで打撲したそうであった。

機内のモニターにミンスクが現れた時やっとヨーロッパに近づいた。それから、ウイーンなどの聞き覚えのある町の名が出てきたら、イタリアに入ってきたら、陸地が見えてきた。ティルニア海側から空港に降りた。もう7時過ぎだと言うが、明るかった。

 ロービーを出ると、名前を書いたカードを持った出迎えのスタッフでいっぱいだった。バスにしようか鉄道にしようかとも思っていたが、疲れているのでタクシーにした。これが…

ノワタリさんのトランクをスッツと横からやって来てひっぱて行く男性が現れた。ヤバッと一瞬思ったが正規のタクシー乗り場の方へ向かって行くので止めるのをやめた。さっさと勝手にノワタリさんのトランクを載せようとするので料金を聞いた。「90ユーロ」だと言う。

相場の倍以上だ。高すぎるからやめようとしたが、後ろが使えているので仕方なく乗り込み交渉する事にした。

その運転手セダンだから高いのだと言って譲らない。「降りるから止めろ」と言うと、スピードを出し、左右に振り嫌がらせをした。

しかし、小型の1500くらいのだ。そうする内にメーターも動いていない事に気付いた。それを言うとメーターを動かしたが、設定がたぶん2だったと思う。通常運賃でなく、深夜料金か何かだと思う。また、それを言うと、料金表を提示し、間違っていないと言うが確かに設定が違うので又抗議した。すると頭の横で手を振り、クルクルパーのような表現をした。私も負けずに運転手シートの背もたれをボコボコと蹴飛ばし文句を言った。その間、ノワタリさんはオロオロされて「何かされたら、大変だかやめて~」と言われたが、やめずに背もたれを蹴り続けた。でも、やまとなでしこで~す。

やがて市内に入り、夕暮れの建造物が見えてくると、運転手は手を替え、建造物の案内をし始めたが、取り合わなかった。そうする内にテルミニ駅近くのホテルに着いた。メーターの料金(途中からだったが)がいくらかだったかは覚えていないが、小銭が無かったので50ユーロで支払うと、釣を貰うはずが運転手は20ユーロとすり替えて足らないと言う。何と悪党め!しかし、此処で金銭を支払う時は声に出してカウントしなければならないことを学んだ。

ホテルのマネージャーを呼ぶからと言うと、荷物を置いてさっさと逃げさった。とても悔しいと思ったが、大した金額でなかったので諦めた。ノワタリさんは「気をつけるようにとの警告ですよ。」と言われた。もう辺りは薄暗くなりかけていた。

ローマで宿は交通の便を考えて駅近くの2つ星ホテルにした。数百年たっただろうと思われる普通の古い建物だったが、チェックインして大きな鍵を貰った。エレベーターはあっても、一階と2階の階段の踊り場で止る為、2階まで自力で運ぶしかなく大して役立たたず、飲料用とお清めように2Lのペットボトルの水を数本とお塩を数袋入れているのでトランクはとても重い。

私達の部屋は階段横だった。鍵と同じように古く重たそうな木製のドアを開けると、カビ匂いがプンと鼻に付きこれもまずいなと思った。息を止め、奥まで二人でダッシュして走り窓を全部開けて呼吸した。入り口に向かって古いが新しいグリンのストライプ柄の長椅子が壁の前に置いてあり、部屋の真ん中に入り口と分けるようにバスルームがあった。バスタブが在る事に幾分ホッとした。しかし、きれいに掃除はしてあり、長いすとクローゼット以外の調度品は古いものではなかった。窓の外は中庭だったがその向こうも同じような別のホテルだった。たぶん、昔はアパートであっただろう。

ベッドルームは奥の窓際で、机の上には有ったが冷蔵庫は無い。バスルームと入り口の境に塩を盛った。

時差が7,8時間有る為、とても眠い。広いバスルームも清潔だがなんとなく寒気がするのと、誰かいるようで、そそくさと洗ってリラックスはできなかった。その晩、階段や廊下の足音をうつらうつら聞きながら寝た。

夜中の2時のなると、毎晩目が二人とも目が覚めた。それでも6時くらいまでは横になって過ごした。「居ますね。」とノワタリさんに言うと「え~、女の人が6人ほど、でもお役目で来てるからそう悪さはしないでしょうね。」

「そうですね、あの人たちの此処は住処で私達が侵入者かもしれませんね。」などと話したが、入り口付近に居てベッドの方には来なかった。

弟1日目は、バチカンへ行きシスティーナ礼拝堂へ行く予定だった。家を出る前日の夜、バチカン博物館に入るのに数時間並ばねばならず、その間スリに遭う事もまれでないと書いて有るのに気付き、あわてて夜中に現地の旅行社に案内を頼んだ。

駅近くで7時半集合だったが、朝の歩道の汚い事!その年どこかの大学生が落書きをして話題になったが、壁も落書きだらけだった。

半日の観光案内とバチカンの案内と言うコースで7時半出発のマイクロバスに日本人観光客が10人余り乗り込んだ。昨日のに居た人達ばかりだった。半日観光案内というがバチカンまでの片道の案内で終わった。しかし、炎天下の中2,3時間も待つ事を考えると時間も無いのでいいのかな。

 

バチカン美術館

全部周ると、1日掛かるくらい広いらしいが、それは目的では無いので、一部の美術館のコースを案内してもらった。一部屋一部屋づつ、展示物を案内してもらった。時代やテーマによって展示されている物が違ったりしていたが、そのうちに宗教画ばかりになったが、有名画家の絵でいろいろ説明はあったが信徒でない私達には余りピンと来ないし、覚えてもいないし、戦の絵など見たくは無い。立派な回廊も天井絵も権力の象徴でしかなく、キリストはそう言う事を望んではいないだろうと思う。

システィーナ礼拝堂の前で案内は終わり、解散となったのでそれぞれ自分のペースで周ることになった。

礼拝堂に入ると多くの人が立ったままだったり壁際の手すりに座ったりしてミケランジェロの最後の審判と天井いっぱいの旧約聖書の話をテーマにした絵が描かれていた。其処で私達はどの位いたのだろう。「ここで今居る人達は助かるわ。」とノワタリさんは何気なく言われた。

何も言わずずっと立って絵を眺めていたが、30分以上居たと思う。その間人の波は幾度も変った。その後、長い回廊を歩いて出てサンピエトロ寺院へ向かった。

其処には聖人または聖女と称された人の像や法王の墓があり、スウェーデンノクリスティナ女王の墓もあった。多くの人がいたが、信徒で無い私には興味はない。

広場を出て、近くの店で昼食にパスタを取った後、バス乗り場まで出かけた。通りには物乞いの女の人がいた。良く見ると、どちらかの手首から先がなかった。どうして?と思ったが、後で旧ユーゴスラビアの内戦だと気付いた。クロアチアの方から来ている人が多いと聞いた。やはり、大陸だ。

バス乗り場はあったが、チケットの自販機が壊れていて使えない。チケット売り場を探しているとサンタンジェロ条近くまで来てしまった。此処は昔牢獄であったと書いてあるので行きたくない。近くの案内所で教えてもらって、チケットを買い、テルミニ駅まで戻った。

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2008年5月津軽十和田湖Ⅱ

2011-05-26 00:13:54 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

小泊かはら弘前へ向かう途中、翌日のお清め用の水やお酒や塩を買う為に国道沿いのスーパーに立ち寄った。その建物は同じ物が二つ並んで立っていたが一つは閉鎖されていた。スーパーのある建物も、テナントは時計店があるだけで空きになっていた。そのがらんどうになって暗い建物の裏手にお手洗いがあり、怖いので3人揃って行った。本当に地方は特に1次産業しかない所は寂れていると思った。

しばらく走ると、太宰の名前の看板や案内板が目に付く、どうやら金木の町に入ったみたいだった。

其処を通り過ぎ、走り続けると夕暮れの岩木山が見えてきた。やっと弘前市内に入り全国チェーンの紳士服店やファミレスがあり道が込んできた。信号もあり思うよう進まなくなり、日は暮れ暗くなった。

宿に着いた時は8時近くなっていた。建物に入った途端、灯りは付いているのに紗がかかったような、フィルター越しのような明るさを感じた。これってちょっと変!遅いのですぐに食事をする為大広間にはいると、入れ違いに最後の客達が出て行った。

仲居さんは段取りをするとすぐ、引っ込んでしまった。前の席で食事をしているノワタリさんが固まった。「どうしたんですか?」とお尋ねすると、「いるのよ。」と横の座卓の方に目を向け、「昔の着物にたすき掛けの仲居さんがせっせと食器を片付けてるの。あの世に行っても仕事しなくていいのに。」と苦笑いされた。ご馳走を目の前にしながら、疲れていることもあり食は進まなかった。

その後私達は大浴場へハヤシさんだけ家庭風呂へ行ったが、すぐに戻ってきて「一緒に家庭風呂に行ってよ。一人では怖い。」と言うが、大きなお風呂の方がよいので断った。

落城した所ばかり周ったせいか、その晩は部屋のドアの内側に塩一袋を盛塩にして休んだ。心配する事も無く、疲れもありグッスリとみんな休んだ。

翌朝も良い天気で宿に着いた時は暗くて見えなかった岩木山が綺麗だった。

十和田湖へ向けて出発したが、ナビに不慣れな私は「前方300メートル左折です。」と言われると、すぐに次の角を曲がってしまい、同じ所をくるくると回り、先が不安になった。

それでも県道を走っていると、名水の看板が目に付きを停めた。其処は渾水の清水(清壺)と言って、坂上田村麻呂が眼病を患っていて夢の中のお告げどおりに湧き水を探し、それで目を洗うと治ったという湧き水だと書いてあった。

「清めて欲しいそうよ。」とノワタリさんが言われるのでそれぞれ、杓を持って水周りや祠を清めた。奉納してあった大黒様の飾りのある大きな杯もピカピカに洗った。又、御神酒やお塩で清めた後、そのお水を頂いて出た。

滝ノ沢峠をおり、休屋まで湖畔を半周し、そこで預け遊覧船に乗り子ノ口まで出た。前回は大湯の方から周った為、発荷峠から休屋へ行き、中湖を回って又休屋へ帰った。しかし、今回乗客はほとんど中国人観光客の団体だったので、たった2年で大きく様変わりしたなと思った。

船尾で湖のお清めをした。

ノワタリさんが歌われると、湖上のあちらこちらに沢山の龍集まってくるみたいな波紋が見られた。

前回周れなかった所を走ったり船に乗ったみたいだったが、子ノ口で下船した時、「鏡、鏡を納めないといけない。」と言われたが、今回御神鏡を用意していない。仕方が無いので化粧用の鏡を先程の名水で清めて湖に納めた。

鏡が小さく光っている。

子ノ口の売店で一休みして出発した。今回はこれで終了のはずだったが、又、間違えて湖畔を10分ばかり走ってしまった後、引き返して奥入瀬に出て優しい新緑や幾つかの滝を楽しみながらゆっくりと走り、道の駅まで出た。そこで食事や買い物をした。今回は時間も中途半端で連休や夏休みではないので客はそう多くなかった。

そこから、八甲田山を越え、青森に出た。山中の残雪のある所ではまだ山スキーを楽しんでいる人達が多くいた。

空港に着いたのも早いのだが、ナビの指示通りに走ったはずがまたまたレンタカー会社を通過して走ってしまった。

時間が有ったからよかった物の冷や汗ものだった。そこでを飲んだ後、お別れしてそれぞれ最終便の羽田と大阪でへ向かった。お疲れ様

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