Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2007年4月足摺 観音岩

2011-01-30 15:16:58 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

奈良の後、3月下旬ノワタリさんとハヤシサンは済州島へ慰霊の旅に行った。

今回が3度目で今までチケットが取れず、行く事が出来なかったが、前年の11月に手配したのでやっと行く事が出来た。四三事件の為だったのかはっきり覚えていないが、ガイドを雇いハルナ山で神事をされた。

4月14,15日に高知の足摺岬から大月町の観音岩へ行った。

空港で集合し、まず土佐一宮である土佐神社にお参りしてから、足摺に向かった。

土佐神社

須崎市までの高速を降りて国道沿いの食堂に入るととても人が多かった。それも地元の人が多いのでたぶん美味しくて安いのだろうと思っていると予想にたがわず、美味しかったがとても時間が掛かった。それからが長い道中でもあった。

竜王神社

ウスバエ岬

風神アネモスの庭で

巨石群で有名な唐人駄馬に行き、石の上で休みパワーをいただきリフレッシュした。その後ウスバエの竜王神社にお参りし、海を手分けして清めた。いつ来ても、この海岸と岩の眺めはすばらしい。その後風神アネモスの石の庭に着いた頃にはもう日も傾きかけていた。

その夜は今は民営になっている国民宿舎足摺テルメに泊まった。これが3度目である。温泉にゆっかり浸かりつかれをとった。私はこの宿の広いテラスがお気に入りである。空と海しか見えず、鳥の鳴き声ぐらいしか聞こえない静かな所で部屋も広く私達女3人は和室でウチダさんだけベッドルームだった。食堂には団体のお遍路さんでなく、グループや夫婦ずれの88ヶ所参りの人たちで満席だった。ほんの数年前なのに、今はずっと訳のありそうな歩きお遍路さんを見かけることが多い。

観音岩

翌朝は大月町の柏島に行き、釣り船で観音岩へ渡った。船の船頭さんの息子さんはとても体格が立派だと思ったら、元横綱の朝昇龍関の相撲部の先輩だったと言う。港を出て外海に出ると、石灰岩の白い海岸が見えてきて綺麗だった。観音岩は割と近く、20分?もしないうちに姿が見えてきた。30メートルほどの自然の岩だが観音様のお姿にそっくりなのでその名が付いたと言う。しかし、まじかに見ると想像していたよりもずうっと大きく感じた。

岩場で足元が悪く、船頭さん達に沢山用意していたお塩や御神酒、水を運んでもらっただけでなく、沖で待っているから写真を沢山撮ってもらった。此処に釣り人も良く来ると言うが、足場が悪いだけでなく、険しかった。手分けしてお清めしたが、ノワタリさんは観音様だけでなく、海で亡くなった人の慰霊でもあると言われた。ノワタリさんは歌われ、みんなで光明真言や般若心経を唱え、私は観音経を経本を見ながら唱えた。

迎えに来てもらってから、柏島沖の岩場に連れて行っていただいた。遠く関西の方からも泊りがけで釣りの好きな人は来ると言う。港の周辺に民宿の看板がおおいはずである。その日も多くの釣り人が岩場にいた。釣れた魚は海の中につるしておくのだと言う。しかし、サメが来て頭だけ残してらべてしまう事もあるという。

珍しい赤い綺麗な魚を釣っておられるのを見せていただいたが、魚の名前を忘れてしまった。イルカの群れの姿も良く見られると言われたが、残念ながら、イルカもサメも鯨も見る事はなかった。

港に着くと、船頭さんは魚をご馳走する時間が無かったからといって、大きなほら貝を下さった。これは、途中のどこかのレストランで調理してもらう事にした。

その後、月山神社にお参りした。ここでも集落の人に教えてもらい、細い道を川沿いに走って、人家の全くない山の中まで走った。本当に在るのだろうかと思うような寂しい山の中にぽつんとあった。其処は神社とお寺があり、番外の札所ということだった。

大月町だから、月山神社と言うのかと思ったら、三日月の形の石が御神体という。私達はお清めしてお参りし、無事に来られた事を感謝した。

さて一路、宿毛に出て国道を通って空港へ思っていたら、ハヤシさんがをホテルに忘れた為、また足摺岬に戻った。その途中、土佐清水港の黒潮市場のレストランでほら貝を調理してもらった。ほら貝を食べるなんて、みんな初めてのことで新しい味にワクワクした。残念ながら、時間が無いので貝殻を割る事になった。身は見た目はアワビのようだがコリコリして新鮮すぎてちょっと硬めだった。吊るして自然に身が落ちてきたらもう少し柔らかいのかな?とも思った。

帰路は長く、ウチダさん以外はである。黒潮町の道の駅ではウエットスーツ姿の人を数人見かけた。

空港に着くともう夕方、食事をする時間もなく、を飲んでお別れした。別れ際に「早く帰ったほうがいいわ。『迷わせる』とと言ってるわ。」とノワタリさんが言われた。その通り、で須崎の高速を降りる頃には真っ暗になった。その後道を間違えもたつき、畑の中を行ったり来たりして国道に出るのに少し、戸惑った。その後、葉山村まではバスも走り、数台のも居たが、その後対向車も来ない、人家もない、私一人で若しかして又間違っているんじゃないかと山道を不安になりながら走った。

梼原町に入ってから、やっと対向車が数台来て見覚えのある道になり、安堵した。ナビのないはこんな時不安です。


2007年2月奈良 三輪山登山

2011-01-28 16:04:36 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

大神神社

 

三輪山山頂

 翌日は今回の1番の目的の三輪山登山の為、早く起きて暗い内から、に入った。ロビーには椅子に横になっている人が目に付いた。その後、私達も経験するが宿泊所がとれず、24時間サウナで一晩明かす事になるが、そういう人も結構いる事を知った。

露天風呂に入ると山口県から夜行バスツアーでやってきたというご婦人方と一緒になった。このホテルで一休みして朝食をとり、観光をするという。

その日は前日と違い上天気で山登りには適していた。 私達は大神神社にお参りして、市杵嶋姫神社、狭井神社をお参りして御神水を頂いた後、御祓いを済ませ、「三輪山登拝証」と書かれたたすきを頂いて、登山口から登った。途中幾つかのイワクラがあり、みんなで清めた。昨日の天香久山と違って、結構きつい。

途中のお社をお参りして休憩した。上記の写真はその時光の柱と日輪が映った物である。

山頂のお社の前には先客があり、神事をされていた。さすが聖地である。邪魔にならないよう遠くで待ってから私達もお清めしてからお参りした。ノワタリさんは歌い、ウチダさんは石笛を吹かれた。最後にご祭神様の繁栄を祈って終えた。入れ替わりにウォーキングの人達が登ってきた。私達は山の清々しい空気とエネルギーを十分頂いて下山した。

麓の久延彦神社で姪に合格守りを頂、展望台で奈良盆地を眺めた。大鳥居の向こうに三角の山が2つピラミッドのように見える。もしかして人工的なものかしらと私達は話し合った。

神社の入り口付近で名物の三輪そうめんと柿の葉すしを焚き火に当たりながら外で頂いたが、ノワタリさんは魚の光物が苦手で、他の人に譲っていた。三輪そうめんは細めだが歯ざわりが良く、寒い中おなかに染み渡った。

檜原神社

笠山三宝荒神

その後、檜原神社から笠山三宝荒神に行ったが、前回は気付かなかったが、そのまま歩いているとウチダさんの吹いている石笛の音がする。その音の所に行くと、弁財天様の前でウチダさんとノワタリさんが神事をされていた。その近くに黒龍社、白龍社がありその前に小さな池の橋を渡るとお不動さんが祀られていた。閼伽井池と閼伽井不動と言うらしい。このことを書いていて調べると弘法大師も高野山に金剛峯寺を開基する前ににこの池で身を21日間清められたという。その後、又此処で行水してからお不動さんをまつり、この荒神様を分霊してから開いたと書いてあった。その時は全くそんな事を私は知らなかった。

その後、夜都伎神社、十二社とお参りしたが、前日同様道が細く、集落の中を探して走り、ウチダさんの運転でなければ行く事は出来なかっただろうと思う。

大和神社

その後、大和神社にお参りした。此処も広く立派な神社だった。この神社の分霊が戦艦大和に祀られた事や境内に戦艦大和の英霊が祀られている事を宮司さんは話された。その関係の方が御参りにこられるらしい。社務所前には一匹の犬がのんきそうに寝ていて近づくと相手をして欲しそうに尻尾を振っていた事を覚えている。どうも私はどうでもよい事しか覚えていない。

最後は石上神宮であった。広い境内を急ぎ足でお参りして出ようとすると「のわたりさ~ん」と女の人の呼ぶ声、振り返ると、ノワタリさんとウチダさんの旧知の親子だった。その方達は今は天理市内に住んでおられると言われた。少し話された後、私達は駐車場に急いだ。もう4時を過ぎていた。私は京都を7時前に出発しないと帰ることは出来ない。しかし、ウチダさんは話し込み中々車まで来ない。よほど嬉しいらしい。やっと来たと思ったら、「送っていくよ。さ~のんなよ」と言う。

この小さなヴィッツに6人は乗れない。明らかに無理であるがウチダさんは諦めない。イラチの私は口にこそ出さなかったが、先にに乗り込みハヤシさんにも乗るよう急かした。天理市内の人を送るために四国に帰れなくなるのか時が気でない。ましてこのはみんなで借りた物で彼の物ではない。怒りがこみ上げてきた。

しばらく外で誘っていたが、やっと出発する事になった。しかし、車内は気まずい空気が漂っていた。おまけにナビは又、大阪周りのルートを示す。仕方なく国道まで出たが、渋滞とナビが頼りにならにので新しく出来たバイパスにも乗れず、もたもたした。やっとバイパスに乗ったと思ったら、ナビは前方が渋滞で真っ赤になっていた。ノワタリさんが動き、龍神様にお頼みしたおかげで進みだし、後渋滞に巻き込まれる事なく、京都駅に着いた。

「龍ちゃんがせっせと交通整理をしてくれたわ。」と言われたが、普通であれば絶対に進まなかったと思う。そして京都駅で夕食を一緒にしてお別れした。地元の駅に着いた時は、日付が変わっていた。

写真はすべてのノワタリさん撮影

 


2007年2月奈良の旅

2011-01-27 20:30:23 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

やっと2007年の旅を書くことになった。この年も忙しく、私は2回参加しなかったが、ノワタリさんは9回あちこちと周られた。

毎回思うのだが、旅の資料を手元に残していないので記憶がおぼろげであいまいになっており、今回も不必要な事ばかり記憶に残っている。しかし、旅をする事が少なくなった今、なんと良い場所に行かせて頂いたのだろうと改めて思う。

今回の写真はすべてノワタリさんが撮影された物である。

2月24日、25日の土日に奈良の神社と古墳を駆け足で周った。話が来た時、奈良県という事で調べると予測はしていたが余りにも神社が多く、絞りに絞って橿原、飛鳥、山之辺の道に限られた。

まず最初に、下賀茂神社にご挨拶してから出発した。その日は寒く、雪がちらついていたが 紅梅がとても綺麗だった。

いつものごとくヴィッツを借り、ノワタリさん、林さんとウチダサンの運転で出発したが、ナビが案内するルートはとても大回りで、指示されたとおりに走るとぐるっと大阪を周り、生駒を越え、橿原に案内された。途中、ウチダさんが「此処で降りないと、いけないんじゃない?」と言っているのも間に合わず、走っているうちに万博公園が見えてきたが、仕方なくそのまま走り続けた。

天岩戸神社

天香山神社

国常立命神社と高おかみ神社

橿原神宮にお参りした後、天岩戸神社、天香神社と天香山頂にある国常立命神社と高おかみ神社に行き、お清めしてお参りした。麓の神社はとてもひっそりと佇んでいた。農家や畑のある山道にとことことで探しながら何処にあるのだろうかと一瞬思ったが、山の根にあり、その社の後ろにイワクラがあった。私達の他には誰もいない。ノワタリさんの歌声が響いた。

国常立命神社と高おかみ神社に着いた時はウォーキングの人たちがいて居なくなるのを待ち、手分けして清め、お参りした。高おかみ社とは龍神様を祭る神社だったのでたっぷりと水を撒いた。もう時間が大分経っているのでおぼろげだが、山道を登り、万葉の森という幾分緩やかになった林の中を抜け、又最後に少し急な山道を上がったように記憶している。

その後、飛鳥に行く前に一つの神社に行った。其処は農家の集落の裏山にあったが、とても道が狭く、やっと着いたものの方向変換して出て行くことが出来なかった。こっそりと農家の庭先で回らせて頂き、どうにかでる事ができた。小さな神社で其処もやお社の裏にイワクラがあり、せっせとお水、塩、御神酒を下から投げ込んだ。大きな道路に出た時、気付いたが「通りぬけ出来ません」と書いてあった。ウチダさんだから、何事もなく出ることが出来たと思う。ただ、此処は今回いくら調べても不明である。

その後、飛鳥に行き、飛鳥坐神社と治田神社に行った。此処は今までと違い、古墳巡りの若い人が多かった。

治田神社

飛鳥坐神社の八坂社、金比羅社

治田神社は観光バスが数台と泊まっていて「おや、珍しい」と思ったら、西国三十三カ所の札所でぼけ防止のご利益のある岡寺への参拝客であり、神社の方には私達のみであった。その後の飛鳥坐神社にしても史跡めぐりの人ばかりで、他には境内にはおらずどちらもお清めをするには都合が良かったが、神社にお参りする人が居ないのも考えものである。

今回、多くの神社を駆け足で周った為、24日に行ったのかその翌日に行ったのかはっきり分からないところもあるが、その後高松塚古墳に行った。しかし、残念ながら、古墳の内部は修復中で見る事は出来ず、壁画館で模写と説明を見るだけだった。風水で耳にした事のある四神の青龍、朱雀、白虎、玄武見つかった時に良く報道された婦人達の壁画が復元されていた。天井に星座のようなものが書いてあったがそれは暦にある二十八宿だという。但し、漢字の読み方は異なっていた。

壁画館を出て、どんよりと重い冬空の下一人出口までゆっくりと歩いた。余りにも日常と違う中にいるので自分は何者だろう?どんな過去世が在ったのだろう?この古墳時代はどんなのだったろうかとふと普段思いもしなかった事を思った。

崇神天皇陵

崇神天皇陵に着いた頃にはもう夕暮れ近く、石段を昇り柵の前まで行ってご挨拶をした。他にも近くに天皇の御陵はあるが、玉置神社をはじめこの天皇が開かれた神社が多いのはなぜだろう?神社って神様を祀ってある所と思っていたけどこの時代どういう意味や役目があったのだろうと思う。ただ、良く目にした御名前の天皇なので親しみも湧く。石段を上がって見回すが、静寂のみだあった。

伊射奈岐神社

道路向かいにある伊射奈岐神社にお参りした。もう暮れかかっていて近くの子供達が遊んでいたがお年寄りと一緒に帰って行った。立派な神社で暗くなりかけた中に梅の花が浮かびでて綺麗だった。ここでその日は終了。

宿であるならプラザホテルに走った。の在る所を探して決めた。スーパー銭湯とホテルが一緒になったような大きなホテルだった。部屋も広く、和室とベッドルームにはベッドが5つも並んでいた。しかし、みんな昼の疲れが出てすぐ休んでしまった。

 

 


地鎮祭 横浜

2011-01-10 22:12:54 | 日々のつぶやき

昨年は、旅が少なく、6月の宮崎から無かったが、年末も押し迫った28日の最終便で横浜に出た。26日の夜11時過ぎた頃、ノワタリさんと電話で話していて「あなたも来ないといけないんですって」と急に声が変り言われた。叔母の家の地鎮祭を29日の朝執り行う予定だったが、ノワタリさんだけの予定であった。

しかし、仕事もあり急に言われても…でも行かなくてはいけないのだろうと思ったが1日返事を延ばした。28日最終の上りのはあったが、帰省客で込む為も幾つかの深夜バスも無い。下りは120%乗車率とか130%ととか言われているのぞみと特急列車を乗り継ぐ事を覚悟した。ノワタリさんに伝えると、「神ごとだから、なんとか座れるでしょう」と言われた。

翌27日と28日は悪天候で動けなかった分の仕事を大急ぎでして、JRのチケットも構えた。両親もノワタリさんがそうおっしゃるのならと反対はしなかった。以前とは大違いだ。

4時半頃から空港に向かったが、高速は雪で通行止め、夕方でもあり一般道は込み合い空港に着いたのは30分以上遅れ、7時近くになっていた。数人の乗客がいたがいずれも8時前後の便だったので差し障りはなかった。

しかし、も出発も遅れ、到着も房総半島沖で旋回して時間待ちしたので大幅に遅れ、おばの家に着いたのは午後11時過ぎであった。しかし、上空からの夜景もバスからの夜景も夕方6時を過ぎると商店も閉め出し真っ暗な田舎に住んでいる私には驚くほど光の洪水で明るく綺麗だったが、どれほど必要で灯りが点いているのかと気になった。

帰りのが取れないと従兄弟のハルちゃんに言うと「12時過ぎたら、流れたのがあるかもよ」と言われたが、「たぶんこの年末だろうから駄目でしょう」と言って調べる気も起こらなかった。あれこれとおしゃべりしたりして床に着いたのも遅く、夜遅くを飲んだのもあり、ほとんど寝る事は出来なかった。

ノワタリさんは朝6時に家をでると言うので私達も早く準備をした。ハルちゃんが「ネコちゃん、1つだけ空席があるよ」と声を掛けてきた。最終のプレミアムクラスが1つ空いていた。jrならば、午後4時過ぎにはでないといけないのでずっとの最終ならば時間のゆとりもあるので大急ぎで席を決め購入した。後から来たノワタリさんに伝えると「やっぱりね。すごいわね」と喜んでくれた。

朝日が昇った7時過ぎ、敷地の角々に御幣を付けた榊を立て、真ん中にお供えと榊を置いて神事を行われ、私は地鎮祭の仕方を教えていただいた。丁度土地は東向きで良い向きであった。この日は仏滅で従兄弟はそれを気にしていたが、二十八宿でみると軫という日で神事には適しているとの事だった。

地鎮祭を終え、新しい営業車も清め、鳥居を奉納したという鎌倉の佐助稲荷に出かけた。

源頼朝が平家討伐の祈願をしたと書いてあったのでとても古く由緒あるお稲荷さんらしい。年末なので参拝者も少なく、お稲荷さんにお礼を言ってみんなでお清めハルちゃんの新しく奉納した鳥居も清めた。しかし、立てたばかりでまだ、名札は無かった。石段の途中にあるお稲荷さんの顔がとてもきつく「怖いお顔」と、言うと「睨みを効かしてるそうよ」と言われた。

帰りは昼近くなり、中はとても温かく冷房を入れるほどであったが、みんなとても良い天気に恵まれた事を感謝した。

その後おじさんが学生の頃に家にいた名前も分からないスピッツの供養をしてすべて終わった。半日余りの事だったが、朝早くからずっとしていたので時間の感覚がずれている。

昼食に奇珍という中華料理店へ連れて行ってもらった。午後2時近くでもほぼ満席で中途半端な時間でありながら、次々と客足が途絶えない。よほど美味しいか、お手頃なのだろうかと思ったら、叔母の勧めで、揚げワンタン、酢豚、シュウマイの他五目麺を頂いた。麺は細く量も多く、あっさりしていた。他の料理も黒酢の甘ずっぱい味が残る。見回すと麺類を食べている人が多かった。期待どうり美味しかったです。田舎では味わえません。

夕方、ノワタリさんに空港まで送ってもらった。バスの車窓からは前夜と同じく光の洪水が目に入る。しばらくお会いしていなかったので、一緒にお茶と言っていたがとても人が多く、出発ロビーのみやげ物店などロープを張って入場者が順番待ちになっているほどだった。ロビーの椅子に座り取り留めも無く話したが、この数年知り合った人の中に霊的力に憧れ、方向性が違っていった人もあり「一つ一つ、自分で階段を登っていくしかないのよね。」と戒めるように言われた。

目の前を大きな荷物を持ち帰省する多くの客を見ながら「こんな光景っていつまであるのかしら」と呟くと、「がらり変るそうですよ」とノワタリさんはメッセージを受け取られ、言われた。あ~!やっぱりね。と覚悟していたものの、背筋が寒くなった。ただ、ノワタリさんは「世の中が新たに成る時に出会うことが出来るからいいじゃない」とも言われた。

の窓からは宝石箱をひっくり返したような光の中に東京タワーが小さく見えた。 ずっと昔、中学生の頃で1度だけ見た「魚が出てきた日」と言う映画を思い出した。ギリシャの小さな島に墜落した戦闘機の中にあった金庫に入れてある卵型の金属、水爆らしいが、それを羊飼いが盗み、金目の物でないのでがっかりして貯水池に投げ込んだ。その後、腰を振り踊り狂う人達、水道水がジャージャーと蛇口から出続ける映像、を沢山運ぶウエイターの姿を見せ、島の沖がキラキラ光り、月に照らされさた海に光っているのは多くの死んで浮いている魚の姿だった。キャンディスバーゲンしか出演者は覚えていない、とても恐ろしく映画の前半は余り覚えていない。

今私達の置かれている状況はこの島にいる人間達のような気がした。