Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

半跏姿の仏像

2014-06-24 17:54:14 | 日々のつぶやき

私の好きな歌手の大貫妙子さんのご両親は1か月足らずの間に相次いで亡くなられたと言う。

退院されたお父様を自宅で介護されていて、お母様の方が疲れで倒れて亡くなられ、その後お父様が亡くなられたと言う。

父が亡くなった前日の夜、1か月足らずであっても母は睡眠不足が続いており母は疲れ切っていた。私達は父が少しでも食事を取れば快方に向かうと思っていた私は、父に

「食べないと、もう限界だ」と伝えた。食事を取らないのであれば、入院するしかない。

しかし、父の性格で私達に世話をかけまいとしてか翌日の午後悪くなり、病院に運ばれた。

病院に駆けつけると、

「お前、楽になっただろう。」と皮肉を言った。父は気力でそれまで持ちこたえていたのであろうか?

「いや、食べんと持たないから言っただけよ。」と言い返したが、その夜中にあっけなく逝ってしまい、私は父に言ったことをひどく後悔していた。でも、元々病気がちな母は限界に来ていて、大貫さんの家のようになったのではと思う。

父が亡くなり半年余り過ぎた。しかし、その状態に時が経つほど慣れない。

その後初彼岸まであれこれと忙しかったが、4月に入った頃から、母は朝起きる事が出来なくなった。

まるで登校拒否を起こした子供のように、朝になると熱が出て頭痛がする。ひどい日は終日起きる事が出来ず、梅雨に入ると、この季節気管支拡張を起こしか喀血した事があるのでなおさら、気分も滅入るのか愚痴っぽくなった。

運の良い事に宮崎へ行く日、ペースメーカーの検査に行くと心臓の調子は良く、熱のある事を伝えると、

「そんなの熱じゃありませんよ。」と言われた。低体温で36度以下なので6度5分あると気分が悪くなる。しかし、医者には以前と変わらないので心配しなくてよいと言われたので、少し明るくなって帰ってきた。

そんな状態だったので、私は心置きなく外出出来たが、帰宅した途端また依然のようになってしまった。

 私たちは二人ともまだ父のいない食卓で侘しさを感じてしまい、食事を取るとそうそう自分の部屋に入り、以前のように茶の間で顔を合わせ話す事をしなくなった。

宮崎から帰ってから留守中は起きれたのに元のように昼近くまでベッドの中、起きても熱があると言って、2時くらいから4時近くまで休み、以前の様な覇気はなく、ぐちぐちとマイナスの気をだしているので、こちらも引き込まれるとまずいので相槌は打たず、突き放しているが、それも不満らしい。

話相手だった両隣の小母さんも左隣は頭はしっかりしていても足が不自由で外出が出来ず、右隣は最近急に痴呆が進み5分前の話も繋がらず、自分で料理する事も困難な有り様でまともな話相手にはならなくなってしまった。

 このまま弱っていくのか心配でノワタリさんにご大御神社で買ったお守りに遠隔でご祈念して頂いた。上からの言葉は

「子供がすねているみたいなんですって…。人一人亡くなるってことは大変よね~。肩羽の無くなった天使と同じね。昨日からお母さんを見ると、黒い仏像が右足を組み左足を投げ出しているのが見えるんだけど、心当たりないですか?」と言われる。

「う~ん、そんなお姿の仏像は見た事も無いですね。」

「それをお母さんに全部お世話するようにすればいいと思いますよ。」と言われたが、数年前、88か所のお寺さんで頂いてきた小さな不動明王像と実家をの古いお不動さんの像の写真に朝晩ご挨拶はしている。

半跏像と言えば、広隆寺または中宮寺の弥勒菩薩様…。

それしか浮かばないのでお尋ねすると、

「…、それですかね?」と言われたものの、妹経由でお不動さんで有る事を伝えられた。

しかし、お不動さんの半跏像と言うのはなかなか見つからず、やっとあったと思っても、売り切れだったり、とても高価だったりして見つからない。

何度もネットの画像を調べるがうんざりするほど刺青姿が出てくるのには閉口した。

見つかるまで、半跏姿のものの画像をダウンロードするしかないかと思っている。


美郷町 百済の里

2014-06-19 21:47:15 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

先週末、妹家族と先日の黒い仏像をお浄めする為宮崎の美郷町まで出かけた。久々の旅であるのでもう気分はルンルン。

しかし、今回は妹の旦那さんの病気や姪の拾った悪霊の事もあり、気を引き締めなければならない。

土曜の朝、私達は神戸から夜行バスで到着した姪夫婦と合流し、宮崎のお伊勢さんと呼ばれる日向の大御神社にご挨拶して行くことにした。高速が大分伸びていて以前よりもずっと速く着いた。

その日は数日前の大雨とうって変わり梅雨の晴れ間の上天気。

海岸の柱状岩がとても珍しく、やはり太平洋の波は荒々しく、今回も遠くにサーフィンをしているのが見える。

ご挨拶後、私達はその辺の岩場からいつもの塩、水、お神酒を撒き、巫女鈴を振りながらお清めをし、その後手足を浸けて手をひらひらと左右に動かし、海のエネルギーを頂いいた。この事が後で大きな意味があった事にその時は分からなかった。

そして、後日遠隔でエネルギーをノワタリさんに入れてもらうため、体調の悪い母と魔と除けの為、姪と肌守りを買った。

そして隣接する鵜戸神社へお参りした。右の写真は上り龍の姿に見えると言われると言われる洞窟。

その後耳川沿いに走り、仏像のある南郷町へ向かった。

神門神社前 横に見えるのは百済の館

建物の中にあるので仏像に直接お浄め出来ないので、先に百済の王が祀られていると言う神社にお参りし、手分けして清めた。この神社も712年に創建されたと言う。

入場料を払い門をくぐると、正倉院と同じ建物があった。

写真ではわかりにくいが下の柱でも2メートルの高さがあり樹齢400年以上経ったヒノキで、奈良の正倉院と素材も寸分の違いもなく作られている。

ガイドのおじさんが一つ一つ丁寧に説明され、中に中々入ることが出来ず、私達は早く仏像に会いたかった。

やっと案内され中に入ると涼しくヒノキの匂いが漂っていた。

建物は3つに分かれていてまず宝物の収められている右側から。入った途端正面の壁天井までびっしりと鉾先が敷き詰めてあり圧倒された。戦後先の神社の補修をする時、屋根裏から出て来たそうである。

その他たくさんの銅鏡や万葉集の歌人の歌と板絵、大きな甕、百済王の持ち物である仏像と馬齢と馬鉾、その頃の百済の布地に書き留められた物があったが、残念ながら城の数が違うと言われ、本物とは認められていないそうだ。

でも、中丸さんの本で城の取りっこをしているのでずれが出るのではと思うが…。

本物は写すわけにいかないので展示ケースの上に在ったポスターを隠れて写したがぶれてお顔が分からない。

誰もその仏像の事は先日見学した時在った事も曖昧で、姪の婿さんが夜中にうなされるくらいなのでキビシイ顔をされた明王様かと思いきや20センチくらいの小さなもので穏やかなお顔をされていた。他に仏像は全くないので間違いないが、1000年以上経っていても持ち主の思いがあるのだろう。

その後、左の部屋で百済王族伝説の証である師走祭のビデオを見せてもらった。

詳しくは神門神社 西の正倉院http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/mikadojinjya/mikadojinjya.htm

を参照してください。

百済滅亡後、逃れて来た王族も壬申の乱の時、敵味方に分かれて戦い、大友皇子に付いた百済王と二人の王子は2隻の船で逃れたが、着いたところは日向の国でも別ゝの浜に漂着し、この地へ逃れた王は流れ矢に当たり亡くなったと言う。

90キロ離れた木城町にたどり着いた第一王子も奮戦むなしく討死し、そこの比木神社に祀られ、旧暦の師走にご神体を担いで歩き神門神社で親子の対面をするという神事が師走祭だと言う。残された百済の人々がはじめられたのだろうか?でも昔の人々は人の魂、霊に対してとても真摯な姿で向き合っていると感じた。

師走祭りは木城町と美郷町南郷区(旧南郷村)にまたがって1000年以上も前から脈々と引き継がれ、異国の地で亡くなった百済王一族を慰める祭りです。
昔話風百済王伝説はこちらをご覧ください。

旧歴の正月の前(西暦では1月最後の週末)に、比木神社に祀られている百済の福智王の御神体が神門神社に祀られている父の帝嘉王に対面する儀式です。
木城町から神門まで18名の神職などが御神体を棒の先に担いだ(これは御輿の始まりの形とも言われています。)御神幸行列により行われ、南郷区神門で対面、歓迎の様子を表しています。(グルネット宮崎よりhttp://www.gurunet-miyazaki.com/topics/maturi/siwasumaturi/siwasumaturi.htm)

そのおり漂着した浜で海に入り、禊をすると言うのを聞いた時、偶然ながら私達が海に手足を入れたのもこのためだったのだと思った。

妹たちは

「前回、来た時は意識していなかったけど、今度はよくわかったわ。」と言い、中丸薫さんの本を読み直していたので当時の状況がよく理解できた。壬申の乱は国内だけでなく半島を含め、下手をすると唐に飲み込まれたかもしれない状況だったみたいだ。

お役目が済んだ私達はホットして下にある百済館に行くのも忘れ、近くの山霧という温泉に駆け込んだ。

土曜と言うのに温泉が豊富な宮崎だからだろうか客はまばらで、ゆっくり手足を伸ばした。かけ流しのお湯でとてもツルツルとして良い温泉だった。

ノワタリさんに報告すると、姪の婿さんに

「あなたが立役者ですよ。ご苦労さまでした。」と言われ、ノワタリさんは先の将門さんや比叡山焼き討ちで亡くなられた御魂を7月上旬まで21日間供養されているが、

「お寺さんだから、十分に供養されていると思うんだけど、子供たちがね、地面の中からムクムクと出てくるのよ。そしてジャンダルクまで現れてね。またこれも供養ね。」と言われた。ジャンヌダルクは彼女の前世の一つであれもこれも一度に出てきて大忙しである。いったい何だろう? 


悪霊

2014-06-12 00:29:48 | 霊現象

ここに来て、先日神様の言葉通り、ノワタリさんにまた新しい依頼が飛び込んできた。

10日の朝、立像姿のの菩薩が現れて信長の焼き討ちで亡くなられた比叡山延暦寺の御魂を供養するように言われたと言う。

先の将門と同じく21日間祀って供養する事になった。

そして妹の家も慌ただしく、今度は嫁いだ姪に大変悪質な霊が憑き、少し天然の穏やかな性格なのに、ヒステリックになり、姪の主人が変容の仕方に驚き、ラインで連絡をもらった妹も初めは何のことやら理解しかねていた。

しかし、仕事を終え帰宅した姪の主人は姪の顔を見て寒気が走り、ゾッとする怖さを感じ、姪の描いたとても気持ちの悪い絵を写メで送って来たことから、(私は見ていないが真っ黒な顔の絵だと言う)妹もただならぬ事を感じ、またノワタリさんに連絡した。

「うわ~、とてもきつい悪霊が憑いています。気を抜くとこっちがやられるわ。」と言われたと言う。

遠隔で除霊して頂き事なきを得たが、憑いたままにしていると、人格を乗っ取られ本人の意思とは違った言動や行動を起こし、自分が亡くなるか、人を殺めるかと言う事態になりかねない。

後、セイジで浄化するように言われた。

姪は一人で在ったらまずかったけど、旦那が気づいてくれたので助かったとメールで送って来た。そしてこんなことを理解してくれる環境であったので良かった事を言っていた。

彼女も敏感体質で見えたり聞こえたりすることは多々あったが、今回のような怖い経験は初めてだった。

テレビで凶悪事件を起こした犯人の目を見た時、異常で憑依されているのを感じるが、私の学生時代の下宿でも同じような事があり、其処に住んだ途端、私の体力は著しく低下し、しょっちゅう風邪を引き、痩せていき、スーパーで買い物してもとても重くてタクシーを使う事もあった。

なんとも自分の心でありながら落ち着かず、今思えば入られた時、ひどく頭が痛く寝ようにも寝れないという事があった。

ある時、夜中の2時過ぎ目を閉じて横になっているのに廊下を歩いてくる影が見え、ドアがスーと開き、夜中に私の枕元にやってきて「ふ~。」と言う大きなため息をついて座った。

あれ?ドア鍵してなかったかな?

下の階の女の子かと思い声を掛けようとしたら、突然の金縛りで声が出ず、身動きできるまでほんのわずかの時間だがとても長く感じた。その後灯りのついている部屋に枕を持って走った。

中学生の頃からしょっちゅう金縛りにはあっていたがその日だけは怖さが違っていた。

私だけでなく、其処では誰も影響を受けていたと思うが、丁度上の階の男性が失恋から鬱になりその後自殺した。

私の場合、引っ越しした途端具合が悪くなったが、母に言っても「水が合わない。」で流されてしまったが、住んでいるうちに其処がとても嫌だと感じ、特に夜は暗く感じた。

もし、自分の気持ちと裏腹に言動や行動をして不快な思いをするようなことがあれば、こんなこともあると思って下さい。


将門様

2014-06-10 19:12:39 | 日々のつぶやき

先日、電話でノワタリさんがこれまでも何度か国王神社に提灯を奉納していたが、平将門さんの生誕1111年という事で、また奉納されたと言われた。彼女の前世の一つが将門の3女の姫で如蔵尼である。ある時、生々しくノミで木像を一心の彫っているのを見られ、これは何かしらと思っていたら、ご自分の前世であったと言われた。

ご一緒に胴塚へ行った時に、さめざめと泣かれていたことを思い出す。

そういう事で、

「何か将門さんの事を詳しく書いた本はないでしょうかね。」と、おっしゃるので、アマゾンで検索したり、ネットで探したりしているうちにウィキペディアと「写真で追う平将門」http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/にたどり着いた。

将門に縁のある場所が詳しく載せてあり、如蔵尼の墓まで出おり、最後に参考資料として多くの書物名が記載され、有難い事にアマゾンにリンクしていた。

国王神社はその姫が33回忌に建てられたものであり、80数歳まで生き延びられたと言う。

亡くなったと思っていた上の姫様の事もわかり、2女の五月姫は秩父平氏として関東一円の豪族として子孫が繁栄した。驚いた事になぜか鹿児島の東郷平八郎まで子孫だった。

それをお伝えすると、資料を基にご自分で回周られるそうである。

「でも、今ここにきて関東を周るなんて…。」と言われたが、私も国王神社には2度お供している。

2度目はすんなり行けたはずの胴塚にたどり着けず、冬の日暮れは速く行ったり来たりしたもののたどり着けず、あきらめて帰路に付いたが、その時一緒だったHの前世が将門が受け入れられない物があったと後でノワタリさんからお聞きした。Hそのものも真剣さが無く何かどうでもよいような雰囲気ではあったが。

それと数年前に行った成田山新勝寺でも同じような事があり、私たちは門前町の賑やかさと食べることと買い物に忙しく楽しんだがノワタリさんはそのお寺が受け入れられず、「私ここは合わない。」と言い切られた。

その謎が今回分かった。成田さんが将門の争いの時、時の朱雀天皇が調伏するために開かれたという事だった。私はお供していないが、鹿島神社でも同じような事があり、そこでは互いに全く相いれず、天候は荒れ、参拝しなかったと聞いた。将門地盤の茨城なのに何か似たような事があるのかもしれないと思った。


また天中殺かよ!!

2014-06-09 20:22:22 | 日々のつぶやき

遡って4月に占い師のHに見てもらった。

それによるとまた、2年後に仕事を続けていると天中殺になると言う。

「ええ!何!また天中殺?終わったって言ったじゃない。」

「いや~、仕事をしなければなんないよ。」

「じゃあ、何すんのよ。」

「う~ん、他の勉強かな…。」と言う。

以前聞いた時に 天中殺の二階建と言われたが、これでは階段の踊場で一休みしたに過ぎない。

三階建の人は坊さんか神主のような仕事をすればよいと聞いていたが、仕事をしなければ、そっちへ進むのか?

私の家を取り巻いていたすべての因縁は解消されたので、お役目は終わり次の段階へ行くのか?

今世の私に一番影響している若い武将も彼岸の時にノワタリさんの前に幼児で無縁さんになっていた伯母と共に立派な衣装で現れニコニコ微笑んでいたと言う。

「女の子が消えたら、若様が喜んでますよ。とってもきれいな着物…。ご先祖ですかね~。」と言われたが、

「うちは侍の家ではないから、前世かしら。」と言ったものの、前世の右足を痛めた若い武将は両肩を抱えられて落ち延びている。助けたのは亡くなった父の前世、たぶん最期まで自宅で看取ったのでその武士のお返しが出来喜んで出てきたのであろうと思った。

そんなこんなで2年後、私は新たな道に進むらしいが、どうなるのであろう?しかし、今になってフリーを告げられても戸惑ってしまう。

3月に妹と下の姪っ子がノワタリさんのお宅を訪問した時に、はっきりと彼女が私の家に来るようになっていると告げられた。

彼女は都会大好きなので大そうがっかりしたらしいが、家の先祖も母方の先祖もそれを望んでいると言う。彼女のお役目も大変であると思う。