Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

大きな前厄

2013-12-30 23:02:09 | 日々のつぶやき

来年の干支は、私の干支の午なので、張り切って馬の絵をかいて出そうと思っていたのに、年賀状が出せず、楽なようなちょっと寂しい気がする。

父の初七日を迎えた頃、ユキちゃんがお参りにやって来た。

昨年二人であれこれと参拝の計画は立てたものの、今年は互いに忙しく動けなかった。やはり上からの指示がないと動けないという事らしい。

彼女が言うには、葬式の最中に武士ではないが厳めしい姿の方が父を迎えに来たのを見たという。

お不動様が来られたのを確信した。

彼女も今年の夏から長男が家を新築し転居と、10月に次男の転勤の手伝いに言っている最中にお舅さんが庭で転倒し打ち所が悪く頭を打ってしまい血液サラサラの薬を常用していたため、出血多量で亡くなられたという。

その葬儀の翌日は長男のお嫁さんの出産とバタバタと慌ただしかったというが、今年は友達のむっちゃんが亡くなってから、葬儀だらけでカメちゃんは実父とお舅、チエさんはお舅、そしてユキちゃんと私で4人揃って喪中になった。

「来年還暦だから、前厄なんだよね~。そんな年まわりなのかな?」とぼやいていた。

そして本当に年の瀬も迫り2,3日前、一旦断っていたクラス会の世話もボツボツと名簿を作るため、あれこれ連絡を取っていると、行方のわからなかったハナちゃんのお兄さんの住所が分かり、友人が電話をすると

「今、危篤状態です。」と、言われ絶句し、後の言葉が出ず、なんでそのようになったかは聞けれなかったと言う。

昔の彼女を思い出すと、元気そうで余りにもかけ離れているので想像がつかない。私とユキちゃんとハナちゃんは以前書いた事があるが、スカートめくりをした男の子を女子トイレに追い詰め、上から水をかけた事があった。

このクラス会もむっちゃんの死がきっかけで、クラスメイトの一人に弔電の御礼を出そうにも住所がなく、彼女のお姉さんに頼まれたことから始まった。

しかし、今年は何という年だろう。

昔から厄年と言うが、体の変わり目で気を付けろとぐらいにしか思っていなかったが、自分の厄であっても、身内の弱い者に出るという言葉を聞いた事があるが、それだろうか?

暦も60年で一回りであるが、私だけでなくとても慌ただしく、祝還暦とは言えない。

その上、前後するが友人のkも先月の末3日前になって、突然仕事を解雇された。

3年契約で東京から呼び戻されたのが、1年半である。

向こうは抜け道を用意して今のポストでなく、格下げの状態であれば継続して雇用すると言うが、それも出来ないので今日を限りで彼は失職。

何とむごく理不尽な話であるが、悔しくても私達にどうすることも出来ない。

異常気象と世の中不穏な空気が漂っているが、11月の連休の学生時代の集まりも父の様態が芳しくないので迷っていると、

「もう最後だから…。」とノワタリさんに言われ、出席したがこの2年「最後」、「最後」の言葉が続く…。私に起きるのか、世の中に起きるのかは分からない。仲の良かった同級生達が亡くなるとこちらも気弱になってしまう。

 

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父は居る

2013-12-25 23:56:56 | 日々のつぶやき

父の希望通り、葬儀は親族だけのはずだったが、品物を取りに来られたお得意さんから漏れて、知ったお得意さんとご近所さんと私の友人、父の水泳仲間が来られた。

しかし、まだ父の訃報を知り弔問客が、ボツボツと来られる。

これならば、ちゃんと知らせた方が良かったと母と言うが、来られる方もさまざまで、店先で儀礼的に香典だけ渡される方もいれば、霊前でさめざめと泣き思い出を語られる方もいる。そして、呼ばなかったことでお叱りも受けた方もいたが、遠く和歌山から来られた方もいた。

しかし、父のこの半年の事を幾度も話しているうちに、父はそれまで大いに食べ、飲み、昨年までゴルフをし、癌宣告を受けるまでプールに通い、60代70代は友人達とよく旅行にも行っていた。ただ昨年の初夏 ゴルフクラブを2,3本重いと言って女性用に昨年取り替えた。

プールは25メートル泳ぐのがきついと、昨年末から言い出し、事務所の隅のマッサージ機に座りうたたねをよくしていた。多分その頃から、再発していたのだろうと思う。

そんな事を思い出し、父は充分人生を楽しみ、思い残すことは無いのではと思いだした。

葬儀の朝、父の入れ歯を忘れたことに気づき朝早く自宅に戻ると、皮肉にも叔母たちが送ってくれた宍道湖のシジミやウナギが届いていた。何もかも父の生前の姿が思い出され涙があふれて止まらず、喪主として着物を着るのにコンタクトを入れる事が出来なかったが、葬儀場は特殊で非日常的でそこにいると涙も出なかった。

この半年、思うように食べられなかったので、食べたいと言っていた菓子類や缶や瓶を棺に入れられないのでパックのお酒と待ち望んでいた叔母の送ってくれた静岡のメロン、ちょうどその日食べ頃だったのを棺に入れた。入れ歯も必要なので一緒に入れたが、慌ただしく通夜と葬儀は終わった。

死亡届けを出すと、市長からの弔電も来るが、私達は貸金庫に入れっぱなしにして忘れ、これもち父の望み通り、国会議員も地方議員の弔電も読み上げる事は無かった。

世代が代ると、酒を飲む人もなく、母が嫌そうに昔は正月3が日で一升瓶10本飲み干したと言ってたが、20人余り居ても、ビール2本半しか開かなかった。

葬儀場の2日間があったので、忙しくとも悲しみが紛れ、何を見ても涙が止まらないという事は無くなっていたが、ああすればよかったこうすればよかったと、後悔ばかりした。

しかし、仕事に戻り車を走らせていると、左肩後ろにスースーと寒気を何度か感じた。何処か窓に隙間がと思い点検してもそれは無く、そういう時に限ってひやっとすることが多い。

1度目は薄暗くなり反対車線を超えて行こうとするのに歩道の縁石に乗り上げそうになったり、妙に対向車のライトが眩しく、ガードレールにぶつかりそうになったり、2度目は朝だと言うのに何度か追突しそうになったりした。

ああ、父が居る。危ない思いをしてもそれ以上の事は無いがこの世の人ではないので仕方無いのかもしれない。

私と一緒に自分の好きだったお得意さんに行きたいのねと思ったが、ノワタリさんにお聞きすると、

「それもあるが、心配だ。」と、言った。

そして昨晩 夕飯を母と取っていると、「キ~ン、コ~ン。」とチャイムがなる。

庭に出てみると、店のシャッターは床上15㎝まで下りて誰もいないのにセンサーが反応し音がした。

母と顔を見合わせた。口には出さなかったが、父だ!と二人とも思ったに違いない。

また玄関のセンサーライトの時と同じ???、父が何か言いたいのかしら、それともと思い、またノワタリさんにお尋ねした。

「警告って入りました。女二人だから用心するように。それとお父さんは寂しいそうです。」

「でも、昼間はそうかもしれませんが、ずっと母は父の祭壇と一緒の部屋なんですけど。」

「自分の肉体が亡くなって思うようにコミュニケーション出来ないからかしらね~。だんだんお父さんが亡くなられたことを知ってきますからね。経験ありますけど、気を付けてね。」と言われたが、亡くなった友人のむっちゃんの時とはまた違い、体がきつくて起きておれないと言いうことは無いが、左肩が痛く時々左脇まで痛くなる。

それが父によるものかどうかは分からないが。

それと不思議と最近は私の中で亡くなった感じはしない。

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父との別れ

2013-12-16 23:26:01 | 日々のつぶやき

前回限界だ~と書いたが、父の体も限界だった。

父が亡くなって2週間になる。控えめで穏やかな父の性格からまるで私達を気遣って逝ったのではないかと思ってしまう。実際母の血圧は190まで上がり、降圧剤を多めに服用していた。

亡くなる前の日曜の午後、部屋をかたづけてぼんやりしていると、隣の部屋から父の声が聞こえる。

何を言っているのかは分かなかったが、結構大きな声で話している。普段昼間部屋にいる事は無いので、独り言を言っているのかどうかは分からなかったが、ちょっと不安を感じた。覗いてみようかしらと思っているうちに収まった。

その夜はシラスが食べたいと言うので、大根おろしとシラスを用意したが、一口食べただけで、頑として口を開けない。ほとほと疲れた母は私に食べさせるように頼んできたが、同じことで、口を引き結び食べてはくれなかった。

「食べたいと言うから、用意したのに…。」

「思ったほど美味しくない。」

「食べないと栄養失調になってしまう…。」と言って、無理やり食べさせると吐き出す。

「このままでは栄養失調で死んでしまう…。もう病院へ入るしかないわ。私達ももう限界だわ。」と言ってしまった。

その明け方、父は頭が痛いと訴えたので驚いて母が、聞くと、

「お前たちが病院へ行けと言うので、考えていたら頭が痛くなった。」

「食べないから、このままでは危ないと思って言っただけよ。うちで看病するから安心して。」と言うと、父は落ち着いた。

月曜の朝父は上機嫌で、

「気分がいいから車いすを買ってくれ、下に降りたい。」と言ったが、

「もっと」元気になったら、そうしたらいいわ。」と、母が相槌して、その朝はスムージーをすんなり飲んだ。

昼前に湯たんぽを替えに行くと、おむつを外すように言われ、

「嫌じゃな~、死んだ人が入れ代わり立ち代り夢に出てきた。」ととても嫌そうに言ったが、「また、花が見える。」とこぼした。

12時半ごろ、母が昼食を持っていくと、父は自分でトイレに行こうとしたのか?ベットの横の畳に横たわっていた。

起こしてベッドに座らせ昼食を取らせると、それまでで一番よく食べ、イチゴを2個とお寿司を三口ほど食べたと言う。

母はとても喜んでいた。

しかし、午後2時半ごろ下痢も治まったので欲しがっていたアイスクリームを買って部屋に行くと、点滴に来た看護婦さんの様子が違っていた。血圧が低すぎて測れなくなっていた。

酸素吸入の用意をしてもらい救急車を呼び、2軒隣の病院へ運んでもらうようになったが、サイレンの音でご近所さんが集まり、父が運ばれた後、近所のおばさんたちは父の見舞いに来た。

父の病室は角部屋で明るくきれいで当分ご厄介になるのかな?ここならうちから歩いても1分もかからないから便利だわぐらいしかその時点で思っていなかった。

誰もそんなに悪いとは思っていなかった。おばさんたちと父はおしゃべりをし、

「また、明日ね~。」と明るく互いに言って帰られた。しかし、医者は会いたい人があれば、会すようにと母に伝えた。

母はこの先生はオーバーだから…。と半分思っていた。確かにこの先生は今までもそんな事があり、友人も不整脈だと言われ、入院の準備をして市立病院へ行くと笑われたということがあった。

市内にいる義理の妹や姪が来ると、はっきり名前を呼び普通に話していたという。

妹に連絡を取るが、携帯も自宅も繋がらないので職場に父の様態が変わったのですぐに来るように伝えた。

仕事を終え一旦帰宅した母と夕飯を取った後、病室へ行くと、父の手の指先が冷たくなってきており、手をさすると、

「おまえ、楽になっただろう。」と、皮肉を言う。

「そんな事無い、栄養を取って早く良くなって帰ろう。」と、言い返したが、医者が言うにはこんなになっても意識が混濁せず、はっきりしているのは不思議だと言われた。

私達はずっと父の手をさすって温めていた。点滴も血管ではなく皮下にゆっくり流すしかなくなっていた。

医者はその人のもう気力しかないと言われた。

10時ころだっただろうかいつものようにお不動さんのお水を下げたのを父に水じょくで少し飲ませると、(本当は何も飲ませたり食べさせる事は禁じられていた)いきなり父は柏手を叩き、「の~まく さんまんだ~…。」とはっきりした声でご真言を唱えた。

「葬式は内輪でするように、派手にすることは無い。」と私達に指示したが、「尿が出ない、尿が出ない。」と言い、気にした。

医者に伝えると、膀胱には溜まっておらず、もうその力もないそうであった。

やっと妹が11半前に着くと、父は妹と普通に会話し、意識ははっきりしていた。

「下を替えてくれ、下を替えてくれ。」と言うので看護の方を呼ぶと、「何もありませんよ。」と言われ、おむつを替えたが、その後「ヒサ、ヒサ。」と母の名を呼び、おむつを替えると、少し汚れていた。

普段母の名を呼んだことは全くなく、それが最初で最後だった。

午前1時頃疲れていた母が仮眠し、2時前に私も妹に任せ少しウトウトとしていたら、父が少し持ち直したみたいだったが、3時前、妹が父が瞬きしなくなったのでじっと目を見ると瞳孔が開いているのに気付くと同時に別室で心拍数などを見ていた医者が駆けつけてきた。

耳元で大きな声で呼ぶように言われたがだんだん呼吸の間隔が遠のいてきた。

大きな息をすることもなく、だんだん間隔が開き呼吸が止まった後、数分後心臓も停止した。3時23分だった。

妹は父の瞳孔が開く前、さすっていた妹の手を乗せたまま父は天井に向かって手を上げ、その方向を見ていたという、たぶんその時お迎えが来たのであろうと思ったと言ったが、一人にして心細かったのではと思う。

医者は

「先代さんは3時間、今回も半日、よほど病院が嫌いなんですね。普通血圧がこんなに下がったら意識がないんですが、はっきり受け答えもされて…。真面目かと思えば、ひょうきんな事も言われてね…。」と言われた。

温厚でやさしい人だったが芯は強くとても気丈な人だったと改めて気づいたが、私が前日言った一言で父の頑張りが切れたのではと悔やまれた。

後日、ノワタリさんから、

「お父さんは遠隔を頼まれた時にもうあちらに行く準備をされていてもう手出しできなかったんです。胎児の姿になりだんだん小さくなって米粒ほどになりました。何もかも余計なものは出してしまって、もう入れる事も出来なくなっていたんですけど、それを言えなかったもので」と言われた。

11月の23、24日に遠隔を頼みそのお礼の電話をした時、

「ごめんなさい。お役に立てなくて…。神仏に守られてるから、もっているのね。普通だったら…」と言われた時、

「え!父は悪いの?」とは一瞬思ったが、まさかこんなに急とは思っていなかった。

しかし、私は前世の借りが返せたそうであり、父は自分の望み通り家族と過ごせたのでいわゆる大往生だと言われた。

亡くなった後、あれこれ悔やんだり思ったりするのも亡くなった人に対して供養になると人に聞かされた。

母は母屋で一人でいる事が出来なくなり、私達は二人で暮らし始めた。

 

 

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もう限界だ~

2013-12-01 22:30:52 | 日々のつぶやき

半月前の父の肝臓の数値はとても高く、特にalpとɤ-gtpは正常値の10倍以上で黄疸が出ているのでそれまで掛っていた市立病院の内科の医者は1時間半待たせた上に処置室のベッドで横になっている父を一瞥しただけで何もせず、外科に回した。

その値だけで、さじを投げたと思われる。

相変わらず黄疸は出ているものの数値は半分近く下がってきた。タカコちゃんのご主人も

「肝臓がんでこんなに数値が急に上がるとは思えない。」と、言われた。

しかし、食べないのでアルブミンのみ数値が下がってきている。つまり栄養状態が良くないという事である。

食べたいと言うものを調理して口元へもっていくが、一口で終わりである。

「讃岐うどんのきちきちしたのが食べたい。」一筋で終わり。

「シラスが食べたい。」「思ったほど美味しくなかった。」と言って、口を引き結び開けないのでほとほと疲れてしまう。

朝の4時から「みかんジュース、日の丸みかんのジュース(搾った)。」

「リンゴジュース、搾ったの。」と、しつっこくせがむ。

朝一番、os1(点滴と同じ成分の飲料)でなく、「普通の水が飲みたいと言うので飲ませた後、今度は氷が欲しい。」と言うが、スムージーを用意しているので渡さなかったら、

「くれないと飲まない。」と言う。

思わず、

「じゃあ、あげるけど飲まなかったら栄養失調で死ぬよ。死ねば。」と突き放すと飲みほし、カップの底を見せた。

万事がそれで食事度に疲れ果ててしまう。

大音量でラジオをかけっ放しで、おむつにすることが出来ず、多い晩は夜中に4度ほど母を起こし、山のような洗濯物である。

今夜は特にひどく、我儘を言って食事を取らず、妹が有機野菜を煮込んだスープを送ってくれたが飲んだのは2度ほどで飽きてしまい父はどういう考えをしているのか分からない。

このままでは栄養失調で亡くなってしまうか、母が倒れるかである。

本人は嫌がったが、手の打ちようがないので、入院するしかない。

「食事を取り、少しでも良くなろうという気があるのかないのか聞いて。」と母に告げた。

 

 

 

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