前回限界だ~と書いたが、父の体も限界だった。
父が亡くなって2週間になる。控えめで穏やかな父の性格からまるで私達を気遣って逝ったのではないかと思ってしまう。実際母の血圧は190まで上がり、降圧剤を多めに服用していた。
亡くなる前の日曜の午後、部屋をかたづけてぼんやりしていると、隣の部屋から父の声が聞こえる。
何を言っているのかは分かなかったが、結構大きな声で話している。普段昼間部屋にいる事は無いので、独り言を言っているのかどうかは分からなかったが、ちょっと不安を感じた。覗いてみようかしらと思っているうちに収まった。
その夜はシラスが食べたいと言うので、大根おろしとシラスを用意したが、一口食べただけで、頑として口を開けない。ほとほと疲れた母は私に食べさせるように頼んできたが、同じことで、口を引き結び食べてはくれなかった。
「食べたいと言うから、用意したのに…。」
「思ったほど美味しくない。」
「食べないと栄養失調になってしまう…。」と言って、無理やり食べさせると吐き出す。
「このままでは栄養失調で死んでしまう…。もう病院へ入るしかないわ。私達ももう限界だわ。」と言ってしまった。
その明け方、父は頭が痛いと訴えたので驚いて母が、聞くと、
「お前たちが病院へ行けと言うので、考えていたら頭が痛くなった。」
「食べないから、このままでは危ないと思って言っただけよ。うちで看病するから安心して。」と言うと、父は落ち着いた。
月曜の朝父は上機嫌で、
「気分がいいから車いすを買ってくれ、下に降りたい。」と言ったが、
「もっと」元気になったら、そうしたらいいわ。」と、母が相槌して、その朝はスムージーをすんなり飲んだ。
昼前に湯たんぽを替えに行くと、おむつを外すように言われ、
「嫌じゃな~、死んだ人が入れ代わり立ち代り夢に出てきた。」ととても嫌そうに言ったが、「また、花が見える。」とこぼした。
12時半ごろ、母が昼食を持っていくと、父は自分でトイレに行こうとしたのか?ベットの横の畳に横たわっていた。
起こしてベッドに座らせ昼食を取らせると、それまでで一番よく食べ、イチゴを2個とお寿司を三口ほど食べたと言う。
母はとても喜んでいた。
しかし、午後2時半ごろ下痢も治まったので欲しがっていたアイスクリームを買って部屋に行くと、点滴に来た看護婦さんの様子が違っていた。血圧が低すぎて測れなくなっていた。
酸素吸入の用意をしてもらい救急車を呼び、2軒隣の病院へ運んでもらうようになったが、サイレンの音でご近所さんが集まり、父が運ばれた後、近所のおばさんたちは父の見舞いに来た。
父の病室は角部屋で明るくきれいで当分ご厄介になるのかな?ここならうちから歩いても1分もかからないから便利だわぐらいしかその時点で思っていなかった。
誰もそんなに悪いとは思っていなかった。おばさんたちと父はおしゃべりをし、
「また、明日ね~。」と明るく互いに言って帰られた。しかし、医者は会いたい人があれば、会すようにと母に伝えた。
母はこの先生はオーバーだから…。と半分思っていた。確かにこの先生は今までもそんな事があり、友人も不整脈だと言われ、入院の準備をして市立病院へ行くと笑われたということがあった。
市内にいる義理の妹や姪が来ると、はっきり名前を呼び普通に話していたという。
妹に連絡を取るが、携帯も自宅も繋がらないので職場に父の様態が変わったのですぐに来るように伝えた。
仕事を終え一旦帰宅した母と夕飯を取った後、病室へ行くと、父の手の指先が冷たくなってきており、手をさすると、
「おまえ、楽になっただろう。」と、皮肉を言う。
「そんな事無い、栄養を取って早く良くなって帰ろう。」と、言い返したが、医者が言うにはこんなになっても意識が混濁せず、はっきりしているのは不思議だと言われた。
私達はずっと父の手をさすって温めていた。点滴も血管ではなく皮下にゆっくり流すしかなくなっていた。
医者はその人のもう気力しかないと言われた。
10時ころだっただろうかいつものようにお不動さんのお水を下げたのを父に水じょくで少し飲ませると、(本当は何も飲ませたり食べさせる事は禁じられていた)いきなり父は柏手を叩き、「の~まく さんまんだ~…。」とはっきりした声でご真言を唱えた。
「葬式は内輪でするように、派手にすることは無い。」と私達に指示したが、「尿が出ない、尿が出ない。」と言い、気にした。
医者に伝えると、膀胱には溜まっておらず、もうその力もないそうであった。
やっと妹が11半前に着くと、父は妹と普通に会話し、意識ははっきりしていた。
「下を替えてくれ、下を替えてくれ。」と言うので看護の方を呼ぶと、「何もありませんよ。」と言われ、おむつを替えたが、その後「ヒサ、ヒサ。」と母の名を呼び、おむつを替えると、少し汚れていた。
普段母の名を呼んだことは全くなく、それが最初で最後だった。
午前1時頃疲れていた母が仮眠し、2時前に私も妹に任せ少しウトウトとしていたら、父が少し持ち直したみたいだったが、3時前、妹が父が瞬きしなくなったのでじっと目を見ると瞳孔が開いているのに気付くと同時に別室で心拍数などを見ていた医者が駆けつけてきた。
耳元で大きな声で呼ぶように言われたがだんだん呼吸の間隔が遠のいてきた。
大きな息をすることもなく、だんだん間隔が開き呼吸が止まった後、数分後心臓も停止した。3時23分だった。
妹は父の瞳孔が開く前、さすっていた妹の手を乗せたまま父は天井に向かって手を上げ、その方向を見ていたという、たぶんその時お迎えが来たのであろうと思ったと言ったが、一人にして心細かったのではと思う。
医者は
「先代さんは3時間、今回も半日、よほど病院が嫌いなんですね。普通血圧がこんなに下がったら意識がないんですが、はっきり受け答えもされて…。真面目かと思えば、ひょうきんな事も言われてね…。」と言われた。
温厚でやさしい人だったが芯は強くとても気丈な人だったと改めて気づいたが、私が前日言った一言で父の頑張りが切れたのではと悔やまれた。
後日、ノワタリさんから、
「お父さんは遠隔を頼まれた時にもうあちらに行く準備をされていてもう手出しできなかったんです。胎児の姿になりだんだん小さくなって米粒ほどになりました。何もかも余計なものは出してしまって、もう入れる事も出来なくなっていたんですけど、それを言えなかったもので」と言われた。
11月の23、24日に遠隔を頼みそのお礼の電話をした時、
「ごめんなさい。お役に立てなくて…。神仏に守られてるから、もっているのね。普通だったら…」と言われた時、
「え!父は悪いの?」とは一瞬思ったが、まさかこんなに急とは思っていなかった。
しかし、私は前世の借りが返せたそうであり、父は自分の望み通り家族と過ごせたのでいわゆる大往生だと言われた。
亡くなった後、あれこれ悔やんだり思ったりするのも亡くなった人に対して供養になると人に聞かされた。
母は母屋で一人でいる事が出来なくなり、私達は二人で暮らし始めた。