Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

おチョウおばさん

2012-02-29 22:20:30 | 日々のつぶやき

昨年の春、母の実家の山林をもらう事となった。かえってお荷物になるだけと思い、それまでも二度断っていたのだが、高齢の伯父に末期の肝臓癌が見つかり、このままでは先祖から受け継いだ物を寄付するか、地元にいる親戚達にに託すしかないと言う。(バラバラになってしまう)

ノワタリさんにご相談すると、私が引き受けるのが一番良いと言うことで、引き受ける事となった。

山林の評価は低いが、立ち木は別である。祖父の時代には山の手入れを頼んでいた人があったが亡くなられてからこの30年近く手入れはされていない。

路線価や立ち木の計算をしたが、立ち木の贈与税が来るといったいいくらになるかわわからず、お手上げである。従兄弟と話し合った末、立ち木の分は従兄弟が出すと言うことで話がついた。

それも取り越し苦労で、税務署から立ち木の評価を出すようにと連絡が来たが、「見た事も、行った事も無く、何処にあるかも分からない土地で、ずっと30年近く手入れをしていない。」とで伝えると、「放棄地」と言うことで山林のみの贈与税となった。

本当にまだ行っていないのだ。伯父に地図を貰ったが、母は行った事が無く、隣町にいる叔母と一番下の叔父と行こうと言いながら、そのままである。

その申告も終わり、従兄弟に迷惑を掛けずに済んだので、報告しようと思っていた所、ノワタリさんと先週の水曜の夜話していたら、「おチョウさんが来られています。あなたと酒を酌み交わしながらじっくり話し合いたいみたいですよ。高級なお酒を用意してね」と言われ、「今までのカクシャクとしたおチョウさんで無く、今回は女性として...大変孤独な思いをされたみたいですよ。」と言われた。

「私はおチョウさんにはちっとも似ていないんだけど、なんで、又私に」と言うと、「あなたが頼りなんですよ。でも、きっぷのよさは似てます。」と言う、何か喜んでいいのかどうか分からない。

おチョウさんというのは私の母方の4代前の先祖であるが、今回ノワタリさんのお言葉でおチョウさんの私の中のイメージが大分変わってきた。上品で卒が無くしっかり者で大変な美人であったと聞いていた。

幕末の頃で御殿奉公をした後、嫁いで子供も出来、幸せに暮らしていたが、実家の兄が仏門に入り、跡取りが居なくなった為、親戚が連れ戻し 養子を向かえ後を立てたと聞いていた。

おチョウさんの父親は大酒のみで一生遊んで暮らしたので、お嫁さんは子供を置いて去ってしまい、後妻には子供が無く、おチョウさんの兄さんはそんな父親に見切りをつけ、仏門に入り一生妻帯する事無く、最後は隣村の住職になったと聞いた。

私はずっと幸せな一生を過ごされたと思っていたら大違いで、生木を引き裂くように引き裂かれ、先の旦那さんの方が外見も中身も後で養子に迎えた人とは開きがあったらしい。思っただけで、胸が張り裂けそうだ。次男でも作ってその子を籍に入れるとか出来なかったものかと思うが、時間の余裕がなかったのだろうか?

戦前は長男は婚家から籍を抜く事が出来なかったので、その婚家の姓のまま男の子を連れ帰った。

後の人との間に女の子と男の子を作り、役目を果した後はどうも疎遠であったみたいである。

そしてノワタリさんが「あのね、もう一人とても艶っぽくてあでやかな女性が出て来てるんです。」言う。

「あでやかって?幾つ位の人ですか?」とお尋ねすると、「30歳代かしら浮世絵みたいにゆるい着物の着方をされて髪は後ろに長くしてくくっているんです。」と言われる。どうも菱川師宣の見返り美人みたいな姿である。

「そんな姿の人は素人じゃないでしょ。」と言うと、「ええ、素人じゃないですね」と言われる。

一体誰なのか、どんな関係なのか?分からない。あの時代、こんなド田舎にそんな人が住む事だけでも困難であろうと思う。

しかし、事後報告をした時その女性が誰だか分かった。父親の後妻だった。

それで、お兄さんはたまらず家を飛び出したと言う言葉をノワタリさんが受け取った。とても固い真面目な家だと思っていたら、遡ればなんと!としか言えない。

そんな事で、日曜日朝6過ぎのに乗り報告と墓参りに出かけたが、母の実家へ行くと誰もいない!伯父も伯母も出てこない。

何かあったかしらと、家の探し歩いていると、まだ休んでいた従兄弟が出て来て「二人とも入院した。親父は肺炎を起こしていつ逝ってもおかしくない、後1か月もつかどうか分からない。」と深刻そうな顔で言った。伯母は喘息の為、この10年余り365日の内340日ほどは入院しているので心配は無いが。

20日に伯父と話した時は元気そうで母も安心していたのにと思ったが、分からないものである。

お墓へ出かける前に、仏壇にお線香をと思い、仏壇を覗くと男所帯でもう埃だらけで線香立は灰が溢れカチカチになっており、シキビでなくどうでもよい観葉植物の葉が差し込んであったので、掃除をしてから、拝んだ。家の中も庭も荒れ放題、表の間だけ片づけてあった。

その後お墓にいつもの3点セットの塩、お神酒、水で清めた後、お経をあげ拝んだ。その後、「時間が掛かるから」言って従兄弟達をに待たせ、知り合いの京ひなさんhttp://www.sakaroku-syuzo.co.jp/の「ちょっとおしゃれに」と言う名前の純米大吟醸酒を紙コップ3個に注ぎ分けて呑みながら、おチョウさんに話しかけた。今ならば、おチョウさんがどんな気持ちで過ごされたのか良く分かる。「もうこんな思いはしたくないよね。」と話しかけたがでも、あの世で先のご主人と会えたのかしらとちらっと思った。

来る途中考えていると、一族の女性達の中で二度の結婚をされた人が多い事に気付いた。何かの因縁なのか?祖父の姉妹も早死にされた人は別にして二人共、叔母も、本家の従姉妹もである。

下の姪はおチョウさんの生れ変りらしいが、彼女がそうならないようにその因縁も又断つようにすることも私のお役目かと思ったが、それもあるが今回凹み気味の私に対して心配なされたからだそうだ。

その上、末期癌の伯父が肺炎で入院した事を偶然知る事となったが、それも先祖に呼ばれたらしかった。

従兄弟は2人は朝から晩まで御飯を病院に行き食べさせねばならず、ほとほと弱っていた。もうすぐヘルパーさんが来るとは言っていたが、伯母は伯母で病院の食事がまずいとか言って、色々と注文を付けていた。

でも、別々の部屋にいる2人を覗くと、たいそう喜んで放してはくれなかった。

伯父は輸血からの肝炎でいつ自分の寿命が来てもと、ずっと覚悟はしていたがこんなに長生きできるとは思わなかったと言い、体に障るからと遮るにもかかわらず、ずっと1時間喜んで話しつづけ、体温も36,5になっていたので楽そうだったが、管だらけでベッドからは起きれない。

食事の後、バナナを食べさせ、入院してから歯を磨いていないとこぼしていたので、歯磨きの手伝いをした。もうこれが伯父とも最後かしらと思うととても寂しく、時の流れを感じた。

長居はできなかったので午後2時のフェリーに乗り、重い足取りで帰宅した。

 

 

 

 

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老齢の親と暮す

2012-02-18 14:52:59 | 日々のつぶやき

1月の下旬、千葉に住んでいる千恵さんのお母さんが92歳で亡くなられたと友人のユキちゃんから連絡を貰った。

ユキちゃんも知った時は既に内輪での葬式は終わっており、後日お参りに行ったそうである。

チエさんと一緒に私達もお線香をあげに伺った。すでに千恵さんは帰られた後だったので、お姉さんとお茶を飲んで話しをして帰った。

お姉さんは6年間お母さんのお世話をして二人で暮らされたのだが、定年で帰られたご主人は自分の方の親の介護で別々に暮らされているみたいであった。

一緒に暮らし始めた頃、お母さんから葬式は内輪でひっそりとして欲しい事と、世話だけはちゃんとして欲しいと言われ、二人で色々と取り決めたと言われた。

一度も病院にも介護のヘルパーさんのお世話にもならず、お一人でお世話された。

「介護施設に入っていたら、母はここまで長く生きれなかっただろう。」と、ポツポツと話し始めた。

お母さんは昨年末足が立たなくなったので介護認定を貰ったそうであるが、ヘルパーさんが来られる前に枯れ木が朽ちるように静に亡くなられたそうである。

お母さんの体内時計は5時間ぐらいずれているうえに、食事も食べ終えるのに2時間掛かるので、施設であれば食べないで済まされてしまうだろうと言われた。

始めは家の中でも1000歩を目標に歩かれていたそうだが、畳の上で転倒されたのをきっかけにだんだん歩く歩数が減り、お手洗いも手を引いて連れて行ってたそうである。2年前からは自分で排便する力もなくなったのでお姉さんが指で出されていたと言う。

その話を聞いて私達はお母さんは幸福な人だと思った。ほとんど、施設にか病院預けられて最後を迎えられる人が多い中、自宅でずっと最後まで娘さんに看取られて亡くなられる方は多くない。

しかし、突然意識不明になられ、心肺停止になったが、救急車が来るまで気丈なお姉さんが人工呼吸と心臓マッサージをされて意識の無いまま、翌日妹達が来るまで生きられたと言う。

果たして私も其処まで出来るかしらと思うが、父がだんだん危なくなってきている。

先日デパートでケーキを5個買い、その晩父と私は2個づつ食べた。胃の弱い母が翌日食べようとすると、先に父が手を出した。

母は「これは私の分よ。昨日食べたでしょ。」と言うと、どうも父は覚えていないようであった。

また、久島海が意識不明で倒れたとでテロップが流れた時、どうもご贔屓だったらしく、久島海の事をひとしきり話したが、翌朝の新聞記事を見て「あれ?久島海が死んでいる。」と昨晩の事は覚えていないような言い方をした。ちょっと不安である。

母は用意している痴呆の進行を止める薬を飲ませた方がいいのではと言い出す始末である。

対照的なのは数年前に結婚された友人である。その前にちょっとした行き違い(自分達の事でなく、市政の事、ちょっと変)で今は付き合いが無いが、それまでずっとお母さんのお世話をされていたのが、結婚を機に施設に入れられその後半年ほどで亡くなられた。10年近くお世話をしてきたのに、ご近所の人からかわいそうにとの非難の言葉をその頃聞いた事があった。

50歳を越えての結婚であるから、二人だけの生活でお母さんと暮らせなくは無かったと思うが、人にはそれぞれの事情もあるだろう。

 

 

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トントとバク Ⅱ

2012-02-17 00:17:46 | ネコ

1ヶ月あまり経った6月の夜、毎日根気よく探していたバクがトントを連れ帰ってきた。もう私達は何処かで交通事故にでもあったのだろうと諦めていたので、とても嬉しく、奇跡に近いと思った。

嬉しさのあまり、バクは人間のようにトントの背に何度も抱きつきすりすりして「ニャァ~、ニャァ~」と声を出して喜んでいたが、それよりも空腹でボロボロになっていたトントはそれよりも餌を食べる事に夢中になっていた。さすが、利口なバクちゃん!

そんな事もあったが、その年の夏の終わり、今度はバクが姿を消した。私が嫌がる頭の紐状になった瘡蓋を剥いだ後の事で、後ろめたい。ゴメンナサイ。

結局、奇跡は起こらずそれっきりだった。

残ったトントはアホなのか、バクのように探しているようにも見えなかった。私と父は自転車で名を呼びながら走り回ったが、帰ってくることはなかった。

しかし、トントも2度目の交通事故ではビッコになりながら「フニャ~」と言いながら帰ってきたが、窓に駆け上がることも出来なかったが幸い急所を外れていたので手術をして助かった。

この猫だけはに乗せても怖がらず、1度目の交通事故で轢かれても、窓に前足をかけ車窓の風景を楽しんでいた。一度目は脱腸で幸いにも人間の腿用のサポーターに穴をあけをはかせることで手術をせずに1週間ほどで固まった。

入院している病院から獣医さんが電話をしてくださり、「フニャ~。」と言う弱々しい鳴き声を聞かせてくださり、こちらも「トンちゃ~ん。」と呼びかけた。

年がら年中ノラと喧嘩して傷だらけで耳は原型をとどめていなかった。店の叔母さんが「汚いトン」ともう他にもネコが来ていたのでそう呼んでいた。

そんなトントだったが、4月のある日のお昼前倉庫へ行ってリフトに荷を載せた途端、ガタン、ガタンと大きな音がして見上げると長さ1m余りのH型鉄骨が上から落ちてきた。とっさに身をよけ交わしたが、足元でバウンドして足首をかすり、擦り傷になった。

突然のショックからか、寒気と気分が悪くなり帰宅してから休んだ。

夕方5時半頃、寝ている私の部屋に母が「大変、大変、トンが近くの県道ではねられた。」と言って駆け込んできた。近くの人が知らせに来てくれたらしく、すぐに連れに行った。

横断歩道の真ん中にトントはいたが、驚いた事に左の頭が陥没して目が飛び出てかっと口を開いて舌もでている姿だった。

身代わりだ…。あのまま鉄骨が頭上に落ちていたら、きっと私はこういう姿で死んでいたに違いない。6歳まで生きただろうか?交通事故や突然姿を消したネコも多かった。病であれば、看病している間に気持ちの整理もつくが、やりきれない悲しさと寂しさに襲われ、その度泣いた。

このトントだけではなく、私の身代わりと明らかに確信するような事がその後も起きた。

不思議な事に、業者に頼んでリフトの点検をしてもらったが、外れたということもなく異常もなく、落ちてきた鉄骨はどこにあったか不明であった。

20年間に餌を食べに来る猫を合わせると30匹くらい面倒を見たが、地場が悪い性か、最近のフクちゃんとぶうちゃんを除けるとみんな短命であたった。

数年前、フクが亡くなってから、ノワタリさんと相談してネコ供養をして、みんなに守ってくれた礼を言った。

みんな私たちを守る為、生まれてきたのだとノワタリさんは言われたが、それも悲しい。

今ならば、もっとうまくネコと暮らせると思うが、残念留守がちな私と高齢の両親ではネコが寂しい思いをしてかわいそうなので飼う事を諦めている。

 

フクちゃん

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トントとバク

2012-02-16 21:42:26 | ネコ

卒業時に、一階の住人に世話をしてもらい連れ帰った猫のトコちゃんが1歳の誕生日を迎えぬまま、癌で死んでしまいもう飼わないと決めていた。

しかし、寂しく隣家との背戸をノラがよく走っていたので、父と二人餌を撒きこっそり様子を覗いていたりして紛らわしていた。

それから半年たった頃、父が港近くの駐車場にいる捨て猫に餌をやった事から、その近所の知り合いの子供が親に言われて、家に小さなバスケットに子猫を入れて連れてきた。

トント

父はこの数日その子ネコが鳴きながらさ迷っているのを数回見てしまい、たまらなくなったそうである。そう言う事からその子は家の飼い猫になった。

名前を付けるのに迷ったが赤トラネコだったので映画の「ハリーとトント」からトントと付けた。しかし、トントとは呼び辛くいつしか「トン」になってしまった。

トントくんは兄弟4匹で捨てられていたそうであるが、1匹はまもなく亡くなり、後の2匹も子供達が連れ帰り、一番声のでかいこの子が残っていたそうである。

とても人懐っこく、賑やかで面白く分かり易いネコだった。1週間位たった頃、トントくんにそっくりなネコを見かけた。兄弟ネコである。小学1年生と幼稚園の姉妹が連れていたが、家では飼えないので家でそれも飼うようになった。

バク

お姉ちゃんは家では飼えないので「飼って欲しい」と言ったが、妹は「家の猫だ、返せ。」と言う。

そんな事もあり、毎日姉妹は家へ来て猫達と小一時間ぐらい遊んでいた。

後から来た猫はじゃれあってもどうしても体のでかいトントの下になってしまうので、腕白になれと思い「パク」とつけたが、これも言い辛く「バク」となってしまった。

バク君はおとなしく、利口で控えめで母のお気に入りだった。その頃、魚屋さんがマグロのそぼろにする背の所をトロ箱に1杯ずつ持ってくるようになり、それが我が家のネコの餌になり、一食分ずつ袋に入れて冷凍するようになり、たちまち冷凍庫はこの餌で占拠されてしまった。

「ネコは嫌い」と言いながら、母が食事の世話をしていた。

鍋にマグロを煮てからネコ椀に入れるのだが、トントは待ちきれずいつも湯気のでているマグロを爪で引っ掛け周囲に出して熱いものだから「あう、あう」と声を出しながら猫舌のはずなのに食べていた。バクはおとなしく下手をするとトントに食べられてしまうので分けていた。

1ヶ月位後、夜市でおばあさんと生気のない暗い顔をしたお母さんに連れられた姉妹とすれ違った。それが彼女達を見た最後であった。

その夜中、彼女達は無理心中を図った母親に殺されていた。母親は助かったが…

数ヶ月前に父親が病死していて家庭内の不和もあったとかで、お母さんはノイローゼになっていて先を儚んでそういう事になったらしい事を聞いた。同情もあり近所の人達が減刑の嘆願書を出したと後日聞いた。

猫達がいなければ、知らない間柄である。毎日のように来ていたので、私たち家族は絶句した。生きていれば、もう40歳近くになっていたであろう。

トントは外で出会うと、帰りたくない時はわざと目を外して知らんぷりをし、帰宅途中であれば大声で「にゃ~」と擦り寄って付いて付いてきた。

バクにはそういう所はなかったが、どこかのネコが尻尾を麦の穂のように膨らませて喧嘩をしていると思えば、バクちゃんだった。

一度うれしそうに白い物を食べていると思えば、よく見るとそれはするめいかの自家製の一夜干しで誰かが干していたのだろうと思うが、猫の体には良くないので取り上げてこっそり捨てたが、バクはとても不満そうだった。

そして家の前に食料品店ができた時も、店番が2人もいるのに目を盗んでガラスケースの戸を開け、ちくわやじゃこ天などを数回持ち帰り慌てて支払いに行ったこともあった。

2匹とも病気もせず元気だったが、よく野良と喧嘩して頭は私鉄駅の沿線のようにバリバリにかさぶたが出来たりしてたくましくなった。楽しく過ごしていたが、2年経った4月の29日の夜友人と電話で話していると急にトントが居なくなり、翌日になっても帰ってこなかった。

父と探し回ったが、見つからなかった。猫が帰ってくるというまじないもしたが、効果はなかった。

 

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舞踏会の手帳

2012-02-16 00:05:30 | 日々のつぶやき

先日、NHKのラジオ放送で懐かしい「至福の時」と言う話題で対談しているのをで聞いた。67歳になられたそうである。。相変わらずの心地よいしっとりとした声である。高校生の頃、勉強はせず一生懸命起きて聞いた。

「今は自分を生きているという実感がする。」と言われていた。若いときは辛かったとも言われたが、私も同じであった。昨年末から学生の頃に戻り、それからの過ごし方を見直しする様になってしまった。

で、先月の半ば結局でた結論は私の生き方は間違っていなかったと確信した。

20代の頃、家の為を思い意に添わない結婚をされた2軒の人の話を夕食後毎晩のようにされた事があった。

しかしお気の毒だが、その2軒共今は跡形もなくなってしまっている。

周りの意見に流されず、頑として自分の思うままに生きてきたのであるから、逃げ道も無いが間違いではなかったと思うようになった。反省する事はあっても、後悔はしていない。否定してしまえば今の私を否定する事になってしまう。

ノワタリさんのお陰で先祖事も数年前に片付き、土地の因縁も大分浄化されたみたいでラップ音はしなくなっていた。今回、散財をしたがそれも30年間の自分に対してのプレゼントと考えるようにした。若い頃は、田舎で一人でいると周りの目があり、何をするにも面倒で生き生き伸びやかにと言うわけにはいかなかった。

落合恵子さんの話しに同感であると思いながら、昔学生時代に彼女の書いた「スプーン一杯の幸せ」と言う本のシリーズを確か3冊持っている部活で一緒だった男の子がいて私は借りて読んだ事がある事を思い出した。

男の子なのにこんな本を持っているのかと驚いたが、本の内容と同じように細やかな神経の持ち主で優しかったので、外見に係わらずいつも複数の付き合っている女性がいた。(外見ではもてる要素は全く無い)

ふらっと前触れも無く突然、遊びに下宿にやってくる事もあったが「何処にいるの?」と聞くと、「何処何処の病院の看護婦の所。」とかと言う返事で、一体何処に住んでいるのか分からない不思議な人だった。

落ち込んでいる時もよく話し相手にしっかりなってくれ、助けられた。

卒業してから、ずいぶん昔一度を貰ったが、私を見かけたという事で、従兄弟と居る所を見たため、勘違いして声を掛けられなかったそうである。家庭を持ち二人の娘さんがいるそうであった。

落合恵子さんの声を聞いてから、その人の消息が気になり逢いたいと思うようになった。

しかし、彼の勤め先はなくなってしまい連絡の取り様が無い。部活も途中で止め1,2年の頃仲の良かった男の子に聞いても消息は分からなかった。ふと思い出した彼の実家にしたがむなしく呼び出し音が響くだけで誰も出てこない。

数年前、NHKのお昼の番組にそっくりな顔をされたおばあさんが出て来られたが、生きておられてもどこか老人施設にでも入られたのかもしれない。

なぜ、こんな気になるのだろう???

ノワタリさんに話すと、「整理をしているのよ」と言われる。

駅伝のランナーで言えば、今世はアンカーであるそうですべて片付けて行くそうである。

1月に会った友人たちといい、今まですっかり忘れていたのにと思う。まるで古いフランス映画の「舞踏会の手帳」の未亡人になったマリー・ベルのように昔踊った相手に逢いに行っているみたいである。(其処まで優雅では無いが)

年のせいか?それとももう危ないのだろうか?それでこういう気になるのではと思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

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