見方によって意見が分かれるんだろうけど、これは素晴らしい番組だった。なかなか見えずらい前田敦子という人の凄さが、分かりづらさという特徴も含めて、とてもストレートに伝わってきた。もちろんなお全貌は詳らかではないけど、そんな底知れなさを包含した上で、前田敦子という特異才能がよく描き出されていた、そんな風に感じられた。
内容としては、ほぼ中田秀夫監督と前田さんの対談だったんだけど、その様子を見ていて、まずは「クロユリ団地」という映画がなぜああなってしまったのかが、シンプルに分かったように思う。対談を通じて、中田監督が終始、前田さんに「負けてる」と表現するとアレだけど、「クロユリ団地」の評でも示唆させていただいたように、脚本とか全体の整合性とかのみならず、中田監督自身の思いをも超えて、前田さんの方に全面的に合わせてしまった結果なんだろうというのが、はっきりと伝わってきたように思う。
とりわけ印象的だったのが、前田さんを前にして、中田監督が何度も少年に戻る姿だった。50歳を超えたおっさんが、前田さんと語りあうことで、純真な少年の心に立ち戻ることができた、それが嬉しくて恥ずかしくて、そんな気持ちにさせてくれた前田さんに対して、中田監督が何度も感謝の意というか、一種敬意というか、特別な思いを表していた、そんな風に見えた。
これはたぶん、秋元氏なんかでも同じことなんだろう。前田さんとある程度以上深く絡んだ才能ある大人達は、たいてい前田さんに心酔してしまうように見える。それは、クリエーターとしての琴線に触れる、モチベーションがかき立てられると共に、前田敦子という底知れない対象を極めてみたい、そういう欲望に駆られるからなんじゃないか。実際、確か秋元氏も、曖昧ながらにそんなことをかつて語っていたように思う。
そういう意味では、前田さんと指原さんは似てるとも言える。ぜんぜん方向性が違うんだけど、それでも才能溢れる人々の心を揺さぶることができる、そういう存在様式という特徴は共通してることになる。前田さんも指原さんも、クリエーター自身の姿を映し出してくれる鏡のような存在なんだろう。自身の能力の限界を模索することのできる、試金石のような存在とも言えるんだろう。
あとは、山下敦弘監督の「本当は端っこにいるような子だと思うんですけど、奇跡的に真ん中が似合う」という指摘が、浅いというか有りがちなんだけど、興味深かったかな。それって正に"The AKB"ってことだから。
内容としては、ほぼ中田秀夫監督と前田さんの対談だったんだけど、その様子を見ていて、まずは「クロユリ団地」という映画がなぜああなってしまったのかが、シンプルに分かったように思う。対談を通じて、中田監督が終始、前田さんに「負けてる」と表現するとアレだけど、「クロユリ団地」の評でも示唆させていただいたように、脚本とか全体の整合性とかのみならず、中田監督自身の思いをも超えて、前田さんの方に全面的に合わせてしまった結果なんだろうというのが、はっきりと伝わってきたように思う。
とりわけ印象的だったのが、前田さんを前にして、中田監督が何度も少年に戻る姿だった。50歳を超えたおっさんが、前田さんと語りあうことで、純真な少年の心に立ち戻ることができた、それが嬉しくて恥ずかしくて、そんな気持ちにさせてくれた前田さんに対して、中田監督が何度も感謝の意というか、一種敬意というか、特別な思いを表していた、そんな風に見えた。
これはたぶん、秋元氏なんかでも同じことなんだろう。前田さんとある程度以上深く絡んだ才能ある大人達は、たいてい前田さんに心酔してしまうように見える。それは、クリエーターとしての琴線に触れる、モチベーションがかき立てられると共に、前田敦子という底知れない対象を極めてみたい、そういう欲望に駆られるからなんじゃないか。実際、確か秋元氏も、曖昧ながらにそんなことをかつて語っていたように思う。
そういう意味では、前田さんと指原さんは似てるとも言える。ぜんぜん方向性が違うんだけど、それでも才能溢れる人々の心を揺さぶることができる、そういう存在様式という特徴は共通してることになる。前田さんも指原さんも、クリエーター自身の姿を映し出してくれる鏡のような存在なんだろう。自身の能力の限界を模索することのできる、試金石のような存在とも言えるんだろう。
あとは、山下敦弘監督の「本当は端っこにいるような子だと思うんですけど、奇跡的に真ん中が似合う」という指摘が、浅いというか有りがちなんだけど、興味深かったかな。それって正に"The AKB"ってことだから。