こんにちは いけや正の 晴れ時々スケッチ  

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種苗法の一部改正反対を求める請願 不採択に

2020年03月14日 | 議会
 3月12日(木)福祉環境常任委員会が開かれ、
「国会への種苗法改正反対、慎重審議を求める意見書を八潮市議会から提出することを求める請願書」が審議された。市内在住の山根健吾さんが提出。
紹介議員は鹿野泰司、池谷正。
 請願権は選挙権とともに国民の大切な権利。誰もが議会に請願をすることができる。
私も、かつて、「地元に学童クラブの設置を求める請願」を提出したことがある。
審議した委員会に仕事を休んで出席した。
まだ市内に一つしか学童クラブがない時代。「地元にも」との思いで署名を集め提出。
さすがに保守系議員も正面から反対できず「継続審議」扱いに。
 今回の種苗法の改正は農家が次の年の作付けのために自家増殖することを
「原則OK」から「原則禁止」にするというもの。
 農水省は、禁止するのは登録品種が対象で非登録品種は引き続き自家増殖できる
と釈明しているが。
 登録品種を企業が所有すれば、毎年その種を農家は買わなければならなくなる。
家族経営が大半の日本の農家にとっては経営を圧迫されることに。
改正されれば、多国籍企業に種子市場の支配を許しかねないとの危惧が。
農業関係者から「改正反対」の声が上がっているもの。
 政府は3月3日に改正法提出を閣議決定。
そんな中での請願審議。質疑は郡司伶子議員(日本共産党)と矢澤江美子議員(市民と市政をつなぐ会)の二人から。討論もこの二人の請願に賛成する討論が行われたが、
他の委員(公明2人)平成クラブ(自民・保守系3人)からは質疑も討論もなし。
採決の結果、賛成2人のみで少数不採択に。
賛成できないならその旨の意見を述べるべきでは。
 仕事を休み出席した若い請願者の期待に応えられずに残念。
議会の実態を目の当たりにした経験は、決して無駄にはならないと励ます。

陽だまりにツメクサの花。

市立中学校の卒業式 卒業生へのお祝いの挨拶を交差点で

2020年03月13日 | 日記
 今日は市立中学校の卒業式。全5校で規模を簡素化して実施。
八潮市の基本は、卒業生とその保護者、教職員のみで。
在校生の参加はなし。私たち市議会議員などの来賓出席もなしとなった。
 予定していた卒業式出席はなくなったが、顔見知りの子どももいるので、
地元中学校の校門から少し離れた交差点で、登校する卒業生に声をかけた。
「卒業おめでとう」「少し寂しいけど頑張ってね」約1時間ほど。
友達と連れ立って歩くグループ。一人で少し恥ずかしそうに視線を合わす男子生徒。
「ありがとうございます」と明るく答える女子生徒。
子どもたちとのちょっとした触れ合いに元気をもらう。
 考えてみれば、今年の中学卒業生は、9年前に小学校に入学した子どもたち。
9年前の春は東日本大震災と原発事故で日本中が騒然としていた時。
 不安の中での小学校新1年生のスタートを切った子どもたち。
この子たちのこれからの未来に思いを巡らした朝。

市役所西側駐車場に早咲きの桜が咲いている。河津桜? 
卒業、入学、別れと出会いの春。

9年前の3・11東日本大震災 その時 私は

2020年03月12日 | 日記
 東日本大震災から9年。
私はその時、現職最後の3月学期末を勤務先の学校で迎えていた。
都内の足立区にある特別支援学校に勤務中。
 子どもたちが下校した後、学年の先生たちと2階の教室で会議をしていた2時46分。
いきなり大きな揺れ。2階の教室から外を見るとプールの水が大きく波打っていた。
低学年の先生たちは一斉に教室から中庭に飛び出していた。
揺れがどれどれくらい続いていたか記憶は定かではない。
 すぐに3階の教室にいる中学部の子どもたちのことに気が付き、2階のベランダから
「3階の子どもたちの所へ!」と低学年の先生たちに呼び掛け、私もすぐに階段を駆け上がった。
帰り支度をしていた中学部の生徒たちは机の下に潜り込んで揺れに怯えていた。
大小の揺れが何度も押し寄せる中、子どもたちとプレイルームに避難。
 保護者の迎えを夕方まで待ちながら、テレビに映し出される東北沿岸に押し寄せる巨大な津波に息をのんだ。
「こんなことがあるのか」と現実とは思えない映像に釘付けに。
同僚の教職員20名近くが学校に泊まり込んだ。交通機関はすべてストップ。
私は、夜遅く、自転車で帰宅。自宅の被害はほとんどなく一安心。
 翌朝、車で学校へ。どうしても帰宅を希望する同僚教員3人を載せて千葉県、茨城県へ。
水戸街道沿いをブレザーと革靴、仕事着姿でひたすら歩く人々の群れを目にする。
この先どうなるのか、という漠然とした不安が胸を過る。

震災一ヶ月後、支援に出かけた宮城県松島町野蒜小学校の一階の職員室内。
天井近くの津波の後が生々しい。

今日は3・11 あの時

2020年03月11日 | 日記
 9年目の3・11東日本大震災。
新型コロナウイルスの感染拡大で、鎮魂の思いも落ち着かない。
2万人を超える犠牲者、行方不明者、災害関連死者。
 いまだ4万8000人が避難生活という。
福島原発事故は取り返すことができない深刻な被害を刻んでいる。
放射能汚染によって、故郷も暮らしも仕事も文化歴史もことごとく
奪い去って、今なお、廃炉となった原発との闘いが続いている。
「復興オリンピック」などと胸を張って言えるのだろうか。
聖火リレーが福島からスタートするというが、避難生活をしている4万8000人の
人々はどんな思いでこれを見るのだろうか。
 莫大なお金をつぎ込んでのオリンピック。
政府は、それに見合うだけの復興支援をしているのだろうか。
「復興」などと利用されては被災者はたまったものではない。

震災一か月後に支援に入った宮城県七里ヶ浜漁港の惨状。
 まだ電気も復旧しておらず、拠点となる塩釜市の病院の廊下で寝袋生活だった。 

3月10日東京大空襲 3月11日東日本大震災

2020年03月10日 | 日記
今日、3月10日、東京大空襲。明日、3月11日は東日本大震災。
75年前と9年前。いずれも多くの人々の命を奪った。
どちらも政治の責任は重い。
 東京大空襲は、戦前日本の無謀な侵略戦争拡大の果てに、帝都東京が
壊滅的な被害を受けた。当時、世界最大の米軍戦略爆撃機B29,300機が
未明の東京下町一帯を無差別爆撃。10万人を超える犠牲者。
戦争中とはいえ、市民を標的に無差別大量虐殺。周到に準備された東京大空襲。
人々が寝静まった深夜未明を選び、日本の家屋が木造であることから
大規模火災を目的として開発した焼夷弾を大量に投下。強い北風の吹く中、
風上から焼夷弾を投下し、下町を炎の海に。
 当時の昭和天皇はこの惨状を視察しながら、「今一度、戦果を上げてから」
と戦争継続を判断。その後の沖縄戦、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦と
中国東北部での在留邦人の辛酸な事態を生むことになる。
明日は、東日本大震災から9年目を迎える。
 おりしも今は、新型コロナウイルス感染拡大の中、
こちらも感染防止に向けた政治の責任は重い。注目。

 我が家の椿「ワビスケ」純白の美しい花を咲かせる。
1輪、樹の下に落花。それでもなお気品を保っている。