あえて言う! 3流政治が「1ドル100円割れ」「失われた20年」の元凶だった事実を忘れるな!
財経新聞 より 2212221
円・米ドル相場は今後、どんな推移になるのだろうか。今回の円安相場は、2021年1月の1ドル:103.6961円(月間平均レート)を起点に、22年10月の1ドル147.0145円まで円安が進んだ。
専門家は、展望と闘っている。例えばニッセイ基礎研究所の上野剛志氏は「仮に米国の物価上昇圧力が予想外に強い場合は、FRBも利上げを長期化せざるを得なくなるため再び150円を試す可能性もまだ排除できない」としながら、「現状の円高トレンドも、いわゆる“行って来い”の形となり3カ月後には現状比ほぼ横ばいの1ドル140円弱を予想」としている。
専門家の見方を追ううちに、「三流政治が招いた1ドル100円割れ相場」という30年近く前の出来事を思い出した。
円が対米ドルで90円台に突入したのは、1994年6月。日本の外為市場では同月27日、99.50円をつけた。
金融筋はこの円高を「三流政治が招いた円高」とし、後には「失われた20年を生んだ三流政治」と揶揄した。
92年12月24日、都内の某ホテルの1室。当時の副総理兼外相:故渡辺美智雄氏を囲む会食が行われた。メンバーは故加藤寛氏、故堺屋太一氏、故渡辺昇一氏。
故加藤氏から聞いた話を記す。
渡辺氏は当日、上機嫌だった。「自分がまず(ビル・)クリントン(米国42代目大統領)に会いに行くことになった。宮沢(喜一首相)じゃ向こうがいい顔せんのだ。まずわしが橋渡しをしてくるというわけだ」。
3人はこう問うた。「大臣、大変でしょう。クリントンは当然、黒字減らしの具体策やロシア支援や対中問題に見解を求めてくるでしょうから」。だが渡辺氏は「ちがう。今回は一切面倒な話はない。外務省もそう言っている。表敬訪問、それだけ」と繰り返すばかり。
「背筋にゾッとするものを感じた」と加藤氏は、振り返った。
実際はどうだったのか。渡辺氏は、「棒立ちだった」と帰国後に漏らしたと言う。こんな状況だったと言うのだ。
「貴国のロシア支援について具体的に伺いたい」 「北方領土問題があるので・・・」 「中国の動向にどんな姿勢で臨まれるおつもりか」 「貴国と歩調を合わせて・・・」 「ウルグアイランドの落としどころを、どう政治的に判断しておられるのか」 「コメという国の文化の根幹と深くからむ問題を抱えているので・・・」 「貿易収支のバランスの改善にどんな具体策を執って頂けるのか」 「内需拡大を促す経済政策を進めることで・・・」
この表敬訪問を機にクリントンの腹は、180度転換した。「やはり日本はパートナーにあらず。経済的なライバルだ」。外為市場はクリントンの意を映した。円買い・ドル売りにシフトしていったのである。1ドル・100円トビ台はこうして実現した。
爾来、クリントンは「ライバル」日本を追い詰める策に出た。93年4月の日米首脳会談でクリントンは首相の故宮沢氏に、いわゆる「日米包括経済協議」の設立で押し切った。
日本経済の成長に歯止めをかける施策の枠組みの容認が、災いした。この年の衆議院選挙で自民党は敗北を喫した。
自民党政権下の「55年体制」が38年ぶりに幕を下ろした。誕生したのが「非自民・非共産」の連立政権:日本新党。代表に細川護熙氏が就任した。
が、細川政権は早々に外交上の失策を犯した。それが更なる円高に拍車をかけた。
包括協議で日本市場への外国製品の参入度合いをはかる『客観基準』の導入を、細川政権は「管理貿易につながる」と蹴ったのである。共同記者会見でクリントン・細川両首脳は、こう応酬した。
「中身のない合意なら、ない方がましだ」(クリントン)。 「玉虫色の決着は誤解の種だ。できないことはできないと率直に認め合うのが、大人の関係というものだ」(細川)。
世論は割れたが記者会見の直後、私はウシオ電機の牛尾治朗会長(翌95年、経済同友会代表幹事に就任)に「私は失政だと思うが」と意見を求めた。牛尾氏は、「肩を落とす以外なかった」とした。