goo何気無い日々が心地よい安寧

何気無い日々が続く様に。生きていく事の大変さがカナン。ある種空気の様な存在になりたいもの。

🚶…向島清水農地🔁…Alp🥤…>240825

2024-08-25 20:19:00 | 🚶 歩く
🚶…右岸河川敷…隠元橋…左岸堤防道…同:47km碑+…伏見区向島清水町農地🔁…左岸堤防道47.2km碑…隠元橋…右岸堤防道…Alp🥤🐙…右岸堤防道…>
🚶11050歩+147歩

☀️隠元橋37℃〜>32℃
 雲形が見応えあり

Alpで水分系購入
帰宅後まもなく夕立☔️一時雷雨久々に。

夜)☔️🚙⇆🚉妻



雲形よく

隠元橋下流でカヌー発見



隠元橋より南東部



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昔から繰り返す大地震。昔の地震の言い伝え、地震鎮めの神社を調べてみた 2024/08

2024-08-25 19:38:50 | 気になる モノ・コト

昔から繰り返す大地震。昔の地震の言い伝え、地震鎮めの神社を調べてみた
LifullHome‘sPress より 240825  上江洲規子


 大鯰が暴れると地震が起こると信じられ、地震鎮めの神社が建てられた
日本は地震の多い国だ。そのため、昔から地震被害をおそれ、地震鎮めを祈ってきた。

 地震鎮めの神社といえば、関東では茨城県の鹿島神宮、千葉県の香取神宮が有名だろう。境内にある要石は、地震を起こそうとする鯰を押さえつけていると考えられている。

 江戸時代後期には、鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチが鯰を押さえつける「鯰絵」が大流行し、これを貼れば、地震が起こらないと信仰された。
 鯰を押さえつけるのはタケミカヅチだけではない。武士や町人、女や子どもらがこぞって鯰をこらしめる中、大工や左官らが遠巻きに見ている鯰絵もある。火事や地震が起これば、大工や左官は仕事が増えて景気がよくなるからだろう。

 地下にいる大鯰が暴れると地震が起こるという民間信仰が、いつ、どのようにして生まれたのかはわからないが、水産学者の末広恭雄氏によると、ひょうたんでナマズを押さえて地震が起こらないよう念じている絵が、室町時代の画家である如拙によって描かれているらしい。

▶︎茨城県 鹿島神社
 大鯰を退治する鹿島神社の武甕槌大神像

⚫︎アイヌの昔話に登場する「アイヌラックルが大鱒を退治する話」
 アイヌの昔話には、アイヌラックルが大鱒を退治する話がある。
アイヌラックルは「人のような神」という意味で、アイヌ民族の祖とされる英雄だ。昔、大きな沼に、沼いっぱいに広がるほど大きな鱒が住んでいて、少しでも動くと国土が壊れそうになった。そこでアイヌラックルは「楊の林で縄を綯って林をみな剥がし、榛の林でも縄を綯って、榛の林をみな剥ぎとった(それほど丈夫で長い縄を綯ったということだろう)」のちに、大きな銛で大鱒を突き殺したという。
この大鱒は、地震を引き起こす鯰を彷彿とさせる。

 また、末広恭雄氏によれば、アイヌ語で鯰はモシリ・イクテウェ・チェップといい、背中で大地をささえる魚を意味するらしいから、地下の魚が暴れると地震が起こるという発想は、もしかしたらアイヌ由来かもしれない。
 アイヌの文化がどの程度本州の文化に影響を与えたのかはわからないが、アイヌ神謡にあるミソサザイと熊の話しと似たようなストーリーが、日本書紀でも語られている。
 アイヌでは、狂暴な熊の神が暴れて困るので、ミソサザイが熊の耳から飛び込んで神経や血管を喰い破ったと語られるが、日本書紀では、仁徳天皇の前に現れた鹿が、いきなりふらふらと倒れてしまったので、調べさせると耳の中からモズが出てきたという。
 仁徳天皇が鹿に出会った地は現在「中百舌鳥」と呼ばれ、近くに仁徳天皇陵があるから、モズは仁徳天皇を暗喩する存在なのかもしれない。

 日本書紀では仁徳天皇を「大鷦鷯(おおささぎ)天皇」と呼ぶが、鷦鷯はミソサザイの古名だ。こうしてみると、アイヌの文化が少なくとも大和にまで影響を与えていた可能性は高そうだし、それならば、アイヌの大鱒が鹿島や香取の大鯰に変じた可能性は十分にありそうだ。

アイヌの昔話にも登場する「鯰が暴れると国土が壊れる」という逸話

⚫︎何故か中央構造線上に建つ「地震鎮め」の神社たち
 飛鳥時代には、全国に地震鎮めの神社が建てられた。
記録される最古の地震は、推古天皇七(599)年に起きた。「推古天皇七年夏四月二十七日、地震がおきて建物がすべて倒壊した。
それで全国に命じて地震の神をお祭りさせた」と端的に記されている。
 被害の大きさや、地震の神とは具体的にどの神を指し、どのように祭らせたのかはわからないが、地震の神を祀った神社の一つが三重県名張市に鎮座する名居(なゐ)神社とされる。"なゐ"は地震を示す古語だ。

 名居神社から東北に約10キロ離れた三重県伊賀市には、同じく地震鎮めで知られる大村神社が鎮座する。興味深いことに、大村神社の真下には中央構造線が走っているという。
 宮司に話を聞いたところ、地震について研究する人がよく訪れるとのことだが「大昔の人がいかにしてこの下に構造線が走っていると知り得たのかは、わかりません」と、感心しているのが印象的だった。

 奈良県の春日大社は、アメノコヤネとその妻神であるヒメオオカミ、鹿島神宮のタケミカヅチ、香取神宮のフツヌシを祀っているが、春日大社に伝わる神話によれば、タケミカヅチは常陸から白鹿に乗ってこの地までやってきたという。
 その道中、あちらこちらに立ち寄ったとされるが、その土地のひとつが伊賀国夏見郷とされる。名居神社は夏見郷にあるから、ここでもやはり、タケミカヅチやフツヌシが関係していることになる。

  三重県名張市にある名居神社は地震鎮めの神社

 大村神社にはタケミカヅチとフツヌシが立ち寄って要石を奉鎮したという伝説が残り、本殿横には、要石を祀った祠がある。
 大村神社にはタケミカヅチとフツヌシが配祀されているが、名居神社にはこの二柱の神は祀られていない。
 春日大社の創祀は称徳天皇の時代、神護景雲二(768)年だから、名居神社はタケミカヅチやフツヌシが通る以前から地震の神を祭っていたことになるのだが、そこにタケミカヅチとフツヌシが立ち寄ったとされるのが興味深い。

 とはいえ、歴史は何度も上書きされ、時代時代で都合よく解釈されるものだから、あまり詮索しても意味はないかもしれない。
 タケミカヅチとフツヌシは武神であり、特にタケミカヅチは雷の化身ともされる。しかし記紀神話において地震と関連付けられた形跡はないから、この地方にこの二神が立ち寄ったという伝承は、後世の付会かもしれない。

 大村神社では鯰の地震守りが授与されているが、鯰の張り子は地震除けに限らず、神様との仲立ちをして願い事を叶えてくれると信じられている。

 ▶︎三重県伊賀市の大村神社
⚫︎震度M7クラスだったという安政大地震
 幕末の安政期には、畿内や江戸、東海地方で大地震が相次いだ。
特に安政二(1855)年に発生した安政江戸地震はM7クラスだったとされ、幕府の公式調査によると死者4394人。しかし実際には1万人以上の犠牲者が出たと考えられる。

『安政見聞録』はこの地震の様子を記録したものだ。この中には、せっかく逃げて助かったのに、姑を助けに戻ったため命を落とした嫁の話や、反対に両親を見すてて一人で逃げようとした娘が、崩れてきた土蔵の下敷きになって圧死した話などが記録されている。
両親は逃げ遅れたが、大きな家屋の倒壊がなく、無事だったという。

 また、身分の低い老夫が「今夜必ず地震があって、家の中にいると怪我をするだろう」と予言し、にぎりめしを持って馬場に筵を敷いて避難したエピソードもある。彼の言うことを信じて従った者たちは助かったが、地震による火事で多くの死者が出た。老夫は「天気が朦朧として空が近く見え、星がいつもの倍に見えて暖かいとき、また鳶が舞い、烏が騒ぎ立って、雉が声を合わせるときは地震の兆しだ」と語ったという。

⚫︎大正橋東詰めにある「大地震両川口津浪記石碑」が伝えるもの
 大阪市大正区の木津川のほとりには「大地震両川口津浪記石碑」が建てられている。
これは、幕末の1854年6月15日、畿内を襲った伊賀上野地震やたてつづけに起こった安政東海地震・安政南海地震と巨大地震に伴う大津波が大坂を襲い、幾多の死者を出したが碑はその様子を伝承したものだ。
 宝永四(1707)年10月に起きた宝永地震では、1万人以上の死者が出たとされるが、その半数以上が津波によるものだった。安政元(1854)年に起きた安政南海地震にいたっては、市中での死者2名に対し、津波による死者数は341名。津波の恐ろしさがよくわかる。

 津波は陸地にも押し寄せ、多くの建物や生物を犠牲にするが、それだけではない。波は大阪湾から木津川や安治川に入り、そこに碇泊していた大小の船を壊した。実はその船に、多くの人が避難していたのだ。
 江戸時代には、地震から逃れるために、船に避難するという考え方があったようだ。

 江戸でおきた元禄大地震でも、船で逃げようとした人々が少なからずいたようだ。
尾張徳川家家臣、朝日文左衛門重章が書いた『鸚鵡籠中記』には、津波が来ると高台に逃げる人のほか、筏を作り始めた人もいたとある。
 災害の記録『災変温古録』にも、津波から逃れるために船に逃げようとしたが、波が乗り上げたため、川へ転落して亡くなった女性がいたと記録されている。地震や津波に際して船に避難するのは、突飛な考えではなかったらしい。

 現代でも、海の上で地震に遭遇したとき、敢えて沖を目指して被害を防ぐ「沖出し」という考え方がある。東日本大震災でも、沖出しにより津波を乗り切った船があった。
 しかし一方で、波にのまれ、沈んだ船もある。沖出しは、水深や海岸の形などの立地条件により被害の度合いが分かれるので、判断がとても難しいらしい。

 現代は耐震のための施策が実施されているが、地震を防ぐどころか正確な予知さえ実現していない。昔の人々は「地震鎮めの神」にすがるしかなかった。
機会があれば、地震鎮めの神社にお参りしてみてはどうだろうか。

大地震両川口津浪記石碑

■参考📚
筑摩書房『アイヌの昔話』稲田浩二著 2007年5月発行
新潮社『魚と伝説』末広恭雄著 昭和52年12月発行
教育社『実録・大江戸壊滅の日』荒川秀俊著 昭和57年9月発行
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ヒトはなぜ「しっぽ」がないの? しっぽ学者は「これまでに仮説は2つある」と言うも…いまだ解けない謎のまま 2024/08

2024-08-25 19:35:31 | ¿ はて?さて?びっくり!

ヒトはなぜ「しっぽ」がないの? しっぽ学者は「これまでに仮説は2つある」と言うも…いまだ解けない謎のまま
 SmartFlash より 240825


 類人猿は生物学的に、ヒト上科と呼ばれるグループである。現生のヒト上科には、我々ヒトの他に、チンパンジーやオランウータン、ゴリラ、ボノボ、テナガザルが含まれている。

 そしてヒト上科の体には、いくつか共通して見られる特徴がある。
せっかくだからその一つを体感していただこう。腕を真上に伸ばしてみてほしい。さあいい感じに腕は伸びただろうか。何気なくできてしまうその動きこそ、実は皆さんもヒト上科であることの証なのだ。

 その他にもヒト上科には、大臼歯のかたちなど様々な形態の共通性が見られるのだが、ヒト上科とは何かという最も古典的な形態的定義の一つが、しっぽがない、ということなのである。大事なことなので2回言おう。
ヒト上科(類人猿)にはおしなべてしっぽがないのである。

 ヒトはなぜしっぽを失くしたのか、という話をすると、「二足歩行と関係があるのではないですか」と聞かれることがときどきある。どうやら、一般書の中にはそういったことを書いているものがあるようなのだ。
 あるいは、学校でそう習ったと言っていた方にも出会ったことがある。

 だがこれ、とんでもない誤解なのである。

 ヒト上科におけるしっぽの喪失については,これまでにいくつかの仮説が提唱されてきた。
 人類学関連の世界において、つい最近の2000年代くらいまで広く信じられていたのは、ぶら下がり運動としっぽの喪失に関連性があるのではないかとする説である。
 ここでは「ぶら下がり運動適応説」とでも名づけておこう。

 先ほど、腕を真上に伸ばすストレッチをしてもらったが、今この世界に生きているヒト上科は全てぶら下がり運動に適した体つきをしている。そして、なんともちょうどいいことに、そのヒト上科にはおしなべてしっぽがないわけである。

 そこで登場したのがこの仮説だ。我々の祖先がぶら下がり運動に適応したことにより、バランスをとるためのしっぽが不要になったのだろうと考えたわけである。

 なんだか筋の通りそうな話ではある。そのため、この仮説は長らく信じられてきたのだが、しかし、現在では正しくないことが明確になってしまっている。

 歴史を変えたのは、京都大学の発掘調査隊によるナチョラピテクスの化石発見だった。断片的にしか発見されない化石資料が大半である中、ナチョラピテクスは奇跡的にほぼ全身の骨格が発見されている。
 そのことにより、どういった暮らしをしていた生物なのかが推測しやすい状況だった。

 とくに大きな発見は、四肢の骨の形態から、ぶら下がり運動にはまだ適応していなかったこと、そして樹上を四足歩行していただろうということが判明した点である。さらには先述した通り、ナチョラピテクスはすでにしっぽを完全に喪失していたことも化石から明らかとなった。

 すなわち、ぶら下がり運動への適応が生じるよりももっと前の段階で、しっぽは喪失していたことが、たった一例の化石の発見によりはっきりしたのである。こうして「ぶら下がり運動適応説」は完全に否定されることとなった。

 では、その他にどういった要因がしっぽ喪失に関連しうるのだろうか。「ぶら下がり運動適応説」に代わって提唱されるようになったのが、緩慢な運動としっぽの喪失の関連性を疑う仮説である。「緩慢運動への適応説」とでも呼ぶことにしよう。

 現生の霊長類の中に、スローロリスという種がいる。東南アジアなどに生息している小型の霊長類で、くりくりとした大きな目が特徴的ななんとも愛らしい生物である。夜行性であり、しっかりと両手両足で枝を掴んで移動する。その速度が、名前の通り非常にスローなのである。そして特筆すべきこととして、このスローロリスにはしっぽがほとんどない。

 化石で見つかったナチョラピテクスは、スローロリスよりずっと体の大きな生物で、体重は20kgほどだったと推測されている。だからこそ,そういった比較的大きな生き物が樹上を飛んだり跳ねたり活発に動き回ると,落下時の怪我や死亡リスクが上がることが予測される。

 ゆえに、ナチョラピテクスは現生のスローロリスのように枝をしっかりと掴み、ゆっくりと動いたのではないだろうか、と考えた研究者がいるわけである。ゆっくり動くことで、バランス維持のためのしっぽが不要になり、退化したのだろうとするのが、この「緩慢運動への適応説」の骨子である。

 だがこの仮説には、大事なものが欠けている。それは、仮説を裏づけるための証拠だ。人類学や形態学、解剖学のいずれの世界においても、緩慢な運動と筋骨格のかたちとの関連性について明らかにした研究はない。

 そのため、現時点では世界の誰もナチョラピテクスが本当にゆっくり動いていたかどうかは分からないのである。だから、この「緩慢運動への適応説」に関しては現状、積極的に肯定する証拠も否定する証拠もない。
 シンプルに言い換えるなら、研究者が言いっぱなしの仮説であって、検証すらできていない状況なのである。

 ちなみに、私自身はこの仮説にどうもうまく納得できない。なので、これをどうにか検証できないかと試行錯誤しているところなのである。ヒト上科に至る道のりでなぜしっぽがなくなったのかは、このようにまだ一切分かっていないのである。

 では、化石がないということはヒトへと至るしっぽ喪失の道程解明はそこでジ・エンド。打つ手なしということなのだろうか。いやいや、そんなことで諦めてはいけない。諦められない、と大学院時代の私は燃えた。

 探し物は見つけにくいものであるだけで、絶対に見つからないと決まったわけではない。いつか化石が見つかったら、そのときにはできるだけたくさんの情報を読み取れるように、しっぽの骨から何が分かるのかを徹底的に明らかにしよう。それが私のしっぽ研究の第一歩だった。



 以上、東島沙弥佳氏の近刊『しっぽ学』(光文社新書)をもとに再構成しました。文理の壁を越えて研究を続けるしっぽ博士が魅惑のしっぽワールドにご案内!
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「非常に高い生殖能力」が理由なのか…種々の人類の共存時代の後に「ホモ.サピエンスだけ」が唯一生き残った「謎」 2024/08

2024-08-25 01:34:52 | 気になる モノ・コト

ホモ・サピエンスの「非常に高い生殖能力」が理由なのか…種々の人類の共存時代の後に、「サピエンスだけ」が唯一生き残った「謎」
 現代ビジネス より 240825  ブルーバックス編集部(科学シリーズ)


【】ホモ・サピエンスが関与したのか…古代生物がヒト繁栄の陰で絶滅していった
生命の誕生から約39億5000万年、そして、最初の人類が登場してから約700万年。
約46億年と言われる長い地球の歴史から見れば“ごく最近”のことではありますが、それでも気の遠くなるほどの時間をかけて、私たち「ホモ・サピエンス」の誕生に至りました。

 サピエンスに至るまでの道のりを、【70の道標】に注目して紡いだ、壮大な物語『サピエンス前史』から、とくに注目したい「読みどころ」をご紹介してきたシリーズ。
今回は、ついに進化の旅の終着点「ホモ・サピエンスの登場」について解説します。

*本記事は、『サピエンス前史 脊椎動物から人類に至る5億年の物語』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。

⚫︎気候変化の影響を受けた「種々のホモ族の栄枯盛衰」
 ホモ・エレクトスの繁栄から始まる“慌ただしい”進化。“ルビコン超えの脳”だけが、この進化を促していたのだろうか?(「ルビコン超えの脳」については、こちらの記事を参照されたい。〈2種のホモ族に見られる、わずかな期間に遂げられた「驚愕の進化」〉)

 基礎科学研究院(韓国)のアクセル・ティメルマンたちは、ホモ・エレクトス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンスといった人類各種の化石産出地の分布と、過去200万年間にわたるアフリカ大陸とユーラシア大陸の気候データを統合した大規模なコンピューター解析を実施。
 これによって、ホモ属の進化の背景に、気候変化が関連していた可能性を導き出した。

⚫︎ホモ・ハイデルベルゲンシスの衰退とホモ・ネアンデルタールの支配権獲得
 まず、ホモ・エレクトス*である。“ルビコン超えの脳”をもつ最初の人類となったこの種は、100万年以上にわたって、さまざまな気候帯を歩き回っていた。ユーラシア大陸に限定しても、ホモ・エレクトスの化石分布は広範囲にわたる。
 こうしたデータから、ホモ・エレクトスは 環境の制約にとても“タフ”な「ゼネラリスト」だったとされる。

*ホモ・エレクトスの誕生と進化については、こちらの記事〈2種のホモ族に見られる、わずかな期間に遂げられた「驚愕の進化」〉を参照。

 ホモ・エレクトスから進化したとされるホモ・ハイデルベルゲンシスは、祖先ほど環境に対する柔軟性を持ち合わせなかったらしい。
 ヨーロッパで暮らしていたホモ・ハイデルベルゲンシスは、氷期・間氷期と繰り返す気候変化を受けながら、徐々に衰退していく。
そして、この衰退期にホモ・ネアンデルターレンシスが進化した。
そして、ヨーロッパのホモ属の“生息圏の支配権”は、ハイデルベルゲンシスからネア ンデルターレンシスへと少しずつ移り変わり、やがてヨーロッパにおいてハイデルベルゲンシスは絶滅することになった。

 ホモ・ハイデルベルゲンシス(再掲)。人類。アフリカ、ヨーロッパに分布する更新世中期の地層から化石が発見された illustration by yoshihiro hashizum

 なお、この時期のヨーロッパにおけるホモ属の“版図の拡大”は、間氷期だけではなく氷期にも行われている。スペインの国立人類進化研究センターのヘスス・ロドリゲスたちが2021年に発表したモデル計算によると、その背景には、耐寒能力の向上と、毛皮の衣服の使用などがあったという。

⚫︎サピエンス登場は、アフリカ大陸のどこかで…
   乾燥耐性を得たホモ・サピエンス
 いっぽう、ホモ・サピエンスは、アフリカ大陸を故郷とするとされているものの、大陸のどこがその故郷なのかは、絞りきれていない。
 ティメルマンたちの分析では、約21万年前から約20万年前に気候が不安定化し、この時期にホモ・ハイデルベルゲンシスからサピエンスへと“生息圏の支配権”が少しずつ移っていった可能性が示唆されている。

 “気候の不安定化”に関しては、2021年にケルン大学(ドイツ)のフランク・シェービッツたちも発表している。エチオピア南部のチューバハル湖の湖底堆積物を調べたシェービッツたちの研究結果によれば、約20万年前から約6万年前にかけて乾燥化傾向があった上で、時折湿潤な時期もあったようだ。
 そして、約6万年前以降は、乾燥化傾向が強まっていくという。

 ティメルマンたちによると、ホモ・サピエンスの“対気候優位点”は、「乾燥耐性」であるという。ホモ・ハイデルベルゲンシスやホモ・ネアンデルターレンシスなどと比較すると、私たちホモ・サピエンスは、乾燥に強いらしい。

 この“対気候優位点”が、各地へホモ・サピエンスが広がっていくきっかけになったかもしれないとされる。シェービッツたちの研究では、その後、湿潤期を“上手に利用して”、新たな領域へと拡散していったことが示唆されている。

⚫︎“2強”に絞られていった、現時点で最新のシナリオ
 誤解を恐れずに簡単にまとめてしまえば、ホモ・エレクトスは気候の変化に強く、長期間にわたって広範囲で栄えた。
 しかし、ホモ・エレクトスから進化したとされるホモ・ハイデルベルゲンシスはホモ・ネアンデルターレンシスやホモ・サピエンスよりも気候変化に弱く、ヨーロッパでは寒冷な気候に強いホモ・ネアンデルターレンシスに進化し、アフリカ大陸では乾燥に強いホモ・サピエンスに進化した、ということになるだろうか。

 ホモ・ネアンデルターレンシス(再掲)。人類。ヨーロッパから西南アジアに分布する更新世後期の地層から 化石が発見されている。埋葬などの"文化"があった可能性が指摘されている。私たちの「隠れた祖先」とも言われる illustration by yoshihiro hashizume

 いずれにしろ、ここで挙げたホモ属各種の特徴は、あくまでも化石産出地の分布と過去200万年間にわたるアフリカ大陸とユーラシア大陸の気候データにもとづくものだ。
 気候への適応が、どのような身体的特徴として現れていたのかはわかっていない。
逆にいえば、化石からだけではわからない“獲得された性質”が存在する可能性を示唆しているといえるだろう。

⚫︎そして、サピエンスだけが、生き残った
 かくして、現生人類である「ホモ・サピエンス(Homo sapiens)」の登場となる。

 初期のホモ・サピエンスの化石は、アフリカ大陸東部で発見されるものが多い。中新世以降、このアフリカ大陸東部は、「大地溝帯」と呼ばれる“巨大な谷”があり、多くの湖が点在していた。
 初期のホモ・サピエンスは、そうした湖の周囲で暮らしていたとみられている。この地域に分布する地層からは、ホモ・サピエンスの多くの化石がみつかるのだ。

 大地溝帯*から発見されたホモ・サピエンスの化石の中で最も古いものは、エチオピアから産出している。2022年にケンブリッジ大学(イギリス)のセリーヌ・M・ヴィダルたちが発表した研究によると、その化石の年代は約23万年前のものであるという。

 いっぽう、最初期のホモ・サピエンスの化石は、大地溝帯から遠く離れたアフリカ大陸北西部のモロッコで発見されている。2017年にマックス・プランク進化人類学研究所(ドイツ)のジャン=ジャック・ユブランたちが報告したその化石は、約31万5000年前のものであるという。

 ホモ・サピエンスの“故郷”がアフリカ大陸にある可能性はかなり高いものの、では、「アフリカ大陸のどこ」が“進化の舞台”となったのかは、定かではない。

*大地溝帯:主にエチオピアからタンザニアにかけてアフリカ大陸を縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つ。

⚫︎新たな発見と研究により、さらに複雑になる“人類史”
 いずれにしろ、ホモ・サピエンスはアフリカ大陸で生まれ、そして、世界へと拡散していった。のちに海を越え、太平洋の島々にも進出する。大洋を渡った人類は過去になく、ホモ・サピエンスだけである。
 そして、これまで見てきたように、「かくして、現生人類である『ホモ・サピエンス』の登場」とはいえ、登場した時点では、ホモ・サピエンスだけが唯一無二の人類ではなかった。

 交雑し、その遺伝子がホモ・サピエンスの中に残るホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人はもとより、ホモ・フローレシエンシスもいたし、“ルビコン超えの脳”をもつ最初の人類となったホモ・エレクトスもまだ命脈を残していた。現時点で、学名をつけるほどの情報がそろっていない人類も多くいた。

 ホモ・フローレシエンシス。人類。インドネシアのフローレス島に分布する更新世後期の地層から化石が発見された illustration by yoshihiro hashizume
 ゲノム解析のみによって示唆される人類もいる。ハーバード大学(アメリカ)のデイヴィッド・ライクは、著書『交雑する人類』(2018年刊行)において、デニソワ人が未知の人類と交雑したと考えなければ、「説明がつかない」と強い語調で言及している。

 今後の発見と研究により、“この数十万年間の人類史”は、さらに複雑なものとなっていくことだろう。
 しかし、いずれにしろ、こうした多様な人類は、やがて姿を消していく。交雑し、その遺伝子を残すほどに近縁であったホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人も約4万年前までに姿を消した。

私たちホモ・サピエンスは、唯一生き残った人類だ。

明暗を分けたのは何なのだろうか?

⚫︎ホモ・サピエンスが誇る「高い繁殖能力」がカギだったのか
 ライクは、前述の著者『交雑する人類』の中で、ホモ・ネアンデルターレンシスから継承された遺伝子の中で、生殖能力に関する部分が自然選択によって強力に排除されていったことに言及している。
 そもそも動物全般に通じる現象として、本来、交雑で生まれた子孫は繁殖能力が低くなる。しかし、ホモ・サピエンスでは、そうはならなかった。

また、国立科学博物館の篠田謙一も、著書『人類の起源』の中で、ホモ・サピエンスがホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人から継承しなかった“生殖に関する遺伝子”に注目し、「案外、私たちが残ったのは、単により子孫を残しやすかったためなのかもしれません」と綴っている。

 私たち「ホモ・サピエンス」という一つの種に絞って、その歴史をたどってみたら、どのような道程が見えてくるのか、というテーマから、そうした進化の道のりの傍に立つ【70の道標(みちしるべ)】に注目してきた“最後の道標”として、「高い繁殖能力」を挙げておくとしよう。もっとも、この特徴が“確定した道標”となるかどうか、いつ獲得されたのかについては、今後の研究の展開次第である。

*   *   *

繁栄を誇ったホモ・サピエンス。その繁栄の影「人類が滅ぼした“古生物”」とは…こちらもぜひお読みください。

好評の『サピエンス前史』シリーズ

脊椎動物の誕生と最初に獲得した器官、なら……こちらから
哺乳類の誕生と繁栄から辿るなら……こちらから
霊長類の誕生から辿るなら……こちらから
人類の誕生から辿るなら……こちらから
サピエンス前史 脊椎動物から人類に至る5億年の物語
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 『アーモンドの若返りビタミン』で老化をストップ!効果的な食べ方を紹介! 2024/08

2024-08-25 01:27:04 | 📚 豆知識・雑学

『アーモンドの若返りビタミン』で老化をストップ!効果的な食べ方を紹介!【1週間で勝手に-10歳若返る体になるすごい方法】
  イチオシ編集部 旬ニュース担当  240825


⚫︎『アーモンドの若返りビタミン』で老化をストップ
 アーモンドは、ダイエットにもアンチエイジングにも効果的な栄養素が豊富なスーパーフード。ダイエット中のおやつやおつまみにもおすすめな、絶対に常備しておきたい食材です。

 アーモンドはビタミンが豊富。ビタミンB2には、脂肪を燃焼させて体脂肪を消費し、糖質の代謝を促進する働きがあります。また、〝若返りのビタミン〟と呼ばれるビタミンEには、血管を若々しく保ち、血流をよくして加齢による老化を食い止める効果が。
 さらにアーモンドの食物繊維は、胃の中に長時間とどまる不溶性食物繊維なので、腹持ちがいいところもダイエットの強い味方です。
 また、ミネラル成分である、マグネシウムとカルシウムも豊富で、神経を落ち着かせる効果があり、ストレスによる食べすぎを防止してくれます。

 さらに、ナッツ類をポリポリとよく噛むことで唾液の分泌量の減少を予防、改善する効果もあります。糖質の分解を助けるためにも唾液の量は重要で、口の中を掃除して虫歯を防ぐ、病原菌の侵入抑えて感染を防ぐ、活性酸素を打ち消すといった大切な役割があります。
 ほかにも、ダイエット中に不足しがちな鉄や、塩分を排出してむくみを解消してくれるカリウムなど、一粒の中にさまざまな健康効果があるのです。ノンフライの無塩タイプを選んで、一度に食べる目安は10~12粒、1日の目安量は25粒程度です。

⚫︎ビタミンB2で脂質も糖質も燃やす
 脂肪を燃焼し、余分なカロリーが体に蓄えられるのを防止するだけでなく、ストレスによる食べすぎも抑制。ダイエットにうれしい効果が満載のナッツです。

⚫︎\無塩がおすすめ:アーモンド/効果的な食べ方
 間食に食べてストレスからくる暴食を防止! お酒を飲むと不足するマグネシウムを補給できるのでおつまみにも最適です。

注目の成分
・ビタミンE
・マグネシウム
・ビタミンB2
・カルシウム

ーマグネシウムは牛乳の約4倍
 不足するとやせにくくなるだけでなく、健康にも悪影響が。日常的な摂取が必要です。
ービタミンB2が体脂肪を分解
 脂質を燃やすのに必要な栄養素。運動しているのにやせない人はビタミンB2不足の可能性も。

⚫︎1日25粒でおいしくきれいに
 1日数回に分けて、25粒を目安に摂取を。栄養価が高いのでとりすぎないよう注意が必要です。
ミネラルが豊富で内側からきれいに!

ーカルシウム
 骨を丈夫にし,骨粗しょう症を予防します。メンタルの安定にも役立ち,不眠を防ぎます。
ーマグネシウム
 イライラを抑えてくれます。動脈硬化予防,心臓の血液循環をスムーズにするので心筋梗塞予防にも。

 カルシウムとマグネシウムは相性抜群
お互いを助け合う成分でバランスよく食べるのがポイント。


▶︎【出典】『1週間で勝手に-10歳若返る体になるすごい方法』著:管理栄養士 菊池 真由子
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