二元論を超えて ハイデガーからメルロ=ポンティ、大森荘蔵の知覚論
NewsPicks より 240828 唐戸 信嘉
前回、プラトン以来の「実像」と「模像」という二元論に基づく、いわば現代の世界認識のモデルについて話しました。
こうした二元論は、主体ー客体という図式にも呼応していて、私たちの認識を常に「こちら」と「あちら」に分解する傾向があります。
知覚という観点からみると、私の視線の先にある対象としてのリンゴがあって、それを見ている私という主体が想定されます。いわば私が「こちら」であり、リンゴが「あちら」です。この場合、あちらにリンゴそのものという実体があり、こちらにいる私が受け取るのは光によって伝えられ、眼球を通過して網膜に映ったその影像だということになります。
いわば、リンゴは二つ存在しているわけです。実体とその影像という風に。
ほとんどの人が、この説明を常識的なものと感じると思います。
現代科学はこうした説明をその基礎にしているからです。
ですが、プラトンに始まり、デカルトによって強化され、近代科学が後押ししてきた「実体とその影」という二分法は、二十世紀以降の哲学によって反駁されてきました。
依然として常識を覆すほどにまでは至っておりませんが、そうした反駁は精細を失った世界像、堂々巡りに陥っている人間と世界の関係性を再構築する、思わぬ手がかりを与えてくれます。映像というものをどう考えるべきかについても、私たちの考えを刷新する力さえ秘めています。
ここではハイデガー、メルロ=ポンティ、大森荘蔵といった脱二元論の陣営(「表象」否定派)の主張をざっと紹介してみたいと思います。
⚫︎ハイデガーのプラトン批判
マルティン・ハイデガーはそれまで哲学の主流であった認識論から存在論へと焦点をずらし、存在の意味を問うことで私たちの認識の過ちを指摘した人です。
彼は『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)の中で、「ソフィストたちとプラトンとにおいて初めて、仮象は単なる仮象だと説明され、したがって格下げされた。これと時を同じうして、存在はideaとして超感覚的な場所へまつりあげられる」(p.175)と述べています。「仮象」というのは哲学用語で、日常的な言葉とは言い難いですが、「外見」くらいの意味です。
つまり、プラトン以降になると、私の目に見えるリンゴとは「外見」だけで完結するものではなく、「イデア」という目には見えない実体と「外見」というその影の両面があるものとして理解されるようになる。しかしハイデガーは、外見を単なる外見にすぎないとして蔑む態度をこそ批判します。
仮象を何かただ「想像されたもの」「主観的なもの」と考えて偽化してしまわないように注意せねばならない。むしろ、現象が存在者そのものに属しているように、存在者には仮象もまた属していると言わねばならない。
マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)p.174より
ハイデガーによれば、ギリシア哲学はプラトン以降の時代になると、存在とロゴス(言語)を分離して考えるようになる。存在は客観であり、ロゴスは主観の側にある、と。
そしてロゴスこそが真なる実体(イデア)で、それは主体者である「私」の精神こそが認識するものであり、一方客体はイデアの影に過ぎず、劣ったものである、と。
けれどもハイデガーは、この分離はまことしやかな誤解だと考えます。
⚫︎メルロ=ポンティによる主客図式の廃止
ハイデガーと同じく現象学に多くを学んだメルロ=ポンティは、「私」の経験を越境することなく世界の認識モデルの再構築を目指しました。彼は、「身体を世界の中に置き、見る者を身体の中に置き入れたり、あるいは逆に、世界と身体を、まるで箱の中にでも入れるように、見る者の中に入れこんでしまうような大昔からの偏見を捨てなければならない」(『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄.木田元訳,みすず書房)pp.191-192)と言います。
メルロ=ポンティは、身体(肉体)に属さぬ主体や視点を想定することは現実の歪曲であるとして厳しく批判します。
彼は、プラトン以来の、認識の主体である「私」が優越的な立場にあり、客体である世界や物は、被支配的な立場に置かれているというこの図式をひっくり返します。彼は挑発的にもこんな風に言うのです。
物がわれわれをもつのであって、われわれが物をもつのではないということだ。(中略)言語がわれわれを所有しているのであって、われわれが言語を所有しているのではない、ということだ。存在がわれわれのうちで語るのであって、われわれが存在について語るのではない、ということなのだ。
M・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄.木田元訳,みすず書房)p.276より
メルロ=ポンティは、主体と客体の優劣関係を廃棄し、両者は渾然一体であり、相互的にしか存在し得ないものだと言います。私は以前、このトピックスで風景論について書いたとき、同様の話をしました。風景には「私」は映っていない(描かれていない)が、その風景はよくよく考えれば「私」のまなざしがとらえた映像そのものであり、その限りにおいて「私」そのものである、と。上で語られていることも同じ理屈です。
つまり、「私」と呼ばれているものを分解すると、物へ注がれたまなざしであり、物に対する反応としての感情であり、言語である、ということになりますが、そうすると純然たる「私」はどこにも残らないことになります。だから、「私」という主体はそれ自体で存在する確固たる実体ではないということになります。
どこから客観的な世界で、どこから主観的な「私」がはじまるのか、明確な線引きは不可能だと判明します。
⚫︎大森荘蔵と「風情」
私がたびたび言及している大森荘蔵も、こうした流れのもとに、一元論的な世界観への回帰を促しました。ここでは映像論に関わりそうな部分だけ引いてみます。大森の映像論への決定的な貢献は,「風情」(ふぜい,ではなく,ふうじょうと訓ずる)という概念の発明にあるでしょう。
人の顔に表情があるように,風景にも表情があり,それを彼は風情と名づけました。風情は「私」と言う主観の側の産物と考える必要はなく,風景そのものに宿ると彼は念を押します。
風情が普遍であることに疑いはない。それゆえ風情は何にもまして言語に親和的であり、したがって過去想起に適合している。事実、想起される過去で支配的なのは風情であって、知覚的要素は欠落している。(中略)実際例えば過去の風景を想起するとき知覚的細部が失われているのに対して、明るい生気とか果てのない広がりとかの風情が鮮やかに保たれているのを多くの人は経験しているだろう。
つまり、人は色や形の近くよりも風情の方をよく憶えているのである。
大森荘蔵『時間と自我』(青土社)p.252より
記憶の映像も画家が描く絵も,そこに描かれているものは,大森の言葉を使えば風情ということになります。それは知覚像とは異なる。記憶の映像も絵画も,背後では言語に支えられており,そこでは写実的リアリズムが問題なのではなく,風情という「意味」こそが生命である。
ハイデガーが問題視した存在とロゴスの分離が、大森哲学の中では縫合され、原始的一体性を取り戻しています。したがって絵画と写真の違いは、風情の有無によって特徴づけられるでしょう。
写真が風情を欠くのは、それを撮影するのが人間ではなく機械だからです。画家が風景を描くとき、画家は風景を切り取るわけではありません。それを描く自分と世界の関係性、しかもそのときその場所における自分と世界の関係性そのものを、絵に描くのです。描かれているのは知覚像の断片ではなく、コンテクストも描き込まれているわけです。
しかし、写真のような機械が生成する映像にはそれがない。
まとめましょう。二元論的モデルから一元論的モデルへの回帰は、映像を考える場合にも大きな示唆を与えてくれます。最大のものは、主体ー客体という図式の廃棄で、映像を見る主体の特権的な地位の廃止です。
見る「私」はもはや映像の支配者ではなく、まなざしの対象はもはや被支配的な地位に甘んじていません。両者が互いに影響を与え合い、リアリティを作り上げるわけです。主体と客体という図式を手放さないにせよ、お互いがお互いの根拠である事実が強調されるでしょう。
また、私たちの見る行為において、肉体や言語がきわめて重要な役割を演じていることも、一元論は明らかにしました。つまり,私たちが見るのと,カメラのような機械が見るのとでは,大きな違いが生じるということです。
評論家の加藤典洋がかつて『日本風景論』(講談社,1990)で,フォト•リアリズムの絵は「痛々しさ」「不自由さ」を感じると述べたことがあります。それは,人間が見るときには言語の作用でイメージの細部が捨象され,いわば風情だけを見るのに対し,カメラが撮るような映像は鮮明すぎて,非人間的なイメージができあがる,という意味だったわけです。
私たちは今では,機械が作成した非人間的な知覚像に慣れすぎて,こうした違和感を忘れてしまっていますが,映像が登場するまでは風情に還元されない知覚は存在しなかったことを考えると,非人間的イメージで充満している現代の生活,そしてあまり違和感を感じずに生きている私たち自身に,不気味なものを感じずにはいられません。