「なぜ悠仁さまは学習院を外したか」男性・男系天皇にこだわり天皇制を維持する社会制度を整えない日本の怠慢
プレジデントOnline より 240906 島田 裕巳
悠仁親王の大学進学先に注目が高まっている。なぜ、悠仁親王はいちども学習院で学ばなかったのか。
宗教学者の島田裕巳さんは「秋篠宮家の場合、両親はともに学習院大学の卒業である。それでも子どもを学習院に行かせなかったのは、よほどの事情があると推測される」という――。
( 玉川大農学部の昆虫を研究する施設を視察される秋篠宮さまと悠仁さま=2024年4月6日午前、東京都町田市(代表撮影) - 写真提供)
⚫︎公言されない悠仁親王の大学進学先
悠仁親王はこの9月6日で18歳になり、成年皇族となった。筑波大学附属高等学校の3年生であり、その大学進学をめぐって議論が巻き起こっている。
東大に推薦で入学するのではないかという予測が立てられただけではなく、それに反対する署名運動まではじまっている。それは皇族としての特権の行使にあたり、公平であるべき入試制度が歪められるというのだ。
ただ、本人も、親である秋篠宮夫妻も、その点について公式に発言しているわけではなく、どの大学に入学しようとしているのか、それは分からない。
一方、愛子内親王の方は、今年の3月に学習院大学文学部日本文学科を卒業し、4月からは日本赤十字社の常勤嘱託職員として働いている。
これまでの皇族の場合、教育は学習院で受けるのが基本となってきた。現在の天皇も皇嗣である秋篠宮文仁親王も、そして愛子内親王も幼稚園から学習院である。
悠仁親王の場合、幼稚園から学習院を選択せず、お茶の水女子大学附属幼稚園に入園した。当時、母親の紀子妃がお茶の水女子大学で研究活動を行っていて、女性研究者を支える特別入園制度によるものだった。秋篠宮妃は、その後、論文を提出し同大学から博士号(論文博士)を授与されている。
⚫︎華族学校から官立学校となった学習院
悠仁親王は、小学校も同大学の附属で中学校まで進んでいる。ただ、高校から女子校になるため、筑波大学附属高等学校に進学することとなった。それは、お茶の水と筑波の提携校進学制度によるものだった。
この制度は、悠仁親王のために設けられたものだとも言われるが、筑波大附属のサイトを見ると、現在でも募集が行われている形にはなっている。
東大の推薦入試に反対する声があがるのも、悠仁親王が一般の入試を経験せずに今日に至っているからだろう。
愛子内親王を含め、皇族が学習院に進学してきたのは、そもそも学習院が皇族や華族のための教育機関として設置されたからである。
学習院大学のサイトによれば、江戸時代の終わり、1847年に京都御所に公家の学問所が設けられ、49年に孝明天皇から「学習院」の額が下賜されたことで、学習院という校名が定まったという。明治になった77年には、神田錦町に華族学校が開設され、そこが学習院の名を受け継ぐことになった。したがって、皇族や華族という特権階級の教育機関である学習院は、法律によって宮内省立の官立学校となった。
しかし、戦後になると華族の制度は廃止され、それにともない、学習院も1947年に私立学校、1949年に新制の私立大学として改めて開学されることになった。それでも皇族は学習院を選んできたのである。
⚫︎愛子内親王は学習院で和歌を研究
秋篠宮家では、長女であるかつての眞子内親王が、高校までは学習院に通ったものの、大学は国際基督教大学に進んでいる。次女の佳子内親王も、学習院大学に入学したものの中途退学し、改めて国際基督教大学に進学している。
悠仁親王は一度も学習院に入ることなく、大学に進学しようとしている。
これが、近代の皇室において異例であることは間違いがない。
現在の学習院大学は総合大学で、5つの学部を擁しているが、愛子内親王が卒業したのは文学部日本語日本文学科であった。父親である現在の天皇は、同学部の史学科の出身である。
しかも、ここが相当に重要なことになるが、愛子内親王は和歌について研究し、卒業論文は「式子内親王とその和歌の研究」というものだった。式子内親王は、平安時代末期の後白河天皇の皇女で、当時の代表的な女流歌人だった。
和歌は、漢詩と対照される日本語の詩ということになるが、和歌を詠むということは古来から天皇や公家のたしなみとされてきた。だからこそ、式子内親王も多くの歌を詠んだのであり、天皇や上皇によって撰者が指名される勅撰集に多くの歌が選ばれてきた。
⚫︎天皇について詠うことが皇后のつとめ
宮中において、和歌がいかに重要かは、毎年正月に開かれる「歌会始」に示されている。これは鎌倉時代のはじめから続く皇室の伝統行事である。
近年の歌会始において抜群の存在感を示してきたのが、現在の美智子上皇后である。最後の歌会始は平成31年になったが、「お題」は光で、上皇后は「今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく」と、皇后を退くことの感慨を詠っていた。
特徴的なのは、その前年の歌(お題は語)で、それは、「語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ」という形で、譲位する当時の天皇の心情が詠われていた。
上皇后の歌には頻繁に「君」、つまりは明仁天皇のことが登場した。それは、天皇について詠うことが、皇后としてのつとめであるという自覚にもとづくものであろう。
それは、皇后にしか果たし得ない特権であり、だからこそ上皇后を現代において並ぶ者のない最上の歌人としてきたのである。歌集も刊行されてきた。
⚫︎上皇后の後継者といっていい内親王の歌
愛子内親王が和歌を研究テーマに選ぶ上で、祖母である上皇后の歌が大きく影響している可能性が考えられる。
しかも、和歌は皇室の伝統でもあるのだ。
内親王の研究の成果は、今年の歌会始(お題は和)で詠まれた「幾年の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ」に示されている。
難き時代とは、直接には、内親王が大学に入学した年から経験したコロナ禍のことをさすであろう。対面授業は4年生になってからだった。
だが、日本の社会がこれまで経験してきたさまざまな苦難を含むものとも解釈でき、歌としてのスケールは相当に大きい。内親王ならではの歌とも言える。
私はこれまで、毎年上皇后の歌に着目し、いくたびも感銘を受けてきたが、その後継者が生まれたのではないかと感じている。
そこに学習院で学んだということがどこまで影響を与えているかは分からないが、少なくとも国際基督教大学に進んでいたら、和歌を研究することはなかったであろう。
⚫︎戦前は定められていた「ご学友」の存在
では、秋篠宮家が学習院で学ぶことを選択しなくなったのはなぜなのだろうか。
さまざまなことが言われているが、一番大きいのは、学習院がもっぱら皇族や華族のための教育機関ではなくなり、一般の私立大学として、すでに長い歴史を重ねてきてしまったことだろう。
戦後、華族制度は廃止され、学習院で華族が学ぶことはなくなった。愛子内親王が卒業したことで、学習院で学んでいる皇族もまったくいなくなった。今後、そうした皇族が現れる可能性は極めて低い。
しかも、戦前においては、将来皇位を継承する皇族が学習院に入った場合、「ご学友」というものが定められた。昭和天皇の場合だと、学習院に校舎が一棟新設され、12名のクラスメートがご学友と定められ、ともに学び、ともに卒業していったのである。
現在の上皇にも、こうしたご学友が定められた。皇太子の時代、外国訪問が長期にわたったため、単位が足りなくなり、結局、中退することになるのだが、留年も選択肢に浮上したものの、ご学友と同じ学年でなくなることが留年を選ばなかった一つの理由となった。
現在の天皇には、戦後ということで、ご学友など定められなかった。華族がクラスメートにいないわけだから、そんなことは不可能である。
⚫︎皇族が学ぶ場としてふさわしいか
親は、子どもの学校選びにおいて、自分と同じ学校や、性格の似た学校を選択しようとしがちである。秋篠宮家の場合、両親はともに学習院大学の卒業であり、それでも、子どもを学習院に行かせなかったのは、よほどの事情があるものと推測される。
その事情のなかには、学習院が、昔のように皇族が学ぶ場として必ずしもふさわしくなくなっていることが含まれるであろう。学習院の側としても、私立大学として生き抜いていかなければならない状況にあり、皇族のことばかりを考えているわけにもいかない。
戦後の日本社会では、天皇という存在が残り、しかも憲法では、日本の象徴、日本国統合の象徴と位置づけられた。
ところが、天皇や皇族の存在を支える上で重要な役割を果たすものについては、それをほとんど残さなかった。
華族が廃止されたことは大きい。そして、学習院が宮内省立でなくなったことも相当に大きな影響を与えている。秋篠宮家における進学先の選択も、それとは無関係ではないはずだ。
日本社会の保守派は、男性天皇、男系天皇にばかりこだわり、天皇制を存続させる社会制度については、何ら提言をしてこなかったし、言及さえしてこなかった。それは、ひどく怠慢なことなのではないだろうか。
私個人としては、悠仁親王が将来天皇になる可能性が高いという理由だけで、推薦で東大に入学してもよいのではと思っている。
そこには、知性を養える環境が整えられており、しかも教育はかなり厳しい。中退率は0.5%だが、全体の4分の1が留年を経験している。日本の象徴として世界で認められるには、知性の高さは有力な武器になるはずである。東大で学ぶことが、かつて学習院が果たしていた役割を代替してくれるのではないだろうか。
島田 裕巳(しまだ・ひろみ) 宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『 葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『 教養としての世界宗教史』(宝島社)、『 宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『 新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。