石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

2009-02-18 11:47:34 | 五輪塔

京都府 京都市北区 紫野十二坊町 上品蓮台寺五輪塔

千本通りに面した通称十二坊、真言宗智山派上品蓮台寺。境内の北端に近い場所、子院のひとつ真言院の北側の墓地中央に玉垣に囲まれた立派な五輪塔がある。03_2緻密な良質の花崗岩製で塔高約220余cm、地輪の幅は約80余cmに達する。05二重の切石基壇は当初からのものかどうかわからない。反花座はない。地輪の側面高は約55cmと低すぎず高すぎずといったところ。水輪は整った曲線を示し、その最大径は若干上にあってやや裾すぼまり気味であるが申し分ない。火輪は軒口厚く、隅にいくに従って厚みを増しながら力強く反転する。火輪の屋根の勾配は比較的急で、四注の屋だるみは軒反にあわせて下方で反り上がる感じである。01_2火輪頂部の幅はやや広い。大きめの空風輪はどっしりとして全体のフォルムを引き締めている。鉢形の風輪と空輪先端の尖りまでよく残る完好な宝珠形の空輪の描く曲線はスムーズで硬直化したようなところは微塵も感じさせない。空風輪のくびれも適度で少しも脆弱なところはない。梵字や刻銘はみられず全くの素面である。非のうちどころのない典型的な鎌倉後期スタイルの大形五輪塔で、13世紀終りから14世紀初頭頃の造立とみてまず間違いないだろう。保存状態良好で風化が少ない点も好感が持てる。エッジのきいたシャープな仕上がり、均整のとれた隙のない佇まいは、律宗系の五輪塔によくみられるスタイルである。06間違いなく京都でも最も美しい五輪塔のひとつに数えられよう。千本通りから船岡山にかけては古来葬送の地であったとされており、今日も寺院や墓地が多く見られる。ここの墓地も広大で、いたるところに中世に遡る石仏や小さい五輪塔などが見られる。墓地の一角に無縁の石仏などが集積されており、その質と量には目を見張るものがある。ほとんどが阿弥陀如来で、大半は室町時代以降のものと思われる小さいものだが、ちらほらと混じるやや大きめの石仏の中には、彫りが深く体躯のバランスもよいものが少なくなく、これらは鎌倉時代に遡る可能性を秘めている。川勝博士がおっしゃられたように、京都は阿弥陀の石仏が相対的に多い土地柄であるということが実感される。

参考:元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告 51ページ

      川勝政太郎 『京都の石造美術』

 なお、後から知ったのですが、同寺には平安時代藤原期の仏師として名高いかの「定朝」の墓があるとのこと。初めからわかってればねぇ…またしても不勉強が露呈しました、トホホ…。近くの釘抜き地蔵石像寺の見事な石仏は見てきましたが(別途紹介します)、千本閻魔堂引接寺の至徳銘の変わった層塔は解体修理中で見れなかったので、あわせて改めて見学の機会を持ちたいと思います、ハイ。


滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

2009-02-18 01:23:11 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市針 飯道神社宝篋印塔

JR草津線甲西駅の南約500m、家棟川の西の高台に飯道神社がある。元はもっと北側の野洲川に近い平地に鎮座していたようで、現在の湖南市役所東庁舎(旧甲西町役場)付近にあったらしい。明治の初め頃、家棟川の改修にともない現在の場所に移転したと伝えられる。03社殿向かって右手(北東側)に宝篋印塔がある。基壇や台座は見られず、直接地面に置かれている。01昭和50年の池内順一郎氏の報文によれば、この石塔は水害後に出現し地元の人により現在の場所に据えられたとのことである。ただしそれがいつのことでどこから出たのかなど不詳であるらしい。あるいは神社とともに旧社地付近から移された可能性もある。残念ながら塔身を欠くがそれ以外の基礎、笠、相輪が残っている。基礎下端が若干埋まり、塔身を欠いて現高約220cmと大きい。元は9尺塔であろう。基礎は幅約80cm、下端が埋まっているが高さ56cm以上、側面高は42cm以上ある。笠は軒幅約76.5cm、高さ約57cm。相輪の高さは約107cmある。花崗岩製で風化により全体に表面の荒れが目立つが亡失の塔身を除けば大きい欠損もなく概ね良好な遺存状態である。基礎は上2段、各側面とも壇上積式で、羽目には整った大振りな格狭間を入れている。格狭間の彫りは割合深く、内面中央をやや膨らませている。南側正面のみ格狭間内に開敷蓮花のレリーフを配している。西側面右左の束にそれぞれ「嘉元二二/十一月日」、北側側面には「願主孝子/奉造立之」の刻銘があるとされる。すなわち嘉元4年(1306年)の造立であることが知られる。04嘉元4年は翌12月の14日に徳治元年に改元されている。北面の文字は確認しづらいが、西面右束部の嘉元の文字は肉眼でも判読できる。孝子とは親の供養をする場合の子どもの一人称表現でいわば定例句である。笠は上6段下2段で、隅飾は軒と区別して若干外傾ぎみに立ち上がる、比較的背が高く大ぶりの3弧輪郭式。輪郭の幅は狭く、各面とも輪郭内に蓮華座上の月輪を線刻で表し、月輪内には梵字を陰刻する。梵字は肉眼による観察では光線の加減もあってハッキリしないが、いずれも金剛界大日如来の種子バンとみられる。相輪は大きく立派なもので、伏鉢が笠上最上段から少しはみ出し、やや石の色調、質感が笠以下と異なることから別物の可能性を完全には払拭しきれないが、一具のものとしてもそれほど不自然さは感じない。02_2伏鉢、上下請花、先端宝珠の曲線はスムーズで直線的なところは見受けられない。九輪の逓減が少ないのは古様を示す。風化の進行で蓮弁が摩滅して非常に確認しづらいが下請花は複弁、上請花は単弁のように見える。かえすがえすも塔身の亡失が惜しまれるが、基礎段形上端、笠裏下端の幅がそれぞれ約52cmであることから、亡失の塔身幅は概ね46cm前後と推定される。内部に種子入りの蓮華座月輪を配した三弧輪郭付隅飾や壇上積式を採用した基礎の豪奢な意匠表現、規模が大きく奔放感のある力強いフォルム、隅飾の裏側まで隙なくいきとどき、各段形など要所に見せるシャープな彫成など総じて見事な出来映えを示す。さらに紀年銘があることも貴重。なお、池内氏によれば、壇上積式の基礎の分布は日野町を中心に旧蒲生郡に多く旧甲賀郡では旧土山町を除き少ないとされ、一方、田岡香逸氏は近江に事例が多い三弧隅飾は湖東地域に偏重する傾向で、この地域では割合珍しいとされている。市指定文化財。

参考:池内順一郎『近江の石造遺品』(下)343、381~382ページ

      田岡香逸「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社―『民俗文化』66号

写真下左:立派な相輪、写真右:壇上積式の基礎と格狭間、格狭間内には開敷蓮花のレリーフがあります。塔身がない今はちょっとおまぬけにも映る宝篋印塔。塔身はいったいどこへいったのでしょうか。今もどこかに眠っているのでしょうか。それとも売り払われて手水鉢などに転用されてしまったのでしょうか。いつの日か発見されて完全な姿になることを祈りたいと思います、ハイ。それにしても痴漢に注意なんて看板があるような静かな神社の境内でひとり、塔身が揃った時の勇姿を想像しながら宝篋印塔のまわりをうろうろしてる小生は傍目にも怪しい奴ですよね。