石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

2009-08-04 00:58:21 | 宝篋印塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝篋印塔

多聞寺門前に西面する小堂がある。堂内に宝篋印塔が安置されている。基礎から相輪まで揃っており、屋内にあることも手伝ってか比較的風化が少なく保存状態は良好である。01基礎下には板石が敷かれ基壇風になっているが、石材の質感が異なり一具のものではないように思われる。宝篋印塔は白っぽいキメの粗い花崗岩製で、高さ約152cm、基礎幅約上部で49cm、04下部で47.7cm、高さ約36.2cm、側面高約27.6cm。塔身は幅24.3cm、高さ約25.4cm。笠は軒幅約40.8cm、高さ約29.6cm。相輪高さ約60cmとされる。基礎上は複弁反花で、左右隅弁の間に主弁が1枚、主弁の両脇に細長い間弁を挟む。隅弁の弁先には返しがみられ、意匠的にはむくりのあるタイプの反花を志向していると思われる。しかし、全体に彫成が平板で抑揚感に欠け、それだけ退化していると考えられる。基礎側面は各面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配している。格狭間内は素面で、輪郭、格狭間ともに彫りは浅く、格狭間の形状もかなり崩れている。03_2反花上の塔身受座は低く平らなものである。正面右側の束に「大永二年(1522年)□□…(十一月日?)」の刻銘があるとされるが肉眼では確認できない。塔身各面とも阿弥陀如来と思われる種子「キリーク」を浅く陰刻しているがタッチは弱く文字も小さい。正面のみに種子を囲む月輪が見られ、月輪のある面を正面として意識したものと解されている。笠は上6段下2段で、軒が目立って薄い。隅飾は二弧輪郭式で軒と区別して直線的に外傾する。04_3隅飾輪郭は薄く、内側は素面。段形や隅飾の彫りにシャープさを欠く。相輪は伏鉢が円筒形に近く、下請花は複弁八葉で膨らみに欠け、側線が直線的で太い九輪下端との区別にメリハリがない。九輪の彫りは浅く、逓減が強い。所謂「番傘」スタイルに近づいている。上請花は単弁で宝珠はやや大きく、側線が直線的で硬い表現になっており先端の尖りが目立つ。このように各部に退化表現や硬直化が看取され、室町時代後半の典型的なスタイルを示している。05 塔身の種子を本来の顕教ないし密教四仏とせず4面とも浄土信仰を示すキリークとなっている点は珍しく、栗東市出庭従縁寺永正2年銘宝篋印塔(未見)や甲賀市水口町九品寺宝篋印塔、東近江市下羽田光明寺宝篋印塔(2007年2月28日記事参照)など野洲川流域から東近江にかけていくつかの事例が知られ、室町時代中期以降に多く見られる手法のようである。一般的に量産と小型化が進むこの時期にあって、5尺塔とそこそこの規模を有する点、また、基礎から相輪まで揃い、紀年銘を有する点でメルクマルとなる貴重な存在である。市指定文化財。このほか多聞寺境内には鎌倉末期頃の花崗岩製中型宝篋印塔の笠2点、層塔の笠、五輪塔の部材からなる寄せ集め塔が何点か見られほか、門前小堂内の宝篋印塔と同様の白いキメの粗い花崗岩製の一石五輪塔が多数見られる。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

文中法量値は田岡氏に拠ります。先の記事では田岡氏に批判的なことを書きましたが、近江の石造美術に関して昭和40年代に精力的に調査され、詳細な報文を多数残された業績は30年以上経てなおその輝きを失っていません。近江の石造美術に関しては、今日でも田岡氏のこの業績を抜きに語れないでしょう。なお、田岡氏の報文にある宝篋印塔残欠の四方仏像容塔身と相輪はその後当該寄せ集め塔から分離されたようで別の所に移されていました。(写真をよく見ていただくと小さく写っています。)ただ短時間の訪問でしたので、よく捜す時間がなく、上反花式の宝篋印塔の基礎は見つけられませんでした。そのうち改めて訪れてもっとじっくり観察したいと思っています。