奈良県 奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂弥勒石仏
布目ダム東岸の湖岸道路を腰越から東に折れ、ダム湖に東から流入する支川の南岸の細い道を川沿いにしばらく進むと道の南側、谷間に張り出した尾根の先端部分、道からは少し高い位置に隠れるように佇む石仏がある。通称「のど地蔵」。一見して頭頂に肉髻があるのがわかるから如来像であるのは明らかで、地蔵というのは石仏一般に対する通称的な呼び名であろう。「のど」といういのは「野堂」という小字から来ているらしい。かつては人の行き来する古道だったのであろうか。そして、想像を逞しくすれば、この石仏は道沿いの小堂内に祀られ、行き交う旅人や山仕事をする人々が手を合わせて仏の功徳を祈っていたのであろうか。やがてお堂は朽ち果て、忘れ去られたように露天に佇むようになったのかもしれない。草深いこともあって現地にはお堂の存在をうかがわせるような痕跡は確認できないが、そんなことを想像させるような地名である。場所は北野と月ヶ瀬桃香野との町境を桃香野側に越えて間もない辺りになる。逆に桃香野からであれば北野の奥から高山ダム方面へ抜ける道路から西に折れて茶畑の間を縫うように伸びる起伏のある農道を南西に進んでもたどり着けるがわかりにくい。いずれにせよ道標等案内も無いので探し当てるには多少の苦労を要する。古い紀年銘が発見され、この石仏の価値が認められるようになったのは、それほど古いことではないようで、このような奥深い谷間の山陰にひっそりと存在していることを考えれば、世に知られず埋もれていたというのも無理からぬことかもしれない。花崗岩をやや厚みのある板状の二重光背形に整形し、平滑に仕上げた光背面の真ん中に如来立像を厚肉彫りする。頭光円の下方は、正面に小さい段を設けて肩先に向かって弧を描いきながらつなげている。石材の下端は厚みを残し、そこに蓮華座があるように見えるが、ちょうど蓮華座上端面以下がセメントで固められ地中に埋まっているので蓮弁は確認できない。背面は粗く整形したままとする。現状地上高約117cm、頭光円の幅約40cm、厚みは厚いところで約21cm。像高は約106.5cm。印相は、右手を肩付近にかかげ、左手は太腿辺りに下ろし、一見施無畏与願印に見えるが、よく見ると左手は親指が内側にあることから手の甲を見せる触地印で、弥勒如来の立像であることがわかる。肉髻が低めの頭は大き過ぎず、体躯のバランスのとれたすらりとしたプロポーションで、表面の風化が進んでいるが衲衣・衣文の表現が流麗で写実的な趣きがある。特に足元の裳裾の処理の仕方に特長がある。面相部はかなり風化が進んでいるが、やや面長の端正なお顔で、その表情は穏雅である。さらに手先、足先の造形にも抜かりなく、優れた作風を示す。板状に整形された身光背の向かって右側面に、割合に大きい文字で浅く陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。「當来導師弥勒佛建長七年(1255年)…」で最後の方は埋まって見えないが鎌倉時代中期の造立と知られる。当来導師というのは56億7千万年後に都率天での修業を終えこの世に下生して衆生を導くとされる弥勒仏の呼称のひとつである。大和でも屈指の古い在銘品として貴重な存在で、在銘の弥勒石仏としては大和最古のものである。
写真右中:刻銘のある側面部分と背面の様子。右下:足先や裳や袖の裾の処理の仕方にご注目ください。
参考:清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術
岡本広義『奈良市石造物調査報告書-都祁・月ヶ瀬地区所在指定文化財等石造物-』 奈良市教育委員会
大和の東山内付近には建長銘の石仏がいくつか見られます。「奈良建長クラブ」のメンバーのお一人です。どうも場所がわかりにくく行きあぐねていた石仏で、最近斯道の大先輩に教えていただきようやく邂逅できました。自然豊かな別天地、静かで実にのどかな場所にありました。文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。近くに旧月ヶ瀬村時代に立てられた案内看板があります。やや離隔距離をとって見学に支障にならない位置にあるのは有難いことですが、案内文中の銘文の漢字表記に一部不正確なところがあります。また、「快慶の作風」、「伊行末系統の石工」という言葉が踊っています。それも首肯されるだけの卓越した優品であることは間違いありませんし、可能性もゼロではありませんが、石仏自体には快慶や伊行末との関わりを具体的に示すものは何もありませんので、ウーンこれはちょっと言い過ぎかもしれませんね…。