和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水院笠塔婆
笠塔婆について、文字どおりに解釈すれば、蓋屋となる笠石を備えた塔婆類は全て笠塔婆である。宝塔や層塔はもとより五輪塔や宝篋印塔などの石塔類の大部分は広義の笠塔婆であり、蓋屋付石仏龕である笠仏や箱仏もその範疇に入る。こうして考えると、その概念を厳密に定義付けることはなかなか困難である。このため、広義の蓋屋付の石造塔婆から他に分類立てができるものを排除していき、残った分類しづらいものを笠塔婆として理解する程度に考えておいてもいいのかもしれない。ただ、「塔婆」は本尊ないし本尊に相当する真言や題目などを中心部分に配する点で単なる「碑」と異なる。京都栂尾の高山寺の境内にも旧蹟に建てられた木製のモニュメントが朽損したため、石造で再建した例がある。こちらも有田郡のものと同様にその旨が笠塔婆に刻まれ、現に残っている。石水院門前に立つものは花崗岩製で、後補の可能性がある基礎と合わせた現高約170cm。塔身上方に小さく「バク」、その左右に「タラーク」、「ウーン」の三尊種子を配し、中央に大きく「石水院」、その下に「建保五秊丁巳/以後数箇秊/住此處後山/号楞伽山」、向かって右側面に「天福元秊癸巳十月三日造立之」、背面に「天福秊中所造立板卒都婆朽損仍/元亨二年壬戌十二月一日以石造替供養/於梵漢之字者任古畢願主比丘尼明雲」の刻銘があるとされる。注目したいのは、モニュメントとして最初に採用されたものが木製であったという点、そしてその耐久年数、それからより耐久性の高い石造で作り直している点である。高山寺の場合、天福元年(1233年)に建てた木製のものを元亨2年(1322年)に再興している。その間89年、有田郡の場合は嘉禎2年(1236年)と康永3年(1344年)で108年である。この実例を踏まえれば、木製の場合、ある程度大切にされたとしても、だいたい百年くらいが耐久限度のようである。木製品はそのまま朽ち果ててしまうと残らない。ここで述べたのは石造で再建された明恵上人関連のモニュメントに関しての事例であるが、石を使ってこうしたものがたくさん作られるのは、全国に残る石造物の紀年銘に鑑み、やはり従前からいわれてきたように鎌倉時代の後半以降と考えるのが妥当であり、それ以前の鎌倉時代前半以前に石造のものはあったにせよ、仏教信仰に関連したこうしたモニュメント、経塚の標識や、墓標などには木製品がかなり採用されていたと類推することが可能ではないだろうか。平安末期と推定される餓鬼紙子に描かれた昔の墓地にも木製と思われる塔婆が描かれているのが見られることなどもその証左である。そして、その内には明恵上人旧蹟のモニュメントの実例のように、木製から石造に作り直され置き換えられたこともいくらかはあったと思う。仮にそうだとすると無銘の石塔の造立推定年代が蔵骨器などの年代と合わない場合、器の伝世ということも考慮されるべきであるが、木製品の朽損による再建ということも可能性としてありうるということになる。古い時代には、造立対象物のあり方に即して、造立主(施主)の嗜好性と耐久性や経済性などが勘案されて木製、石造が併用されていたのであろう。それがやがて人間が生きた記憶や記録を後世に伝えたいという思いや考え方に基づいて作られる場合に、そこに永遠性を付加したくなるのは当然であるから耐久性ということが重視され始める。そして、中世から近世初期にかけて造塔思想そのものの普及とともに次第にそういう考え方も平行して、あるいは相互に助長し庶民層にまで拡大し、その最たるものである墓標や墓塔として、石造品の量的な需要をますます高める一つの要因になったとは考えられないだろうか。その結果、供給サイドが量的な需要に応えていくために、個々の作品のクオリティに費やすエネルギーを量産の方向に向けざるをえなくなっていき美術的な観点からは「退化」と称されるような特性となって表面化してくるのである。つまり「作品」は「製品」になり、量産化によって品質がどんどん低下し「廉価品」へと変化していくのであろう。一方、木製品は今日でも見られるように盆や年忌などのたびに立てる卒塔婆のように簡便性や経済性という属性が一層クローズアップされた用途に特化され、結局、石造、木製ともにそれぞれの特性に応じてその用途が細分化していくと考えるのである。
写真:高山寺石水院門前の笠塔婆。こちらは花崗岩製で、少し笠が小さい感じです。同様のものがいくつか境内の山中深く残っている由です。写真左下:明治時代に現在の場所に移築された石水院が元あったとされる場所。現在は何もない平坦地になって石段だけが残っています。なお、付近には同じような子院跡と思われる平坦地がたくさん残っています。樹下で座禅を組む有名な明恵上人の姿を描いた絵の舞台がまさにこの山中だったことを考えると感慨深いものがあります。明恵上人は夢記を残され心理学の方面でも有名な方です。そのストイックな信仰の姿勢はもとよりですが、反面何というかちょっとシニカルなところがあって非常に人間的な魅力に溢れる人物です。貞慶上人と並ぶ南都系仏教界のエースで東大寺華厳宗の学頭。密教に加え、禅と戒律にも造詣深く、光明真言の土砂加持を研究されたりしています。また、専修念仏を痛烈に批判されたことでも知られています。一方歌心豊かで短歌も多く残された容姿端麗な方だったらしいです。小生などは「あかあかやあかあか・・・月」の歌が気に入っています。かの時代にこんな歌を作られる感性に驚きを禁じえません。それから高山寺といえば有名な「高山寺式」宝篋印塔を忘れるわけにはいきませんが、上人廟所の一画にあり、残念ながら立入が制限されて至近距離までは近づけません。