石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

2011-10-10 14:45:42 | 五輪塔

奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

奈良東大寺の北方に近接する五劫院は思惟山と号し、東大寺末の華厳宗の寺院。本尊は五劫思惟の阿弥陀座像(木造)。10_4俊乗房重源上人が宋から将来したと伝わる鎌倉時代初期の重要文化財。02_4四十八願を成就し西方極楽浄土の教主となる以前の阿弥陀如来(=法蔵菩薩)が成道に際して五劫という長時間、瞑想思惟しその間に螺髪が伸びて大きく膨らんだ様子を表した珍しい像である。

ちなみに"劫"というのは途方もなく長い時間を表し、四十里四方の山より大きい岩盤を天女の羽衣で三年(一説に百年)に一度づつだけふわっと撫でる。それを延々と繰り返し、ついに岩盤が磨減してなくなるまでに要する時間よりも長い時間だということが『大智度論』にあるという。01その五倍が五劫でそれは一説に216億年とも言われる。03

境内北側の裏手に墓地が広がる。本堂向かって右手、墓地の入口の覆屋内に二体の石造地蔵菩薩立像が納められている。いずれも南面し、下端は土中に埋まって確認できないが、現状高で約2mはある。西側の地蔵は見返り地蔵と称される。像高約152cmのほぼ等身大で、石材は凝灰岩質とされるが、黒色で硬そうな感じを受ける。黒っぽい溶結凝灰岩ないし安山岩と思われる。下端には蓮華座を刻むようだがはっきり確認できない。舟形に整形した光背面に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしている。お顔を左に向けてふり返り、体全体はやや右斜めに向って歩を踏み出している様子が裳裾からのぞいた足先から見て取れる。07_2これは極楽に向かう途中、引接する衆生が遅れていないか、漏らさず付いて来ているか確認のためにふり返っている姿だとされる。珍しさでは本尊五劫思惟の阿弥陀像と負けず劣らずのものである。市内では他に伝香寺に小さいものがあるという。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有のもので、左手は腹の辺りに添え掌上に宝珠を載せる普通の表現だが、右腕は下ろして手を下に向けて錫杖を執り、錫杖の上半を右肩に軽く担ぐようにしている。09頭部は大き過ぎず身幅のある体躯は堂々として全体のプロポーションは均衡良く、衣文表現も含め概ね写実的で、衣裾がなびく様子などは的確に表現されている。面相はごく近くで見るとやや歪んでいるが、拝する側から見て温和に見えるようにきちんとデザインされているように見受けられる。手先や足先の表現にも抜かりはなく、作者の行き届いた配慮には目を見張るものがある。光背面の左右に細く浅い刻銘が小さい文字で刻まれている。摩滅が進み不完全だが、向かって右は「右意趣者東大寺花厳恵順…/御菩提、奉造立供養者也…」と二行、左が「永正十三…」と部分的に判読されている。08東大寺関係者による造立と知られる。永正13年は西暦1516年。石造物が粗製乱造の時期を迎える16世紀前半の作とは到底思えない素晴らしい出来映えで、太田古朴氏が後刻を疑っておられるのも首肯できる。04ただ、大和にはこのように作風優秀で時代の様式観を超越したような出来を示す例も稀に見られることから、この地蔵石仏もそうしたもののひとつに数えられるのであろう。

東側の地蔵は花崗岩製。像高約152cm。下端には剣状にした覆輪付単弁を並べた蓮華座を刻み、舟形光背に地蔵菩薩を厚肉彫りする。光背上端近くの中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を薬研彫りし、極楽引接の願いを込めた地蔵菩薩のお姿と推察される。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の持物。やや頭が大きく、撫肩、痩身のすらりとした体型で、衣文表現は線刻を交えた平板な感じで写実性にはやや欠ける。姿態にも見返り地蔵のような動きやダイナミックさがなく、定型的な意匠で面白みに欠ける。ただ面相は優れ、切れ長のきりりと涼しい眼を浅く彫り沈め、端正で若々しい表情には流石に石工のクラフトマンシップ=魂がこもっているように感じられる。こうした目元の表現は、大和の石仏の手法として戦国時代以降受け継がれていく。06また、左手の宝珠に小さい蓮華座が表現されている点は面白い。紀年銘はないが、光背面左右に刻銘がある。05向かって右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と大きい文字で陰刻され、下方には左右ともに小さい文字で結縁者の名前がたくさん刻まれている。室町時代の紀年銘を持つ他の石仏にも通有に認められる定型化した意匠表現が目立つが、細部には優れた部分も認められ、造立時期は見返り地蔵とあまり隔たりのない頃と考えられている。独創性は少ないが、仕上げは丁重で保存状態も良好である。ほぼ同大で同時期の地蔵菩薩が左右に並ぶが、一方は時代にそぐわない独創的な異形の作品、一方は典型的な室町時代の作風で、両者の違いをはっきり体感できる好材料と言える。

このほか墓地内には六字名号板碑など中世に遡る石造物が多く残されている。中でも無縁塚中央にある地蔵十王石仏は注目すべきもので、像容の風化が進み細部が失われているが等身大の立派な石仏である。鎌倉後期説、室町後期説、江戸初期説と造立時期について専門家の意見が分かれる。錫杖頭の大きいこと、整ったプロポーションなどから小生は少なくとも室町中期を降ることはないと思う。

また、墓地の一画には江戸時代に東大寺の大勧進として大仏並びに大仏殿の再興に生涯を捧げた公慶上人をはじめ東大寺関連の廟所がある。一際目を引く五輪塔が公慶上人の墓塔である。よく見ると細部には江戸時代の特徴が現れているが、壇上積基壇の上に複弁反花座を設け、各部四方には大日如来の法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」の梵字を深く薬研彫りしている。五輪塔としては最高の荘厳がなされ、たいへん立派なものである。さらに墓地の入口には石造鳥居があり、「妙覚門」と刻まれた額が面白い。所謂「墓鳥居」で、「妙覚」とは、談山神社の摩尼輪塔に見るごとく(2009年5月10日記事参照)仏果の至高位を示すものと思われ、恐らく東大寺廟所に伴うものだろう。現在の額は新補で、古い額は見返り地蔵の足元に置かれている。

 

 

 

 

 

 

 

写真左上:神社でもないのに何故か鳥居が…これは墓鳥居というやつです。鳥居右手の覆屋の中にお地蔵さん達がいらっしゃいます。写真右上:お地蔵さん同士が話し合っているふうにも見えます。右上二番目:少し見上げかげんのアングルにすると一層頼もしい感じが増します。左上三番目:たいへんハンサムなお顔です。左最下:無縁塚の地蔵十王石仏。全体長方形で厚肉彫りの地蔵菩薩立像の左右に薄肉彫りの十王像があります。風化摩滅が激しいですがお地蔵さんのアウトラインから受ける感じは古そうです。この時はあまり時間がなかったので改めて詳しく観察する必要がありそうです。右最下:公慶上人の墓塔です。復古調の五輪塔で、梵字は五輪四門かと思いきや大日法身真言でした。

 

 

 

参考:太田古朴  『美の石仏』

   清水俊明  『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 『石の奈良』

    〃    新装版『日本石造美術辞典』

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿篇

 

 

 

 

 

見返り地蔵、あるいは見返し地蔵とも言いますが、お顔は童顔温和ながら体躯はどっしりして頼もしく、写実性と動きのあるダイナミックな表現で鎌倉時代なんじゃないかと思ってしまいます。永正じゃなくて永仁でも不思議でないような出来映えですが、衣文には少々ざっくりしたような粗いところもあり、うーん正直混乱しますね。こういうのは特異な事例として埒外に置いておくほかないのでしょうか…。いずれにせよ素晴らしい作品だということだけは確かです。なんか隣の地蔵さんの方を気にしているような位置関係が面白いですね。


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