京都府 京都市左京区大原来迎院町 来迎院五輪塔
融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人(1073年?~1132年)は、慈覚大師円仁が伝えた天台声明を中興大成した人物。この良忍上人が止住した来迎院は、三千院の南を流れる呂川と呼ばれる谷川筋を東に遡った場所に位置する。三千院を挟んで北西にある勝林院等とともに魚山大原寺の中枢として天台声明の根本道場であった。天文年間の再建と伝えられる本堂の東側、一段高い場所に鎮守社の小祠がある。その南に隣接して自然石を組んだ2.8m四方、高さ0.5~1mほどの方形の壇があり、中央に立派な五輪塔がある。台座等はみられず直接地面に据えられている。詳しいことはわからないがこの方形壇は廟屋の跡、ないし経塚かもしれない。五輪塔は緻密な花崗岩製で、表面の風化も比較的少なく保存状態は良好。各部欠損なく揃い、高さ約172cmある。表面には梵字や刻銘は認められない。地輪の幅は約68cm、同高さ約41.5cm。水輪径約54cm、同高さ約49.5cm。火輪の軒幅約67cm、高さ約41cm。空風輪の高さ約40cm、風輪径約35cm、空輪径約30cmを測る。一見して火輪の軒が薄いことがわかる。軒厚は中央で約7.5cm、隅で約8cmで軒厚の隅増もほとんどない。軒口は全体に緩く反り、いわゆる真反りに近い。四注も全体に緩い屋だるみを持たせている。火輪全体の高さはそこそこあり、屋根の傾斜はかなり急で火輪頂部は幅約23cmとやや狭い。これには軒を薄くしていることも関係していると思われる。地輪は高過ぎず低からずといったところ。水輪は球形に近く、裾がすぼまったようなところはないものの、逆に左右の張り出しがやや弱く火輪と地輪の幅に比してちょっと小さい感じを受ける。しかし、石の質感や風化の程度、接合部分などを観察する限り別物とは思えない。風輪は、やや大きく裾がすぼまった感じで上端の傾斜をきつめにとっており、空輪は全体に低く最大径が低い位置にあり全体に押しつぶしたような蕾形を呈する。あまり類例をみない火輪の軒反り、水輪や空風輪の形状は、西大寺奥の院の叡尊塔を典型とする鎌倉後期スタイルの五輪塔とは明らかに一線を画している。こうした来迎院塔の外形的な特長は、鎌倉後期スタイルの五輪塔よりも先行するものと考えられる。ここから程近い来迎院町の会所脇にある大原念仏寺五輪塔は、空風輪が後補の別物であるが、概ね鎌倉後期スタイルに近い形状を呈し、弘安9年(1286年)銘を地輪に刻んでいる。少なくとも13世紀後半には鎌倉後期スタイルに通じる五輪塔が導入されていたものと考えられ、来迎院五輪塔の造立時期は、これよりは古いとみてよいのではないだろうか。風化の少なさや地輪や火輪の背の高さが少し気になるが、火輪の薄い真反りに近い軒反、空風輪の形状を積極的に評価すれば鎌倉中期でも前期に近い時期、13世紀前半代にもっていけるかもしれない。いずれにせよ古風な形状をとどめ、独特の雰囲気を持った注目すべき五輪塔といえる。
参考:川勝政太郎「京都の石造美術」
例により文中法量値はコンベクスによる略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:この空風輪の形状をご覧ください。
大原、特に三千院を訪れる観光客は多いですが、大原が注目すべき石造美術がたくさんある所だということはあまり知られていないようです。ほとんどの人が気付かない大原の石造美術の中でも、マイナーな部類に入る?この五輪塔ですが、石造マニアにとっては見落とせないものだと思います。それから石造ではありませんが、金石文関係で梵鐘にも注目してくださいね。なお、鎮守社の傍らに石仏を集めた吹きさらしの小屋があり、中央の非常に彫りの深い地蔵菩薩立像(写真下左)は、市原の小町寺裏の墓地でもよく似た作風のものを見た記憶があります。京都では地蔵石仏は決して多くはありませんが、なかなか出来映えが良く、ひょっとすると14世紀代に遡る可能性があります。また、一番左端の小形の不動明王(写真下右)も中世のものかもしれません。本堂向かって右手を北に行くと谷川を隔てた奥まった場所に良忍上人の廟所があり、軸笠別石で古い形態の石造三重塔が立っています。京都の古い層塔を考えるうえでは欠くことができないものです。この層塔は比較的著名なものです。2008年2月6日の勝林院北墓地の石鳥居以来、久しぶりの大原シリーズ第3段ですが、さらに紹介していきますので請うご期待。