滋賀県 大津市葛川坊村町 地主神社宝塔
地主神社は天台修験の聖地葛川の信仰的な中心として知られる息障明王院の南に隣接し、明王院の鎮守として一体的に信仰を集める古社である。千日回峰行の始祖とされる相応和尚を葛川に導き、不動明王を感得せしめた土着の神である思古淵神を祀ったのが起源とされる。社殿は三間社春日造、文亀2年(1502年)の棟札が残るという。幣殿とともに大きい蟇股がたくさんあって蟇股内や絵様肘木の凝った彫刻が美しい室町時代の優れた社殿建築である。目指す石造宝塔は参道石段を登って左手にある手水屋の横にある。柵などはなく、やや唐突な感じで立っている。高さ約194cm、元は7尺塔と推定される。花崗岩製。地面に5枚の切石を組んだ一重の基壇を設けている。基壇の下半は埋まって下端は確認できない。基壇上に据えた基礎は幅約68cm、高さ約41cm、北側を除く3側面は輪郭で枠取りして格狭間を配する。北側は切り離しの素面で、田岡香逸氏の報文によれば6行の刻銘があるとされる。風化摩滅で辛うじて左端に「康永四乙酉(1345年)三月廿二日」の紀年が判読できるとあるが、現在は苔がこびり付き刻銘を肉眼で確認することはできない。この北側面の下端中央に約11cm×約14cmの方形の穴があり奉籠孔と見られる。手首から先が余裕で入る大きさの穴で、田岡香逸氏の報文によれば、銘文がこの穴で途中で途切れているらしく、これによりこの穴が後から穿たれたものと断定されているが、盗掘穴でなければこのような穴を後から穿つ理由について見当がつかない。あるいは、刻銘を刻んだはめ込み式の蓋があった可能性も否定できないと思われる。拓本などにより刻銘を詳しく検討すればはっきりするかもしれないが、後考を俟つほかない。側面輪郭の幅は狭く、彫りはやや深い。格狭間は輪郭内に大きく表現され、花頭中央がやや狭くなっているが側線から脚部に至る線はスムーズで概ね整った形状を示す。格狭間内は微妙に盛り上がった素面で近江式装飾文様は見られない。塔身は軸部と縁板(框座)、匂欄、首部の四部構成で一石彫成。軸部には扉型などは確認できず素面と思われる。肩付近に最大径がある円筒形で、亀腹に相当する曲面部分を経て低い円盤状の縁板(框座)を廻らせ、2段にした首部に続く。2段のうち下段は匂欄部を表現すると思われる。首部上段はやや細く笠裏の円穴にはめ込まれる。塔身は表面の荒れが目立ち風化が進んだ印象。笠は軒幅約65cm、笠裏に2段を削りだし斗拱部を表現する。軒中央の水平部が目立ち隅近くでわずかに厚みを増して反転する穏やかな軒反で、軒口あまり厚くない。軒先の一端が欠損している。欠損部断面を見ると新しそうだが、昭和52年8月に調査された田岡香逸氏の報文に添えられた写真でも既に欠損していることが確認される。四注には断面凸状の隅降棟の突帯が表現され屋だるみは比較的顕著である。笠全体に高さがない割に屋根の勾配がきつく見えるのは、笠頂部の面積が広いためであろう。笠頂部にあるべき露盤が見られないので笠全体にしまりないものとなっているが、笠頂部をよく見ると不自然な凸凹がみられ、何らかの理由で露盤部が破損したため、はつりとったものと推定される。相輪は伏鉢を亡失し、複弁の下請花から始まっている。九輪の凹凸はハッキリ刻まれるが逓減が目立つ。上請花は小花付単弁、高さが不足ぎみで幅が広く先端宝珠とのくびれが目立つ。宝珠は重心が高く側線に直線が目立って硬さが出ている。全体的に表面の風化が進み、細かい欠損もあるが主要部分がほぼ揃い、優れた造形を見せる。基礎の紀年銘も貴重で文化財指定あって然るべき優品である。
参考:川勝政太郎 「歴史と文化近江」 58~59ページ
田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(前)―付勝華寺の弘長二年石湯船補記―」『民俗文化』172号
写真下左:まずまずの格狭間、写真下右:北側面下端の穴。けっこうでかい穴ですがやっぱり奉籠孔に見えます…。ここに刻銘があるはずなんですがごらんのとおり苔が蔓延って確認不能です。この苔は根がしぶとくこびりつくタイプで風化摩滅を助長します。刻銘の行く末が心配されます。田岡氏の報文に載せられた拓本を見る限り完読は厳しいかもしれませんが紀年銘以外も何文字かは読めそうにも見えます。田岡氏の調査から30年が経過し、苔と霜による侵食・風化がさらに進んでいることも予想されます。これ以上風化が進行しないよう保存保護が図られるとともに、一刻も早く失われつつある刻銘の判読が試みられオーソライズ(記録保存)されるよう願うばかりです、ハイ。