京都市 右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 清涼寺宝篋印塔
清涼寺は嵯峨の釈迦堂、然上人招来の清涼寺式釈迦如来などで著名な寺院。河原の左大臣源融の棲霞観の跡といわれ、念仏系宗派ゆかりの旧跡としても知られる。
本堂向かって左、木造の多宝塔と鐘楼の間に、本堂側つまり北から石幢、宝篋印塔、層塔が一列に並び壮観である。その南側の木立の中、多宝塔の裏側で目立たない場所にも宝篋印塔があり、これら4基が南北一 列に並んでいる。いずれも花崗岩製で、北から然上人、嵯峨天皇、檀林皇后、源融の供養塔とされている。(これらは平安時代の人物で石塔とぜんぜん時代が合わない)然上人の石幢は、笠以上後補で他所から近年移された(※1)もの、古い部分の高さ155㎝。檀林皇后塔は寄せ集めで、塔身など一部に平安末(※2)の部材を含む、高さ約3mの古い層塔である。一方、本堂向かって右手、経蔵の南に宝塔と弥 勒坐像を表裏に刻んだものがある。これは石仏でもあり塔婆でもあることから何と呼ぶべきか、川勝博士、竹村俊則氏は弥勒宝塔石仏(※1、※3)または両面石仏ともいい(※4)、お寺のパンフレットには弥勒多宝石仏とある。いずれも如来坐像を刻んだ面を正面と考えておられるようで、石仏をメインとする考え方である。高さ2.1m、円形の複弁反花座の上に扁平で縦長の花崗岩自然石を立てる。裏面の宝塔はほぼ全面を使って半肉彫りされ、同じく半肉彫の石仏はヘの字型の天蓋を備えた弥勒仏とされる。なお反花座は大部分近年の新補で宝塔正面部分のみ旧物である。(※3)源融塔は後補の相輪を除き各部が揃い、見ごたえのあるもので、通常は基礎、 笠、隅飾の各部を一石とするところを各々に別石の構成を見せる。すなわち基礎は前後2石の上に反花座を置いて3石としと笠は軒を含む3段と笠上6段の2石、隅飾はそれぞれ別石とする。奈良県南法華寺(壷阪寺)塔との形態類似性を指摘されている。相輪を除く高さ163cm。(※5)
さて、前置きがながくなったが、ここでは従来あまり詳しく記述されてこなかった嵯峨天皇供養塔とされる北側の宝篋印塔(北塔)について紹介したい。この宝篋印塔は源融塔(南塔)より一回り大き く、井桁に組んだ一重の切石基壇上に低い無地の基礎を据え、基礎上に別石の反花座を載せる。反花は複弁の抑揚のあるもので、左右隅弁の間に3弁を配する。左右間弁と中央弁に大きさやデザインに差はなく、弁外縁部を薄く優美な曲線に仕立て中央の複弁の丸みを際立たせる意匠と彫技は出色で、いきいきとし た印象を与え、マンネリ化傾向は見て取れない。反花の上部には塔身受が刻みだされ、どっしりと大きい塔身が載る。各面とも月輪を大きく線刻し、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の字体は洗練されているが小さい。月輪下方に蓮華座を配する。笠は上下2石からなり隅飾は全て失われている。笠上6段で隅飾があった四隅部分がいずれも下から2段目までが欠損している。一方笠下は一段しかないように見え不自然である。これは本来、別石の軒部が笠の上下の段形の間に挿入されていたものが失われたと解釈できるのではないかと思われる。笠上段形の最下段と笠下上段の幅が、わずかに笠下が上回る程度で、欠損している隅飾が介入できるスペースが十分とれないこと、基礎幅に比して現状の笠下の軒幅が狭すぎることから推定できる。おそらく元々は、現状で軒のように見える笠下上段の厚みよりもやや厚く、基礎幅に近い幅をもった四角い平板状の軒部材が挿入されていたのだろう。これが正しければ、笠上6段、笠下2段、欠損した隅飾とあいまって、一回り以上大きい印象の、どっしりとした巨塔の姿が想定される。軒部材のみを別石とする構造は例がなく、隅飾がどのようになっていたのか気になる。笠上四隅の欠損面が作為的には見えないので隅飾は笠上と一体彫成されていたと考えるのが自然であるが、笠と別石の可能性も否定はできない。別石であったとすれば、笠上の段形は四隅をはじめからへこませて彫成するのではなく、ひととおり四隅まで彫り上げてから隅飾が食い込むスペース部分を後から打ち欠いていたようである。さらに4つの隅飾がそれぞれ別石であったのか、はたまた軒部分の石材と一体彫成されていた可能性もあって謎は深まる。さらに、全体のバランスや石材の様子などからみてその蓋然性はかなり小さいが、今の笠上が別物であることもありえる。笠下段形は塔身との大きさの釣りあいがとれており、別物とは思えない。欠損した隅飾は、南塔(源融塔)同様3弧輪郭付きの大きめのものであったと推定したい。相輪は九輪の七輪以上を欠損するが凹凸がはっきりするタイプ。伏鉢上の請花は単弁のように見える。笠石とのバランス、石材の風化の程度などから当初のものと考えられる。笠下の西側は破損が進んでおり鉄の補強材で補強されている。なお、銘文は確認できない。規模を記した文献を見ることが出来ず、実測(むろん採拓も)などできない外部観察だけで造立年代を論ずると、考古学的アプローチによる石造物研究の諸兄からは、非科学的との謗りは免れないだろうが、あえて試みることを諒承頂くとして、全体規模が大きいこと、安定感のある低い基礎、変則的な石材の組み合わせは、構造形式が定型・普遍化する最盛期以前の特徴を示す。一方、基礎上反花座の彫刻、塔身の種子の書体や月輪蓮華座の形状などは洗練され定型退化の兆候を示している。通常、基礎上のむくり反花は南北朝期以降に流行するが、別石で彫技・意匠に抜群の出来を示す本塔は、その中でもごく初期に位置づけられよう。正和2年(1313年)銘の新京極誠心院塔や正和5年(1316年)銘の大原勝林院塔を参考とすべき類例とし、これらと前後するか、むしろやや遡る時期、つまり14世紀前半でも早い時期の造立と推定したいが、いかがであろうか、諸雅の叱正を請いたい。
参考
※1 竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 146~154ページ
※2 川勝政太郎 『京都の石造美術』 61~62ページ
※3 川勝政太郎 『京都の石造美術』 51~53ページ
※4 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 146ページ
※5 川勝政太郎 『京都の石造美術』 115ページ